2010年10月30日土曜日

池波正太郎「真田太平記(九)」

家康と秀頼が二条城で会見
 池波正太郎の「真田太平記(九)二条城」(新潮文庫)を読む。
















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豊臣秀頼は淀君により大坂城から一歩も出ないまま成長し19歳となった。徳川家康から秀頼に上洛の要請がある。淀君は拒否するが、豊臣家の安泰を願う加藤清正や浅野幸長、高台院(秀吉の正室ねね)らの奔走により、慶長16年(1611年)ついに二条城で会見が実現する。
 立派に成長した秀頼に家康は豊臣家への警戒感を強く抱く。

 会見から3カ月、加藤清正が急死し、数年後浅野幸長も没する。秀吉恩顧の有力大名の相次ぐ死で徳川―豊臣間の権力均衡が崩れてくる。
 秀頼は秀吉ゆかりの方広寺の再建に着工、大仏も完成し開眼式直前となって、家康から梵鐘に刻まれた文言に文句が付いた。言いがかりといえるものに豊臣家は戸惑うが、家康は強硬な態度をみせる。

 徳川と豊臣両家が緊迫する。そんな折、真田昌幸は九度山で息をひきとる。

目次:第九巻二条城
・料理人・永井養順
・遠州・中山峠
・三方ヶ原
・二条城
・急変
・蝉
・鐘銘紛乱

×  ×  ×

 家康のイチャモンは「方広寺鐘銘事件」というヤツです。鐘銘にある「国家安康」「君臣豊楽」という文言が、家康を分断し豊臣の繁栄を願い徳川家を呪っているというのです。中学の歴史の時間に習った覚えがあります。家康はしたたかな謀略家ですね。
 家康は秀頼との二条城会見時70歳、このときは73歳だった。死後も徳川家の末長い安泰を図った行動だったのですね。
2010年10月29日読了

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2010年10月28日木曜日

手塚雄二展:そごう美術館

「雷神風神屏風」「雨明」「気」「きらめきの森」
 横浜駅東口・そごう美術館で、斬新な画風で異彩を放つ日本画家の手塚雄二氏の作品を集めた展覧会「手塚雄二 一瞬と永遠のはざまで」(2010年10月23日~11月28日)を観る。「雷神風神屏風」などの大作40点に、小品と素描などを加えた約70点が展示されている。

手塚雄二(てづか・ゆうじ)略歴
 1953年(昭和28年)神奈川県生まれ。父親は友禅染の絵付け師。東京芸術大学に入学後、1979年に春の院展および再興院展で初出品、初当選を果たす。同大学院に進み平山郁夫(1930年―2009年)に師事。以後も出品・受賞を重ね、1992年に日本美術院同人に推挙される。同大学の日本画教授を務める。

 展覧会は手塚作品の根底をなす美意識、
・「寂(じゃく)」
・「雅(みやび)」
・「塊(かたまり)」
・「謐(ひつ)」
・「燦(さん)」
の5つのテーマで構成されている。

 三十三間堂の雷神風神像をスケッチして仕上げた「雷神風神」の屏風は、大迫力だった。彼のホームページをみると、1999年「雷雲雷神」2000年「風雲風神」と2年連続して院展に出品した作品。本展では、左に「風神」右に「雷神」を迎え合わせて展示している。雷神と風神の顔のクローズアップが奇抜で印象に残る。
 虚空を睨むライオン2頭、夫婦だろうか、百獣の王のオーラを発している「気」、天空に細い三日月が冴える「夜奏」、それから「きらめきの森」「雨明」「こもれびの坂」などが目を引いた。
2010年10月28日観覧

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2010年10月27日水曜日

背番10のオーバースロー堀内庄

1978年ヤクルト『日本一の投手コーチ』を悼む
 巨人軍の元投手、堀内庄(ほりうち・しょう)さんが2010年10月27日亡くなった。75歳だった。長野・松商学園高から1954年(昭和29年)年巨人入り。1956年に最高勝率(14勝4敗)のタイトルを獲得。通算62勝44敗。引退後は巨人、ヤクルトでコーチを務めた。※敬称略

×  ×  ×

 堀内庄は『日本一の投手コーチ』だった。
 1978年(昭和53年)ヤクルト・スワローズの一軍投手コーチを務めている。この年ヤクルトは球団史上初のリーグ制覇、日本シリーズでも阪急を下し日本一に輝いている。

 ただしセ・リーグ優勝、日本シリーズ選手権制覇の場面にその姿はなかった。ペナントレース終盤、練習中に打球を顔面に受け、入院し、その後自宅療養をしていて、当時の監督・広岡達朗の胴上げに立ち会えなったのだ。
 なんと間の悪いコーチだったのだろう。だが、松岡弘、安田猛、鈴木康二朗ら投手陣から人望があった。リーグ制覇の夜、祝勝会のあとで堀内宅に投手陣が集まり祝杯をあらためてあげたのだった。

 当時のヤクルトは監督・広岡達朗、ヘッド格のバッテリーコーチ森昌彦、投手コーチ堀内庄と巨人OBで固められていた。広岡(早稲田大)と堀内(松商学園)が1954年、森(県立岐阜)は1955年の入団。同じ釜の飯を食った間柄だった。

 草野球音の目には、森と堀内の間に溝が生じたように映った。投手と近い存在にあった堀内。選手と管理職として距離を置く森。スタンスの違いが確執となったとみた。指揮官の広岡は森をとった。

 広島遠征だった。ある中華飯店で広岡さん、森さん、堀内さんと食事を一緒にしたことがある。この店は3人ばかりか王貞治さんのごひいきでもある。ここの看板メニュー(豚足とキャベツの炒めた一品)が好物でパクついていたっけ。紹興酒もよく飲んだ。3人のなかでは一番陽気な酒だったと記憶している。

×  ×  ×

 堀内の記録で特筆すべきは、入団4年目の1956年の最高勝率のタイトルだろう。37試合に登板、14勝4敗で勝率.778、防御率は1.46だった。実働9年間で通算成績は62勝を稼いだ。10勝以上を3回(1956年~1958年)。生涯防御率は2.17と光る。
 堀内が入団した1954年の巨人は監督が水原茂、野手に川上哲治、千葉茂、与那嶺要、投手陣には別所毅彦、藤本英雄、中尾硯志、大友工といった伝説の男たちが在籍していた。同期入団には広岡のほか土屋正孝(松本深志高)、安原達佳(倉敷工高)がいた。
 1957年に藤田元司(慶応大―日本石油)が入団すると、2年ほどの短い期間だが2枚看板でローテーションの軸となった。

 野球小僧だったころ、堀内庄は憧れの投手だった。背番号は「10」だった。頭の真上から右腕をかくオーバースローだった。あの独特なフォームを真似たものだ。
 合掌。

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2010年10月26日火曜日

ハトがウソになった:雑観

もんたよしのり&中条きよし
 民主党の鳩山由紀夫前首相は、首相辞任の際に表明した政界引退の方針を事実上撤回する意向を固めた。

 ♪Dancin’all night 言葉にすれば
  Dancin’all night 嘘(うそ)に染まる
「もんた&ブラザーズ」のもんたよしのりも歌っていたけど、ね。ちなみに作詞は水谷啓二、作曲はもんたよしのりです。

×  ×  ×

「ウソ」(鷽)はスズメ目アトリ科に分類さる鳥です。古くは人が口笛を吹くことを「うそ」といい、この鳥の鳴き声が口笛のようだったので命名されたとか。

「嘘の皮」という言葉もあります。「カワウソ=川獺」の「カワ」と「ウソ」をかけたものだそうです。「化けの皮を剥ぐ」にあるように、「皮」には物事を覆い隠すものや、うわべという意味があるのですね。

「鷽」も「川獺」も嘘はつきません。

×  ×  ×

 鳩山さんの政界引退発言の撤回――これって「やっぱり」という展開でした。普天間の問題に代表される優柔不断、そして任期中にみせた発言のブレ・軽さからも予見できました。

 ♪折れた煙草の 吸がらで
  あなたの嘘が わかるのよ
 山口洋子の作詞で平尾昌晃が作曲した「うそ」という流行歌がありました。中条きよしが歌っていましたっけ。

 あー半年あまりの政権なのに、哀しい嘘のつけるハト、なんていったら言い過ぎなのでしょうか。

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2010年10月24日日曜日

池波正太郎「真田太平記(八)」

昌幸・幸村は紀州九度山で蟄居
 池波正太郎の「真田太平記(八)紀州九度山」(新潮文庫)を読む。
















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本多忠勝の戦も辞さぬ助命嘆願により真田昌幸・幸村父子は一命を取りとめたが、紀州九度山で蟄居させられる。徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、その政権の足固めをしていた。豊臣家との関係が微妙となった。豊臣秀吉と縁の深い加藤清正らが、対立する両家の修復に動く。
 九度山で退屈な日々を過ごす昌幸・幸村だが、その胸の内は戦で家康の首を盗ることに執念を燃やすのだった。

目次:第8巻紀州九度山
・別離
・戦後
・戸棚風呂
・主計頭清正
・霜夜
・紀州九度山

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 戦国武将と知られる加藤清正だが、その内面の緻密さが描かれていて興味深い。
2010年10月23日読了

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2010年10月21日木曜日

デン助ならぬREN-SUKE

*ガキのころ「デン助劇場」という舞台がテレビ中継されていた。シニアの方ならご存知だろう。
 浅草を中心に活躍したコメディアン大宮敏充(おおみや・としみつ=1913年―1976年)が主演した人情喜劇で、一世を風靡した。
 デン助の風体はちょっと変わったおじさんだった。背広に腹巻、メリヤスシャツを着て、ハゲ頭に口の周りにひげをたくわえ、そのハゲ頭を揺らしながら歩くのだ。舞台に登場するだけでドッと観客が沸いた。
 そうそう、デキのいい娘は「おスミちゃん」だったなぁ。※敬称略


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 なぜ突然「デン助」の話かって?
 私事で恐縮ですが、14日に初孫が産まれました。20日はお七夜で、名前が決まりました。『REN-SUKE』という。その名を初めて聴いたとき、『デン助』と一瞬思っちゃったのだよね。まさか……。「デン助かよ」。
 よく聴き漢字に書いてもらえば『蓮介』だった。
 ほっとして「いい名前じゃん」とナットクしたのでした(笑)。

 初孫の寝姿に癒されています。シニアの年代なら、どこの家庭でも見られる光景でしょうね。平凡な日常ですが、ほんわかした幸せ。なんだかとってもいい気分なんだよね。

2010年10月17日日曜日

江戸っ子エース土橋正幸登場

ちぎっては投げ、ちぎっては投げ
 大沢親分の後釜は江戸っ子エースの土橋正幸さんだった。TBSテレビの日曜日の情報番組「サンデーモーニング」のスポーツ番組に2010年10月17日、張本勲氏とともに出演した。7日に亡くなった大沢啓二氏の後任。張本さんと土橋さんは、東映フライヤ―ズの投打の主軸だった。※以下敬称略

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 土橋は江戸っ子エースである。1935年生まれ。都立日本橋高校卒業後に家業の鮮魚業を手伝っていた。日本橋で魚屋とくれば「一心太助」だな(笑)=徳川家康が江戸に幕府を開いてから日本橋に魚河岸が設けられた。関東大震災で魚河岸が壊滅状態になり機能しなくなり、築地に移っている。一心太助は架空の人物。3代将軍家光のころ、大久保彦左衛門のもとで活躍した。

 その魚屋さんが浅草のストリップ劇場「フランス座」の野球チームの助っ人として東京都の軟式野球大会に出場し優勝してしまう。その気になって東映の新人テストを受けると合格した。21歳。プロ野球に入って初めて硬式ボールを握った男が2年目に5勝をあげ、頭角を現すと、3年目で20勝投手(21勝16敗)の仲間を入りした。浅草「フランス座」といえば、かの渥美清、萩本欽一、ビートたけしが売れない時期に舞台を踏み、井上ひさしが座付き作家をしていたことで知られる劇場である。井上はその野球部の捕手を務めていたという。

 1967年に引退するまで、東映のエースとして20勝以上5度(1960年には30勝)、実動12年で165勝132敗、防御率2.66の通算成績を残している。1962年(昭和37年)は水原茂の指揮のもと東映は初のリーグ制覇を果たした。土橋は17勝(14敗)を記録したものの、新人の尾崎行雄が20勝(9敗)とチーム稼ぎ頭となり、エースとしては物足りなかったのではないか。日本シリーズでは奮起し、3勝を稼ぎバッテリーを組んだ種茂雅之とともにMVPに輝いている。

 土橋の全盛時代のピッチングは――ちぎっては投げちぎっては投げ、ストライクをポンポンとる気風のいい投法だった。
 衰えがみえると、すぱっと32歳の若さで引退した。このあたりも江戸っ子エースだねえ。

 監督としては日拓、ヤクルト、日本ハムで5シーズン務めたが、いずれも成績は5位3回、6位2回と低迷している。

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 テンポよいピッチングが小気味よく、野球小僧の草野球音は好きだったなぁ。
 1962年東映日本一。「サンデーモーニング」の張本がペナントレースの、そして土橋が日本シリーズのMVPだったのだ。

2010年10月15日金曜日

池波正太郎「真田太平記(七)」

人心掌握できぬ将・石田三成
 池波正太郎の「真田太平記(七)関ヶ原」(新潮文庫)を読む。

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 真田昌幸と幸村父子は徳川秀忠軍を上田城で迎え撃ち、謀略を駆使して釘付けにするなか、関ヶ原の決戦は始まった。
 将たる石田三成に人心掌握力、戦略眼がなく、西軍の士気がいっこう上がらない。一方、秀忠軍が戦の場に間に合わず、兵力は十分でない東軍の徳川家康は政治力を遣う。結果、東軍が勝利を収める。

 真田に仕える草の者は家康の暗殺を仕掛けるが、壺谷又五郎はじめ多数が死んでしまう。

 敗軍の将となった真田昌幸と幸村に、「腹を切らせる」つもりの家康を、信幸の岳父・本多忠勝がふたりの助命を嘆願する。

目次:第7巻関ヶ原
・家康西上
・長良川
・夜雨
・関ヶ原
・処断
2010年10月14日読了

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 2010年10月14日は忘れられない日となった。私事で恐縮だが、初孫(男児)が誕生した。祝酒が旨いこと、旨いこと(笑)。

2010年10月14日木曜日

チリ落盤事故と「私の秘密」

事実は小説より奇なり:雑観
 チリ落盤事故の救出作業をテレビのライブ中継で観ていて、思い出した。※敬称略

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「事実は小説より奇なり、と申しまして、世の中には変わった珍しい経験をお持ちのかたがたくさんいらっしゃいます」と、高橋圭三はいっていたっけ。あれはNHKのクイズ番組「私の秘密」だった。1955年(昭和30年)から1967年まで放送されていたそうだ。
 NHK看板アナウンサーの高橋圭三の司会だったころは、昭和30年代だったのだろう。素人が登場して、その人の秘密(特技や趣味だったり、経験だったり)を、渡辺紳一郎、藤原あき、藤浦洸、塩月弥栄子が当てるクイズだった。40%なんてとんでもない視聴率を稼ぐオバケ番組だったのだよね。
 ちなみに小川宏が司会する「ジェスチャー」なんて番組もありました。やはりNHKクイズ番組です。柳家金語楼と水の江滝子が男女に分かれたチームのキャプテンでした。
 家庭にテレビが爆発的に普及した時代でした。テレビっ子の草野球音は、現在とは比べものならない真剣さで画面を観ていました。

 今回の落盤事故そして救出劇は、虚構である小説よりも、想像を超えた出来事だった。優れた小説家さえおよばぬドラマではなかったか。
「事実は小説より奇なり」――これって英国の詩人ジョージ・ゴートン・バイロンの言葉なんだそうです。

2010年10月13日水曜日

渋いぜ池部良:昭和残侠伝

お決まり健さんとの「道行き」
 映画「青い山脈」や「昭和残侠伝」などに出演し、またエッセイストとしても活躍した俳優の池部良(いけべ・りょう)さんが2010年10月8日亡くなった。92歳だった。  ※以下敬称略

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 ♪義理と人情 秤にかけりゃ
義理が重たい 男の世界

 健さんの「唐獅子牡丹」(作詞・矢野亮・水城一狼、作曲・水城一狼)が銀幕に流れる。着流しのふたりが長脇差をもって悪役の一家に殴り込む。悪役の非道に耐えに耐えているが、大事な人を殺され堪忍袋の緒が切れる。「死んで貰います」。怒りをぶつけ、悪の親分を叩き斬って、映画の幕が下りるのだった。

 殴り込みをかけるふたりは「花田秀次郎」の高倉健と「風間重吉」の池部良である。これぞ、「昭和残侠伝」シリーズのお決まりのラストシーンだった。

「昭和残侠伝」は「網走番外地」「日本侠客伝」と高倉健のシリーズ作品として、全9作撮られた。
・第1作:昭和残侠伝 監督・佐伯清
・第2作:昭和残侠伝 唐獅子牡丹 監督・佐伯清
・第3作:昭和残侠伝 一匹狼 監督・佐伯清
・第4作:昭和残侠伝 血染めの唐獅子 監督・マキノ雅弘
・第5作:昭和残侠伝 唐獅子仁義 監督・マキノ雅弘
・第6作:昭和残侠伝 人斬り唐獅子 監督・山下耕作
・第7作:昭和残侠伝 死んで貰います 監督・マキノ雅弘
・第8作:昭和残侠伝 吼えろ唐獅子 監督・佐伯清
・第9作:昭和残侠伝 破れ傘 監督・佐伯清

 池部は全9作に出演している。主に「風間重吉」という役だが、作品ごとに主役の健さんとの間柄、役名は変わっていた。必ずふたりの「道行き」があり、それが看板だった。

 東宝の端正な二枚目というイメージが強かった池部が、東映の任侠映画に出ることが意外だった。高倉健主演の「昭和残侠伝」に出演したのは、プロデューサーの俊藤浩滋の三顧の礼を受けてのものだといわれる。

 健さんを盛りたてた池部は、陰があって格好よかった。このシリーズがヒットした大きな要因は、池部の存在だった。

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 1918年(大正7年)の生まれで92歳と知ってビックリした。もっと若いと思っていた。
 悪ガキのころ池部の名字をもじり「すけべ・りょう」なんていっていた。ホントに失礼しました(ペコリ)。 

 

2010年10月10日日曜日

宮川香山 真葛ミュージアム

世界が絶賛した横浜真葛焼
「宮川香山 真葛ミュージアム」(横浜・神奈川区栄町)の記念すべき開館日(2010年10月10日)ということもあり、またご近所の誼(よしみ)で早速出かけてみた。

 まずは真葛(まくず)焼の創始者である初代宮川香山の略歴を簡単に紹介する。
宮川香山(みやがわ・こうざん)
天保13年(1842年)京都の真葛原生まれ。父は陶工で、19歳のとき父と兄が亡くなり家業を継いだ。明治4年(1871年)に輸出向けの陶磁器を作る工房窯を、横浜の現在の南区庚台(かのえだい)に開いた。陶器の表面に動植物を立体的にあしらった高浮彫の技法を考案し、明治9年の米フィラデルフィア万国博覧会で絶賛され、世界にその名を轟かせた。大正5年(1916年)死去した。
 息子の半之助が2代目、孫の葛之輔が3代目(横浜大空襲で焼死)、葛之輔の弟智之助が4代目の宮川香山を名乗ったが、4代目で香山の名は途絶えた。

 開館したミュージアムに、初代香山の作品を中心に約50点が展示されている。作品のほとんどが輸出用で、太平洋戦争で消滅し、幻の焼き物といえる。勝海舟の書や手紙なども展示されている。

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 場所は横浜駅から歩いて10分弱(不動産広告では8分)。横浜駅きた東口からベイクォーターにかかる歩道橋を渡りポートサイド口に降りる。ロア参番館というマンションの1階にある。

 オープンしたばかりで館内はきれいだが、スペースは狭いと思った。土曜日、日曜日のみの開館なので、出掛けるときは確認が必要か。
2010年10月10日観覧

2010年10月9日土曜日

大沢親分が『たけし』になった

N新聞社怒鳴り込み事件で偲ぶ
『フライデー襲撃事件』をご記憶だろうか。人気絶頂の漫才師ビ―ト・たけしが、たけし軍団とともに写真週刊誌フライデー(講談社)を襲撃した事件である。1986年(昭和61年)12月9日未明のことだから、かれこれ四半世紀も昔のことだ。
 たけしが交際していた女性(一般の専門学生)を、フライデーの記者が強引な取材におよんだことで、たけしが抗議したのが事件の発端だった。どうように強引だったというと、その女性の手を掴み引っ張って、質問に応えさせようとしたらしい。

 たけしはのちの裁判(東京地方裁判所)から懲役6ヵ月(執行猶予2年)の判決を下った。控訴せず、刑が確定した。

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 立教大学からプロ野球の南海に入団した東実という左腕投手がいた。1957年(昭和32年)に南海入団し、通算2勝6敗の成績で1961年現役引退したから、地味な選手で知っていればかなりのプロ野球通である。
『親分』こと大沢啓二が立教大学から南海入団したのが、1956年だから直系の先輩になる。ちなみに長嶋茂雄は1958年に立教大経由で巨人に入団している。

 その東のプロ入りの際、大沢が間にはいり気の弱い東を脅かして南海に入団させた、という記事をN新聞社のT記者が書いた。これを読んだ、大沢が激怒し、N新聞社の編集局に怒鳴り込んだのだ。
 暴力行為はなかったが、局内の空気が凍りついたのではないか。

 この話を親分から直接聴いた。1970年初頭だったと思う。昔を懐かしむように語ってくれた。
 大沢の話を大先輩のTさんに伝えると、「間違いない」と苦笑いしていた。また彼も懐かしむようであった。

 大沢、Tさん、どちらの言い分が正しかったのか。同じブンヤとしてTさんに肩を持つ。かなり強引に東を誘ったに違いないとみた。

 おそらく『怒鳴り込み事件』は1957年ごろだったろう。大沢が南海2年目である。ぺいぺいの社会人が到底できる芸当?ではなかろう。
 血気盛んな闘将の器だったと想像される。

 大沢親分が『たけし』になったのではない。たけしが親分を真似たのだ(笑)。
 親分が亡くなり、やたら武勇伝ばかりが思い出される。「悼む」という原稿としては、いささか特種ですが、ご冥福をお祈りします。※敬称略

2010年10月8日金曜日

大沢親分 決死の江の島脱出

鉄砲の弾の下をくぐった武勇伝で偲ぶ
 バキューン。バキューン。
 漆黒の闇に青い閃光が光った。
「当たってたまるか」
 少年は身をかがめて必死に櫓(ろ)を漕いだ。
 アメリカ軍GIから発射された弾丸が、逃げる愛舟『千代丸』をかすめた。

 太平洋戦争に敗れ、アメリカ軍が日本に進駐した。神奈川・江の島にも日本女性を連れたGIが目立った。
 ♪星の流れに 身をうらなって
  どこをねぐらの 今日の宿
 巷に流行り歌が流れていた。「星の流れに」菊地章子が歌った。作詞が清水みのる、作曲は利根一郎だった。
「のさばっているぜ」。暗い世相だった。少年は面白くない。仲間を集めた。米軍基地からチョコレートやガム、缶詰など豊富な食料をかすめ、対岸の片瀬まで夜陰に乗じて逃げる計画である。やることは明らかに泥棒だが、日本中が飢えていた時代である。GIは自動小銃を持っている。命懸けだった。身を賭すことで罪の意が薄らいでいた。

「俺は戦争に行かなかったが、鉄砲の弾の下をくぐってきた」
『親分』こと大沢啓二は話してくれた。
 江の島の目の前、片瀬海岸育ちである。「千代丸の逃走劇」はまるでアクション映画の1シーンだ。興に乗ると出た昔話。焼け跡の悪ガキの生きざまが浮かび上がってくる。

 不良少年だった。1951年(昭和26年)夏の高校野球神奈川県予選。神奈川商工のエース大沢少年は2回戦で逗子開成と対戦し、審判の判定を不服とし殴り、1年間の出場停止処分となっている。身から出た錆び。連続甲子園出場の夢は断たれた。立教大学に進学してからも、4年生時に当時の野球部監督の砂押邦信排斥運動の急先鋒となった。スパルタ練習に対する反発だった。総長の松下正寿を巻き込む紛争となり、結果、砂押を退陣に追い込んでいる。

 野球という生涯をかける存在がなければ、大沢啓二は道を外しアウトローの世界に身を投じたかもしれない。強きを挫き、弱きを助ける。心優しい人情家である。上位者、権力に抗うことで、自らのアイデンティティを確かめていたように、草野球音には思えるのだ。※敬称略

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2010年10月7日木曜日

名手大沢啓二が走者広岡達朗を刺した

男・度胸の伝説プレーで偲ぶ
 そのとき球史が動いた。
 そこに大沢昌芳(のちの啓二)が守っていることが信じられない。通常の中堅手の守備位置からは左翼へ20m、10mは前進していただろう。なぜ彼は極端に守りを変えることができたのだろうか。

 1959年(昭和34年)10月27日。後楽園球場。巨人―南海の日本シリーズ第3戦。これまで南海の2勝(第1戦南海10-7巨人・第2戦南海7-3巨人)。
 場面は9回裏だった。スコアは1-2と巨人ビハインド。先頭打者の坂崎一彦が起死回生の同点アーチを放った。続き国松彰もヒットでつなげる。広岡達朗のバント失敗で走者が入れ替わるものの、加倉井実の二塁打で1死2,3塁、巨人サヨナラ機となった。

 采配を揮うのは巨人は水原茂、南海は鶴岡一人の名将対決である。
 南海のマウンドはエースの杉浦忠。バッテリーを組む捕手は野村克也。
 そして巨人の打者は森昌彦(のちの祇晶)だ。

 森が打った。左中間に抜けた――と思われた打球を、大沢昌芳が左へ動き捕球した。三塁走者の広岡はタッチアップし本塁へ走った。捕った大沢が素早く本塁へ返球した。ボールが速い。本塁ベース1m手前で返球を受けた野村は広岡にタッチした。大沢の正確な返球に広岡は滑ることもなく、あえなく憤死した。巨人のサヨナラのチャンスは消えた。

 ピンチを脱した南海が10回表に、寺田陽介のタイムリー二塁打で勝ち越し、杉浦が巨人の長嶋茂雄を遊撃飛球に打ちとり、覇権に王手をかけた。

 この勝利は、大沢の手柄といっていい。左中間浅く守備位置を変えた判断が光った。通常の守備についていたら、森の打球はヒットとなり、三塁から広岡はサヨナラのホームを踏んでいたはずだった。

 忍者のような大沢のプレーだった。

 このシリーズは第3戦をものにした南海が第4戦も杉浦が巨人を3-0完封し、日本一に輝いた。MVPはひとりで4勝を稼いだ杉浦だった。

  日本シリーズ後、尾張メモといわれた情報活動が注目を浴びた。尾張久次は南海のスコアラー。日本初のスコアラーだった。巨人打者の打球方向、投手の投球傾向など収集したといわれる。確かに尾張のメモは対戦に役立っただろうが、大沢は後日こういっていた。「尾張さんの情報はあったが、あのプレーは俺の判断だよ」。

 サヨナラのピンチで飛び出した極端な守備シフト。男・大沢の決断力が、度胸が、球史の主役となった。

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 ロッテ、日本ハムで監督を務め『親分』といわれた大沢啓二(おおさわ・けいじ)氏が2010年10月7日亡くなった。78歳だった。

×  ×  ×

 大沢さんは1971年シーズン途中からロッテ監督に就任し、翌1972年も務めている。当方は当時ロッテ担当記者だった。彼は眼光あくまで鋭い40歳の若親分だった。日本シリーズの返球の話題は何度か聴いた。あのシリーズはテレビ観戦していた。
 現役10年。988試合出場、打率2割4分1厘、17本塁打、191打点。選手としては2流だが、伝説プレーは永遠にプロ野球ファンの記憶に残ることだろう。

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2010年10月6日水曜日

ドガ展:横浜美術館

想像かきたてる『エトワール』
『エトワール(星)』とは、オペラ座のプリンスプル(主役を踊る踊り子)のなかでも花形に与えられた称号だそうだ。踊るエトワールがフットライトを浴びて浮かびあがる。まさにオペラ座の華。その彼女を舞台袖でじっと見つめる黒い背広姿の、謎の男が想像をかきたてる。彼はエトワールのパトロンなのだろうか――。
 エドガー・ドガの傑作『エトワール』など彼の作品を集めた「ドガ展」(2010年9月18日~12月31日)を横浜・みなとみらいの横浜美術館で観る。
 パリのオルセー美術館所蔵の45点をふくむドガ作品約150点が展示されている。
 エドガー・ドガ(1834年―1917年)はフランスの印象派の画家。『エトワール』は本邦初公開。

構成
・第1章:古典主義からの出発 『マネとマネ夫人像』が面白い。ドガがマネに贈った作品を夫人の出来がよくないと、絵は右端を切った状態になっている。

・第2章:実験と確信の時代 『バレーの授業』は、振付師ジュール・ベローが踊り子を指導している様子を描いている。

・第3章:綜合とさらなる展開 『湯盤(湯浴みする女』は普通の女性の日常を描いている。

×  ×  ×

 会場はかなり混んでいました。特に「エトワール」の前は黒山の人だかりでした。
2010年10月5日観覧

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2010年10月5日火曜日

池波正太郎「真田太平記(六)」

『犬伏の別れ』
 池波正太郎の「真田太平記(六)家康東下」(新潮文庫)を読む。

 五大老のひとり上杉景勝が戦備を整える。徳川家康は豊臣秀頼に背く行為と、上杉討伐を決断する。家康の会津への出兵に、西から石田光成が兵を挙げる。ここに東西を分けた決戦の構図ができあがる。

 三成挙兵に真田昌幸は、長男信幸、次男幸村と進退を諮る。昌幸と幸村は三成に与し、信幸は家康に付き、父子が袂を分かつ。犬伏の別れ――。

目次:第6巻家康東下
・地炉ノ間
・慶長五年
・乱雲
・家康東下
・犬伏の陣
・闘志
・進撃

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 真田父子の進路を分けた『犬伏の別れ』は、真田ストーリーのヤマ場のひとつだよね。昌幸と幸村は亡き秀吉からの恩顧を、信幸は家康戸の縁をとった決断だったのか。
 全12巻の長編。ちょうど半分まで漕ぎつけた。
2010年10月4日読了

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2010年10月3日日曜日

新東宝女優・池内淳子さん逝く

新妻鏡・スーパージャイアンツ
 テレビドラマ「女と味噌汁」や映画、舞台で活躍した女優・池内淳子さんが2010年9月26日に亡くなった。76歳だった。※以下敬称略

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 テレビ昼メロのヒロイン「よろめき女優」であり、TBSの石井ふく子プロデュース作品「女と味噌汁」シリーズでてまり姐さんを演じ視聴率20%を稼いだ女優であった。味の素「ほんだし」のCMでも茶の間に登場した「日本のおかあさん」だった。

 だが、しかし。新東宝時代の女優としての池内淳子も記憶に留めたい。
 高校卒業後に勤めた日本橋三越の呉服売り場の販売員時代から、その美貌は評判だった。周囲の勧めで映画会社の新東宝の専属女優となった。

 1956年(昭和31年)「新妻鏡」で初主演した。相手役は高島忠夫だった。
「新妻鏡」は小島政二郎の小説の映画化で、1940年には東宝で山田五十鈴が主演している。主題歌が2曲あり、「新妻鏡」は霧島昇、二葉あき子が歌い、作詞は佐藤惣之助、作曲は古賀政男だった。もうひとつの「目ン無い千鳥」は霧島昇、松原操が歌い、作詞はサトウハチロー、作曲は古賀政男だった。
 ♪目ン無い千鳥の 高島田
  見えぬ鏡に いたわしや
 大川栄策の歌唱で聴いた人が多いのではないか。

 池内主演は2度目の映画化である。不慮の事故で失明したヒロインを池内が演じた。

「スーパージャイアンツ」シリーズの最初の作品「鋼鉄の巨人」と、「続・鋼鉄の巨人」は、1957年の新東宝作品で、池内淳子は出演している。主人公の宇宙人スーパージャイアンツを宇津井健が演じた。
 当時の米国テレビドラマ「スーパーマン」のパクリで、「スーパージャイアンツ」は空を飛び、拳銃もアメのようにひねっていまう超人だった。特撮も幼稚だったが、ガキの時分に熱狂して観たもんだ。股間もっこりのタイツ姿の宇津井健にばかり目がいって、池内淳子の印象は薄かったなぁ。
「スーパージャイアンツ」は1957年から1959年にかけて全部で9作製作された。1作から6作までは、石井輝男が監督を務めている。

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 新東宝といえば「エログロ路線」が有名だった。池内淳子はこの種の作品には出なかったが、前田通子、三原葉子、万里昌代らグラマー女優がもろ肌脱いで奮闘していた。「女――」「女体――」「肉体――」といった扇情的な題名がつくものが多かった。中1のころ、「女奴隷船」という映画を近くの映画館に観に行ったことがある。運悪く、留守に友達が遊びにきた。母親が映画に行ったと彼に告げた。次の日、学校ではクラス中から軽蔑のまなざしで見られて閉口したことがある(笑)。
 確かに中学生が観る映画じゃないわな。ませていたんだよね。

「女奴隷船」は1960年作品。三原葉子、菅原文太、丹波哲郎など出演していました。ストーリーは忘れた。池内淳子の訃報に新東宝映画「女奴隷船」を思い出した。

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