2017年7月2日日曜日

上田利治さん forever 1978日本シリーズ

*プロ野球、阪急監督としての黄金時代を築いた上田利治さんが亡くなった 2017/07/01。80歳だった。   

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1978年(昭和53年)日本シリーズ。3勝3敗で迎えたヤクルト-阪急の第7戦。後楽園球場。
6回に左翼線ポールの上を、大杉勝男の放った打球は消えた。フェアかファウルか微妙だったが、判定はホームランとなった。
そのとき、阪急監督の上田利治はファウルを主張し猛然と抗議した。線審の富沢宏哉の交代を求めた。審判団が拒否したため、上田監督は選手をベンチに引き上げさせる。さらに抗議を続けた。ついには当時の金子鋭コミッショナーが上田の元に出向き、「試合を再開してほしい」と頭を下げる事態となった。この抗議による中断時間はシリーズ最長となる1時間19分に及んだ。なんとか再開されたが、阪急は0-4で敗れ、日本シリーズ4連覇を逃した。その試合後、上田は直ちに混乱の責任をとり辞任を発表したのだった。

日本シリーズ第7戦(1978/10/22 後楽園球場) 
阪      急 000 000 000=0
ヤクルト 000 012 01×=4
勝利投手 松岡
敗戦投手 足立
本塁打 大杉3号(6回足立) マニエル3号(6回松本) 大杉4号(8回山田) 
*シリーズMVPは大杉が選ばれた。

上田さんといえば、あの抗議の激しさを思い出す。私はヤクルト担当記者でした。戦前の下馬評では阪急の圧倒的有利を覆し、監督広岡達朗率いるヤクルトの初の日本一の原稿をどう書こうか思案していました。抗議というハプニングが起こり、構想がまとまらなくなりました。1時間19分がおそらく2倍、3倍もの長さに感じられました。締め切り時間がどんどん迫るなか、大いに焦っていました。記者としての実力不足を痛感する出来事でした。

大杉の打球は左翼ポール付近、その上を越えて行きました。記者席から観ていましたが、ファウルかフェアか判断がつきません。抗議が長引いた根底には、上田さんに外審を務めた富沢さんへの不信感があったかもしれません。

・上田利治さん forever 
監督成績=1322勝1136敗116分け 
阪急-オリックス-日本ハムで20年2574試合 
リーグ優勝5度 日本一3度
2003年に野球殿堂入りを果たす。

選手成績
通算3年 121試合 283打数 58安打 2本塁打 17打点 打率2割1分8厘 
現役引退後、25歳で広島二軍コーチとなり指導者の道を歩む。

関西大学時代にはエース村山実とバッテリーを組む。

知将ながら心猛き監督でした。

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