2010年7月22日木曜日

鬼の砂押がいて長嶋茂雄がいた

 あの長嶋茂雄を育てた元立教大学野球部監督、砂押邦信(すなおし・くにのぶ)が亡くなった。2010年7月18日のことだった。87歳。※敬称略

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 以下は長嶋をめぐるエピソードから野球人・砂押邦信を辿りたい。出展はweb surfing による。

・episode1:月明かりの千本ノック
 砂押邦信は茨城県立水戸商業高校を経て、1941年に立教大入学。主将を務めた。ちなみに早稲田大学で選手、監督で活躍した石井藤吉郎は水戸商の後輩。1950年には立大監督に就任。スパルタ指導で、1953年春には20年ぶりのリーグ制覇に導いた。

 1954年春、長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾が入学すると、それは始まった。練習後、夕食を済ませると内野陣を集めた。さらに守備練習である。当時の練習場に夜間照明はない。月猛ノックが選手を襲った。ボールにラインを書く石灰をまぶした。月明かりと石灰の白い粉を頼りに、長嶋も本屋敷も懸命にボールを追った。
 これが後世に伝えられる『月明かりの千本ノック』である。猛練習が立大黄金期を築いた。長嶋・杉浦・本屋敷は成長し、のちに立大三羽ガラスといわれた。
 人は彼を『鬼の砂押』と呼んだ。

・episode2:監督排斥運動
 砂押の指導は厳しかった。あまりに厳しく、一部部員の反感を買った。監督排斥運動が起ったのは1955年夏のことだった。
 六大学野球春季リーグ戦。捕手に1年生の片岡宏雄(中日―国鉄)を起用した。三塁走者がいたが、タイムがかかっていると勘違いして、マウンドに歩み、そのスキに走者がホームイン。それが決勝点になった。
 同夜のミーティングで砂押は「新人の捕手を使ったのは私だが、ついていけない者は辞めて結構」と話した。きっかけは1年生捕手の起用そしてミスだが、日ごろからスパルタ指導に反感を抱く部員もいて、監督と上級生の間は決定的となった。夏の練習、グラウンドに現れたのは1年生部員中心とした一部だけだった。
 結局この監督排斥運動は当時の総長、松下正寿が乗り出し、砂押の退任で決着がついた。大騒動であった。

 排斥運動の中心には、4年生の大沢啓二がいた。日曜日の朝、TBSで「喝だッ」なんてやっている、あの親分である。
 当時の立大には、大沢と同じ4年生に古田昌幸がいた。『ミスター都市対抗』であり、熊谷組の選手、監督として活躍した。今年1月に野球殿堂入りを果たした。3年生に堀本律雄(巨人)。2年生には長嶋、杉浦忠(南海)、本屋敷錦吾(阪急)の三羽ガラスに広島入団した拝藤宣雄。1年生に片岡宏雄(中日)と多士済々だった。

 退任に追い込まれた砂押はのちにプロ野球の指導者にもなった。国鉄(サンケイ)でコーチ、監督を務めた。指揮をとった1961年には金田正一、北川芳男、村田元一、森滝義巳ら投手陣の活躍で、国鉄球団史上初の3位、Aクラスとなっている。

・episode3:敵将の打撃指導
 1961年の夏のことだ。この時点で長嶋は球界のスパースターであり巨人の4番打者だった。かたや砂押は国鉄の監督である。かつては師弟の関係だが、今や敵と味方に袂を分かつ間柄である。
 その日は巨人―国鉄戦。ナイトゲーム。試合開始には間がある。
 スランプに喘ぐ長嶋は砂押宅に押しかけた。なんと打撃フォームの指導を願い出たのだ。気が引けながらもアドバイスをした砂押である。
 押しかける長嶋、教える砂押。許されざる垣根をこえた師弟関係だった。強い絆があった。

「ただただ悲しく、寂しくてなりません」と長嶋は訃報に接しコメントを出した。
 
長嶋茂雄をプロ野球最大のスーパースター、大輪の向日葵(ひまわり)に咲かせたのは、鬼と謳われた砂押邦信だった。

≪出展≫Wikipedia砂押邦信/サンケイスポーツ「甘口辛口」7月21日付/読売新聞「編集手帳」7月21日付

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