2009年10月29日木曜日

婚活詐欺女⇒クレイジー

ハイそれまでョ&紺屋高尾

 “婚活詐欺女”の話題で喧(かまびす)しい。なんでも34歳の女は婚活サイトで交際相手を募り、お金を無心し、せしめた金は1億円を超えるとか。それだけならフツ―の結婚詐欺だが、付き合った男が次々に怪死したというから、疑惑は好奇心を煽(あお)り、テレビのワイドショーや大衆かわら版の絶好のネタとなったのだ。
「専門学生でお金が必要。卒業したら、あなたに尽します」という殺し文句で、男をコロリと騙(だま)すそうだ。
×  ×  ×
 これって、まるでハナ肇とクレイジー・キャッツが歌った「ハイそれまでョ」ではないか。作詞は青島幸男で、作曲は萩原哲晶だ。
 ♪あなただけが 生きがいなの
  お願い お願い 捨てないで
てなことを言われて、その気になって、退職金まで前借りして貢いだが、トンズラされてしまう。
三番の歌詞では、
 ♪私だけが あなたの妻
  丈夫で長持ち 致します
てなことを言われ、結婚した炊事洗濯はまれでダメ、食べることは3人前。ひとこと小言を言ったら、プイと出てきり「ハイそれまでョ」である。
×  ×  ×「ハイそれまでョ」よりも以前に、聞いた節回しがある。
 ♪遊女は客に惚れたといい、客は気もせでまた来るという
  嘘と嘘との色里で 恥もかまわず身分まで
  よう打ち明けてくんなました
 浪曲「紺屋高尾」の出だしの節だそうだ。
×  ×  ×・本気な女VS本気な男
・嘘気な女VS嘘気な男
の組みわせは問題は起こらないが、とかくトラブルとなるのはそのバランスが崩れたカップルの場合だ。どちらかが本気で、相手がその気がないケース。そんなとき、修羅の悪魔がパックリ口を開けるのである。

2009年10月27日火曜日

「横浜」をつくった易聖

易聖・高島嘉右衛門
 
 高木彬光の『「横浜」をつくった男』(光文社文庫)を読む。副題として「易聖・高島嘉右衛門の生涯」となっている。「大予言者の秘密」1979年カッパ・ブックス(光文社)刊、1982年角川文庫刊の再文庫化したものだそうだ。
 横浜の高島町は高島嘉右衛門からとった地名で、世界の港・横浜の恩人というべき御仁である。日本初の鉄道は新橋―横浜間に1872年(明治5年)に開通したが、伊藤博文、大隈重信にその必要性を説き、横浜の入江の一部を埋め立て、鉄道路線の敷設に貢献している。外国公館の建設、旅館の経営、学校の設立、ガス灯の設備など公益事業で活躍した。
 実業家であるばかりでなく、「易聖」と呼ばれるほどに易断のよる占いはよく当たることで有名だった。日清戦争、日露戦争の占いは新聞にも掲載され、予言が的中した。また、伊藤博文の死期を予見し、自分の死期までも予知したほどだった。
 伊藤博文とは親交が深く、長女が博文の長男に嫁ぎ姻戚関係にあり、ブレーンでもあった。幕末に生まれ明治維新を生きた嘉右衛門の波瀾万丈の生涯が描かれている。

 嘉右衛門の名を冠した東横線の高島駅は廃止されたが、みなとみらい線に「新高島」駅ができている。Jリーグの横浜Fマリノスの施設「マリノスタウン」の最寄り駅で、2009年8月には日産自動車本社が東京・銀座から当駅付近に移転した。
×  ×  ×
 易とは筮竹(ぜいちく)と算木(さんぎ)を使う占いだそうで、この本の中にたびたび「卦」の解説があるが、草野の頭では理解できなかったのであります(笑)。
2009年10月27日読了

2009年10月20日火曜日

篤姫が想い馳せた桜島

 横浜・みなとみらいの横浜美術館で「大・開港展―徳川将軍家と幕末明治の美術」(2009年9月19日~11月23日)を観る。
・1953年(嘉永6年)ペリーの黒船来航
・1954年(嘉永7年/安政元年)日米和親条約締結
・1958年(安政5年)5カ国と修好通商条約締結
・1959年(安政6年)横浜開港
・1967年(慶応3年)大政奉還
・1967年(慶応3年)王政復古
・1968年(明治元年)明治政府成立
黒船以降わずか15年で目まぐるしく変わった政治の激動のなかで芸術や文化もまた大いに様変わった。江戸から明治へ――伝統として残ったもの、そして新たに生み出しものを展示している。横浜開港150周年、横浜美術館開館20周年の節目の展覧会。
 出展は、
・第一章 徳川時代
・第二章 開港の時代
・第三章 明治時代
の3部から構成されている。
 特に目を引いたのは、篤姫所用の『薩州桜島真景図』(展示は9月19日から10月21日)だった。桜の咲く錦江湾から桜島を望む作品で、作者は薩摩藩の御用絵師の柳田龍雪(やなぎだ・りゅうせつ)。篤姫(天璋院)が将軍・家定に嫁ぐ折、義父・島津斉彬(しまづ・なりあきら)が故郷の思い出にと持たせたとされる。篤姫、斉彬の想いはいかばかりだったか。
×  ×  × 明治期の充実ぶりに比べて徳川将軍家の作品が物足りなかったかなぁ。
2009年10月20日観覧

2009年10月17日土曜日

だまし絵 エッシャー展

父はお雇い外国人

 横浜駅東口のそごう美術館(そごう横浜店6F)で「迷宮への招待エッシャー展」(2009年10月10日~11月16日)を観る。
 オランダの画家、版画家、マウリッツ・コルネリス・エッシャーMaurits Cornelis Escher 1998年-1972年)のイタリア風景版画や視覚トリックを駆使した不思議な世界を表現した作品を展示している。
 だまし絵の巨匠。だまし絵=騙し絵は、フランス語で“トロント・ルイユ”というそうな。
 このところ続けて高橋克彦の「だましゑシリーズ」である「だましゑ歌麿」「おこう紅絵暦」「春朗合わせ鏡」「京伝怪異帖」と読んできたが、展覧会を観ながら高橋克彦⇒エッシャーの騙し絵繋(つな)がりだわい、と独りほくそ笑む。
×  ×  ×
 ところでエッシャーの父親ジョージ・アーノルド・エッセルは明治期に日本の近代化に貢献したお雇い外国人だった。土木技術者で、大阪の淀川修復工事や三国港のエッセル堤、龍翔小学校(福井県坂井市)などの設計、指導にあたった。エッセルとエッシャーはともにEscherと綴るが、日本語表記に違いが出たもの。
2009年10月15日観覧

2009年10月16日金曜日

高橋克彦「春朗合わせ鏡」

父は公儀お庭番

 高橋克彦の「春朗合わせ鏡」(文春文庫)を読む。「だましゑ歌麿」「おこう紅絵暦」の姉妹編で、春朗こと葛飾北斎を主人公にした「だましゑシリーズ」のスピンオフで作品である。
・女地獄
・父子道
・がたろ
・夏芝居
・いのち毛
・虫の目
・姿かがみ
連作7編からなり、若き絵師春朗が事件を解いていく。

「京伝怪異帖」で伝蔵こと山東京伝や風来山人こと平賀源内、安兵衛こと窪俊満ともに活躍した女より美しい若衆髷(わかしゅわげ)の蘭陽が春朗を助ける。北町奉行吟味方筆頭与力の仙波一之進、元柳橋の芸者で妻おこう、隠居の左門などのお馴染みレギュラーメンバーも揃って登場する。
 父親は公儀のお庭番であること、少年時代に叔父にあたる御用鏡師の中島伊勢のもとに修行に出るが辛抱できずに逃げ出したこと、絵師を志し勝川派に入門したが画風が合わず破門されたこと、葛飾に妻子がいて月に2,3日帰っていること、中島家からは養子縁組を、父親には隠密を引き継ぐように勧められていることなどが、連作を読み進むにつれ春朗の生い立ち・生活ぶりが明らかにされる。
 また、作者の浮世絵に対する造詣が随所に生かされている。
 そういえば、高橋克彦は「北斎殺人事件」(1987年)で北斎隠密説を展開しているが、「春朗合わせ鏡」はその延長線上にある作品といえるだろう。
2009年10月14日読了

2009年10月10日土曜日

高橋克彦「京伝怪異帖」

どっこい生きていた源内

 高橋克彦の「京伝怪異帖」(文春文庫)を読む。「だましゑ歌麿」に端を発した「だましゑシリーズ」の姉妹編である。
 伝蔵こと山東京伝が、風来山人・平賀源内や兄貴分の絵師・安兵衛(窪俊満)、女より美しい若衆髷(わかしゅわげ)の蘭陽と組み奇怪な事件に挑み、謎を解く。
・天狗髑髏(てんぐどくろ)
・地獄宿
・生霊変化(いきりょうへんげ)
・悪魂(あくだま)
・神隠し
連作5編で構成されている。

 史実による平賀源内が獄死したといわれる安永8年(1780年)12月18日、吉原で源内死去のニュースを聞きつけた伝蔵は不審を抱き、その通夜に出向くところから小説の舞台が開く。伝蔵は山東京伝として売り出す前の19歳。田沼意次の権勢そして没落、やがて松平定信の寛政の改革へと、連作は読み進むうちに時代背景も推移する。
 出版プロデューサーの蔦屋重三郎や勝俵蔵と名乗った若き日の鶴屋南北など歴史上の人物が登場し絡む。
 また、伝蔵が武器に“糸印”(いといん)を使うのも、銭形平次の投銭のようで面白いアイデアである。安兵衛が吉原で女たちに説明する件がある。
「伝兄ぃはそいつを空に飛ばして雀ぐれえは簡単に落とすぜ。武士(さむれえ)なんぞの刀よりずっと恐ろしい。優男に見えるだろうが、並の男じゃかなわねえ」
×  ×  × 「糸印」をデジタル大辞泉で引くと、
「室町時代、明から輸入した生糸の荷に添えて送られてきた鋳銅製の印章。斤量を検査し、これで押印した受領証書を送り返した。形は方形・円形・五角形などがあり、つまみは人物や動物の形をしている。形状・字体ともに風雅に富む」とある。
×  ×  × 安永8年、大名屋敷の修理を請け負った源内は自宅で棟梁2人と酒を飲んだ。夜中に便所に起き、懐に入れた修理計画書がないことに気づく。盗まれたと思い、大工に詰め寄り押し問答となり、激高し2人を殺傷してしまう。盗まれたのは勘違いで計画書は帯の間に挟まれていたのだった。
 投獄されたのち上記の日に小伝馬町で獄死したと史実ではなっているが、生き延び天寿を全うしたという説もある。この小説では、死んだのは偽装でどっこい生きていた!と生存説を採っている。 山東京伝のブレーンとして活躍するのである。
 源内は男色家としても知られ、生涯妻帯しなかった。彼に付き添う蘭陽は陰間上がり。果たして、二人の関係はどうなのだろうか。
2009年10月9日読了

2009年10月9日金曜日

沈壽官400年の伝統美

一子相伝の技冴える

 台風18号の勢いが鎮まったころを見計い、横浜駅西口の横浜タカシマヤ7F美術画廊で「薩摩焼 15代 沈壽官展」(2009.10.7~10.13)を観る。横浜タカシマヤ開店50周年の記念展とか。優美かつ精緻な細工――さすがに400年におよぶ歳月を経て受け継がれた伝統技術の冴えと感心し、目の保養となった。
 釈迦に説法になるだろうが、その歴史をかいつまんで書く。
15代沈壽官(ちん・じゅかん)は、慶長3年(1598年)豊臣秀吉の朝鮮出兵の帰途、島津義弘により日本に連行された朝鮮陶工の末裔である。陶工たちは鹿児島串木野島平に着船し、慶長8年に伊集院郷苗代川(現在の美山)に移住した。以来、約400年間、美山で脈々とその技術を一子相伝で継承し守ってきた薩摩焼の開祖宗家15代目。
 司馬遼太郎の「故郷忘れじがたく候」では、望郷の想いを抱きながら、異国で生き続けた朝鮮陶工の姿が描かれている。
2009年10月8日観覧

2009年10月6日火曜日

薩摩路でバッタリ龍馬

帯刀とどっちが先?
 薩摩路で龍馬に出くわした。
 ぶらり旅に出る。さしたるアテもない物見遊山である。
 歴史好きなら、薩摩⇒龍馬となれば、あれだと推測するだろう。鹿児島は、坂本龍馬とおりょうさん(楢崎龍)が日本で初めて(と言われている)新婚旅行に出かけた地なのだ。
×  ×  × ときは慶応2年(1866年)。江戸幕末。徳川政権は揺らいでいた。その1月、土佐の素浪人、坂本龍馬の斡旋により、とかく牽制しあう外様の雄、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎(木戸孝允)が会談し、「薩長同盟」を結んだ。政権交代――倒幕へ大きな一歩を踏み出した歴史の瞬間だ。
 直後に「寺田屋事件」が起る。龍馬は薩摩藩の船宿、伏見・寺田屋で幕吏に襲われる。ここはよく映画、ドラマにあるシーンである。入浴中のおりょうが異変を察知し、裸で急を告げる。おりょうの機転で、龍馬は愛用の短筒で応酬しながら、薩摩藩邸に難を逃れる。手に傷を負った彼と介護したおりょうは、夫婦の契りをかわす。負傷を癒すため、西郷に薩摩の温泉を勧められ、薩摩藩船「三邦丸」で旅に出る。
 この湯治が日本で初めてハネムーンというわけだ。
×  ×  × おりょうとの結婚の経緯(いきさつ)を知らせる、姉乙女(おとめ)に宛てた龍馬の手紙が残っている。
~今年正月廿三日夜のなんにあいし時も、此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり
――寺田屋騒動でおりょうに命を助けられたことを告げ、
~両りづれにて霧島山の方へ行道にて日当山の温泉ニ止マリ、又しおひたしと云温泉に行。此所ハお大隅の国ニて和気清麻呂がいおりおむすびし所、陰見の滝其滝の布ハ五十間も落て、中程にハ少しもさわりなし。実此世の外かとおもわれ候ほどのめづらしき所ナリ。此所に十日計も止りあそび、谷川の流にてうおおつり、短筒ピストヲルをもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかし
――夫婦で霧島に登り日当温泉、塩浸温泉に泊まり、和気清麻呂ゆかりの地で、犬飼の滝の景観に驚き、谷川では魚を釣り、鳥を撃ったり、大いに楽しんだと綴っている。
*写真=犬飼滝滝見台の掲示板2009年10月3日撮影
×  ×  × 幕吏と応戦した短筒と霧島で鳥を撃ったピストヲルは同じものだったのだろうか。同一だったと表記するものもあるが、龍馬の愛用した短筒は2丁あり、いずれもS&W(スミス&ウェッソン)製で、寺田屋騒動の際に紛失してしまい、のちに買い求めたという説もある。
 日本人初の新婚旅行は龍馬でなく薩摩藩士、小松帯刀(こまつ・たてわき)説があるのを、草野球音は今回の鹿児島の旅で初めて知った。龍馬に先立つこと10年、安政3年(1856年)、帯刀は妻ちかと結婚直後に霧島の栄之尾(えのお)温泉を訪れたことが、帯刀の日記に認められているそうだ。そういえば、薩長同盟も京都の帯刀邸で交わされたといわれており、龍馬の鹿児島湯治行には帯刀も同船している。龍馬と帯刀は昵懇であった。自らの経験からハネムーンを勧めた、つまり帯刀が先だったという説である。
 短筒、そして新婚旅行、さてどっち?