2008年9月20日土曜日

ザ・ファースト・サムライ

立石斧次郎

 トミーこと立石斧次郎(たていし・おのじろう=1843年―1917年)は、幕末期にアメリカで最も有名な日本人だった。全米に初めて知られた“ザ・ファースト・サムライ”であった。

 こんな御仁がいたのか。関心を抱いた。ぶらり散歩の横浜開港資料館で観た、若い侍が映っている写真である。その説明文を要約すると、「1860(万延元)年の遣米使節団に同行した16歳の通詞見習、立石斧次郎。アメリカの婦人方に人気で“トミー・ポルカ”という流行歌まで作られた」と記されていた。

 トミーの養父がオランダ語通詞の立石得十郎である。1853(嘉永6)年のペリー来航時に、
“I can speak Dutch”(拙者はオランダ語を話せる)
と日米外交史の口火を切ったのは、堀達之助(ほり・たつのすけ=1823年―1894年)だった。翌嘉永7年、マシュー・C・ペリーMatthew Calbraith Perry(1794年―1858年が再来日し、日米和親条約を締結した際の首席通詞は森山栄之助(もりやま・えいのすけ=1820年―1871年)だった。立石得十郎は、2度にわたるペリー来航の際、堀や森山を手助けしている。

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 以下は遣米使節団に加わるまでのトミーの略歴――。
1843(天保14)年、直参旗本の次男として生まれる。幼名は「為八」。ペリー来航後に、母方の親戚である立石得十郎の養子となり、最初にオランダ語、次いで英語を学ぶ。和親条約締結後にタウンゼント・ハリスTownsend Harris(1804年―1878年)が下田に在住すると、得十郎は下田詰めとなる。トミーは下田で森山栄之助や、ハリス、ハリスの通訳ヒュースケンHenry Conrad Joannes Heusken(1832年―1861年)に英語を学ぶ。若くしてネイティブに接したトミーの英語は上達する。

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 日本初の遣米使節団は、1860年、日米修好通商条約(1858年締結)の批准書交換のため、徳川幕府が編成した組織で、正使新見豊前守正興、副使村垣淡路守範正、そして目付小栗上野介豊後守忠順とする総勢77名である。一行は同年2月、アメリカが提供した軍艦ポーハタン号に乗り込んで渡米した。その護衛艦として随行したのが咸臨丸である。提督には軍艦奉行の木村攝津守、艦長には軍艦操練教授方、勝麟太郎が任命された。ちなみに通詞にはジョン・万次郎、木村攝津守の従者として福沢諭吉がいた。

 使節に選ばれた立石得十郎は養子トミーの同行を願い出た。許可され、晴れて16歳のトミーは通詞見習の身分として使節のメンバーとなった。

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