2011年7月30日土曜日

近代の洋画:神奈川県立近代美術館 鎌倉

高橋由一「江の島図」からワグマンを思い出した。
 鎌倉・鶴岡八幡宮境内にある神奈川県立近代美術館で「開館60周年ザ・ベストコレクション 近代の洋画」展(201149日~1010日)を観る。
 195111月に所蔵品のない美術館としてスタートし、60年の歳月を経て10,000万点もの所蔵作品を抱えるようになった。本展では、近代洋画の父ともいえる高橋由一の油彩画である明治から、大正、戦後の昭和26年までの近代洋画を、同館の所蔵品で振り返る。

×  ×  ×

 最初の展示で、高橋由一の「江の島図」を観た。
 江の島に行き交う人びとを描いている。着物姿の女の子、軍服のような洋服を着た男……。静かで穏やかな風景。なるほど明治初期の雰囲気が漂ってくる。1876―77年の作品。といえば、明治9―10年。日本初の洋画家である。
高橋由一(1828―1894年)は、幕末明治の英国人報道画家である*チャールズ・ワグマン(1832―1891年)から西洋絵画の手ほどきを受けている。6月に神奈川県立歴史博物館で「ワグマンの見た海」展を思い出した。

目を惹いた作品
・松本竣介「立てる像」1942
・岸田劉生「野童女」1922
・萬鉄五郎「日傘の裸婦」19131
・梅原龍三郎「熱海野島別荘」1933

×  ×  ×

 神奈川県立近代美術館は通称「鎌倉近美」というそうな。同館から望む平家池には大ぶりな白い蓮の花が満開でした。八幡さまの参道を挟んで右が源氏池、左が平家池。源氏の方にはピンクの蓮の花がいっぱいでした。
*特別展「ワグマンの見た海」=2011617日記
2011728日観覧

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鎌倉 鏑木清方記念美術館

鎌倉・雪ノ下の鏑木清方記念美術館で「所蔵品展:清方、物語を絵にする」(2011715日~828日)を観る。  

  鏑木清方は1878年(明治11年)、東京・神田に生まれ、14歳の1891年(明治24年)に江戸浮世絵師の系譜を引く水野年方に入門した。17歳から、父親・条野採菊の経営する「やまと新聞」に挿絵画家となった。以降、美人画、風俗画と作風を広げて行った。

 青年期の清方は画壇より文壇に興味を持ち、尾崎紅葉を尊敬しその門下の泉鏡花と親交を結び、
・深沙大王1904年=泉鏡花著
・金色夜叉1905年=尾崎紅葉著
の絵看板を描いている。
 樋口一葉の作品にも画趣をそそられ「たけくらべ」を題材とした作品も繰り返し制作している。
 93歳で鎌倉雪ノ下の自宅で亡くなった。自宅跡に記念美術館が建てられている。
 また、代表作「朝涼」も展示されている。

×  ×  ×

*鏑木清方と東西美人画:そごう美術館=201131日記
 この展覧会では、福富太郎コレクションの中から清方の「薄雪」などが出展されていたが、311日の大震災のため、会期途中で中止となった。
2011728日観覧


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2011年7月28日木曜日

花ひらくエコール・ド・パリの画家たち展


平塚市美術館:パスキン、そしてシャガール、フジタ、ローランサン……

そこには「モンパルナスの王子」が君臨していました。

 平塚市美術館の開館20周年記念展「花ひらくエコール・ド・パリの画家たちパスキン、そしてシャガール、フジタ、ローランサン」(2011716日~94日)を観る。

 北海道道立近代美術館のコレクションを中心に、ジュル・パスキン、マルク・シャガール、藤田嗣治、マリー・ローランサンらエコール・ド・パリの画家たちの作品を紹介している。


×  ×  × 



 平塚駅に降りたのは約30年ぶりだった。その昔、よく通った駅。巨人軍の監督である原辰徳さんが東海大学時代のこと。東海大の野球部合宿所とグラウンドは平塚市土屋という場所にあり、取材のため出掛けたものだった。

 美術館の帰り。何回か利用した駅前のラーメン屋さんで味噌ラーメンを食べてみた。30年前の味が甦ってきた。懐かしさとの再会だった。


×  ×  × 



構成

・パスキンの油彩

・エコール・ド・パリの時代

・パスキンの素描、水彩、版画


 1920年代から1930年代にかけてのパリは、美術、音楽、演劇、文学など各分野の芸術家が集まり活動した華やかな芸術の都だった。特に1920年代を中心に活躍した画家を、エコール・ド・パリの画家と呼ぶようになった。


*ジュル・パスキン(1885年―1930年)

 ブルガリアのユダヤ系穀物商の家庭に生まれる。19歳でミュンヘンの雑誌の挿絵画家となる。1905年に移住、本格的に画家生活を送る。エコール・ド・パリ全盛の1920年代には、華やかな浪費生活で「モンパルナスの王子」と異名をとった。



目を惹いた作品

・ジュル・パスキン「女学生」1908年/「花束をもつ少女」19251926

・マルク・シャガール「パリの空に花」1967

・レオナ―ル・フジタ「二人の裸婦」1930

・ハイム・スーチン「祈る男」1921



 静かに鑑賞できる館でした。

2011726日観覧



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2011年7月26日火曜日

狂気の「秀次事件」:「江」

大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第28回=秀忠に嫁げ)
そなた、嫁に行かぬか。

こたびの縁談はよい話ぞ。
ほれ、そなたは家康のことが好きであろうが……
ほれ、秀忠じゃ。
 秀吉(岸谷五朗)は江(上野樹里)に秀忠との縁談を迫った。

 淀(宮沢りえ)が拾を出産してから、秀吉は拾を溺愛する。関白を我が子に継がせたい思いが強くなる。関白の座を甥の秀次(北村有起哉)に譲ったものの、秀次の存在が疎ましくなる。
 秀吉の心中を察した石田三成(萩原聖人)は一計を企む。「秀次に謀反の動きあり」と情報を流し、秀次を高野山に追放する。そして秀吉から切腹の命が下る。
 さらに妻妾子どもを処刑する。秀次の存在を消すかのように、住まいの聚楽第を焼き払うのだった。

×  ×  ×

*秀次事件
 文禄4年(1595年)73日。秀次は謀反の疑いをかけられ、高野山に追放された。8日に秀次は釈明のため伏見城に出向くが、対面できなかった。15日秀吉から秀次に切腹の命令が下り、同日自害した。
 そして82日には、三条河原で妻妾子ども、侍女ら39名が処刑された。秀次の聚楽第も破却された。
「秀次事件」の真相は、謀反説、酒色におぼれ殺生を繰り返した奇人説など諸説あるが、秀吉の我が子可愛さの暴走・狂気がさせたをことは間違いないようです。

×  ×  ×

 それにしてもドラマの江は行動する女性です。利休のとき同様に秀次にも切腹を留まるよう説得しました。いずれも徒労に終わりましたが……
 三成の脇差を抜きとり自らの喉に置き、秀次に会うことを迫った江。これってドラマとはいえやりすぎだよね。脚本の筆がすべったようですな。

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2011年7月23日土曜日

ワシントン・ナショナル・ギャラリー 展:国立新美術館

モネ「日傘の女性」・ゴッホ「自画像」など名画ズラリ
 エドゥアール・マネの「鉄道」、クロード・モネの「日傘の女性、モネ夫人と息子」、ポール・セザンヌの「赤いチョッキの少年」、フィンセント・ファン・ゴッホの「自画像」など名画がズラリ並ぶ。「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション」が東京・六本木の国立新美術館(201168日~95日)で開催されている。全83点のうち日本初公開作品は約50点。「これを見ずに、印象派は語れない」というキャッチフレーズがあながち誇大に感じさせない充実ぶりだ。

構成
 ・バルビゾン主義から印象派に至り、さらに乗り越えたポスト印象派までを時系列に展示
 1 印象派登場まで
 2 印象派
 3 紙の上の印象派
  4 ポスト印象派以降
 
 ワシントン・ナショナル・ギャラリー(WNG)は米国の首都ワシントンDCにある。12世紀から現代までの西洋美術コレクションで知られる。19世紀から20世紀にかけて銀行家、実業家として活躍し、ジョン・ロックフェラーやヘンリー・フォードラと並ぶ財を築いたアンドリュー・メロンが自らの美術コレクションと設立のための資金を、連邦政府に寄贈し、完成したのがWNGだった。世界中から500万人が訪れている。そのWNGの顔というべき常設展示品からマネ「鉄道」、モネ「日傘の女性、モネ夫人と息子」、ルノワール「踊り子」、セザンヌ「赤いチョッキの少年」など9点が出展されている。

×  ×  ×

*クロード・モネ「日傘の女性、モネ夫人と息子」1875
  グリーンの日傘を差した女性はモネの愛する妻カミーユ。後方にいる少年は息子のジャン。眩しい陽光の中、黄色い花が咲く野原に柔らかな風がそよいでいる。カミーユが視線を向けた一瞬を描いていて、幸せな空間が感じられる。
  19歳でパリにやって来たモネは、7歳年下のカミユと出会い恋におちる。息子ジャンが生まれ、パリ郊外のアルジャントゥイユに移る。そして「第1回印象派展」で注目を集める。そんな幸せのときに描いた作品。が、やがてパトロンのオシュデが破産し、さらにカミユが次男を妊娠したころから体調を崩し、出産の翌年(1879年)に亡くなってしまう。
  以前、美術番組「美の巨人たち」でモネの「日傘の女性」を扱っていたが、こちらはオルセー美術館所蔵で、カミーユが亡くなって7年後に描いた作品。女性の顔に表情がなく、足元に影がない。描けなかったか、描きたくなかったものか。
 WNGとオルセーとの作品、モネがこの間に直面した境遇を思うと、興味はさらに深いものとなるだろう。
  モネの「日傘の女性」は他に右向きのものと。全3作品あります。

*オーギュスト・ルノワール「モネ夫人と息子」1874
 モネ一家が住んでいたアルジャントゥイユは、1870年半ばの一時期オーギュスト・ルノワールやエドゥアール・マネ、アルフレッド・シスレーなどがたびたび訪れるたまり場だった。ある日、マネは木陰で休むモネの妻カミーユと息子ジャンを描き、モネはイーゼルに向って座るマネを描いていた。ちょうどその時、ルノワールが訪ねてきて隣で絵を描き始めたそうだ。庭の背景や木を大胆にトリミングし、カミーユとジャンを画面いっぱいに描いている作品。
モネとルノワールによる「モネ夫人と息子」2題も本展では揃い、なかなか面白い。

その他目を惹いた作品
・エドゥアール・マネの「鉄道」1873
・ポール・セザンヌの「赤いチョッキの少年」1888―1890
・フィンセント・ファン・ゴッホの「薔薇」1890
 2011721日観覧 

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2011年7月19日火曜日

秀吉の子・拾誕生:「江」

大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第27回=秀勝の遺言)
そなたは豊臣の跡継ぎじゃ。
関白になるのじゃぞ。
そうか、もう関白はおったのじゃった。
豊臣秀吉(岸谷五朗)は、淀(宮沢りえ)との間に生まれたばかりの拾(ひろい)を愛おしそうに見つめ語った。その目に不気味な光が……。

文禄2年(1593年)8月、淀は第2子・拾(のちの秀頼)を出産した。天正17年(1589年)に第1子・捨(すて)が生まれたが、天正19年(1591年)に夭折している。
捨の死後、関白を甥の秀次(北村有起哉)に譲った秀吉だが、諦めかけていた子が授かり「関白の座を拾に」との考えが頭をもたげた。
それが、「秀次事件」へと発展する。

×  ×  ×

細川ガラシャ(ミムラ)が、ドラマでは夫・秀勝を亡くした江(上野樹里)を慰めに訪れました。史実では、ガラシャの夫である細川忠興は、秀勝ともに朝鮮出兵しています。縁があったのですな。
ガラシャといえば、その見事な最期で知られます。
関ヶ原の戦いで、西軍の石田三成が徳川方に与した大坂・玉造の細川屋敷を包囲します。そのときガラシャは自害します。38歳でした。
その辞世の句――散りべきとき知りてこそ 世の中の花も花なれ人も人なれ
菅直人さんの退陣を促した民主党のどなたかが引用していましったけ(笑)。

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2011年7月16日土曜日

北沢秋「哄う合戦屋」

北沢秋の「哄う合戦屋」(双葉文庫)を読む。
 甲斐の武田晴信(信玄)と越後の長尾景虎(上杉謙信)の両雄に挟まれた地・中信濃に、土豪が割拠していた。戦国の天文18年(1549年)春。
 豪族のひとり遠藤吉弘の領地に、浪人が従者と思しき小者を連れて現れた。
 男は石堂一徹といい、戦国を渡り歩く戦を生業とする「合戦屋」だった。身の丈六尺を超す偉丈夫で、頬や顎に深い刀傷があった。その周囲に人を寄せ付けない一種異様な迫力があった。
 ひばりの巣をのぞき込んでいた一徹を見かけた吉弘の愛娘・若菜は臆することなく声をかけ、父の居城に招いた。
 3800石の領地しか持たない吉弘だが、内政手腕があり領民に好かれていることを気に入り一徹は食客になった。そして瞬く間に一徹は鮮やかな戦術を駆使し近隣の豪族を倒し、吉弘を2万4000石の大名に押し上げた。
 だが、一徹の戦功に既存の家来たちは反発を強め、吉弘も疑心暗鬼となっていた。領内で一徹の理解者は若菜ひとりだった。
 そんな中、大大名である武田晴信軍が侵攻してくるとの情報が入った……。

目次
・第一章:天文十八年 春
・第二章:天文十八年晩 春
・第三章:天文十八年 夏
・第四章:天文十八年 晩秋
・第五章:天文十九年 早春
・最終章:天文十九年 夏

登場人物
・石堂一徹/若菜/遠藤吉弘/六蔵

×  ×  ×

 小説の舞台となっている天保年間(1532年~1555年)はどんな時代だったのだろうか。足利幕府将軍は足利義晴、足利義輝だが、甲斐に武田氏、越後に長尾氏、関東に北条氏、駿河に今川氏、美濃に斎藤氏と戦国大名が乱立していた。
 また、その後に台頭した織田信長は天文18年2月、美濃の斎藤道三の娘・濃姫と結婚し、同1月に徳川家康は三河が今川義元の支配下となり人質となっている。
 天文18年はフランシスコ・ザビエルが鹿児島に着き、日本にキリスト教が伝来した年でもある。

「わらう」ですが、「笑う」とフツー書きますが、「嗤う」とは違いますよね。「嗤う」は「嘲笑」ですか。「哄笑」の「哄う」と筆者がわざわざ題名に付いているのは、「大口をあけて笑う」とか「どっと大声で笑う」という意味で使っているのでしょうね。
2011年7月15日読了

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2011年7月12日火曜日

朝鮮出兵・秀勝の死:「江」

大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第26回=母になる時)
秀勝が死んだ……。
 関白になった秀次(北村有起哉)は、「秀次病死」の朝鮮からの便りをもって、出産を間近に迫った江(上野樹里)に告げた。

 天正20年(1592年)春、秀吉(岸谷五朗)は朝鮮へ兵を出すことを決め、秀勝(AKIRA)は8000の兵の大将として出陣する。
 7月、秀吉の母・大政所(奈良岡朋子)が病で亡くなる。
 そして9月。遠征疲れと慣れぬ土地での戦に秀勝は朝鮮の地で病死する。

×  ×  ×

*文禄・慶長の役
 明(中国)征服の野望を抱く豊臣秀吉は、その足掛かりとして朝鮮を侵攻を行った戦。1592年(文禄元年)に始まり、元禄2年に休戦した。慶長の役は、1597年(慶長2年)講和交渉が決裂し起ったが、1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなり、日本軍の撤退をもって終わった。
 元禄元年への改元は12月に行われたため、戦役の大半は天正20年の出来事だった。

 江の2度目の結婚も、佐治一成の時と同様に短いものだった。秀勝との間に生まれた子供は完子(さだこ)と名付けられた。完子は、江が徳川秀忠と再々嫁した際、おばの淀の養女となり、後に九条幸家に嫁いだ。

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2011年7月9日土曜日

万城目学「プリンセス・トヨトミ」

秀吉ゆかりの登場人物名がいっぱい
 万城目学の「プリンセス・トヨトミ」(文春文庫)を読む。

 5月31日の木曜日。午後4時、大阪が全停止した――その10日前、会計検査院の松平元、鳥居忠、旭ゲーンズブールの3人は実地調査のため大阪を訪れる。調査対象に謎の団体「社団法人OJO」があった。一方、大阪市立空堀中学校に通う真田大輔と橋場茶子は幼なじみで、女の子になることを夢みる大輔はセーラー服で登校することに憧れていた。
 当初連絡がつかなかったOJOだったが、松平は実施検査ができるとの知らせに現地に向う。大輔は父親の幸一とともにある場所に行く。松平・大輔・幸一が一堂に会す。
 松平が見たのは、地下に眠る「大阪国」であった。そして大輔の父・幸一は大阪国の総理大臣だった……。

目次
・第一章:会計検査院Ⅰ/大阪市立空堀中学校Ⅰ
・第二章:会計検査院Ⅱ/大阪市立空堀中学校Ⅱ
・第三章:会計検査院Ⅲ/大阪市立空堀中学校Ⅲ
・第四章:会計検査院Ⅳ/大阪市立空堀中学校Ⅳ
・第五章:栄光の五月Ⅰ/栄光の五月Ⅱ
・終 章
・あとがきにかえて:なんだ坂、こんな坂、ときどき大阪

×  ×  ×

 登場人物の名に歴史上の人物がダブります。松平って徳川氏の母体だよね。旭は豊臣秀吉の妹で、徳川家康の二番目の正室。橋場は「羽柴」と同じ読み。豊臣の前名。茶子は、秀吉の側室で秀頼を産んだ茶々(淀)を連想させます。真田幸一とくれば、大阪夏の陣で負け戦ながら獅子奮迅の活躍をした幸村だよね。大輔の祖父が昌一だってさ。これって、昌幸のことだろうね。幸村の嫡男は大助っていうだよね。
 大輔と茶子の友人の島は島左近か、さらに長宗我部、蜂須賀と歴史好きにはニヤリとさせられる名前が登場します。
 万城目学さんのお遊びなんでしょうね。

 映画化され5月に公開されました。旭は男性に、鳥居は女性に変えているようです。ちなみにキャストは、
・松平元:堤真一
・鳥居忠子:綾瀬はるか
・旭ゲ―ンズブール:岡田将生
・真田幸一:中井貴一
だって。
 本と映画は別物ですぞ。
2011年7月5日読了

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2011年7月7日木曜日

西洋絵画の中の人びと:松岡美術館

監視員のいない閑静な佇まいが魅力
 東京・白金台の松岡美術館で「西洋絵画の人びと」展(2011年4月24日~9月25日)が開催されている。英国ヴィクトリア朝時代から印象派・新印象派とエコール・ド・パリの作家の作品など、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ルノワールからシャガールまで、さまざまな「人物」の魅力を紹介している。

構成と目を惹いた作品
Chapter 1 個性あふれる人びと
・ジョン・エヴァレット・ミレイ「聖テレジアの少女時代」1893年
・ウィリアム・アドルフ・ブーグロー「編み物をする少女」1874年
・ピエール・オーギュスト・ルノアール「リュシアン・ドーテの肖像」1879年
・マルク・シャガール「婚約者」1977年
・藤田嗣治「二人の子供と鳥籠」1918年
・アメデオ・モディリア―ニ「若い女の胸像<マーサ嬢>」1916-7年
・パブロ・ピカソ「パイプを持つ男」1968年

Chapter 2 穏やかな日常
・チャールズ・エドワード・ベルジーニ「束の間の喜び」
・モーリス・ユトリロ「モンマルトルの迷路」1942年

併設展示
・青のうつわ―東洋の染付と青磁を中心に―

×  ×  ×

 松岡美術館の所蔵品は、創立者で実業家の松岡清次郎氏(1894年―1989年)が一代で集めたものだそうだ。
 監視員のいない展示方法なので、館内を常設展示までゆったりと鑑賞できました。都会のオアシスのような、稀有な美術館ですな。
2011年7月5日観覧

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利休切腹、鶴松の死:「江」

大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第25回=愛の嵐)
兄の関白におじ上も不安なのでありましょう。
この縁談は私がおじ上にお頼みました。
兄上を見張るかわりに、江殿を嫁にほしいとお願いしました。
 秀勝(AKIRA)が江(上野樹里)に求婚した。

 天正19年(1591年)2月に利休(石坂浩二)が切腹。8月に秀吉(岸谷五朗)と淀(宮沢りえ)の間にできた鶴松がわずか3歳で病死した。
 悲しみの中、秀吉は朝鮮出兵を決意する。さらに関白の座を甥の秀次(北村有起哉)に譲り、自ら太閤となった。だが、関白の秀次に不安を抱く秀吉は、監視役に秀勝をつけようとした。そして、江に2度目の縁談が持ち上がった。

×  ×  ×

 ドラマでは、秀勝と江が炭売りに変装して利休邸に潜入しました。「利休が詫びを入れれば切腹は免れる」という秀次の助言に、二人は利休の説得にあたりますが、利休の意志は固く受け入れませんでした。
 利休邸の警備にあたった武将が「愛」の文字をつけた兜をかぶっていました。はて、この人はだれ?
 そうですよね。「愛」の兜とくれば直江兼続ですね。利休邸を包囲したのは上杉景勝軍なんです。
 原作・脚本の田渕久美子さんのサービスショットでしょうか。

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