2008年8月31日日曜日

米領事館だった本覚寺

神奈川宿あたり

 4週間のご無沙汰です。「蜘蛛巣丸太」をあまりに更新しないので、臥(ふ)せっているのでは、とご心配をいただいたりした。勝手ながら夏休みをとり、ひねもす北京五輪をテレビ観戦するズボラ暮らしを送っていた。呑気な隠居でも、そろそろ惰眠から覚めねば、額に汗して働いているみなさんに申し訳が立たない。極楽トンボを返上する。
 草野球音の話題は、4週間を経ても、相変わらず幕末~明治維新に留まっている。

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 ぶらり散歩に出る。住まいの界隈をぶらつく。
 まず足は京浜急行の神奈川駅に向かう。
 神奈川駅は青木橋の袂(たもと)にある。急行も止まらぬ小さな駅だが、東海道五十三次の宿場、神奈川宿のあった場所である。
 東海道は起点の江戸日本橋から7里(28k)、品川、川崎と数えて3番目の宿場で、人の往来は頻繁であった。

 1872年(明治5年)新橋~横浜に鉄道の開通に伴って架けられた跨線橋である青木橋をわたると、本覚寺が見える。
 この寺(横浜市神奈川区高島台1番地の2)は、幕末の横浜開港時、アメリカの領事館だった。
 本覚寺は鎌倉時代に臨済宗の寺として開山されたが、戦国時代に荒廃し、後に1500年頃に曹洞宗の寺として再興された。江戸時代は万病に効く「黒薬」が宿場の名物として売れたという。
 坂を上り、本覚寺に着くと、門前には「アメリカ領事館跡」の石碑は立っている。その近くには、岩瀬肥後守忠震の顕彰碑がある。岩瀬は神奈川(横浜)開港を首唱し、タウンゼント・ハリス(1804―1878)と交渉した役人である。
 1858年日米修好通商条約が締結された。翌1959年、ハリスは本覚寺を見分けし、神奈川の船着場に近く高台にあり景色がよく、対岸の横浜村が見渡せることから、領事館として最適とした。
 
 この付近には、幕末の頃、外国領事館だったお寺が多い。京浜急行神奈川駅から品川に向かい、歩き出せば、程なくイギリス領事館だった浄瀧寺フランス領事館で浦島太郎伝説の慶運寺なども現れる。そのほかオランダ領事館長延寺、宣教師宿舎でヘボン式ローマ字のヘボンがと居た成仏寺も「隣組」である。

 生麦事件で負傷したイギリス人、マーシャルとクラークが生麦から逃げ込んだが本覚寺であり、その治療を施したのがジェームス・カーティス・ヘボン博士(1815―1911)だった。

2008年8月3日日曜日

新聞の父ジョセフ彦Ⅱ

吉村昭の記述

 コレって、不思議だよね。
 改造したばかりの福田内閣支持率が、朝日と読売で段違いである。
 朝日新聞社は「横ばい24%」、片や読売新聞社は「好転41%」と、2008年8月3日の紙面ならびに電子版が伝えている。どちらも8月1日と2日の緊急世論調査(電話方式)によるという。
 内閣支持率は朝日が低め、読売高めの傾向となっているが、今回の17%という差は珍しい。というより、こんなに世論調査の結果がなぜ違うのだろうか。あり得ない差異ではないか、と思う。
 発行部数において日本のトップ2を誇る2紙だけに、大いに気になるところだ。

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 さて、新聞といえば、新聞の父といわれるジョセフ彦のことを書いた歴史小説「アメリカ彦蔵」(吉村昭著=新潮文庫)を読む。
 吉村昭の本は、恥かしながら、今まで読んだことがなかった。難(かた)そうで敬遠していた。
 興味を抱く幕末を題材した小説を数多く書かれているので、向学のためにも「食わず嫌い」を捨てた(ご大層な言い方か)。読み出すと、その取材力の周到さに圧倒される。とても及びもつかぬ。頭が下がる。耽読した次第である。

 「新聞の父:ジョセフ彦」(2008年7月17日記)では、リンカーンのゲティスバーグの演説記事を読んで、新聞発行の意を強くしたと書いたが、吉村昭著では記述がなかった。草野球音はどこぞで読んだ記憶で書いたものだが、吉村は自ら確認したことだけを信用して書いている。彼の書いたものに、「どこぞ」などという中途半端な記述は一切ないのだ。ゲティスバーグの件は、彼の取材では”裏”が取れなかったのではないか、と推測する。
 「私(吉村昭)は小説を書くとき、その裏付けとして取材するが、まず他人の書いたものを信用しない。自らの足で歩き自らの耳で聴くことに徹する」。
 彼は信念の記述をする書き手である。
 コレって、まさに、新聞報道の基本ともいえるものではないか。

 とかくいい加減な記述のある草野球音、いたく勉強となった「アメリカ彦蔵」だった。でも、とても真似はできないのだ。