2010年7月31日土曜日

ちょいmemo:即身成仏

ご長寿さんとライオンと幼子の死 
「即身成仏」とは――デジタル大辞泉によると「真言密教の教義で、人間が現世の肉体のまま仏になること。生きたまま仏になること」という。

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 111歳で国内有数のご長寿、東京・足立区の加藤宗現さんとみられる遺体が2010年7月28日発見された。約30年前、「即身成仏する」といって宗現さんは部屋に閉じ籠ったままで、『開かずの間』になっていたという。宗現さんの妻は2004年8月に死亡していて、その遺族年金が宗現さん名義の口座に振り込まれていた。不正受給の疑いもあるという。
 宗現さんの部屋には1978年(昭和53年)11月5日付の新聞が置かれていた。

 ご長寿さんが実は30年前に死んでいたニュースが報道された日、国内最高齢だった長野市茶臼山動物園のライオン『ライ太』(雄、23歳4カ月)が老衰のため死んだ。こちらは正真正銘の長寿で、人間なら100歳を超える大往生だった。

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 30日には大阪西区のマンションで2児の遺体が発見された。母親の下村早苗容疑者(23)の育児放棄が3歳と1歳の幼子を死に追いやった。児童相談所や警察へ何度かの通報があったが、またしても命を救うことはできなかった。児童虐待と、手遅れの行政。何度繰り返さされれば、改善されるのだろうか。悲しい。

 破れ傘刀舟ならネグレクトの母親に「てめえら人間じゃねえ。叩っ斬ってやる」と叫ぶことだろう。

2010年7月29日木曜日

船越英一郎と長谷川一夫

長谷川裕見子さんの訃報から雑観 
 俳優船越英一郎の母で元女優の長谷川裕見子(はせがわ・ゆみこ)が2010年7月27日亡くなった。85歳だった。※敬称略

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 船越英一郎と、かの永遠の二枚目と謳われた長谷川一夫は血縁だったのか――訃報に接し感慨があらためて沸いてくる。

 長谷川裕見子は長谷川一夫の姪にあたる。裕見子の長男が船越英一郎で、夫は船越英二。英一郎の大伯父は長谷川一夫となる。妻は松居一代。
 また長谷川一夫は死後まもなく国民栄誉賞を贈られた日本映画の大御所だった。戦前からの映画スターで、林長二郎と名乗った。老け役知らずで死ぬまで、芸歴50年を超えて二枚目俳優で在り続けた稀有の存在だった。彼の長男は林成年、長女は長谷川季子、次女は長谷川稀世である。

 船越英二は、テレビドラマ「時間ですよ」の銭湯の主人(森光子が女房役)や、「暴れん坊将軍」の御側御用取次・田之倉孫兵衛役で飄々たる演技を見せる脇役と知られるが、若い時分は美男を生かした大映の二枚目だった。京マチ子、山本富士子、若尾文子の女優陣を引き立てた。
 長谷川裕見子は可憐な美貌で、市川右太衛門、片岡千恵蔵の相手役として東映時代劇で活躍した。

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 船越英二は生前、俳優の道を志そうとする息子・英一郎に「おまえには俳優で生きていく容姿を備えてやれなかった」と反対しそうである。
 確かに、船越英一郎には悪いが、船越英二、長谷川裕見子、長谷川一夫の血筋にしちゃ、残念な顔立ちだよね。でも、二枚目然としていない親近感のあるマスクが、テレビという茶の間と至近距離にあるメディアで『2時間ドラマの帝王』として活躍できた要素かもしれない。

2010年7月27日火曜日

誉田哲也「ジウⅠ」

女警察官の門倉美咲と伊崎基子が主人公 
 主人公は女警察官のふたり。いつでも泣ける女の演技力と優しさを持ち、説得交渉力を生かす門倉美咲。己だけを信じ筋トレに励み、強襲現場では男まさリの活躍をする武闘派の伊崎基子。ともに警視庁捜査一課特殊犯捜査係SITに所属している。

 都内の住宅地で人質籠城事件が発生した。所轄署や機動隊とともにSITが出動する。食事の差し入れ役で潜入、説得を試みるはずの美咲だが、人質をかばい肩から胸にかけて負傷する。犯人を取り抑えたのは基子だった。この一件で、美咲は所轄の碑文谷署に飛ばされ、基子は警備部第一課特殊強襲部隊SATに抜擢された。
 取り調べが進むなか、籠城犯の岡村和紀は、未解決の児童誘拐事件の関与していることが判明する。彼が所持していた1万円札の番号は、碑文谷管内で起った誘拐事件の身代金のそれと一致した。新たな事件の闇が広がった――。

 誉田哲也の「ジウⅠ 警視庁特殊犯捜査係SIT」(中公文庫)を読む。「ジウ」は3巻完結の作品。

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 スピーディなストリー展開。ハードボイルド、サスペンス、ラブロマンス、バイオレンスと味付けは盛りだくさんだが、とりわけバイオレンスはお~ッとここまで書くか、との思いがするほどハードな場面がある。怖いもの嫌いの草球は苦手だな、こういうの。
 姫川玲子シリーズの「ストロベリーナイト」や「ソウルケイジ」しかり。誉田哲也はなぜ女性を主人公にする作品が多いのだろうか。
2010年7月26日読了ジウ〈1〉―警視庁特殊犯捜査係 (中公文庫)

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2010年7月23日金曜日

鴨居玲展:そごう美術館

描けない画家の叫び「1982年 私」 
「1982年 私」は晩年の代表作。白いキャンバスに呆けた表情が浮かびあがる。座っているのは鴨居玲自身だ。描けない、私に「これ以上、なにを描けというのか」と苦痛を訴えているようだ――苦悩しながらも作品を生み出した画家、鴨居玲の展覧会「没後25年 鴨居玲 終わらない旅」展(2010年7月17日~8月31日)が、横浜駅東口のそごう美術館(そごう横浜店6階)で開催されている。

 鴨居は1928年石川県生まれの洋画家。金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)の入学、宮本三郎に師事。1969年に「静止した刻」で安井賞を受賞した。
 出世作の「静止した刻」、スペイン時代の「わたしの村の酔っぱらい」、晩年の「1982年 私」など油彩、素描あわせて約80点を展示している。
 1985年に神戸の自宅で自殺した。57歳だった。

≪目に付いた作品≫
・静止した刻 1968年
・ボリビア インディアの娘 1970年
・おっかさん 1973年
・石<教会> 1974年
・「望郷」故・高英洋に捧ぐ 1981年
・1982年 私 1982年

 どれもが暗い色調、描かれた人物からは内面の叫びが聴こえるようだ。
2010年7月22日観覧

2010年7月22日木曜日

鬼の砂押がいて長嶋茂雄がいた

 あの長嶋茂雄を育てた元立教大学野球部監督、砂押邦信(すなおし・くにのぶ)が亡くなった。2010年7月18日のことだった。87歳。※敬称略

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 以下は長嶋をめぐるエピソードから野球人・砂押邦信を辿りたい。出展はweb surfing による。

・episode1:月明かりの千本ノック
 砂押邦信は茨城県立水戸商業高校を経て、1941年に立教大入学。主将を務めた。ちなみに早稲田大学で選手、監督で活躍した石井藤吉郎は水戸商の後輩。1950年には立大監督に就任。スパルタ指導で、1953年春には20年ぶりのリーグ制覇に導いた。

 1954年春、長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾が入学すると、それは始まった。練習後、夕食を済ませると内野陣を集めた。さらに守備練習である。当時の練習場に夜間照明はない。月猛ノックが選手を襲った。ボールにラインを書く石灰をまぶした。月明かりと石灰の白い粉を頼りに、長嶋も本屋敷も懸命にボールを追った。
 これが後世に伝えられる『月明かりの千本ノック』である。猛練習が立大黄金期を築いた。長嶋・杉浦・本屋敷は成長し、のちに立大三羽ガラスといわれた。
 人は彼を『鬼の砂押』と呼んだ。

・episode2:監督排斥運動
 砂押の指導は厳しかった。あまりに厳しく、一部部員の反感を買った。監督排斥運動が起ったのは1955年夏のことだった。
 六大学野球春季リーグ戦。捕手に1年生の片岡宏雄(中日―国鉄)を起用した。三塁走者がいたが、タイムがかかっていると勘違いして、マウンドに歩み、そのスキに走者がホームイン。それが決勝点になった。
 同夜のミーティングで砂押は「新人の捕手を使ったのは私だが、ついていけない者は辞めて結構」と話した。きっかけは1年生捕手の起用そしてミスだが、日ごろからスパルタ指導に反感を抱く部員もいて、監督と上級生の間は決定的となった。夏の練習、グラウンドに現れたのは1年生部員中心とした一部だけだった。
 結局この監督排斥運動は当時の総長、松下正寿が乗り出し、砂押の退任で決着がついた。大騒動であった。

 排斥運動の中心には、4年生の大沢啓二がいた。日曜日の朝、TBSで「喝だッ」なんてやっている、あの親分である。
 当時の立大には、大沢と同じ4年生に古田昌幸がいた。『ミスター都市対抗』であり、熊谷組の選手、監督として活躍した。今年1月に野球殿堂入りを果たした。3年生に堀本律雄(巨人)。2年生には長嶋、杉浦忠(南海)、本屋敷錦吾(阪急)の三羽ガラスに広島入団した拝藤宣雄。1年生に片岡宏雄(中日)と多士済々だった。

 退任に追い込まれた砂押はのちにプロ野球の指導者にもなった。国鉄(サンケイ)でコーチ、監督を務めた。指揮をとった1961年には金田正一、北川芳男、村田元一、森滝義巳ら投手陣の活躍で、国鉄球団史上初の3位、Aクラスとなっている。

・episode3:敵将の打撃指導
 1961年の夏のことだ。この時点で長嶋は球界のスパースターであり巨人の4番打者だった。かたや砂押は国鉄の監督である。かつては師弟の関係だが、今や敵と味方に袂を分かつ間柄である。
 その日は巨人―国鉄戦。ナイトゲーム。試合開始には間がある。
 スランプに喘ぐ長嶋は砂押宅に押しかけた。なんと打撃フォームの指導を願い出たのだ。気が引けながらもアドバイスをした砂押である。
 押しかける長嶋、教える砂押。許されざる垣根をこえた師弟関係だった。強い絆があった。

「ただただ悲しく、寂しくてなりません」と長嶋は訃報に接しコメントを出した。
 
長嶋茂雄をプロ野球最大のスーパースター、大輪の向日葵(ひまわり)に咲かせたのは、鬼と謳われた砂押邦信だった。

≪出展≫Wikipedia砂押邦信/サンケイスポーツ「甘口辛口」7月21日付/読売新聞「編集手帳」7月21日付

2010年7月18日日曜日

嶋津義忠「信之と幸村」

猿飛佐助は出てこないが……
 家を守るか? 武名をあげるか? 関ヶ原合戦で、真田家の兄弟はそれぞれの道を選んだ。兄・信之は父・昌幸と袂を分かって東軍に属し、徳川幕府の下で家の存続と発展に腕を振るう。父とともに西軍について敗者となった弟・幸村は、雌伏のときを経て大坂の陣に参加、天下人・家康に挑む。戦国乱世から天下泰平へと移り行く時代に、己の使命を背負って戦う兄と弟を描いた力作長篇小説(BOOKデータベースから)
 
 嶋津義忠の歴史小説「真田疾風録 信之と幸村」(PHP文庫)を読む。

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 ガキのころ読んだのは、マンガの『真田十勇士』ものだった。幸村を支えた10人の勇猛な家臣軍団だ。あれって立川文庫の創作ものの流れをくんでいるのだと思う。クライマックスは大坂夏の陣だ。
 猿飛佐助/霧隠才蔵/三好清海入道
なんて面白いキャラが登場して、わくわくして読んでいた。あのときの悪役は「タヌキおやじ」の徳川家康だったなぁ。
 昭和20年代後半から30年代初めにかけての話だ。

 山岡荘八の小説「徳川家康」から家康の一般的な悪役イメージが変わったようだ。

「信之と幸村」に登場する幸村を支える忍びの佐助は、猿飛佐助のモデルなのだろうか。
 真田家ものをさらに読んでみたいと思った。池波正太郎の「真田太平記」あたりを。
2010年7月17日読了信之と幸村 (PHP文庫)

2010年7月14日水曜日

ポーラ美術館展:横浜美術館

ピカソの青の時代「海辺の母子像」
 箱根仙石原のポーラ美術館収蔵の印象派とエコール・ド・パリの名品74点を展示し、フランス近代美術の流れを概観できる「ポーラ美術館コレクション展」(2010年7月2日~9月4日)が、横浜・みなとみらいの横浜美術館で開催されている。

≪構成≫
・第1章:印象派
・第2章:エコール・ド・パリとピカソ

 印象派のセクションでは、モネ、ルノアール、ピサロの印象派から新境地を開いたセザンヌ、スーラ、ルドン。さらにエコール・ド・パリのセクションでは、世界各地からパリに集まったモジリアニ、シャガール、レオナ―ル・フジタ(藤田嗣治)の作品を紹介している。
 ピカソの20代に描いた「海辺の母子像」が展示されている。『青の時代』の作品を観ることができる。

≪目に付いた作品≫
・クロード・モネ:睡蓮の池/ジヴェル二ーの積みわら
・ピエール・オーギュスト・ルノアール:ムール貝採り/水浴の女
・フィンセント・ファン・ゴッホ:ヴィゲラ運河にかかるグレース橋
・ポール・ゴーギャン:白いテーブルクロス
・ポール・セザンヌ:プロヴァンスの風景
・ジョルジュ・スーラ:グランカンの干潮
・オディロン・ルドン:日本風の花瓶
・パブロ・ピカソ:海辺の母子像
・アメデオ・モディリアニ:ルニア・チェホフスカの肖像
・マルク・シャガール:私と村
・レオナ―ル・フジタ:猫を抱く少女

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 盛りだくさん。見応え十分。箱根のポーラ美術館に行ってみたいなぁ。
2010年7月13日観覧

2010年7月13日火曜日

パウル君⇒「8」⇒たこ八郎

元日本フライ級チャンプ
『パウル君』は今や世界で一番有名なタコとなった。ドイツ西部のオーバーハウゼン水族館のタコが、ドイツの全7試合と決勝のスペイン優勝をパーフェクト予想した。まさに神託タコである。

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 〆予想が8試合目で語呂がいい。8戦全勝だ。末広がりだし、タコの足は8本。英語でタコはoctopusだ。これは8本足から由来している。語源はラテン語octo- で「8」を表す言葉だそうだ。
・octave:オクターブ。ドレミファソラシドは8音ですな。
・octagon:8角形。

 ところで、10月のOctoberは「8番目の月」だった。なぜ8番目の月が10月なのか。古代ローマの暦の年初を3月からスタートしたため、2か月ずれたということらしい。
 しかし、昔読んだ本によると、古代ローマ時代はもともと1年が10カ月でできていて、そこにジュリアス・シーザーが自分の名を冠した7月Julyを、その甥のアウグストゥスが8月Augustを押しこんだ。ふたりの偉人が歴史の名を刻むため、ゴリ押し?で、Octoberは10月になってしまった――これは俗説なのだろうか。

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「タコ」で「8」とくりゃ、『たこ八郎』だ。元日本フライ級王者にしてコメディアンだった。斎藤清作といえば、『河童の清作』として知る人と知る人気ボクサーだった。頭部のてっぺんの髪を剃っていたので、河童の皿ように見えたのでついた愛称だ。リング上では相手からよくパンチを食らったが、平気な顔で闘っていた。笹崎ジムといえばファイティング原田と斎藤清作が看板だったな。

 引退後、タレントになり由利徹に師事し、『たこ八郎』と名乗った。
 パンチドランカーで回らない呂律で「たこで~す」なんていっていたが、あれは芸だったか地だったか。どちらでもいいや。妙におかし味のある芸人さんだったなぁ。
 1985年(昭和60年)神奈川県真鶴の海岸で海水浴中に心臓マヒで亡くなった。44歳の若さだった。

  それにしてもパウル君は偉大なタコだ。タコ社長の太宰久雄を思い出させてくれて、今度はたこ八郎である。

2010年7月9日金曜日

見あげたもんだよタコ予想

桂梅太郎社長の太宰久雄
 松木安太郎より当たるじゃないか。ドイツ西部にあるオーバーハウゼン水族館のタコ『パウル君』はW杯サッカー準決勝で、ドイツがスペインに敗北すると予言して的中した。ここまでドイツの試合結果6戦を予想し、すべての勝敗を当て、「神託タコ」「超能力タコ」と注目を集めている。

 ドイツ国籍?のタコなのに、スペインが勝つと身を賭しての予想。見あげたもんだよ屋根屋のふんどし、タコ予想だぜ。

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『屋根屋のふんどし』とくりゃ、寅さんだ。「男はつらいよ」。渥美清のあの啖呵売、忘れられないねえ。そして『タコ』とくりゃ、『タコ社長』の太宰久雄(だざい・ひさお)だね。団子の車屋の裏の町工場、朝日印刷を営む桂梅太郎社長だ。寅さんとタコ社長の掛け合いになんど笑ったことか。

「いいか寅。てめえなんかにな、中小企業の経営者の苦労がわかってたまるか」

 頭から湯気を出し?怒りにふるえ泣きださんばかりの演技、ありゃ絶品でした。
 ひょんなことで太宰久雄の名演技を思い出しました。パウル君に感謝!

2010年7月5日月曜日

千葉さなは結婚していた!?

歴史的な新発見かも……
 これは歴史的な発見かもしれない。
 坂本龍馬を慕い彼の紋服の片袖を見つめながら、生涯独身で操を守り通した千葉さな(佐那)の通説はどうやら覆りそうである。

 千葉周作の実弟で剣豪であった千葉定吉の娘で龍馬の婚約者であった千葉さなが、龍馬暗殺後に結婚していたという明治期の新聞記事が見つかったという。
 千葉さなの結婚が載っている新聞は明治期に年横浜で発行されていた毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)で、歴史研究家のあさくらゆうが発見し、鳥取藩の文書から結婚相手の藩士の実在が確認されたそうだ。信憑性は高そうだ。

 さなの相手は鳥取藩の山口菊次郎という藩士で、龍馬の七回忌後に結婚したが、10年足らずで離婚したという。龍馬の剣の師匠である父親・定吉は結婚に猛反対し「おまえの命はかつて龍馬の霊前に捧げようとしたものではなかったか」と斬ろうとしたという。定吉は鳥取藩の剣術指南を務めていた。
 龍馬と千葉家では結婚の約束があった。千葉家からは短刀を、龍馬はなにも持ちわせないので松平春獄から拝領した紋服を贈ったという。さなは紋服の片袖をとり、大切にしていた。
 甲府のさなの墓には、「坂本龍馬室」と刻まれている。

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「なみだの操」という演歌がある。殿さまキングスの宮路オサムがこぶしを回していたっけ。作詞は千家和也、作曲は彩木雅夫だ。
 ♪あなたのために 守り通した女の操
  今さら人に 捧げれれないわ

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」では、『鬼小町』と異名をとる女剣士だが、龍馬ひとすじに想いをかける千葉さなを貫地谷しほりが演じている。

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 龍馬は慶応2年(1866年)におりょう(龍)と結婚している。結婚前に伏見の寺田屋で幕吏に襲撃され、そのときの傷を癒すため、おりょうと薩摩の旅に出た。これが日本人初の新婚旅行といわれている。また、初恋の人といわれる平井加尾も同年に西山志澄を婿養子に迎えている。龍馬の結婚を知り、加尾は諦めて結婚を決意したのだろうか。翌慶応3年、龍馬は京の近江屋で何者かに暗殺されている。

 龍馬は加尾の結婚は知ったはずである。しかし、千葉さなの結婚は知るはずがないが、知ったら草場の陰で、
「龍馬、まっことショックぜよ」なんちゃってね。

 言うわけないか。これまた失礼しましたm(_ _)m

2010年7月4日日曜日

なぜ日本人は落合博満が嫌いか?

テリー伊藤の『日本人論』
 これはテリ―伊藤の落合博満像を通して語る『日本人論』である。

 テリ―伊藤の新刊「なぜ日本人は落合博満が嫌いか?」(角川oneテーマ21)を読む。
 野球人・落合の実績は超一流である。王貞治、長嶋茂雄を凌ぎ、野村克也の上をゆく。唯一匹敵できるのは、打撃の神様にしてV9監督の川上哲治しかいないのではないか。現役時代は史上初の3度の三冠王に輝き、監督6年で3度の日本シリーズ出場、日本一1回の戦績を残している。
 申し分のないキャリア、とんでもスーパースターのはずが、その人気たるやONはもちろん、ぼやきのノムさんと比べても劣る。不当評価はなぜ?

 本著では、その『なぜ』に迫っている。
・日本シリーズでの完全試合目前の投手交代
・マスコミへの愛想なしの寡黙
・ファン感謝デーの欠席
・昭和名球会入りの辞退
 事例をあげ行動の本質を説明し、群れず媚びずわが道をぶれず進む指揮官の根底に流れるのは勝利至上主義であると、説き明かす。

 ついには落合こそ混迷日本を救うリーダーだという。さらに近い将来、中国の代表監督になって日本を脅かす存在になるかもしれないと警鐘する。
 落合を正当に評価できないのは日本人の思想の幼稚化に原因があると、テリ―は論を展開しているである。日本人論と読んだ。

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 あの実績で落合はいまだ野球殿堂入りを果たせない。選ぶ側が狭量な私情をはさんでいると、草球kusatamaは看破している。歴代の指揮官としては、川上、広岡達朗、森祇晶(もり・まさあき)のタイプに近いが、微妙に違うのだよな、落合は……。

2010年7月3日読了なぜ日本人は落合博満が嫌いか? (角川oneテーマ21)

2010年7月2日金曜日

続・司馬遼太郎「人斬り以蔵」

大村益次郎を描いた「鬼謀の人」
 岡田以蔵に辞世の句がある。
君がため尽す心は水の泡
消えにし後は澄みわたる空
 これって、彼が本当に詠んだ句だろうか。

 土佐の武市半平太と以蔵の関係は、薩摩の西郷吉之助と人斬り半次郎といわれたのちの桐野利秋や田中新兵衛にもあてはまるが、親分の度量の差があったようだ。
 司馬は「西郷と武市の、親分としての資質の致命的なちがいは、ユーモアの感覚の有無であったろうか」と書いている。

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 司馬遼太郎の短編集「人斬り以蔵」には日本陸軍の祖といわれる大村益次郎を描いた「鬼謀の人」が収録されている。長州の農村医者の倅、村田蔵六(のちの大村益次郎)が大坂で緒方洪庵の適塾でオランダ語を習得し、長州でさえ誰も知らぬ存在が、特異な才能を発揮し倒幕軍の作戦参謀となる半生を描いている。
 刀の抜き方も知らぬ、馬にも乗れぬ男が彰義隊との上野戦争で、アームストロング砲を駆使して江戸を戦火から救う作戦を指揮する。
 上野戦争の遺恨から、陸軍の礎を築き明治2年に暗殺される。

 司馬は結んでいる――益次郎は歴史がかれを必要としたとき忽然としてあらわれ、その使命がおわると、大急ぎで去った。神秘的でさえある。
 
「花神」は長編バージョン。

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 他に、家康がオランダから輸入したという大砲『ブルキトース』が幕末になって引っ張り出され、使われる話「おお、大砲」が面白かった。
 8編の短編集。いずれも白戸次郎⇒シロイヌ(尾も白い=オモシロイ)。お薦め。
2010年7月1日読了人斬り以蔵 (新潮文庫)