2009年5月31日日曜日

刑事・鳴沢了「疑装」

またまた小野寺冴登場

 堂場瞬一の「刑事・鳴沢了シリーズ」第9弾「疑装」(中公文庫)を読む。
 西八王子署管内で保護された、日本語は分かるようだが喋らない少年。鳴沢はどことなく勇樹と重なる彼を気遣うが、病院から忽然と消えてしまう。調査を進めると少年が日系ブラジル人であること、父親が罪を犯し、ブラジルに帰国したことが判明する。単なる失踪なのか、あるいは…強引に捜査に乗り出した鳴沢は、一路群馬に飛ぶ (「BOOK」データベースより)

 日系ブラジル人コミュニティと群馬県警との微妙な関係、またまた登場する元刑事の美人探偵、小野寺冴と事件との絡みも読んでのお楽しみだ。
 巻末で鳴沢了に、弁護士の宇田川から電話がかかってくる。服役中の石井敦夫の弁護をしているが、その石井から了に伝言だという。
 「お前は狙われている。気をつけろ」
 
×  ×  ×

 気になる内容ですな。石井敦夫は犯罪に走った警視庁捜査一課の元刑事です。シリーズ第6弾「讐雨」で登場しています。さて次作は「久遠」上下2巻で物語は展開されます。石井の伝言が次回作の導入部となりました。
2009年5月29日読了

石本美由起:memoryⅠ


憧れのハワイ航路

 先ごろ(2009年5月27日)85歳で亡くなった作詞家、石本美由起(いしもと・みゆき、本名・美幸)の残した名曲を辿り、備忘録「石本美由起:memory」としたい。

×  ×  ×

 高く晴れた青空に、岡晴夫の伸びやかな歌声が響きわたった。敗戦から3年、その後遺症の影を落とす昭和23年(1948年)、日本人に希望を与えた。「憧れのハワイ航路」岡晴夫 BEST★BESTの大ヒットは、石本美由起の名を轟かせた。作曲は、「月月火水木金金」「赤いランプの終列車」で知られる江口夜詞(えぐち・よし)である。
 ♪晴れた空 そよぐ風
  港出船の ドラの音愉し
 海外旅行など庶民には無縁の時代であった。太平洋を隔て常夏の島がある。航空機より船の渡航が当たり前だった。おそらく横浜の大桟橋あたりだろう。出航のドラが鳴り、五色のテープが舞う。往く人、送る人の満面に笑顔がある。
 いざ、ハワイへ出発すると、気分はさらにリラックス、2番の歌詞では‥‥
 ♪ひとりデッキで ウクレレ弾けば
  歌もなつかし あのアロハ・オエ
と、平和が訪れた今、心の底からハワイ航路を愉しでいる。

 日本海軍が米国の太平洋艦隊の基地オアフ島真珠湾を航空攻撃したのは、1941年12月8日未明のことだった。ここに日米決戦の火蓋が切られた。ハワイは戦争の発火点でもあった。
 その因縁の地へ暗く耐える戦時を経て、旅ができるようになった。海外旅行はもちろんのこと、国内の旅でさえ覚束ない一般大衆は、オカッパルの歌声に、必ず訪れる明るい時代への予兆を感じたのではないか。

 日本人のハワイ好き・信仰は、この詞から始まった、と草野球音は推測する。

 1924年広島県大竹の出身。「憧れのハワイ航路」は、大竹の港から別府へ向かう航路の風景がモチーフになったという。デビューは、「長崎のザボン売り」で歌謡同人誌に投稿した詞が、関係者の目にとまり、江口夜詞が曲をつけ小畑実が歌いヒットしている。同じ1948年にリリースした2作目の「憧れのハワイ航路」で、石本美由起はプロ作詞家として一本立ちしたのだった。(続く)
啼くな小鳩よ/東京の花売娘/憧れのハワイ航路

2009年5月28日木曜日

飛騨路でバッタリ鉄舟

剣・書・禅の達人

 飛騨路で“鉄舟”に出くわした。ぶらり旅に出る。物見遊山である。名所である高山陣屋を観る。
 そこに剣・書・禅の達人であり「江戸無血開城」の交渉人、山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう、1836年―1888年)がいたのだ。陣屋の展示品に彼の書などがあった。
 ところで、鉄舟と高山陣屋との繋がりを、知っていますか?
 鉄舟の父、小野朝右衛門高福(おの・あさえもんたかよし)は飛騨郡代として高山陣屋に赴任していて、彼は幼少時代を飛騨高山で過ごしている。実は草野も浅学で見学するまで知らず、飛騨路で鉄舟に出逢うとは思いもしなかった。
 鉄舟については、『山本一力:「背負い富士」(2009年2月21日記)』の稿で清水次郎長との交誼を書いたが、再び触れておく。
 ときは官軍と幕府軍が戦った戊辰戦争の時代。榎本武揚は箱館へ海路脱出する際、咸臨丸が暴風雨に遭い破船し清水港に停泊した。そこを官軍に襲われ船員全員が死亡した。賊軍としてその遺体は放置されていた。次郎長は遺体を引き上げ埋葬した。いきさつを知った鉄舟は次郎長と意気投合、「壮士之墓」を揮毫(きごう)して与えた。
 また、西郷隆盛と勝海舟の江戸無血開城の会談をお膳立て、江戸を戦火から救った幕臣として知られる。江戸城開戦の準備を整える官軍が駐留する駿府にたどり着き、西郷に直談判し、無血開城の下交渉を行っている。
 明治維新後は西郷のたっての依頼で明治天皇に10年間限定の約束で侍従として使えている。
 身長六尺二寸(188㌢)体重二十八貫(105㌔)の偉丈夫であった。
×  ×  ×
 陣屋とは、江戸時代に郡代や代官が治世を行った場所で、役所や役宅、御蔵などを総称して呼んだそうです。高山陣屋は金森氏が支配していましたが、元禄5年(1692年)から幕府の天領(直轄地)となっています。飛騨とは、旧国名で、現在の岐阜県の北部に相当します。
「ときは元禄15年12月14日」――忠臣蔵の討ち入りがあった元禄年間(1688年~1703年)。5代将軍、綱吉の時代です。
2009年5月24日観覧

2009年5月21日木曜日

築山桂「北前船始末」

緒方洪庵と種痘

 築山桂の「緒方洪庵 浪華の事件帳」の第2弾『北前船始末』(双葉文庫)を読む。
 前作の「禁書売り」同様に4つの話からなる連作。
・第一話「神道者の娘」
・第二話「名目金貸し」
・第三話「北前船始末」
・第四話「蘭方医」
 表題をとった「北前船始末」がシロイヌ。緒方章(後の洪庵)が北前船の抜け荷をめぐる事件に巻き込まれる。船頭・卯之助が松前から荒波を越え大坂に連れてきた少女・おゆきの身にある秘密が隠されていた。

×  ×  ×

 緒方洪庵の功績に、大村益次郎、福澤諭吉らの人材育成と並んで種痘の普及がある。
 江戸時代にはあばた顔の人が多かった。「あばた」とは、疱瘡(天然痘)に罹った人にできる斑点をさした言葉で、天然痘は当時最も恐れられていた病のひとつだった。天然痘を予防し、患っても軽い症状ですむ接種法を種痘といい、牛痘種痘法による種痘を開発したのは、英国のエドワード・ジェンナーEdward Jenner(1749年―1823年)だった。1796年のことだった。
 日本で種痘を一番初めに成功させたのは、遅れること50年、嘉永2年(1849年)、長崎でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年―1866年)に直接指導を受けた佐賀藩医の楢林宗建(ならばやし・そうけん1802年―1852年)だった。その種痘を日本に広めたのが洪庵である。

×  ×  ×

 第三話「北前船始末」では、種痘の問題を取り上げている。20歳の緒方章が、種痘に興味を持つ発端を描いている。修業時代の章から、後の洪庵の業績を結びつけた作者の着想が読ませる。
 章と、男装の麗人・左近の恋の行方はどうなるのだろうか。それにしても、左近のキャラクターは実に魅惑的である。
2009年5月19日読了

2009年5月16日土曜日

二束のわらじ川上澄生

版画家にして英語教師

 ぶらり散歩に出る。横浜駅東口のそごう美術館(そごう横浜店6階)で『文明開化を描いた版画家 川上澄生展』(5月9日~6月7日)を観る。
 横浜開港150周年ということで、横浜・紅葉坂生まれで黒船やペリーなど文明開化の風物を制作した版画家・川上澄生(かわかみ・すみお)の約500点の作品を展示している。

 川上(1895年―1972年)は6歳で東京に移住しているので、横浜での生活は短い。幼少時の文明開化の匂いが濃厚に漂うふるさと横浜に、強い郷愁を感じ作品のモチーフとしていた。
 展示を通して観ると、横浜・文明開化・南蛮というキーワードの作品もさることながら、木版画、木版の絵本、ガラス絵、革絵、木工品、書籍装丁など多岐多彩多作のクリエーターであることを知った。この多作のほとんどが、昼は教壇に立ちながら、夜にせっせと作りあげたとは恐れ入る。
 22歳でカナダ、アラスカへと渡り、帰国後の1921年に栃木県宇都宮中学(現・宇都宮高校)の英語教師となった。疎開先の北海道・苫小牧(苫小牧中学=現・苫小牧東高校)、さらに戦後に宇都宮女子高校でも教鞭をふるっている。版画に専念したのは63歳の退職後だったという。生涯に数千点の作品を生み出した。

 作品のなかでは、「へっぽこ先生」という木版画が気に入った。左手に風呂敷、右手にステッキ、山高帽子に三つ揃いの背広、眼鏡をかけた紳士が田舎道を歩いている。これは川上澄生自身の姿だろう。観ていると、ユーモラスであり、ほのぼのしてくるのだ。
2009年5月14日観覧

2009年5月14日木曜日

築山 桂「禁書売り」

緒方洪庵が事件に挑む

 築山桂の「禁書売り~緒方洪庵 浪華の事件帳」(双葉文庫)を読む。
 この本に惹かれたというか、トリガーになったのは「緒方洪庵」だった。緒方洪庵(1810年―1863年)は、大村益次郎、福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内を輩出した蘭学の私塾「適塾」(正式には『適々斎塾』)の主宰者であり、幕末から明治にかけての日本近代化の功労者のひとりだ。その歴史上の実在した人物が事件に関わるという、副題に興味を持って手にしたのだった。

 これは超シロイヌである。特に男装の麗人、左近が魅力的だった。
 大坂の蘭学塾「思々斎塾」で勉学に励む緒方章(後の洪庵)は、師匠の中天游(なか・てんゆう)のため禁制の蘭学書を購入しようと、禁書売りと接触する。ところが取引の場所で、禁書売りは殺されていた。
 困惑する章の前に現れたのは、大坂の町を護る「在天」の左近という男装の娘だった。
・第一話「禁書売り」
・第二話「証文破り」
・第三話「異国びと」
・第四話「木綿さばき」
 一話ごとに章と左近が事件を解決するが、物語は進行する連作となっている。
 副題に「浪華」とあるように、江戸時代の大坂が舞台となっている。作者の大坂に対する想いがあるのかもしれない。築山桂(つきやま・けい)は大阪大学院卒の既婚女性だそうだ。

×  ×  ×

 NHKで緒方章に窪田正孝、左近に栗山千明のキャストで「土曜時代劇・浪花の華~緒方洪庵事件帳」として今春まで放送されていた。
2009年5月13日読了

2009年5月12日火曜日

あの名台詞:瞼 の 母

*女優・森光子主演の舞台「放浪記」が、2009年5月9日の東京・帝国劇場で上演回数2000回を達成した。林芙美子役は初演の1961年以来の持ち役で、単独主演回数としては国内最高、世界にも例をみない大記録である。この記念すべき日に89歳の誕生日を迎えた。
 政府は5月11日、森光子に国民栄誉賞を授与することで検討に入った。

×  ×  ×
 森光子の「放浪記」初演は昭和36年、遅咲きの森41歳のことだった。
 当時の芸能界は、歌謡界では17歳下の美空ひばり、映画界では14歳下の石原裕次郎がすでにスーパースターであった。植木等の「スーダラ節」がヒットした年で、時代劇映画も全盛で、東映の中村錦之助(後の萬屋錦之介)、大映の市川雷蔵が銀幕に颯爽と輝いていた。錦之助は12歳、雷蔵は11歳年少で、ひばり、裕次郎とも鬼籍に入っている。
・美空ひばり(1937年―1989年)
・石原裕次郎(1934年―1987年)
・中村錦之助(1932年―1997年)
・市川雷蔵(1931年―1969年)

×  ×  ×
 さて、長谷川伸の「あの名台詞:瞼の母」である。「瞼の母」はもともと戯曲で、舞台、映画で番場の忠太郎は数多く演じられたが、草野球音にはなんといっても中村錦之助の映画瞼の母 [DVD](監督=加藤泰・東映)である。錦之助が忠太郎を演じたのは、森の「放浪記」初演の翌年の昭和37年、1962年だった。
 あの頃の錦之助は目が光っていたなぁ。演技の熱がスクリーンから伝わるようだった。

 幼い頃に母と別れ、父とも死別した番場の忠太郎は、やくざ渡世に身を置く一本独鈷。母を訪ねて江戸へと着いた。夜鷹の老女から柳橋の料理屋・水熊の女将が昔、江州番場宿で子どもを残してきたと聴く。まだ見ぬ母の生活資金と貯めた百両を懐に、忠太郎は水熊の女将おはまに会いに行く。

おっかさん、忠太郎でござんす。

 おはまにはお登世という娘があり、娘のために忠太郎を自分の子でないと突っぱねる。夢にまでみたおっかさん、逢わなければよかったのか。悲嘆にくれる忠太郎が泣かせる。

考えてみりゃあ俺も馬鹿よ、
幼い時に別れた生みの母は、
こう瞼の上下ぴッたり合せ、
思い出しゃあ絵で描くように見えてたものを
わざわざ骨を折って消してしまった。

おはま役は木暮実千代で、親子対面の場では忠太郎役の錦之助とやりとりは、緊迫感があった。お登世役は大川恵子、老夜鷹には沢村貞子が扮した。錦之助の弟分、金町の半次郎役で松方弘樹が出演している。

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 中村錦之助と森光子は1965年に「冷飯とおさんとちゃん」(監督=田坂具隆・東映)で共演している。山本周五郎の原作「ひやめし物語」「おさん」「ちゃん」3編の映画化だが、このオムニバス映画で錦之助は3役をこなしている。ふたりは第3話「ちゃん」で、火鉢職人と4人の子持ちの妻役を演じた。

2009年5月8日金曜日

ちょいmemo:カトリス

グアテマラ

♪うちのダンナは グアテマラ生まれ
 蚊に効くカトリス 好きだった~

‥ステキな歌ね

 妙に気になるのだ。あの歌声が‥‥。
 小池栄子がマッサージを受けている。場所はアジアンリゾートだろうか。マッサージをしながら、東南アジア系と思(おぼ)しきおばさんが歌っている。最近、草野が気に入っているKINCHOの殺虫剤CMである。
 意表を突く「グアテマラ」という語感が新鮮だ。

 グアテマラは中央アメリカ北部に位置する共和制国家で、北にメキシコ、東にホンジュラス、南東にエルサルバドルの国境を接し、北東にカリブ海、南は太平洋に面している。首都はグアテマラ市。人口1400万人。コーヒー、砂糖、バナナの生産が盛ん。

 という、どうでもいい駄話でした(笑)。

2009年5月7日木曜日

居眠り磐音「冬桜ノ雀」

盲目の老剣士
 佐伯泰英の“居眠り磐音江戸双紙シリーズ第29弾「冬桜ノ雀」”(双葉文庫)を読む。
 次期将軍とされる家基が悪夢に襲われ、生命の危機に瀕する。かって武名を轟かせたタイ捨流達人、盲目の老剣士と、その孫の女武芸者の仕業だが、剣士は生きていれば齢100歳を超えるという。磐音を討つべく刺客も、とうとうオカルトまがいの登場人物となり、いささか荒唐無稽の感を逃れられない。
 いずれにせよ史実によれば、「幻の11代将軍」家基は安永8年(1779年)に急逝するので、死期が迫ったことになる。このシリーズでは、どのような展開になるのだろうか。

 もうひとつの興味は、磐音とおこんに子宝は授かるのか。ふたりの夜の営みを想像させる場面を佐伯泰英が珍しく二度ほど登場させたのは、ベビー誕生の伏線と草野球音はみたがどうだろうか。次回以降に二世が見られるか。

 千利休ゆかりの茶碗をめぐる武家の諍(いさか)い、脱獄囚の能楽の丹五郎一味の捕物のエピソードも盛られている。鼠志野の茶碗で登場する高家瀬良家の殿様が、なにやら「忠臣蔵」の吉良上野介を彷彿させるキャラクター。丹五郎一味の捕縛事件には、笹塚孫一、木下一郎太、竹村武左衛門ら懐かしい顔も揃い、シリーズらしい展開となっている。
2009年5月5日読了

2009年5月3日日曜日

子どもの国ルーヴル展

寛政5年の開館

 ぶらり散歩に出る。東京・六本木の国立新美術館で「ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち」を観る。
 さまざまな時代・地域・分野を超えた美術の中に表現された「子ども」の姿を、ルーヴル美術館の所蔵品から鑑賞する展覧会(2009年3月25日~6月1日)。古代エジプト美術、古代オリエント美術、古代ギリシャ・エトルリア・ローマ美術、絵画、彫刻、美術工芸品、素描・版画の7部門から約200点が展示されている。
 見どころは古代エジプトの子どものミイラ、ルーベンスの素描、ティツィアーノの絵画あたりか。なかでも、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの『聖母子と聖ステパノ、聖ヒエロニムス、聖マウリティウス』が目を引いた。
2009年4月30日観覧

×  ×  ×

 ルーヴル美術館ですが、40年ほど前に現地で見学したことがあります。やたら広い館内と、セーヌ川の心地よい川風が、印象に残っている程度で、若気の至りで作品を鑑賞するレベルではありませんでした。今となっては痛恨事です。

 ルーヴルの歴史は古く、フランス革命のさなかの1793年に王室コレクションを紹介する「中央芸術博物館」として開館したのが、その始まりだそうです。日本では寛政5年のことになります。老中の松平定信が主導した「寛政の改革」が行われ、11代将軍の徳川家斉の時代です。16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人の子を儲けた、あの「オットセイ将軍」です。
 ルーヴル展とかけて徳川家斉ととく、そのこころは、「子どもがいっぱい、子沢山」でした。いささか苦しまぎれのオチで〆(しめ)ます。