2013年2月28日木曜日

あっぱれ北斎!光の王国展

「凱風快晴」「神奈川沖浪裏」の180年前のベロ藍を再現――。

 「あっぱれ北斎!光の王国」展を観る。江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」全46作品と「諸国瀧廻り」全8作品を、最新のデジタル印刷技術で展示している。フェルメール・センター銀座=開催201311日~331日。
 

★葛飾北斎(かつしか・ほくさい)=1760年(宝暦10年)―1849年(嘉永2年)。江戸後期、化政文化を代表する浮世絵師。

×  ×  ×

 本展を観た友人の『トリ頭』こと戸坂健作がまた、知識を曝(さら)け出したい様子だ。ネット検索で得たにわか知識に間違いないが、聴いてやってください。

――以下『トリ頭』のひとくさり。
なんたって「世界の北斎」だぞ。
世界と冠が付く日本人はなかなかいない。
黒澤明、三船敏郎、小澤征爾、北野武、村上春樹、オノ・ヨーコ、イチローってとこか。

北斎は凄いぜ。
1999年に米誌「ライフ」の企画
1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人』で、
86位と日本人唯一のランクインを果たしている。
マネ、ドガ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャンらの画風にも影響を及ぼした、
稀有の日本人だな。

「冨嶽三十六景」も「諸国瀧廻り」も版元は西村永寿堂だ。
版元といえば出版プロデューサーだな。
彼の企画アイデアで北斎に描かせたのだ。
「冨嶽三十六景」は『ベロ藍』を使ったことで当時、大いに話題になった。
永寿堂は高価な顔料を北斎に手配したそうだ。

『ベロ藍』というのは、ペルシアン・ブルー。
プルシアンは顔料の発見地ドイツの旧名プロシアにちなむ。
ベルリンブルー(伯林青)とも呼ばれる紺青だ。
浮世絵の関係者では『ベロ藍』という略称を使うそうだ。

ところで「三十六景」というが全46作品あるんだな。
ま、北斎はそんなことに拘らない。
好きなだけ富士をモチーフにして描いたのだな、きっと。

「三十六景」でも46景とは、これいかに。
婆が読んでも時事新聞。
爺が食べてもババロアとは、これいかに。

 
例によって話は脱線し、これ以上は時間の無駄になるので、話を打ち切らせた。
 戸坂健作――「戸坂」は「鶏冠(とさか)」に通じ、ニワトリは3歩歩くと忘れるという健忘症だという。ネット検索(名も健作)で得た知識をひけらかし、一夜明ければすっかり忘れる戸坂を、友人たちは半ばおちょくり、親愛の情をこめて『トリ頭』と陰で呼んでいる。

2013226日観覧
美博の館#7

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藤沢周平「玄鳥」

「玄鳥」「鮠」「鷦鷯」なんて小動物が題名に付いているけど――。

藤沢周平の「玄鳥」(文春文庫)を読む。
 


 路の亡父は無外流の達人で、秘蔵の弟子である曾根兵六に秘伝の型を伝授しようとしたが、粗忽の本性を知り思い留まった。秘伝は路が口伝で授かり、兵六が絶体絶命のときに伝えよと言い残していた。上位討ちに失敗した兵六は減石を受けたうえ、藩は討手を差し向けた――「玄鳥」。表題作を含む5編を収録。

×  ×  ×

「玄鳥」とは「つばめ」の別名。
「鷦鷯(みそさざい)」も小さな鳥。
「鮠(はや)」は「うぐい」の別名。
小鳥や小魚を題名に採った藤沢周平さんの意図は?

どれもいかにもありふれた生き物だよね。

鳥なら「鷲(わし)」とか「鷹(たか)」とか。
魚なら「鯛(たい)」とか上等、高級といわれるが、
そんなスーパーヒーローじゃない主人公たちが登場している。

「玄鳥」では、粗忽者の曾根兵六、
「三月の鮠」では精神面に弱点がある窪井信次郎、
「鷦鷯」では貧乏暮らしの横山新左衛門、
「浦島」では酒で失敗した御手洗孫六
といずれも剣の腕が確かだが、
欠点もある生身の人間が物語の中心になっている。

そんなあたりが題名に繋がっていると、
草野は勝手に解釈したのだけど……。

目次
・玄鳥(げんちょう)
・三月の鮠(はや)
・闇討ち
・鷦鷯(みそさざい)
・浦島

2013226日読了
読書の轍#4

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2013年2月24日日曜日

スポーツがやってきた!展

伝来のきっかけは生麦事件だった――。

 横浜・日本大通りの横浜開港資料館で「スポーツがやってきた! 近代横浜スポーツ史」展を観る。開催2013130日~421日。
 
 
 1859年(安政6年)に修好通商条約により横浜が開港し、以降住みはじめた外国人は母国で行われていたスポーツを愉しんだ。横浜居留地で行われた競馬やラグビー、クリケット、陸上競技などのスポーツが日本中に広まった。近代スポーツの伝来と普及の歴史を振り返る。
 
×  ×  ×

きっかけは生麦事件である。
今から150年前。
イギリス軍が横浜・山手に駐留したのは1863年(文久3年)のことだった。
前年の1862年に薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件が起り、
居留している自国民を保護するためだった。
フランス軍もそれに倣い駐留した。

1975年(明治8年)まで駐留したイギリス兵士が
クリケット、射撃、競馬、ボート、フットボールなどを愉しむ姿が記されている。
これが日本で西洋スポーツが行われた最初といわれる。

だから、生麦事件が起り、
攘夷の機運が一気に高まり、
イギリス人が身の危険を切実に感じなければ、
兵士は横浜に駐留しなかった。
スポーツをしなかった。

もちろん遅かれ早かれ、西洋のスポーツは伝来しただろうけど、ね(笑)。

展示構成
1        スポーツの伝来
2        山手公園と横浜公園
3        居留地の人々とスポーツ
4        クラブの誕生と交流
5        スポーツの普及と学校
6        スポーツ・イベントと開催

2013221日観覧
美博の館#6

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2013年2月23日土曜日

ベースボール・シティ横浜展

ベーブ・ルースから松坂大輔、大魔神まで懐かしさに出逢う――。

「ベースボール・シティ横浜 ハマと野球の昭和史」展を観る。東急東横みなとみらい線日本大通り駅直結の横浜都市発展記念館=開催201322日~47日。
 

1934年(昭和9年)に来日した米大リーグのオールスターチームのベーブ・ルース、1998年(平成10年)春夏連覇した横浜高校エース松坂大輔、同年の横浜ベイスターズ日本一の立役者佐々木主浩など、昭和を中心に横浜における野球の歴史・歩みを紹介している。

×  ×  ×

横浜スタジアムこけら落とし1978年(昭和53年)4月4日の横浜大洋―巨人戦
その先発メンバーが映し出された電光掲示の写真に懐かしさがこみ上げた。
写真が懐かしいのではない。
そのスタメンが郷愁を誘った。

・巨人
8)柴田
4)土井
7)張本
3)王
9)柳田
5)高田
6)河埜
2)山倉
1)小林

・横浜大洋
6)山下
4)ミャーン
9)高木
3)松原
5)田代
8)長崎
2)福嶋
7)中塚
1)斎藤明

試合は斎藤明の完投で41で横浜が新本拠地1勝を記録した。
巨人監督は長嶋茂雄、横浜大洋は別当薫だった。

そのシーズンはヤクルト・スワローズがセリーグ初優勝、勢いを駆って
日本シリーズで阪急ブレーブスを下し日本一に輝いた。
ヤクルト監督は広岡達朗、阪急監督は上田利治だった。
大杉のホームランをめぐりファールを主張し上田監督の猛抗議があった。

記憶がよみがえった。
ヤクルト担当記者だったのだよね。
思えば35年も前の出来事でした。

展示構成
第1部        ベースボールに沸く横浜の街
(1)             甲子園に向けて
(2)             次々に生まれる市民の野球チーム
(3)             街中が夢中になった「ハマの早慶戦」
(4)             横浜公園に建設された野球場
(5)             アメリカ大リーグの来日と職業野球の開幕

第2部        都市のシンボルとしての球団とスタジアム
(1)             「ゲーリック球場」から「平和球場」の時代
(2)             プロ野球の興隆
(3)             「野球王国」横浜・神奈川
(4)             横浜スタジアムと横浜大洋の誕生
(5)             ホエールズからベイスターズへ

2013221日観覧
美博の館#5

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2013年2月19日火曜日

天声人語からスーパーマン

「鳥か! 飛行機か! いや隕石だ」――。
スーパーマンのフレーズをもじった英字紙もあった、
と天声人語(2013年2月19日付)が書いていた。

「空を見ろ!」
「鳥か!」
「飛行機か!」
「いやスーパーマンだ」
というのが周知の通り原典だが、
それほどに今回ロシアに堕ちた隕石は超人の出現並みに衝撃的だった。

NASAの推定では隕石の規模は大気圏突入前の段階で
秒速18キロ直径17メートル質量1万トンとか。

弾よりも速く。
力は機関車よりも強く。
高いビルディングもひとっ飛び。
――なんてもんじゃない。それを上回るパワーだったな。

Wikipediaによれば、1938年(昭和13年)に原作ジェリー・シーゲル、作画ジョ―・シャスターでアクション・コミック誌に初登場した、とある。
劇画はテレビドラマ化され全米の超人気番組となった。

団塊世代の草野はテレビでよく観たなぁ。
風呂敷を背にかけてスーパーマンごっこしたっけ。

スーパーマンはクラーク・ケントという新聞記者なんだよね。
デイリー・プラネット新聞社。
スーパーマンの声は低音が響く大平透さんだった。
相も変わらぬオチのない拙文でした(笑^_^)。


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2013年2月16日土曜日

藤沢周平「一茶」

執念の成せるわざか2万を超える発句――。

 藤沢周平の「一茶」(文春文庫)を読む。継母になじめず信濃から江戸に出てて、俳諧にめぐりあい、遺産相続で継母と争いながら分与にこぎつけたが、常に貧しさと闘い続け、したたかに生き2万超の句を残した一茶の生涯。



一茶の句といえば、
・やせ蛙負けるな一茶ここにあり
・雀の子そこのけそこのけお馬が通る
・名月をとってくれよと泣く子かな
なんて句が浮かぶ。
小学生時分から覚えていた。

継子であり境遇が弱い者へ愛情を句にした、
とずっと思っていた。

だが、しかし。
読んでみると、その人間臭さに驚く。

継母や弟との10余年にもおよぶ遺産相続の争い。
50歳で信濃に戻り妻帯し、結婚3度。
その交合への執念。


松尾芭蕉が約1000句。
与謝蕪村の約3000句。
一茶は2万超の句を遺した。
これって執念の成せるわざか。

2013215日読了
読書の轍#3


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