昭和32年編
今回は書き残した1957年・昭和32年の歌謡曲編である。
日本の石原裕次郎の人気のアメリカ版がエルヴィス・プレスリー(1935年―1977年)だったと思う。下半身を振って歌う姿におとなたちは眉を顰(ひそ)めたが、若者の支持は絶大だった。
1957年・昭和32年には、プレスリーは前年の「ハートブレーク・ホテル」に続き「監獄ロック」をヒットさせた。彼のロックンロールは世界を席捲し日本にも飛び火し、平尾昌章、ミッキー・カーティス、山下敬二郎の「ロカビリー3人男」を生み、生ロックを鑑賞できるカフェ、ジャズ喫茶を誕生させた。
プレスリー以前に江利チエミの「テネシーワルツ」や雪村いづみ、旗照夫、ペギー葉山などがジャズを日本語と原語の混じる訳詞で歌唱していたが、俄然、翻訳詞が流行った。
「ハートブレーク・ホテル」は小坂一也が訳詞で歌った。同年、ハリー・ベラホンテの「バナナ・ボート」は浜村美智子が歌い、大ヒットした。余談だが、2007年11月24日・25日に放送されたビートたけし主演のテレビドラマ「点と線」(松本清張原作)の劇中で、ラジオから浜村美智子の
♪デーオ
が聞こえてきて、昭和32年当時のドラマ設定を印象付けるBGMに使っていた。
美輪明宏(当時は丸山明宏)の「メケメケ」も流行り、その訳詞は美輪自身によるものだった。
裕次郎、プレスリー、ロカビリーと若者文化隆盛のなか、浪曲師から歌謡曲に転じた三波春夫(1923年―2001年)デビューした。「チャンチキおけさ」(門井八郎作詞・長津義司作曲)、「船方さんよ」(門井八郎作詞・春川一夫作曲)をヒットさせた。路地裏の酒場で見知らぬ同士が小皿を叩きながら、おけさを歌い故郷を偲ぶ。
昭和30年代は東京と地方の両極を唄った時代といえる。経済成長の担い手として地方から東京に出るもの、地方に留まるもの、都会の街っ子――それぞれの想いが綴られ曲となった。
ジャズ歌手から歌謡曲に移ったフランク永井は都会派歌謡の旗手となった。「東京午前三時」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)、「夜霧の第二国道」(宮川哲夫作詞・吉田正作曲)が売れた。
ヒット曲の“常連組”美空ひばりは「港町十三番地」(石本美由起作詞・上原げんと作曲)、島倉千代子は「東京だヨおっ母さん」(野村俊夫作詞・船村徹作曲)、春日八郎は「あん時ゃどしゃぶり」(矢野亮作詞・佐伯としを作曲)を歌った。
「東京だヨおっ母さん」は東京に住む娘が田舎の母を呼び東京見物するシーンが目に浮かぶ。皇居の二重橋で記念写真を撮り、靖国神社では英霊となった兄を偲び、浅草の観音様をお参りする。
まるで東京名所巡りのはとバスだが、バスといえば「東京のバスガール」(丘灯至夫作詞・上原げんと作曲)をコロムビア・ローズがヒットさせた。また鼻にかかった声で藤島桓夫が歌った「お月さん今晩は」(松村又一作詞・遠藤実作曲)が印象に残る昭和32年の歌謡界であった。
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。
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