氷解そしてリスペクト
「才能を見いだせなかった人物として知られるが…」の問いに、イチローは「そうじゃないのにねえ」と短く返したそうだ。
巨人V9戦士として知られる土井正三が、2009年9月25日死去した。67歳だった。
イチロー取材の日本人記者はこぞってリアクションを求めたことだろう。米国現地25日(日本時間26日)トロントでのブルージェイズ―マリナーズ戦後、静かなクラブハウスで、そのときが訪れた。確執とも言われた複雑な人間関係におよぶ質問を投げた記者連に常にない異様な緊張感が走ったと、推測する。
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土井は1991年から3年間オリックス・ブルーウェーブの監督を務めている。1992年入団のイチローは2年間配下にいたことになる。当時の登録名は鈴木一朗だった。92年は7月に一軍昇格し、40試合で95打数24安打、打率.253、盗塁3という記録を残す。期待された93年は開幕スタメン(9番センター)で起用され、野茂英雄からプロ初本塁打を放つなどしたが、43試合で64打数12安打、打率.188と振るわず二軍生活を余儀なくされた。ただしファームでは92年から93年にかけ46試合連続安打、92年のジュニア球宴では代打本塁打を放ちMVPを獲得するなど非凡さを見せている。
イチローと改名して大活躍したのは、94年仰木彬が監督に就任してからで、つまり芽が出なかった2年間を評して「才能を見つけられない」指揮官と土井はレッテルを貼られた。
その評判をイチローは否定し、土井に哀悼の意を表したのだった。
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デリケートな問題ながら、これは伝聞である。
1993年に二軍降格を言いわたされたイチロー(当時鈴木)は、泣いて監督の土井に残留を懇願した。また、「振り子打法」を否定され打撃フォームの改造・修正を求められたが、イチローは断固拒否し続けた。
イチローが大リーグに活躍の場を移した2001年のこと。アリゾナ州ビオリアのシアトル・マリナーズのキャンプ地を土井が視察した際、互いに存在を確認したものの、挨拶には歩み寄らなかった。
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土井はイチローの将来性を認めていたとのちに発言している。大成とともに、イチローは過去の細事に拘らぬ人物に成長した。
二人の間には“溝”が存在した、と草野球音は睨む。
2001年には互いにその溝を埋める一歩を踏み出せなかった二人である。
訃報がそれを氷解し、一流野球人同士の“リスペクト”をもたらした。
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