1978年ヤクルト『日本一の投手コーチ』を悼む
巨人軍の元投手、堀内庄(ほりうち・しょう)さんが2010年10月27日亡くなった。75歳だった。長野・松商学園高から1954年(昭和29年)年巨人入り。1956年に最高勝率(14勝4敗)のタイトルを獲得。通算62勝44敗。引退後は巨人、ヤクルトでコーチを務めた。※敬称略
× × ×
堀内庄は『日本一の投手コーチ』だった。
1978年(昭和53年)ヤクルト・スワローズの一軍投手コーチを務めている。この年ヤクルトは球団史上初のリーグ制覇、日本シリーズでも阪急を下し日本一に輝いている。
ただしセ・リーグ優勝、日本シリーズ選手権制覇の場面にその姿はなかった。ペナントレース終盤、練習中に打球を顔面に受け、入院し、その後自宅療養をしていて、当時の監督・広岡達朗の胴上げに立ち会えなったのだ。
なんと間の悪いコーチだったのだろう。だが、松岡弘、安田猛、鈴木康二朗ら投手陣から人望があった。リーグ制覇の夜、祝勝会のあとで堀内宅に投手陣が集まり祝杯をあらためてあげたのだった。
当時のヤクルトは監督・広岡達朗、ヘッド格のバッテリーコーチ森昌彦、投手コーチ堀内庄と巨人OBで固められていた。広岡(早稲田大)と堀内(松商学園)が1954年、森(県立岐阜)は1955年の入団。同じ釜の飯を食った間柄だった。
草野球音の目には、森と堀内の間に溝が生じたように映った。投手と近い存在にあった堀内。選手と管理職として距離を置く森。スタンスの違いが確執となったとみた。指揮官の広岡は森をとった。
広島遠征だった。ある中華飯店で広岡さん、森さん、堀内さんと食事を一緒にしたことがある。この店は3人ばかりか王貞治さんのごひいきでもある。ここの看板メニュー(豚足とキャベツの炒めた一品)が好物でパクついていたっけ。紹興酒もよく飲んだ。3人のなかでは一番陽気な酒だったと記憶している。
× × ×
堀内の記録で特筆すべきは、入団4年目の1956年の最高勝率のタイトルだろう。37試合に登板、14勝4敗で勝率.778、防御率は1.46だった。実働9年間で通算成績は62勝を稼いだ。10勝以上を3回(1956年~1958年)。生涯防御率は2.17と光る。
堀内が入団した1954年の巨人は監督が水原茂、野手に川上哲治、千葉茂、与那嶺要、投手陣には別所毅彦、藤本英雄、中尾硯志、大友工といった伝説の男たちが在籍していた。同期入団には広岡のほか土屋正孝(松本深志高)、安原達佳(倉敷工高)がいた。
1957年に藤田元司(慶応大―日本石油)が入団すると、2年ほどの短い期間だが2枚看板でローテーションの軸となった。
野球小僧だったころ、堀内庄は憧れの投手だった。背番号は「10」だった。頭の真上から右腕をかくオーバースローだった。あの独特なフォームを真似たものだ。
合掌。
※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。よろしければクリックしてください。
※こちらも、よろしければクリックしてください。
堀内庄さんの訃報。28日付の日刊スポーツと朝日しかみていないが、記事は小さかったなぁ。団塊世代の野球小僧の感傷かもしれないが、せめてもう少し扱えなかったか……。
返信削除