2008年9月7日日曜日

「七つの顔」を持った男

岸田吟香

 ヘボンの和英辞書「和英語林集成」刊行、ジョセフ彦の新聞発行に尽力した岸田吟香(きしだ・ぎんこう=1833―1905)は、「七つの顔」を持った男だった。

 ある時は片目の運転手、またある時は気障な中国人‥‥そして、その実体は藤村大造‥‥。あの片岡千恵蔵「七つの顔の男」シリーズのような御仁なのだ。

 中小姓・儒官・妓楼の主人・辞書編纂者・新聞記者・実業家・教育者――など岸田の生涯の様変わりは激しく、面白い。

 岸田の生まれは美作国(みまさかのくに)で百姓だが、勉学を志した。1856年(安政3年)、三河拳母(みかわころも)藩の中小姓、後に儒官と昇任したが、脱藩。深川で湯屋の三助で糊口(ここう)を凌ぎ、その後吉原で妓楼の主人となった。当時の名前が銀次で、仲間うちで「銀公」と呼ばれていた。
 目を患い、眼科医として知られるJ・Cヘボン(1815―1911)を訪ね治療を受ける。その縁で、「和英語林集成」の編纂を手伝うようになる。1864年、ジョセフ彦(1837―1897)を執筆でサポートし、日本初の新聞を発行している。
 当時の日本には活版印刷機がなかったため、辞書の印刷のため、上海に渡る。そこでは、日本語のカナ文字がなく、岸田が手書きした版下を基に活字を鋳造している。1867年(慶応3年)「和英語林集成」刊行に漕ぎつける。その年、ヘボンから伝授された目薬「精錡水」(せいきすい)を発売する。
1873年(明治6年)、東京日日新聞に主筆として迎えられ、台湾出兵の際には日本初の従軍記者で活躍する。1877年には売薬事業の楽善堂を開き、事業で成功を収める。福祉活動にも積極的に参加し、1880年には盲人教育を目的とした薬善会訓盲院(現筑波大学附属盲学校)を設立した。

 波瀾万丈の岸田吟香であった。

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