2008年9月28日日曜日

東野圭吾「容疑者Xの献身」

東野圭吾の「容疑者Xの献身」(文春文庫)を読む。
シロイヌだね。何かって? 尾も白い(面白い)――。












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専ら時代小説、江戸ノベルを読んでいるが、たまには口直しもする。天才物理学者の湯川学を主人公とした「探偵ガリレオ」「予知夢」なども読んでいる。東野圭吾はこの「容疑者Xの献身」で直木賞を受賞している。5度ノミネートされ落選していた東野なので、悲願の受賞といえるかもしれない。

 またフジテレビの「月9ドラマ」で、福山雅治、柴咲コウ主演の「ガリレオ」も観ていた。この劇場版として「容疑者Xの献身」(東宝:西谷弘監督)が映画化されたという。

 湯川学(福山雅治)と並ぶこの作品での主人公である、天才数学者の石神哲哉役は堤真一だそうだ。湯川の帝都大学の同窓生であり、「ダルマの石神」と異名を持ち、現在頭髪が薄くなったメタボ風の体型と堤とは似つかわしくないように思えたが、映画評なども概ね堤の演技は好評である。意図があってのキャストだし、草野球音が心配することではないだろう。
 小説の最後では、留置所で石神は花岡靖子(松雪泰子)が出くわし、号泣するが、映画ではどう描かれるのだろうか。

2008年9月25日木曜日

756号が飛んできた!

王貞治の辞任

 博多の夜が咽(むせ)び泣いた。

 せめて勝っていたら‥‥。勝って終われらせてあげたかった。
昨日から新聞を読みテレビを観ながら、涙が出てならない。堪(こら)えると、今度は鼻水が止まらなくなった。歳をとると、どうもシマリがなくなってけねぇや。

 2008年9月23日に辞任を表明したプロ野球福岡ソフトバンク・ホークスの監督、王貞治(68)は翌24日本拠地福岡ヤフードームでの本拠地最終戦に臨んだ。試合はオリックスに1―4と、ラストゲームを飾ることはできなかった。
 試合後、集まった観衆3万5526人に辞任を報告した王は、ナインから胴上げされ、美しく舞った。そして去った。

 通算本塁打数868本を記録し「世界の王」といわれた栄光の現役22年、日本一2回、世界一(WBC)1回を成し遂げた監督19年――これが、不世出のプロ野球人の最後のユニホーム姿なのだろうか。

×  ×  ×

 あれは1977(昭和52)年9月3日だった。あのとき、球史に残る打球は、目の前に飛んできた。
 後楽園球場で行われた巨人―ヤクルト戦。王はヤクルトの鈴木康二朗からハンク・アーロンの持つ世界記録を破る756号を右翼席に叩き込んだ。
 当時担当のヤクルトは優勝争いからはずれ、注目は王の世界記録一色だった。担当球団の取材を離れ、右翼席に世界新の本塁打が放たれることを予想して、試合開始から陣取っていた。そこに756号が飛んできたのだった。
 打球を捕った(拾った)男性は、歓喜のファンが殺到し、もみくちゃになった。
 その男性は、スタッフに護られて球場事務所に駆け込んだ。貴重なホームランボールを渡し、その替わりに記念品と王のサイン入りボールと色紙を手にした。
 汗びっしょりの取材だったと、記憶している。

 打たれた鈴木康二朗は奮起して、翌1978年13勝を稼ぎ、ヤクルト球団史上初めてのリーグ優勝・日本一に貢献した。近鉄に移籍後も救援投手として活躍した。

 後楽園球場には、世界新の打球が落下した右翼席の地点に記念のモニュメントが設置された。現在は、東京ドーム内の野球博物館に飾られている。

2008年9月20日土曜日

ザ・ファースト・サムライ

立石斧次郎

 トミーこと立石斧次郎(たていし・おのじろう=1843年―1917年)は、幕末期にアメリカで最も有名な日本人だった。全米に初めて知られた“ザ・ファースト・サムライ”であった。

 こんな御仁がいたのか。関心を抱いた。ぶらり散歩の横浜開港資料館で観た、若い侍が映っている写真である。その説明文を要約すると、「1860(万延元)年の遣米使節団に同行した16歳の通詞見習、立石斧次郎。アメリカの婦人方に人気で“トミー・ポルカ”という流行歌まで作られた」と記されていた。

 トミーの養父がオランダ語通詞の立石得十郎である。1853(嘉永6)年のペリー来航時に、
“I can speak Dutch”(拙者はオランダ語を話せる)
と日米外交史の口火を切ったのは、堀達之助(ほり・たつのすけ=1823年―1894年)だった。翌嘉永7年、マシュー・C・ペリーMatthew Calbraith Perry(1794年―1858年が再来日し、日米和親条約を締結した際の首席通詞は森山栄之助(もりやま・えいのすけ=1820年―1871年)だった。立石得十郎は、2度にわたるペリー来航の際、堀や森山を手助けしている。

×  ×  ×

 以下は遣米使節団に加わるまでのトミーの略歴――。
1843(天保14)年、直参旗本の次男として生まれる。幼名は「為八」。ペリー来航後に、母方の親戚である立石得十郎の養子となり、最初にオランダ語、次いで英語を学ぶ。和親条約締結後にタウンゼント・ハリスTownsend Harris(1804年―1878年)が下田に在住すると、得十郎は下田詰めとなる。トミーは下田で森山栄之助や、ハリス、ハリスの通訳ヒュースケンHenry Conrad Joannes Heusken(1832年―1861年)に英語を学ぶ。若くしてネイティブに接したトミーの英語は上達する。

×  ×  ×

 日本初の遣米使節団は、1860年、日米修好通商条約(1858年締結)の批准書交換のため、徳川幕府が編成した組織で、正使新見豊前守正興、副使村垣淡路守範正、そして目付小栗上野介豊後守忠順とする総勢77名である。一行は同年2月、アメリカが提供した軍艦ポーハタン号に乗り込んで渡米した。その護衛艦として随行したのが咸臨丸である。提督には軍艦奉行の木村攝津守、艦長には軍艦操練教授方、勝麟太郎が任命された。ちなみに通詞にはジョン・万次郎、木村攝津守の従者として福沢諭吉がいた。

 使節に選ばれた立石得十郎は養子トミーの同行を願い出た。許可され、晴れて16歳のトミーは通詞見習の身分として使節のメンバーとなった。

2008年9月13日土曜日

歴史を見た「たまくす」

横浜開港資料館にて

 ぶらり散歩に出る。
 横浜開港資料館(横浜・中区日本大通3=みなとみらい線「日本大通り」駅3番出口から徒歩2分)を見学する。旧館は1972年(昭和47年)まで英国総領事館だった。横浜指定文化財となっている。新館には横浜開港に関連した資料・地図・写真・かわら版などが展示されている。
 旧館と新館に囲まれた中庭に大木のタブノキがある。タブノキはクスノキ科の常緑高木で、この木は通称「たまくす」、知る人ぞ知る「有名木」なのである。
 その「たまくす」が、最近弱り気味のため、周囲の土を掘り返し、土中に空気を送り栄養を補給する土壌改良作業を行うことになった。作業中に、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊・焼失した英国総領事館の外塀の瓦礫(がれき)が大量に見つかったという記事が、2008年9月11日付の朝日新聞横浜版に載った。

 歴史を見てきた「たまくす」である。
かなり有名な話なので、どこぞで見聴きしたことがあるかもしれないが、なぞってみる。
 1853年、嘉永6年6月、マシュー・C・ペリーMatthew Calbraith Perry(1794年―1858年)提督が米国艦隊4隻を率い、フィルモア大統領国書を持って浦賀にやってきた。江戸の幕府に開港を強く迫った。世にいう「黒船来航」である。泰平の眠りに冷や水をかけられた。
 大慌ての幕府は、将軍・家慶の病気(ペリーの離日10日後に死去)を理由にお引取り願ったが、翌嘉永7年(1854年)の正月に再度来航したペリーの開戦も辞さずの強硬姿勢に、断れ切れず日米和親条約を結んだ。ここに鎖国の門はこじ開けられた。
 日米和親条約締結の地が、当時小さな農漁村の横浜の、現在の開港資料館あたりであった。「たまくす」は、ペリーが横浜村に上陸した時に、傍観していたのだ。ペリー艦隊の随行画家ウィリアム・ハイネWilliam Heine(1827―1885)の「横浜上陸」や「水神の祠」などに背景として描かれている。
 1858(安政5)年の日米修好通商条約締結を経て、翌1859年に横浜開港となっている。
 1866(慶応2)年の大火では「たまくす」は樹形が変わるほど焼失したものの生きながらえ、さらに1923年の関東大震災では樹木は消滅したが、その根から芽を吹き、生命は絶えることがなかった。まさに奇跡の木といえる。
 土壌改良作業の際、出土したのは、関東大震災時の瓦礫であったのだ。
×  ×  ×
 来年2009年に、横浜は開港150年を迎える。150年間生き生きと青葉茂る、横浜の「生き証人」である「たまくす」はなに想うのか。

2008年9月7日日曜日

「七つの顔」を持った男

岸田吟香

 ヘボンの和英辞書「和英語林集成」刊行、ジョセフ彦の新聞発行に尽力した岸田吟香(きしだ・ぎんこう=1833―1905)は、「七つの顔」を持った男だった。

 ある時は片目の運転手、またある時は気障な中国人‥‥そして、その実体は藤村大造‥‥。あの片岡千恵蔵「七つの顔の男」シリーズのような御仁なのだ。

 中小姓・儒官・妓楼の主人・辞書編纂者・新聞記者・実業家・教育者――など岸田の生涯の様変わりは激しく、面白い。

 岸田の生まれは美作国(みまさかのくに)で百姓だが、勉学を志した。1856年(安政3年)、三河拳母(みかわころも)藩の中小姓、後に儒官と昇任したが、脱藩。深川で湯屋の三助で糊口(ここう)を凌ぎ、その後吉原で妓楼の主人となった。当時の名前が銀次で、仲間うちで「銀公」と呼ばれていた。
 目を患い、眼科医として知られるJ・Cヘボン(1815―1911)を訪ね治療を受ける。その縁で、「和英語林集成」の編纂を手伝うようになる。1864年、ジョセフ彦(1837―1897)を執筆でサポートし、日本初の新聞を発行している。
 当時の日本には活版印刷機がなかったため、辞書の印刷のため、上海に渡る。そこでは、日本語のカナ文字がなく、岸田が手書きした版下を基に活字を鋳造している。1867年(慶応3年)「和英語林集成」刊行に漕ぎつける。その年、ヘボンから伝授された目薬「精錡水」(せいきすい)を発売する。
1873年(明治6年)、東京日日新聞に主筆として迎えられ、台湾出兵の際には日本初の従軍記者で活躍する。1877年には売薬事業の楽善堂を開き、事業で成功を収める。福祉活動にも積極的に参加し、1880年には盲人教育を目的とした薬善会訓盲院(現筑波大学附属盲学校)を設立した。

 波瀾万丈の岸田吟香であった。

2008年9月4日木曜日

麗しのオードリーと同名

  我々が日常的に使っているヘボン式ローマ字を創始したのが、ジェームズ・カーティス・ヘボンJames Curtis Hepburn(1815―1911)である。アメリカ人で宣教師であり、医師であった。

 ヘボンHepburnは、あの名優のオードリー・ヘプバーンAudrey Hepburn(1929―1993)キャサリン・ヘプバーンKatharine  Hepburn(1907―2003)と同じ綴りの苗字で、当時の日本人が耳で聞いた通りの発音で「ヘボン」となったと推測する。

 かのヘボンは、日米修好通商条約が締結され、翌1959年(安政6年)開港したばかりの横浜に来日した。まず住んだのが、宣教師宿舎にあてられた神奈川成仏寺であった。3年後に横浜居留地39番に移り住んでいる。人形の家(中区山下町)に近い横浜地方合同庁舎の前には、「ヘボン博士邸跡」の石碑がある。

 日本初の和英辞典「和英語林集成」を編纂、三国平文の名で出版している。その表記に生まれたのがヘボン式ローマ字だったそうだ。また、英語教育にも貢献し、1863年(文久3年)横浜にヘボン塾を開いたり、明治学院の創設に尽力している。

 日本に33年間滞在し、1892年(明治25年)にアメリカに帰国している。

 ヘボンの「和英語林集成」編纂を手伝ったは、ジョセフ彦の日本初の新聞発行に協力した岸田吟香(1833-1905)だった。