2008年1月19日土曜日

瞼の裏で咲いている1961

昭和36年編

 円城寺 あれがボールか 秋の空 ―詠み人知らず
 球史に残る事件は日本シリーズ第4戦に起こった。

 1961年・昭和36年の日本シリーズは読売ジャイアンツと南海ホークスの対決となった。率いるは監督1年目の川上哲治と親分と異名をとる鶴岡一人(1916年―2000年)である。

・第1戦(大阪球場)巨人0-6南海 ○スタンカ、●中村稔 HR=野村、穴吹、寺田
・第2戦(大阪球場)巨人6-4南海 ○堀本、●皆川 HR=穴吹
・第3戦(後楽園球場)南海4-5巨人 ○伊藤芳、●スタンカ HR=宮本

 巨人の2勝1敗で迎えた第4戦である。スコアを見ながら、読んでいただきたい。
・第4戦(後楽園球場)
南海 010 000 002=3
巨人 002 000 002=4
 ○堀本、●森中 HR=杉山、広瀬

 南海は9回広瀬叔功の2ランで逆転し3-2でリードし、9回裏を迎えた。3番手・祓川(はらいかわ)がいきなり死球を出すと、鶴岡監督はジョー・スタンカを投入した。この年、杉浦忠は右腕の血行障害で戦列離脱を余儀なくされていた。マウンドを任されたスタンカは坂崎一彦を三振、国松彰を二塁ゴロで難なく二死とした。代打の藤尾茂も一塁フライに打ち取った‥試合終了と思った瞬間、一塁手の寺田陽介がなんとポロリ落球した。長嶋茂雄の三塁ゴロを今度は小池兼司がファンブル、内野安打となり二死満塁、エンディ宮本(登録名:敏雄)を打席に迎えた。スタンカは、2-1からフォークを投じた。外角低めに‥。ストライク→勝利を確信した野村は腰を浮かして捕球した。

 そのとき、球審の円城寺満(1910年―1983年)は「ボール」を宣告したのだった。野村、スタンカ、鶴岡が猛抗議したが、判定はくつがえるはずもなく、再開。その直後の5球目を宮本に右前に適時打され、2者が生還し、南海はサヨナラ負けを喫した。
 バックアップに入る際、スタンカは円城寺に体当たりし、円城寺はひっくり返った。テレビ観戦していた草野球音には明らかにスタンカが故意にやったと映った。

 人は間違いを犯す動物である。審判にミスジャッジは付いて回る。そんなとき、勝負の綾(あや)を織りなすのだ。

 後のち当時の映像を見ると「ストライク」だと球音は思うが、この「ボール」判定で王手をかけた巨人は、4勝2敗で日本一に輝いている。シリーズMVPはエンディ宮本、敢闘賞にはスタンカが選出された。冒頭の句が詠まれたほどに、流れを変えた1球であった。

・第5戦(後楽園球場)南海6-3巨人 ○スタンカ、●藤田 HR=寺田、野村、長嶋
・第6戦(大阪球場)巨人3-2南海 ○中村稔、●スタンカ HR=王

 ちなみに円城寺満は最期まで「ボール」と確信していたという。もうひとりの悲劇の人、ポロリの寺田陽介は同年限りで南海を去り、1962年(昭和37)から中日、1964年の東映を最後に現役引退している。

・昭和36年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=長嶋茂雄(巨人)・野村克也(南海)
新人王=権藤博(中日)・徳久利明(近鉄)
首位打者=長嶋茂雄(巨人)・張本勲(東映)
本塁打王=長嶋茂雄(巨人)・野村克也(南海)中田昌宏(阪急)
打点王=桑田武(大洋)・山内和弘(大毎)
最優秀防御率=権藤博(中日)・稲尾和久(西鉄)
最多勝=権藤博(中日)・稲尾和久(西鉄)
最優秀勝率=伊藤芳明(巨人)・稲尾和久(西鉄)
 稲尾和久(1937年―2007年)は42勝を稼ぎ、シーズン最多勝利の日本記録、1931年のヴィクトル・スタルヒン(1916年―1957年=巨人)と並んだ。

 高校野球は春の選抜大会は法政ニ(神奈川)が、夏の選手権大会は浪商(大阪)が大旗を握った。柴田勲を擁した法政ニは夏・春連覇を果たしが、3連覇の夢を2年生の怪童・尾崎行雄の浪商の前に断たれた。

 柴田VS尾崎の甲子園対決は3度あり、柴田の2勝1敗だった。どれも息詰まる好試合である。

・昭和35年夏の選手権2回戦 法政ニ4-0浪商 ○柴田、●尾崎
・昭和36年春の選抜準々決勝 法政ニ3-1浪商 ○柴田、●尾崎
・昭和36年夏の選手権準決勝 浪商4-2法政ニ(延長11回) ○尾崎、●柴田

 いずれも勝者がそのまま勝ち進み優勝している。事実上の決勝戦であった。二人の対決については別の機会により詳しく書きたいと思っている。

 昭和36年編は2回に分けて記述します。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

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