2008年3月27日木曜日

松井秀喜結婚とON婚約

 ニュヨーク・ヤンキース松井秀喜選手(33)の結婚を、2008年3月27日付のサンケイスポーツが報じた。

×  ×  ×

 都内最終版(即売)でのスクープで、早朝からテレビは喧(かまびす)しい。特にフジサンケイグループのフジテレビは、「身内」の特ダネに、トーンも上がっていたようだった。
 一番の興味は、相手の女性であるが、サンスポによれば「元会社員25歳」、「長澤まさみ似」とある。出会いは2006年オフだそうだ。
 恐らくスポーツ紙、テレビなどで詳しくは、報じられるはずである。8歳年下の彼女に関する取材合戦を、とくと拝見したい。

 ニューヨークの松井番の記者は、大騒ぎであろう。抜いたサンスポは鼻高々だが、日刊、報知、スポニチなどの番記者は自責の念にかられて、「A級戦犯」のような気持ちだろう。
 松井番にとって最大のニュースであり、関心事であったはずである。オーバーな言い方でなく、記者生命をかけて取材活動をしていたと推測される。松井の両親、親戚縁者、後援者、友人知人などに、婚約ニュースの「網」はそれぞれに仕掛けられていたはずである。逃がした魚は、ことさら大きく、そして悔しいのだ。

 かって長嶋茂雄番を巨人入団当初から務めていた大先輩が、長嶋茂雄婚約のニュースを抜かれたときは、「このままおめおめと会社にいられない」と辞表を真剣に考えたという話を聴いたことがある。

五輪と多摩川の恋

 人気プロ野球選手の婚約・結婚ニュースは番記者の悲喜交々(こもごも)を生むものである。あの大スターの長嶋茂雄と王貞治の場合はどうだったろうか。

 長嶋さんと王さんの違いは?
という草野球音の獏とした質問に、V9をつぶさに取材した先輩が応えてくれた。
 「結婚を見れば分かるよ。長嶋さんは報知がスクープしたのだが、王さんは1社にバレそうになったとき、急遽記者会見を開いて一斉に婚約発表したんだ」。

 1964年(昭和39)の東京オリンピック当時、五輪コンパニオンだった西村亜希子と長嶋茂雄は取材で出逢った。五輪コンパニオンには、外国の来賓を接待する語学堪能で教養豊かなレディが、その任に当たった。昭和30年代に大任を果たし得る人材は少なかったと、想像できる。長嶋は、目の前に現れた、その女性に一目ぼれ、出逢いから40日で婚約と電光石火の早業で決めたのだった。その婚約報を報知がすっぱ抜いた。1964年11月26日、報知新聞の1面見出しは「長嶋選手婚約 五輪が結んだ恋」だった。
 巨人は読売ジャイアンツである。巨人とともに読売グループの一部である報知新聞社は、こと巨人取材にかけては正確で迅速なニュースを提供するミッションがある。出逢った取材も報知の企画であれば、抜く条件は十分だった。

 だが、しかし‥‥。
 他の長嶋番記者は影で泣いたのである。悲しくて苦い酒を胃に流し込んだ。

 王貞治には王番がいる。王との飲み会などで、長嶋婚約時の担当記者の悲喜を聞かされていた王は、泣きを見る記者がいないように一斉発表した。
 長嶋の婚約から2年後の1966年(昭和41)に、王貞治は結婚した。相手は小八重恭子。王が入団した1年目に多摩川グラウンドで、高校1年生の小八重恭子に出逢っている。6年間の交際が実っての婚約だった。「多摩川の恋」と言われた。
 1966年10月5日、婚約発表の前日である。婚約ニュースを1社が嗅ぎ付け、記事にするという動きを知った王は、親しい記者に気を遣い、一斉の共同記者会見をすることを決め、マスメディアを招集した。ホテルニューオータニで、会見はこの種の記者発表としては異例に遅い午後9時過ぎから始まった。翌10月6日付のスポーツ紙の1面は揃って「王婚約」であった。公平平等を貫いた王だった。

 長嶋茂雄の結婚は、報知のスクープから2ヶ月後の1965年(昭和40)1月26日だった。その1年後の1966年1月26日に長男・一茂が誕生している。王貞治の結婚は、1966年12月1日であった。
 王恭子夫人は2001年12月11日に、長嶋亜希子夫人は2007年9月18日に鬼籍に入った。恭子57歳、亜希子64歳。日本人女性の平均寿命は、平成18年(2006)厚生労働省・簡易生命表によると、85.81歳(男性は79.00歳)となっている。若すぎる。スターを支える内助の功は計り知れないほど過酷だと想像する。
 
 松井秀喜の結婚ニュースからON婚約結婚に思いを馳せた。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

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