2008年6月28日土曜日

伊勢佐木町ブルース

 寂しいニュースが流れた。

――大丸、松坂屋の持ち株会社であるJ・フロントリテイリングは2008年6月24日、横浜松坂屋(横浜市)の閉鎖とスーパーなど関連3事業の子会社の再編を発表した。百貨店の閉鎖は昨年9月の経営統合後初めて。不採算店舗のほか、事業が重複する百貨店子会社を整理し、統合効果を高める。

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 横浜松坂屋は幕末の1864年、生糸商人の茂木惣兵衛(1827年―1894年)が創業した「野澤屋呉服店」を前身とする。1974年に「ノザワ松坂屋」、1977年に「横浜松坂屋」と変遷し、2003年に松坂屋の100%子会社となっている。
 名古屋の松坂屋本家は、もとは「いとう屋」という屋号で、これは織田信長の小姓を務めていたとされる創業者、伊藤蘭丸祐道の苗字から由来している。

 横浜松坂屋といえば、横浜を代表する百貨店で、伊勢佐木町のシンボル的存在だった。伊勢佐木町は、明治期から昭和40年代まで横浜随一の賑わいを誇っていた。近年、横浜駅西口の再開発、東口の発展、みなとみらい地区の隆盛に押され気味で、横浜松坂屋の閉店もこのあたりに原因がありそうだが、依然、元町とともに横浜有数の繁華街であることに間違いない。

 大学生の頃、よく伊勢佐木町をぶらついた。ザキブラである。生まれの育ちも川崎だが、横浜に吹く風はハイカラな、粋な匂いがする。有隣堂本店は洋書が充実していたなぁ。在留の外国人(特にアメリカ人)が犬を連れ、散歩する姿があった。そこは、憧れのアメリカ合衆国へ繋がっているように思えた。
 当時、根岸屋はまで営業していた。戦後すぐに、進駐軍の盛り場、バーとしてGI、娼婦、893の「御用達」の店であった。混乱期の日本の縮図のような酒場だった。
不二家、オデオン座、丸井など懐かしい街を彩っていた。

 伊勢佐木町ブルースが流行ったのは、その頃である。1968年(昭和43年)に、青江三奈(1945年―2000年)が独特のハスキーボイスで歌った。作詞・川内康範、作曲・鈴木庸一、編曲・竹村次郎であった。「アァ、アァ‥‥」という導入部分の溜め息が、意表を突き、セックスを連想させるためだろうか、NHK紅白歌合戦では溜め息を喇叭(カズー)の音に変え、歌唱している。

♪伊勢佐木あたりに 灯がともる
 恋と情けの
 ドゥドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥバー
 灯がともる

 「ドゥドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥバー」なんて、クラブでジャズを歌っていた青江三奈だからサマになったのだろう。都会的なムード歌謡だった。青江の没後、伊勢佐木町4丁目イセザキモールに、歌碑が建立された。

 草野球音の瞼の裏では、伊勢佐木あたりの灯はいつも点(とも)っている。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

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