2009年2月28日土曜日

佐々木譲「制服捜査」

13年前の少女誘拐事件

 佐々木譲の「制服捜査」(新潮文庫)を読む。
 札幌で刑事を15年勤めた川久保篤は、道警不祥事を受けた大異動で、十勝平野の端の農村、広尾警察署志茂別町駐在所に単身赴任して来た。警官の制服を着た駐在という犯罪捜査とは外れた、捜査権のない存在でありながら、閉鎖的な町で起こった事件に関わっていく。

・逸脱
・遺恨
・割れガラス
・感知器
・仮装祭
 の5編からなる連作で構成されている。
 なかでも「仮装祭」がシロイヌだった。13年前の未解決の少女誘拐事件を、緊迫感のある文章で描いている。駐在警官の枠を超えて、捜査する川久保が、小気味よく田舎町の陰湿性を暴く。
 「割れガラス」の後半で、「制服警官がおれの捜査に難癖をつけるのか?」と刑事に言われ、駐在警官の川久保は「無能な刑事は、まわりの人間の人生をあっさりとぶち壊すなと思っただけです」と、啖呵ともいえる言葉を吐く件りがある。警察官として矜持がここにある。
2009年2月27日読了

2009年2月26日木曜日

雑観:夫婦春秋2題

絆そして愛

 村田英雄(1929年―2002年)の歌で「夫婦春秋」というのがある。
 ♪ついて来いとは 言わぬのに
 だまってあとから ついて来た
 「夫婦春秋」の作詞は関沢新一で、作曲は市川昭介である。村田の曲のなかでは「王将」「無法松の一生」「皆の衆」などの代表曲と違い、耳にする機会は少ないが、味わいのある曲だ。

×  ×  ×

 他人同士の男と女が人生をともにする――夫婦になるには、それなりの覚悟がいる。運命共同体というか、一蓮托生というか。他人には窺(うかが)い知れぬ、ふたりの世界、絆がそこには存在する。
 
中川昭一&郁子夫人の場合
 テレビのニュースを観て驚いた。ぶっ飛んだ。辞任前夜の2009年2月16日のことだ。中川昭一前財務大臣が報道陣の囲み取材に応えた後、自宅に入ろうとした。まさにそのときである。掛け声がテレビから飛び込んできたのだ。
 「頑張れ、日本一」
 「頑張れ、頑張れ、大丈夫」
 声の主は自宅玄関にいた郁子夫人だった。
 100年に一度の経済危機の最中、その対策を練るG7で、中川昭一は呂律の回らない朦朧(もうろう)状態で会見を行った。後日風邪薬の副作用と医師の診断があったが、飲酒疑惑は完全に晴れなかった。世界に恥を晒した責任をとって財務大臣を辞した。
 四面楚歌の夫への叱咤激励だった。「日本一はないだろう」という意見もあるが、草野には逆境を支える強い愛が感じられた。どんなことがあろうとも、最後まで添え遂げる覚悟の発露だと思った。
 蛇足ながら、郁子夫人は聖心女子中から高校、大学へ進み、そのお嬢さんは某テレビ局で放送記者勤めをしているそうだ。

玉置浩二&石原真理子の場合
 大衆かわら版を見て久々に驚いた。意外だった。日刊スポーツの2009年2月25日の1面である。「歌手の玉置浩二と女優の石原真理子が復縁した」というスクープだった。
 DVでの不倫解消、そして石原の暴露本出版と、このカップルはてっきり絶縁状態だと思っていたら、どうして再び結びついたのか。翌26日には結婚届を提出し、晴れて結婚したのだ。20余年の歳月を経て、愛し合うなんて奇跡だよね。
 ♪別れても 好きな人
 ロス・インディオス&シルビアの「別れても好きな人」(佐々木勉作詞・作曲)なのか。
 男と女の行く末なんて、なんでもアリーナなんでしょうな。障害を越える勇気ある愛がそこにはあった。

 村田英雄の「夫婦春秋」の歌詞は、こう結んでいる。
 ♪それが夫婦と 軽くはいうが
 俺とお前で 苦労した
 花は大事に 咲かそうなァお前

×  ×  ×

※敬称略。文章中に事実誤認、赤字などありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2009年2月24日火曜日

ちょいmemo:清水28人衆

石松三十石舟

 次郎長の代参で讃岐の金毘羅様に刀と奉納金を無事に納め、帰路に着く石松は、大坂から京・伏見へ渡る三十石舟に乗り込んだ。
 乗り合う客の話が弾む。
 「街道一の親分は、駿河国清水湊の山本長五郎、人呼んで清水の次郎長だ」
 聞き耳を立てていた石松は喜んで、その男を呼ぶ。
 「次郎長ってえのは、そんなにえらいかい。江戸っ子だってねえ。酒飲みねえ。寿司食いねえ。」
 「神田の生まれよ。次郎長ばかりがえらいんじゃない。子分がまた強い」
 「気に入った。江戸っ子だってね。酒飲みねえ。寿司食いねえ。」
 「神田の生まれよ」
 「子分で強いのは誰か知っているかい」
 「そりゃ知ってらい。大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右ヱ門、法印大五郎‥‥」
 「肝心なのは忘れちゃいませんかい」
 「おっと、忘れていた。遠州・森の石松だ。滅法強え。こいつが怒れば大政も手がつけられねえぜ。だが、ね。馬鹿だね、石松は‥‥」

 広澤虎造の浪曲「石松三十石舟」の名場面である。
 ♪人情からめば ついほろり
 見えぬ片目に 出る涙
と「旅姿三人男」で歌われる、気のいい石松がそこにいる。虎造の創作だが、絶妙の描写力だ。何度も映画や、テレビドラマで観たシーンである。
 この三十石舟のあと、石松は都鳥三兄弟のだまし討ちの遭うのだ。

 清水二十八人衆といわれる次郎長の子分を、上記の他に知っていますか?
 草野球音はガキのころ、映画に感化され、
追分三五郎、
大野の鶴吉、
桶屋の鬼吉
三保の松五郎
なんて得意になって暗記したものだ。
 いくら街道一の親分でも、28人も優秀な子分はいなかったと推測する。

×  ×  ×

 ところで、「灰神楽の三太郎」って子分もいた。もちろん、相模太郎の、あの喜劇浪曲の主役は、架空の人物なのだろう、ね。昔の記憶を頼りにその節を辿ると、こんな風だった。
 ♪~毎度みなさまお馴染みの
 かの次郎長の子分は多いが
 強いのばっかり揃っちゃいない
 なかにゃとぼけた奴もいる~
 馬鹿で間抜けでおちょっこちょい
 ついたあだ名が灰神楽
 とてホントの名前は三太郎ォ~
 
 灰神楽(はいかぐら)とは、デジタル大辞泉を引くと「火の気ある灰の中に湯水をこぼすとき、灰が吹き上がること。また、その灰けむり」とある。

 ♪~ちょうど時間となりました。お粗末でした。先ずはこれまで。チョーン! 

2009年2月22日日曜日

だから云ったじゃないの

訃報雑観

 松山恵子が歌い大ヒットした「だから云ったじゃないの」の作詞家、松井由利夫が2009年2月19日、亡くなった。83歳だった。
 松井は、「箱根八里の半次郎」、「一剣」など作曲家・水森英夫とのコンビで人気歌手・氷川きよしの多くの作品を手掛けてきたことで、知られる。

 だが、なんといっても草野世代は松山恵子(1938年―2006年)の「だから云ったじゃないの」である。
 ♪あんた泣いてんのネ
 だから云ったじゃないの
 港の酒場に 飲みにくる
 1958年(昭和33年)のヒット曲で、作曲は島田逸平だった。「あんた泣いてんのネ」は当時の流行語となった。

 ♪もしもあなたが 重荷になったらいいの
 捨てても恨みはしない
 お願い お願い
 「未練の波止場」(作曲=水時富士夫)も松井作品だった。


×  ×  ×

 井沢八郎の「男傘」「北海の満月」も松井由利夫の作詞だったなぁ。

※敬称略。文章中に事実誤認、赤字などありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2009年2月21日土曜日

山本一力「背負い富士」

清水次郎長

 山本一力の「背負い富士」(文春文庫)を読む。
 清水の次郎長といえば、
♪清水港の名物は お茶の香りと男伊達
のディックミネの「旅姿三人男」や、
♪~旅行けば 駿河の国に茶の香り
~街道一の親分は
清水港の次郎長ォ~
の広澤虎造の浪曲や、
東映オールスター映画で片岡千恵蔵が次郎長を、中村錦之助が石松を演じた「任侠清水港」(1957年・監督=松田定次)を思い浮かべるが、「背負い富士」ではこれまでの違った生身の人間を描いている。
 蛇足ながら、大映のオールスター映画「次郎長富士」(1959年・監督=森一生)は、次郎長に長谷川一夫、吉良の仁吉に市川雷蔵、森の石松に勝新太郎の揃い踏みであった。

 「背負い富士」は、次郎長の十代のころを描いた点で、新鮮味があった。16歳で、空見、韋駄天(いだてん)、乗馬、狼煙(のろし)など特技を持った年長の七人を集め、組織を束ね、米相場に打って出る描写は生き生きしていた。侠客になる前の話だが、生来備わった組織作りの才を感じさせて興味深かった。
 次郎長と同じ文政3年(1820年)の1月1日元日生まれの幼馴染で生涯の友、音吉が、東京から訪ねてきた二人に次郎長のことを語るという構成になっている。

 幕府軍の榎本武揚が箱館に脱出する際、咸臨丸が暴風雨により破船し清水湊に停泊したところを、官軍に襲われ船員全員が死亡した。逆賊として駿河湾に放置されたままになっていた遺体を、次郎長は小船で引き上げ、埋葬した。新政府軍に咎められたが、「死ねば仏。官軍も賊軍もない」と突っぱねた。いきさつを聞いた山岡鉄舟はいたく感激し、次郎長と鉄舟は交誼を結んだという。またグラント将軍の接待を受け持ち英語の将来性を重視し、英語塾開校を思い立った。このあたりの話も、草野的には興味があったところだ。
2009年2月20日読了

×  ×  ×

 ガキのころに、
「清水港は鬼より怖い、大政小政の声がする」
なんて、よく言っていたが、あの出典はどこなのだろうか?

2009年2月19日木曜日

山内一弘:memory

数々の異名が残った

 プロ野球の毎日、大毎(現ロッテ)、阪神、広島の強打者として活躍し、ロッテ、中日で監督を務めた山内一弘が2009年2月2日、肝不全のため亡くなった。76歳だった。
 
 小学2年生で野球を始めた草野球音が、まず憧れたのは巨人の不動の4番であり、「打撃の神様」であった川上哲治だった。その姿に後光が射している、スーパースター長嶋茂雄が巨人入団するまで、山内和弘がご贔屓だった。当時は「和弘」であった。いや、長嶋登場後も、好きな選手であり続けた。
 BNという言葉を勝手に造語している。Before Nagashima長嶋登場前である。BC=Before Christ、西暦紀元前というように、日本プロ野球にとって、長嶋は“Jesus Christ Superstar”並みの存在であり、彼の登場を境にプロ野球の歴史は分けられるのではないか。
 BNにおいて、攻守走三拍子揃った選手の典型が山内和弘であった。
 当時、パ・リーグの強打者といえば、西鉄の「怪童」中西太と毎日の山内が双璧だった。中西も三拍子揃っていた。守備力もあり、足も速かった。体型からイメージ的に損をしているようだが、セ・リーグの熟年の川上哲治に比べて、若きヒーロー2人だった。山内、中西を追うように南海の野村克也が登場する。
 川上の現役最後の年は、長嶋の入団の年であった。翌年、王貞治が早実から巨人入団し、その後ON時代に突入する。
 昭和20年代後半から40年代にかけての、日本プロ野球史の打撃編を、極短く言うとこうなる。

 さて山内である。
1932年(昭和7年)愛知県一宮市生まれ。1951年、愛知県立起工業高校卒業後、ノンプロ川島紡績に入社。1952年(昭和27年)毎日オリオンズ入団。3年目の1954年に97打点で初のタイトルを獲得、翌1955年も打点王(99打点)、1959年に本塁打王(25本)を手にした。

 印象に残るのは、1960年(昭和35年)である。日本シリーズこそ、知将・三原脩率いる大洋に4連敗と、予想外の大敗を喫したが、レギュラーシーズンの活躍は目覚しかった。ミサイル打線の核だった。31本塁打、103打点で2冠に輝いた。打率は3割1分3厘で、同僚の榎本喜八(.344)、田宮謙次郎(.317)に次ぐ3位であった。
 当時の打線をみてみよう。
一(遊)柳田利夫
ニ(中)田宮謙次郎
三(一)榎本喜八
四(左)山内和弘
五(三)葛城隆雄
六(捕)谷本稔
七(ニ)坂本文次郎
八(右)矢頭高雄
九(投)――
 八田正が控え内野手であった。捕手の控えは醍醐猛夫である。投手は、小野正一(左腕)、中西勝己、若生智男がいた。監督は信念の指揮官・西本幸雄だった。結局、西本はこの敗戦が因で、オーナーの永田雅一と抜き差しならぬ確執に発展し退団することになる。
 山内はシーズン最高殊勲選手(MVP)に輝いた。

 1962年30歳を迎えたシーズン途中に、「和弘」から「一弘」に改名した。「和」は丸く回り道をするので、「一」ならばものの始まりでそこから無限に続くので、改名した方がよいとファンから進言された、という。

 1964年、阪神の小山正明と世紀の大トレードで阪神に移籍する。以降の大型トレードの道を開いた。
 1967年シーズン終盤に、昭和生まれで初めて、プロ野球史上では川上哲治に次ぐ2000本安打を達成した。
 1968年広島移籍し、1970年に現役を引退した。

 現役19年の生涯通算成績は、2235試合、7702打席、2271安打、396本塁打、1286打点、平均打率は2割9分5厘を残す。
 首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回。最高殊勲選手賞1回、ベストナイン10回を数える。外野手(主に左翼手)の守備も巧く、プロ野球最多通算補殺175の記録を保持している。

 指導者になってからの業績も著しい。特に打撃コーチとして評価は高い。
1971~74年 読売ジャイアンツ打撃コーチ(V7・V8・V9に貢献)
1975~77年 阪神タイガース打撃コーチ
1979~81年 ロッテオリオンズ監督(前期2回優勝)
1984~86年 中日ドラゴンズ監督
1987~89年 読売ジャイアンツ打撃コーチ(日本シリーズ優勝)
1991~93年 オリックスブルーウェーブヘッドコーチ
1995年 阪神タイガース打撃コーチ
1996年 ヤクルトスワローズ打撃コーチ
1998~99年 台湾プロ野球和信鯨打撃コーチ(優勝)
そして2002年に野球殿堂入りを果たした。

 「打撃の職人」「オールスター男」「シュート打ちの名人」「かっぱえびせん」と異名は多い。
 オールスター男は、球宴出場16回でMVP3回に輝き、賞金を手にした。「賞金泥棒」とも言われた。
 かっぱえびせんは、巨人の打撃コーチ時代(1971年~1974年)その指導が熱心で教えだしたら「やめられない、止まらない」ことから、武宮敏明寮長が「まるで“かっぱえびせん”のようじゃなぁ」と言ったのを巨人番記者が聞きつけ原稿にしたところ、有名なテレビCMのフレーズもあり、あっと言う間に広まったという。

 異名は個性の凝縮である。山内一弘――昭和に輝いた個性豊かな野球人を、永遠に記憶に留めたい。
 
×  ×  ×

※敬称略。文章中に事実誤認、赤字などありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2009年2月14日土曜日

ちょいmemo:ヘボン邸跡

石碑の英語

 ヘボン博士邸跡の石碑が、山下公園に面した横浜地方合同庁舎の門の前に建っている。その石碑の横に掲示板があり、日本語と英語で以下の説明が書かれている。ヘボンの業績を簡潔に言い表しているので、転載する。

ヘボン博士邸跡
Site of Dr.Hepburn’s Former Residence 

開港とともに来日した宣教師の1人で神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2年(1862)冬、横浜居留地39番に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。聖書のほんやく、和英辞書のへんさん、医術の普及などがそれである。昭和24年(1949)10月記念碑が邸跡に建てられた。

In 1949, the 24th year of Showa, this monument was erected at the site of Dr. Hepburn's former residence (No. 39 in the Yokohama Foreign Settlements) in recognition of his achievements in the development of Japanese culture.  
One of the missionaries that arrived in the port of Yokohama after its opening, he lived for three years at the Jyobutsuji Temple in Kanagawa.  
Then he moved and settled here in the winter in 1862, the second year of Bunkyu.  
His work included the translation of the Bible into Japanese, the compilation of the Japanese-English dictionary and dissemination of Western medical science.

(財)横浜観光コンベンション・ビューロー
横浜市

2009年2月12日木曜日

そして宣教師は旅立った

キリスト教の禁教

 ぶらり散歩に出る。横浜市中区日本大通りの横浜開港記念資料館で、「横浜開港と宣教師―翻訳聖書の誕生」(4月19日まで開催)という企画展示を観る。

 キリスト教の禁教政策は明治に入っても続いた。葵の紋所から菊の紋章に変わっても‥‥。
 
 そして明治6年(1873年)2月24日、明治政府は太政官布告第68号により、キリシタン禁制の高札を撤去した。江戸時代初期から続いていたキリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれた。
 宣教師はこのときを待っていた。1858年修好通商条約が締結されると、彼らは横浜に着き、聖書の日本語翻訳に務めた。1873年キリスト教の禁教が解かれると、彼らは聖書を手に布教の旅に出た。全国にキリスト教が広がることになる。

 この企画展示では、聖書翻訳に汗した宣教師ジェームス・カーティス・ヘボン(1815年―1911年)らの軌跡を追い、当時の出版文化や世相を辿っている。
 横浜開港記念資料館は小ぢんまりした展示場で、いつも静かに観ることができる。
 
×  ×  ×

 展示にヘボン91歳のポートレートがあった。かくしゃくとしている。あっと思った。享年96歳の長寿だったと、初めて気がついた。勝手に60歳前後で亡くなったと思っていた。
 1815年生まれといえば、江戸時代は文化12年である。11代将軍、あの子沢山の家斉(1773年―1841年)の時代であった。江戸のころの平均寿命は何歳だったのだろうか。
 それにしてもヘボン、当時としては珍しいご長寿サンであった。

 ヘボンのことは昨年「麗しのオードリーと同名」(2008年9月4日)にも記している。

2009年2月10日火曜日

刑事・鳴沢了「讐雨」

エドワード・グリーン

 堂場瞬一の「刑事・鳴沢了シルーズ」第6弾「讐雨」(中公文庫)を読む。
 連続少女誘拐殺人事件の犯人が逮捕された。最後の裏付け捜査を終え、署に向かう鳴沢了の車の目前で、1台の車が爆破された。軽傷で済んだ鳴沢が署に着くと、待っていたのは、「犯人を釈放しろ。さもないと爆破は続く」という脅迫状だった。一件落着のはずだった捜査本部が、再び慌しくなった――。

 第6弾は東多摩署での事件。シリーズの始まりは西新潟署であったが、多摩南署―青山署、そして4度目の勤務地である。不正を見逃せない潔癖な倫理観からか、どこも定住の場を見つけられないようだ。今回の東多摩署は左遷的な配置転換か。刑事・鳴沢は、今後も署を転々とするのだろうか。
 「讐雨」は、「驟雨」の連想だろう。「復讐」の「讐」の字をあてた表題が暗示的だ。



 ところで、主人公の鳴沢は靴好きである。靴の手入れが趣味でもある。今回も何度も「エドワード・グリーン」が登場する。なんでも1890年英国で創業した高級靴メーカーだそうだ。
 雨中の追跡で、エドワード・グリーンのモンクストラップが台無しになるとの記述が再三見られる。さぞや高価な靴、なんでしょうなぁ。
2009年2月9日読了

2009年2月6日金曜日

ぶらり散歩で加山又造

黒い薔薇の裸婦  

 ぶらり散歩に出る。東京・六本木の東京新美術館で、現代日本画を代表する画家である「加山又造展」(3月2日まで開催)を観る。
 
 足を運んだきっかけは、2009年1月31日にテレビ東京で放送された「美の巨人たち」で、彼の作品「冬」の特集を視聴したからだった。冬の雪山を背景に、二匹のオオカミ、カラスの群れ、盲目のカラスの構図から、凛とした味わいが作品に感じられたのだった。
 ぜひ観たい。恥かしながら加山又造(1927年―2004年)を「日本画家」と知る程度で、作品にお目にかかったことはない。この機会に、と思い立った。あいにく「冬」は2月11日からの展示で、観ることはできなかったが、展示作品の数々にどれも圧倒された。目の保養であった。

 作品展の構成は、
第1章:動物たち、あるいは生きる悲しみ
第2章:時間と空間を超えて
第3章:線描の裸婦たち
第4章:花鳥画の世界
第5章:水墨画
第6章:生活の中に生きる「美」
となっていて、絵画ばかりでなく絵付けした陶器、着物、装飾品まで100点あまりが展示されている。
 印象に残ったのは、暗闇に咲き誇る桜と燃え上がる篝火(かがりび)を描いた「夜桜」、二匹の龍が躍動する水墨画の「龍図」、妖しいエロティシズムの「黒い薔薇の裸婦」などだった。
 加山又造、恐るべし。
 
×  ×  ×

 加山又造の略歴=1927年(昭和2年)に、京都・西陣の祖父は絵師、父は和装図案家の家庭に生まれた。幼少から絵の才能を発揮、東京美術学校(東京芸術大学)を卒業。動物画、屏風絵、裸婦像、水墨画などに革新的な芸術世界を展開し、常に日本画壇に新風を吹き込んだ。2003年に文化勲章を受章。2004年に死去した。

2009年2月4日水曜日

佐藤文栖:「金川日記」

横浜開港150周年

 佐藤文栖(さとう・ぶんせい)って御仁を知っていますか?

 ぶらり散歩に出る。横浜・都筑区の横浜市歴史博物館(横浜市営地下鉄・センター北駅、徒歩5分)で、横浜開港150周年企画展「黒船・開国・社会騒乱~日記にみる150年前の横浜」(3月15日まで開催)を観る。
 この日記を書いたのが、幕末の頃、神奈川宿に住んでいた知識人、佐藤文栖である。寛永2年(1849年)から安政7年(万延元年、1860年)の12年間にわたり、黒船来航、国内情勢、事件、天変地異などが記されている。

 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・C・ペリー(1794年―1858年)提督が率いる艦隊が浦賀に来航し、翌嘉永7年(安政元年、1854年)に横浜村で日米和親条約が結ばれ、固く閉ざしていた鎖国の扉がこじ開けられた。そして安政5年(1858年)に安政の五カ国条約が締結され、翌1859年に横浜は開港した。今年2009年は、横浜開港から150周年のアニバーサリーにあたる。「金川日記」(かながわにっき)を基に150年前の神奈川宿や政治・社会情勢を辿ろうという企画の展示会である。
 展示構成は、
Ⅰ「金川日記」と佐藤文栖
Ⅱ異国船来航
Ⅲ自然災害、流行病
Ⅳ外国人への視線
Ⅴ国内情勢と文栖
となっている。
 
 佐藤文栖とはどんな人だろう? 博物館での資料で紹介する――寛政5年(1793年)頃、都筑郡久保村(横浜市緑区)に生まれた。27歳で江戸に遊学し、医学や儒学を学び、帰郷後医業を営み寺子屋も開いた。寛永2年に隠居の場として神奈川宿に移り住んだ。明治を待たずに慶応3年(1867年)に没している。

 興味を引いたのは、安政年間(1854年~1860年)という凄まじい激動の元号である。よくもこれほどの出来事があった、と感嘆した。
 安政元年(1854年)に日米和親条約が締結された。元年に東海地方で、翌2年には江戸で大地震が発生した。安政東海地震はマグニチュード8.4で、江戸の地震は安政の大地震と呼ばれM6.9を記録し、神奈川宿では約200軒の家が倒壊した。
 さらに3年には大風で、神奈川宿で265軒が倒壊している。また2年にはコレラも流行した。コレラは5年にも江戸で猛威を振るっている。
 5年(1858年)には日米修好通商条約をはじめ五カ国条約が結ばれた。そして大老、井伊直弼による安政の大獄が始まり、7年3月3日、桜田門外の変が起こっている。
 まさに安政は、幕末という激動の時代の象徴的な期間であった。