2009年6月18日木曜日

レオナール・フジタ展

パリ派の代表画家

 横浜駅東口のそごう美術館(そごう横浜店6階)で「レオナール・フジタ展」(6月12日~7月21日)を観る。
 「よみがえる幻の壁画たち 世界を魅了した天才画家、藤田嗣治。」と副題にあるように、藤田嗣治(Leonard Foujita1886年―1968年)の作品を集めた展覧会。壁画は、1992年にフランスのオルリー空港近くの倉庫で発見され、6年の歳月をかけ修復後、フジタの没後40年の昨年日本で公開され話題となった。その大作壁画4点と、日本で手掛けた作品、仏エソンヌ県のアトリエ再現、ランスの「平和聖母礼拝堂」建設の資料・習作などを展覧している。

 藤田嗣治は、エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家で、1920~1930年代「乳白色の肌」といわれた裸婦像がフランス画壇の寵児となった。戦時中の戦争画が、戦後になって批判・バッシングを受け、日本を離れた。日本に嫌気がさし1955年フランス国籍を取得し、1959年カトリックの洗礼を受けLeonard Foujitaになった。
 
×  ×  ×

 下世話だが、フジタは結婚を5度もしているだよね。最期を看取ったのは、5番目の妻・君代だった。その君代が今年4月2日亡くなった。98歳だった。彼女の遺骨は、ランスのフジタ礼拝堂に彼とともに眠っているそうだ。
2009年6月16日観覧

2009年6月13日土曜日

横山秀夫「ルパンの消息」

横山秀夫の処女作ルパンの消息 (光文社文庫)を読む。

 彼が上毛新聞社の記者時代にサントリーミステリー大賞に応募、佳作となり、作家生活への一歩を踏み出した作品。長らく未出版だったが、2005年に改稿し光文社カッパノベルズとして刊行された。今回(2009年)さらに加筆され文庫化された。

  15年前の女教師の自殺事案につき
  他殺の疑い濃厚との有力情報あり
  至急、帰署されたし

 平成2年(1990年)12月、忘年会の宴もたけなわ。某警察署の署長・後閑耕造(ごせき・こうぞう)に伝言が届いた。
 女教師嶺舞子(みね・まいこ)の自殺と処理していた案件は、実は殺しだった。
 タレコミ(有力情報)には容疑者の名前も特定され、「ルパン作戦」というキーワードも示されていた。容疑者は当時、高校生の喜多芳夫、竜見譲二郎、橘宗一の3人で、「ルパン」はたむろする喫茶店名だった。その喫茶店経営者・内海一矢は、「三億円事件」の有力容疑者であった。
 時効まで24時間と迫るなか、本庁捜査一課強行犯捜査第四係の係長・溝呂木義人(みぞろぎ・よしと)の指揮のもと、息を吹き返した女教師殺人事件の捜査が始まった。

 終盤、犯人が割り出され事件が解決されたかに見えるが、どんでん返しが待っている。



 高校生の生態に描写が多く割かれているあたりが、初期作品ゆえか。警察小説とは趣きが異なる。ただ、ここでの警察内部の組織や人間の描写が熟成され、「陰の季節」「動機」という後の出世作に繋がったと思う。
2009年6月13日読了

2009年6月11日木曜日

石本美由起:memoryⅤ

こまどり・島倉・ちあき

 石本美由起の告別式の模様を映し出したテレビの芸能ニュースで、久々にこまどり姉妹の姿があった。ふたりは古希を過ぎただろうか。昭和30年代の、三味線の撥(ばち)を力強く叩く、はちきれんばかりの面差はさすがになかったが、恩師を失った悲嘆の表情のなかにも凛とした雰囲気を漂わせていた。

 岡晴夫、美空ひばりを語れば、石本美由起は欠かせない。こまどり姉妹もまた、恩人である。


 こまどり姉妹、並木栄子と葉子の双生児は1938年(昭和13年)北海道厚岸生まれで、育ったのは樺太(サハリン)であった。敗戦後に引き揚げ、北海道を転々し、1951年に上京、浅草近辺で流しをしていたところをコロムビアにスカウトされた。
 デビュー作は浅草姉妹。1959年(昭和34年)、作詞・石本美由起、作曲は遠藤実である。
 ♪なにも言うまい 言問橋の
  水に流した あの頃は
 浅草を根城する流しの姉妹を題材とし、実生活を一部重ね合わせた詞となっている。
 
 この続編にあたる三味線姉妹(作詞・作曲とのみ遠藤実)がある。石本の詞ではないが、記しておく。♪お姉さんのつまびく三味線に 唄って合わせて今日も行く
 路地裏の屋台ののれんをくぐる姉妹の姿が浮かぶ。

 北海道を舞台にした詞もある。ソーラン渡り鳥だ。作詞・石本美由起、作曲・遠藤実で1961年の作品。
 ♪津軽の海を 越えて来た
  ねぐら持たない みなしごつばめ
 民謡「ソーラン節」を挿入した曲となっている。
 浅草、北海道、姉妹、三味線、渡り鳥――が、こまどり姉妹のキーワードとなった。ふたりがデビューを飾り、ヒット曲を連発した功労者は、石本美由起であり、遠藤実であった。

 島倉千代子の「逢いたいなァあの人に」「東京の人よさようなら」は1961年の石本の詞。
 ♪逢いたいなァ あの人に
  子供の昔に 二人して
  一番星を エー探したね
 作曲は上原げんと。

 ♪海は夕焼け 港は小焼け
  涙まじりの 汽笛がひびく
 「東京の人よさようなら」の作曲は竹岡信幸。いずれの2曲も島の娘をテーマにしている。

 今や伝説の歌手となった、ちあきなおみの演歌2曲がある。いずれも作曲・船村徹で、作詞はもちろん石本である。
 ♪明日のゆくえ さがしても
  この眼に見えぬ さだめ川
 「さだめ川」は1975年(昭和50年)の作品で、翌年の「矢切の渡し」は内容的にも姉妹曲である。
 ♪「つれて逃げてよ‥」
  「ついておいでよ‥」
  夕暮れの雨が降る 矢切の渡し
 「矢切の渡し」は「酒場川」のB面として発売されたが、1983年になって細川たかしがカバーして大ヒットし、レコード大賞に輝いている。また、翌1984年も五木ひろしの「長良川艶歌」で、石本は2年連続のレコード大賞曲の作詞家として名を連ねる。

 美空ひばりらの歌手ばかりでなく、石本美由起は古賀政男、上原げんと、船村徹、遠藤実らの作曲家との出逢いにより、名曲を後世に伝えることになる。人の縁に恵まれた作詞家の人生であった。(完)

×  ×  ×

 「矢切―」は、ちあきなおみの歌唱がいいなぁ。定番 歌カラ ベスト3 喝采/矢切の渡し/さだめ川

2009年6月6日土曜日

石本美由起:memoryⅣ

悲しい酒・人生一路

 美空ひばりの売上ベスト10曲を挙げる。
1.柔(1964年)180万枚=関沢新一作詞・古賀政男作曲
2.川の流れのように(1989年)150万枚=秋元康作詞・見岳章作曲
3.悲しい酒(1966年)145万枚=石本美由起作詞・古賀政男作曲
4.真紅な太陽(1967年)140万枚=吉岡治作詞・原信夫作曲
5.リンゴ追分(1952年)130万枚=小沢不二夫作詞・米山正夫作曲
6.みだれ髪(1987年)=星野哲郎作詞・船村徹作曲
7.港町十三番地(1957年)=石本美由起作詞・上原げんと作曲
8.波止場だよ、お父つぁん(1956年)=西沢爽作詞・船村徹作曲
9.東京キッド(1950年)=藤浦洸作詞・万城目正作曲
10.悲しき口笛(1949年)=藤浦洸作詞・万城目正作曲
さすがに歌謡界の女王。名曲は綺羅星の如く、である。

 作詞家でベスト10曲に二度顔を出しているのは、石本美由起と藤浦洸のふたり。作曲では古賀政男と船村徹で、このあたりが「女王ひばり伝説」を作った功労者たちと言っていいだろう。
 
 ひばりの代表作のひとつ「悲しい酒」が世に出たのは1966年(昭和41年)だった。作曲は古賀政男。
 これはどこぞで読んだ話である。石本は横浜駅西口にほど近いバーでホステスの語る身の上話から、
 ♪ひとり酒場で 飲む酒は
  別れ涙の 味がする
というフレーズが浮かんだ。
 好きな男と添えなかった女が、バーの止まり木に寂しく佇み、グラスを傾ける光景が浮かぶ。
 ♪酒よこころが あるならば
  胸の悩みを 消してくれ
 そして、夜が更けていく。

×  ×  ×

 「人生一路」は美空ひばりの人生のテーマ曲だった。1970年(昭和45年)の作品である。
 石本美由起の通夜に参列した美空ひばりの長男で、ひばりプロダクション社長の加藤和也が「先生には母の人生のテーマ曲というべき『人生一路』を作っていただいた」と、述懐していた。
 ♪一度決めたら 二度とは変えぬ
  これが自分の 生きる道
 作曲は、加藤和也の実父であり、ひばりの実弟であるかとう哲也である。かとう哲也は、俳優、歌手をしていたが、ひばりの七光りによる出演が多かったと記憶する。後に作曲を手掛けるようになる。母親・喜美枝、かとう哲也と香山武彦(旧芸名・花房錦一)のふたりの弟に先立たれ、肉親の縁の薄いひばりは、かとうの息子、加藤和也を養子として迎えた。
 かとう哲也はデビュー当時、小野透と名乗った。小野満から名をとった芸名で、ひばりと満は一時恋仲であり、ジャズの指導をしたことで知られる。あの紅白歌合戦で白組の演奏・指揮をした「小野満とスイングビーバーズ」のバンドマスターだ。
 ちなみに香山武彦のデビュー時の芸名は花房錦一で、これはひばりと親交の深い中村錦之助(後の萬屋錦之介)から「錦」の字を頂いた。
 「母の人生のテーマ曲」という加藤和也には、実父の手による作曲であり、「人生一路」に特別の思いがあったのではないか。歌うひばりも、愛した弟の作品であり、力の入れようは半端でなかった。名曲は綺羅星の如くだが、この一曲は特別だったと草野球音は看破する。
 ♪胸に根性の 炎を抱いて
  決めたこの道 まっしぐら
 どこまでも歌詞は人生を前へ突き進み、「花は苦労の 風に咲け」と結ばれている。頑固一徹な生き様を謳う詞に、ひばりは自分の人生を投影したのだろうか。(続く)
特選集/悲しい酒
かとう哲也作品集 人生一路

 

2009年6月4日木曜日

石本美由起:memoryⅢ

マドロス・港町・波止場

 「長崎のザボン売り」「憧れのハワイ航路」と相次ぎヒットを飛ばし、作詞家として踏み出した石本美由起は1951年、キングレコードからコロムビアに移籍する。ここで、作詞家人生で最も傾倒した歌い手・美空ひばりと出逢うことになる。今や伝説の域に達している“歌謡界の女王”に数々の名曲を残す。ひばりに捧げた詞は実に200余におよぶという。

 最初のヒット曲は「ひばりのマドロスさん」だろう。1954年(昭和29年)の作品。作曲は上原げんと。
 ♪縞のジャケツの マドロスさんは
  パイプ喫(ふか)して 
  アー タラップのぼる
 船員姿のひばりが瞼によみがえる。
 余談ながら、「マドロス」をデジタル大辞泉で引くと、『(オランダ)matroos=水夫、船乗り、船員』とある。最近、使わなくなった言葉である。

 ガキのころ好きだったのは「港町十三番地」だった。「みなとちょう」と読む『港町』は京浜急行・大師線の駅名にあり、その昔、発売元の日本コロムビアの工場があったそうだ。工場所在地は川崎市川崎区港町9番地。 「9」より「13」の方が語呂がよさそうだ。
 歌詞イメージからは、その舞台は横浜だろう。1957年の作品で、作曲は上原げんと。
 ♪長い旅路の 航海終えて
  船は港に 泊まる夜
 ハマの大桟橋から懐かしいそうにぶらり歩いく。行く先は決まっている。馴染みの酒場(バー)。長旅の疲れを癒す酒はウィスキーが似合う。紫煙の向こうに女がいる。
 ひとときの逢瀬の後には、早くも次の航海が待っている。逢うは別れの始めなのだ。船乗りの宿命(さだめ)とはいえ、
 ♪船が着く日に 咲かせた花を
  船が出る夜 散らす風
寂しい光景がある。

 「哀愁波止場」は1960年の作品。台詞がある。船村徹が作曲にあたる。
 ♪夜の波止場にや 誰あれもいない
  霧のブイの灯 泣くばかり
 出だしから高音部の咽(むせ)ぶようなひばりの歌声だった。新境地をさぐる意欲作だったが、ひばりの母親・喜美枝は「うちのお嬢になんて歌を歌わすの」と怒った話を、船村徹がテレビで述懐していた。高音から低音まで、類稀な音域を誇るひばりの歌唱が認められ、彼女はその年の日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。

×  ×  ×

 住み暮らし、終の棲家を横浜に決めた石本美由起。横浜・磯子の魚屋の娘、美空ひばり。ふたりの間には、流行り歌に命をかける同じ志があったと草野球音は思う。(続く)
哀愁波止場/ひばりのマドロスさん

2009年6月3日水曜日

石本美由起:memoryⅡ

ハワイへ行こう!

 ハワイについて補足する。
 「憧れのハワイ航路」が流行った戦後すぐにハワイへの観光旅行ができたわけではない。海外渡航の自由化は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)のことで、それ以前は留学・移民など目的を持った人にしか旅券(パスポート)発行されず、観光目的では簡単に出国できなかった。
 当時の為替レートは1ドル360円で、渡航者1人500ドル(18万円)までと持ち出せる外貨の制限もあった。
 1961年にサントリー・ウィスキーの「トリスを飲んでハワイへ行こう!」というテレビCMが大人気となった。1960年に政府が「貿易為替自由化大網」を発表し、海外旅行への道筋ができた。そのタイミングを捉えて海外旅行が自由化になり次第、ハワイへ行けるという賞品を掲げたのである。まさに「憧れのハワイ」に夢が膨らんだ。

 ハワイ観光が脚光を浴び出したのは、1959年米国の50番目の州と昇格してからだ。それまでは軍事基地の島であった(現在も米国太平洋艦隊の基地がある)。同年、アラモアナ・ショッピングセンターが完成し、イケメン探偵が活躍するテレビ番組「ハワイ・アイ」(1959年~1963年)が放送され、全米でハワイ・ブームが巻き起こった。この年の、観光客数は20万人だった。
 1967年に100万人、1972年200万人、1976年300万人、1982年400万人、1986年500万人と観光客数は増え続け、現在では年間700万人が訪れる世界的な観光の島となっている。そのうち日本人観光客は約2割。

 1885年に初めて官約移民が日本からハワイに渡った。先立つこと13年、1868年(明治元年)にハワイに移民していたが、徳川幕府と移民ブローカーとの間で交わされた協定で募集された移民で、発足直後の明治政府からは認められなかった。この日本人移民を“元年もの”と呼ばれた。
 1941年12月7日(日本時間は12月8日)日本海軍はホノルルの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入する。ハワイで生まれ育った日系アメリカ人の若者は忠誠心を誓い、志願兵となった。本土の日系人と合流し442連隊となり、欧州戦線で多くの戦死者を出しながらもアメリカのために勇躍した。

 成田空港からハワイ・ホノルル空港まで路線距離にして3,831マイル。1マイル=1.609kmで計算すると、太平洋を挟み6,164キロ隔てている。ハワイは日本人にとって、移民の歴史も古く、発火点となった太平洋戦争の因縁も深く、最も親近感のある海外といえる。

 ハワイで道草したが、本題の「石本美由起:memory」に戻ろう。(続く)
啼くな小鳩よ/東京の花売娘/憧れのハワイ航路