2007年11月4日日曜日

竜馬も北辰一刀流手練れ

 竜馬はもとより、後年、性沈毅といわれた武市半平太も、若かった。
 その夜、千葉重太郎とさな子を連れ、夜陰にまぎれて四人で品川の藩邸をぬけだしたのである。見つかれば、かるくて切腹、おもければ打首だろう。
 めざす相手は浦賀にうかぶ米国艦隊であった。四隻の黒船を、北辰一刀流と鏡心明智流の腕で手づかみにしてくれようという。
 ――司馬遼太郎「竜馬がゆく」より=原文のまま
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 嘉永6年(1853)6月3日、米国の東印度艦隊司令長官M・C・ペリーが4艦を引きつれ相州浦和に現れ、投錨し、将軍に米大統領フィルモアの親書を呈するために来航した旨を伝えた。黒船来航である。この日を境に日本中が騒然となった。ペリー来航から明治元年(1868)の15年間を「幕末」という人は多い(江戸末期の1830年代か1840年代から江戸幕府が崩壊するまで、とより長い期間で捉える説もある)。
 
 泰平の眠りをさます上喜撰、たった四はいで夜もねられず
と江戸に狂歌が流行った。蒸気船と同音異義語の上喜撰はお茶の高級品名。

 江戸時代は、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた1603年(慶長8)から、徳川慶喜が大政を奉還して将軍職を辞した1867年(慶応3)までの、江戸に徳川幕府の存続した265年間をいう。またこれも家康が関が原の闘いに勝利を収めた1598年(慶長3)を始期とする説もある。

 天下泰平のときは遊惰に溺れがちだが、有事となれば武勇に頼るのだろうか。幕末には武芸が盛んであった。
 北辰一刀流の創始者は千葉周作(1793年―1856年)である。
 1822年(文政5)に日本橋品川町に玄武館を構え、6年後に神田お玉が池に移転している。従来の精神論に偏らず合理的に剣技を磨くことを重視し、袋竹刀と防具を使用、習得までの過程を簡素化し時間を短縮したことと謝礼が安価なことで、門下生を増やした。弟子に尊攘の策謀家と知られる清河八郎、新撰組の山南敬助、藤堂平助がいる。水戸藩の水戸斉昭の招きで剣術指南役を務めた関係で水戸藩士が多く通い、大老井伊直弼の首をとった有村治左衛門も門下生であった。

 冒頭の坂本竜馬は千葉周作の門下ではなく、周作の実弟・定吉の京橋桶町の道場で腕を磨き、北辰一刀流免許皆伝を手にしたといわれる。重太郎は定吉(「竜馬がゆく」では貞吉となっている)の長男で、さな子は定吉の娘であり剣士である。

 武市半平太は鏡新明智流の免許皆伝で塾頭も務めた。鏡新明智流の士学館四代目桃井春蔵が道場主で、京橋浅蜊(あさり)河岸にあり、土佐藩邸が近く土佐藩士の門弟が多かった。手錬れとしては、土佐勤皇党の武市半平太、維新後宮内大臣に就く田中光顕(みつあき)、「人斬り以蔵」の異名をとる岡田以蔵などがいる。

 玄武館、士学館に並ぶ幕末三大道場は神道無念流、斎藤弥九郎の錬兵館である。神田俎(まないた)橋際に建てたが、後に九段坂上(現靖国神社境内)に移転している。そのころから長州藩士が多く入門した。塾頭を務めた桂小五郎、高杉晋作、品川弥二郎ら維新の志士を育ている。維新後、弥九郎は明治政府に出仕している。

 赤胴鈴之助―平手造酒―坂本竜馬の北辰一刀流つながりである。

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