2010年10月30日土曜日

池波正太郎「真田太平記(九)」

家康と秀頼が二条城で会見
 池波正太郎の「真田太平記(九)二条城」(新潮文庫)を読む。
















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豊臣秀頼は淀君により大坂城から一歩も出ないまま成長し19歳となった。徳川家康から秀頼に上洛の要請がある。淀君は拒否するが、豊臣家の安泰を願う加藤清正や浅野幸長、高台院(秀吉の正室ねね)らの奔走により、慶長16年(1611年)ついに二条城で会見が実現する。
 立派に成長した秀頼に家康は豊臣家への警戒感を強く抱く。

 会見から3カ月、加藤清正が急死し、数年後浅野幸長も没する。秀吉恩顧の有力大名の相次ぐ死で徳川―豊臣間の権力均衡が崩れてくる。
 秀頼は秀吉ゆかりの方広寺の再建に着工、大仏も完成し開眼式直前となって、家康から梵鐘に刻まれた文言に文句が付いた。言いがかりといえるものに豊臣家は戸惑うが、家康は強硬な態度をみせる。

 徳川と豊臣両家が緊迫する。そんな折、真田昌幸は九度山で息をひきとる。

目次:第九巻二条城
・料理人・永井養順
・遠州・中山峠
・三方ヶ原
・二条城
・急変
・蝉
・鐘銘紛乱

×  ×  ×

 家康のイチャモンは「方広寺鐘銘事件」というヤツです。鐘銘にある「国家安康」「君臣豊楽」という文言が、家康を分断し豊臣の繁栄を願い徳川家を呪っているというのです。中学の歴史の時間に習った覚えがあります。家康はしたたかな謀略家ですね。
 家康は秀頼との二条城会見時70歳、このときは73歳だった。死後も徳川家の末長い安泰を図った行動だったのですね。
2010年10月29日読了

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