2008年6月29日日曜日

シュダヴは後悔の表現

You should’ve turned the heat off.
(火を消しておかなくちゃダメだよ)

 
 NHKテレビ英語講座「英語が伝わる100のツボ」は、月~木の週4回放送している。1回わずか10分という短い番組だが、「この日本語を英語でどう表現するの?」という疑問に平易に応えていて、「楽習」になる。

 その講師、西蔭浩子(大正大学教授だそうだ)が冒頭の「シュダヴ」を、should’ve「シュダヴ」=後悔と、解説していた。
 不注意でガス漏れを起こしたことを注意する場面の表現で、
以下はその説明
――実際やらなかったことを、「しておくべきであったのにやらなかった」という場合にshould have+過去分詞で、表現する。やや非難めいていうときに使う。Should haveはshould’veと短縮していい、「シュダヴ」と発音する。

 なかなか英語では言えそうで言えない表現だよね。
以下は、心に残った同番組での言い回し
・とりあえずビール
We’ll start with beer.
・お酒は付き合い程度なら

I’m just a social drinker.
・お噂はうかがっています

I’ve heard a lot about you.

 「気紛れ記:生涯学習」(2008年5月3日)という項を記したが、学習というよりは「楽習」で、楽しく学ぶのも、いいじゃないか。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年6月28日土曜日

伊勢佐木町ブルース

 寂しいニュースが流れた。

――大丸、松坂屋の持ち株会社であるJ・フロントリテイリングは2008年6月24日、横浜松坂屋(横浜市)の閉鎖とスーパーなど関連3事業の子会社の再編を発表した。百貨店の閉鎖は昨年9月の経営統合後初めて。不採算店舗のほか、事業が重複する百貨店子会社を整理し、統合効果を高める。

×  ×  ×

 横浜松坂屋は幕末の1864年、生糸商人の茂木惣兵衛(1827年―1894年)が創業した「野澤屋呉服店」を前身とする。1974年に「ノザワ松坂屋」、1977年に「横浜松坂屋」と変遷し、2003年に松坂屋の100%子会社となっている。
 名古屋の松坂屋本家は、もとは「いとう屋」という屋号で、これは織田信長の小姓を務めていたとされる創業者、伊藤蘭丸祐道の苗字から由来している。

 横浜松坂屋といえば、横浜を代表する百貨店で、伊勢佐木町のシンボル的存在だった。伊勢佐木町は、明治期から昭和40年代まで横浜随一の賑わいを誇っていた。近年、横浜駅西口の再開発、東口の発展、みなとみらい地区の隆盛に押され気味で、横浜松坂屋の閉店もこのあたりに原因がありそうだが、依然、元町とともに横浜有数の繁華街であることに間違いない。

 大学生の頃、よく伊勢佐木町をぶらついた。ザキブラである。生まれの育ちも川崎だが、横浜に吹く風はハイカラな、粋な匂いがする。有隣堂本店は洋書が充実していたなぁ。在留の外国人(特にアメリカ人)が犬を連れ、散歩する姿があった。そこは、憧れのアメリカ合衆国へ繋がっているように思えた。
 当時、根岸屋はまで営業していた。戦後すぐに、進駐軍の盛り場、バーとしてGI、娼婦、893の「御用達」の店であった。混乱期の日本の縮図のような酒場だった。
不二家、オデオン座、丸井など懐かしい街を彩っていた。

 伊勢佐木町ブルースが流行ったのは、その頃である。1968年(昭和43年)に、青江三奈(1945年―2000年)が独特のハスキーボイスで歌った。作詞・川内康範、作曲・鈴木庸一、編曲・竹村次郎であった。「アァ、アァ‥‥」という導入部分の溜め息が、意表を突き、セックスを連想させるためだろうか、NHK紅白歌合戦では溜め息を喇叭(カズー)の音に変え、歌唱している。

♪伊勢佐木あたりに 灯がともる
 恋と情けの
 ドゥドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥバー
 灯がともる

 「ドゥドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥバー」なんて、クラブでジャズを歌っていた青江三奈だからサマになったのだろう。都会的なムード歌謡だった。青江の没後、伊勢佐木町4丁目イセザキモールに、歌碑が建立された。

 草野球音の瞼の裏では、伊勢佐木あたりの灯はいつも点(とも)っている。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年6月21日土曜日

月見草の詩:野村克也

♪誰に言われた 訳ではないが
好きで選んだ 裏通り

影でひっそり 咲く花は
俺の花だよ 月見草

 作詞・山口洋子、作曲・四方章人で野村克也が、1993年(平成5年)ヤクルト監督時代に歌ったCDである。タイトルは「俺の花だよ月見草」という。この曲、聴いたことのある人は少ないだろう。お世辞にもヒットしたとは言えない。



 プロ野球、楽天イーグルズ監督の野村克也(72歳)は2008年6月18日、阪神タイガース最終戦(甲子園)で敗れ、監督通算1454敗目を喫し、知将といわれた三原脩(1911年―1984年、巨人―西鉄―大洋―近鉄―ヤクルト)を抜いて単独で歴代最多敗戦監督となった。勝利数の通算1457勝は歴代5位で、1位は鶴岡一人(1916年―2000年、南海)の1773勝。 野村は南海(現ソフトバンク)でプレーイングマネジャーを務めた後、ヤクルト、阪神で監督を務め、2006年から楽天で4球団目の指揮を執っている。今季が監督通算23シーズン目。これまでにリーグ優勝5度、日本一に3度輝いている。
  
 プロ野球歴代敗戦数10傑(2008年6月18日現在)
1・野村克也1454敗1457勝72分・リーグ優勝5
2・三原脩1453敗1687勝108分・リーグ優勝6
3・藤本定義1450敗1657勝93分・リーグ優勝9
4・西本幸雄1163敗1384勝118分・リーグ優勝8
5・別当薫1156敗1237勝104分・リーグ優勝0
6・鶴岡一人1140敗1773勝81分・リーグ優勝・11
7・上田利治1136敗1322勝116分・リーグ優勝5
8・水原茂1123敗1586勝73分・リーグ優勝9
9・王貞治1075敗1287勝71分・リーグ優勝・4
10・長嶋茂雄889敗1034勝59分・リーグ優勝5
 野村と王は現役監督であり、勝利数と敗戦数の上乗せがあり、今後、野村は負ける度に記録を更新することになる。

 その他の監督では、川上哲治が1066勝741敗61分を記録、勝利数は10位でリーグ優勝11回(日本一11回)輝いている。
 川上は勝ちながら、不敗神話は作り上げていったが、野村は敗戦から勝利理論を構築した監督だろう。
 失敗から学ぶ――人間は試行錯誤によって成長する。学習能力が、人類、ホモサピエンスを今日まで生きながらえさせたのだろう。敗戦から学ぶものは、野村の最大の武器になった。
 「勝ちに不思議な勝ちあり。負けに不思議な負けなし」と、野村は名言を吐いている。
 敗戦の原因は必ずあり、勝利の時も、次ぎの敗戦に繋がる敗戦の要因が潜んでいる。よって勝って結果オーライとせず、その中の敗因を究明することが大事である、というのが野村の大意であろう。

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 京都府竹野郡網野町(現北丹後市)は、景勝・天橋立にほど近い。といっても、天橋立から北近畿丹後鉄道に乗って、網野駅まで2時間半もかかる。丹後ちりめんで知られる。野村克也は1935年(昭和10年)6月29日、この地で生まれた。
 家業は「野要」という食料品店だった。屋号は父要市の姓名からとった。
 3歳で父を亡くした。日中戦争に出征し、華北地方で伝染病に倒れた。
 母フミは、克也が小学校2年生のとき、子宮ガンを患い、大手術を受けた。
 家計は傾いた。
 大病で入院費がかさみ、店を手放した。
 フミは結婚前に資格をとっていた看護婦になった。
 克也は網野小学校3年から、兄とともに新聞少年になった。50軒が配達のノルマだが、2倍の100軒を受け持った。冬は腰まで届く積雪を踏み、配った。月600円の収入で、母を助け、中学を卒業するまで一日も休まなかった。
 京都府立峰山高校になんとか通わせてもらった。母に内緒で野球部に入部した。バットも買えなかった。一升瓶に水を入れ、素振りをしていた。

 少年時代は逆境との闘いだった。貧乏から脱したいという強烈な思いがあった。

 1954年(昭和29年)契約金ゼロのテスト生として南海ホークスに入団した。1年目のオフ、戦力外通告を受ける。「クビになったら、生きては行けません。南海電車に飛び込んで自殺します」。交渉役のマネージャーを泣き落とし、縋(すが)りついて残留に漕ぎ付けた。
 3年目の1956年、ハワイキャンプに抜擢され、正捕手の座に就いた。1957年には中西太(西鉄)、山内和弘(毎日)の強打者と押しのけ、本塁打王のタイトルを獲得した。
 以後、大打者の道を歩む。南海―ロッテ―西武と渡り歩いて、実働26年、45歳まで生涯一捕手として現役を続けた。

 生涯通算成績は、出場試合3017、打数10472、安打2901、本塁打657、打点1988、犠飛113、併殺打378、打率.277を残す。MVP5回、戦後初の三冠王(1回)、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、ベストナイン19回に輝く。

×  ×  ×
 「王や長嶋が太陽の下で咲く向日葵(ヒマワリ)なら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草だ」。

 「月見草」――野村克也の代名詞といえる、この言葉は何時ごろから使われたのだろうか。2説あるようだ。通算2500安打達成の記者会見という説と、通算600本塁打の時という説である。どちらにせよ、1975年(昭和50年)での記録達成時の発言である。
 2500安打なら、当時、史上初の達成であり、600号なら前年王貞治が達成後の2番手の記録となる。後輩王の後塵を拝した600号時の発言の方が、より月見草らしくないか。
 いや、何時どこでと特定するより、含蓄のある発言内容が重要だろう。

 太陽の王、長嶋に対し、野村は自らを月に譬(たと)えた。

 国民的な人気を誇るミスタープロ野球、長嶋茂雄には生涯通算記録では勝るが、人気では遠くおよばない。
 そして通算記録では、
本塁打数:①王貞治868・②野村克也657、
打点数:①王貞治2170・②野村克也1988、
安打数:①張本勲3085・②野村克也2901
と、2番手に甘んじた。

 彼らしく、考え抜いた末に出た名言なのである。だからこそ、語り継がれ代名詞となったといえる。

 したたかな老花の咲き具合をこれからも鑑賞したい。

2008年6月12日木曜日

ラジオ体操は放送80年

 Anniversary繋がり――「赤毛のアン」(Anne of Green Gables)が出版100年なら、「ラジオ体操」は放送80年である。
 利用者だ。正確にはテレビでラジオ体操をしている。NHK教育テレビで午前6時30分~40分の10分間、身体を動かすのが毎日の朝の日課となっている。ここでは、前半が「みんなの体操」で、後半が月水金は「ラジオ体操第1」、火木土は「ラジオ体操第2」で構成されている。日曜日は随時変わる。

 ラジオ体操は、逓信省簡易保険局(かんぽ生命保険)が1928年(昭和3)に制定したのが始まりで、放送は同年11月1日に開始された。国民保険体操というのが正式名称だそうだ。2008年(平成20)の今年、放送80周年となる。
 みんなの体操は、1999年(平成11)にNHKと当時の郵政省とが公募して制定した体操で、年齢・性別・障害の有無に関わらず誰にも身体を動かすことできるように配慮されて作られている。

 小学生の頃、昭和20年後半から30年前半、夏休みに近所の広場に集まりラジオ体操をしたものだ。ひと夏を通して皆勤すると、鉛筆やらノートの賞品をもらえた。そんな思い出を共有できる、御仁もいるのではないか。

 みんなの体操・ラジオ体操を壮年にはモノ足りぬ運動量かもしれないが、隠居にはほどよい身体慣らしとなる。

 NHKの英語講座では、純名りさ、優木まおみ、松坂慶子とレッスンごとに美女を配していると、「赤毛のアン出版100年」(2008年6月8日)に書いたが、体操のアシスタントもなかなかの健康美を魅せている。
 毎日なので名前を覚えた。大橋美加、大江紗由、金子梨沙、有賀暁子、横川道乃、家根本織永のおねえさん方である。
 断じて、邪(よこしま)な気持ちで観ているではありませんぞ(笑)。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年6月11日水曜日

泰平の眠りを覚ますⅢ

阿蘭陀風説書

 ぶらり散歩に出る。
 両国の江戸東京博物館(東京都墨田区横網1-4-1)で「特別展ペリー&ハリス~泰平の眠りを覚ました男たち~」を観る。

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 江戸時代を中心とした時代小説を好んで読む。とりわけ幕末――ペリー来航から明治維新までの時代は、凄まじく躍動していて面白い。その間、わずか15年であった。

 「特別展ペリー&ハリス」では、阿蘭陀風説書(オランダふうせつがき)の展示に興味を引かれた。
 阿蘭陀風説書とは、オランダ船が長崎に着くと、通詞が出向きオランダ商館長(カピタン)から海外情勢を聴き取り翻訳し、カピタンと通詞が捺印し、長崎奉行に提出された文書である。長崎奉行から江戸表へと届けられた。幕閣は、この文書で世界の動向を知ったのだった。鎖国の日本にあって、唯一貿易を許された国がオランダであった。情報は貴重なものだった。

 オランダとの関係は、1600年の慶長年間に端を発す。オランダ商船リフーデ号が豊後国臼杵に漂着した。乗組員にオランダ人のヤン・ヨーステン、イギリス人のウィリアム・アダムスがいた。徳川家康がふたりに面会し気に入り、外交顧問とした。イギリス、オランダとの交易が始まった。家康の死後、人民統制のためキリスト教の禁止令が出され、交易の門戸を平戸と長崎に限定した。海外貿易をさらに強め、三代将軍の家光の治世に鎖国の体制が整った。
 以来、西欧との交流はオランダ1国に、それも長崎の埋立地、出島に限られた。鎖国体制完成から幕末までの200余年間にわたり、徳川幕府の代は泰平に続いた。その間、オランダ語を通して蘭学という文化が花開く。

 さて阿蘭陀風説書である。
 カピタンは江戸に出向き、将軍に謁見し通商の御礼と貢物をするのを慣わしてとしていた。「カピタンの江戸参府」は当初毎年行われていたが、後に4年に1回の行事となった。
 通常の風説書より詳しい文書を「別段風説書」という。アヘン戦争(1840年―1842年)の翌々年の1842年から、幕府はカピタンに別段風説書の提出することを沙汰する。
 1852年(嘉永5年)、オランダ商館長に就いたヤン・ドンケル・クルティウスは別段風説書でアメリカが軍船で日本に来航し日本に開港を迫ると予告したが、幕閣は黙殺した。
 翌1853年の黒船来航となる。200余年の泰平から激動の幕末へ、時代は雪崩れ込むのである。

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 カピタンはポルトガル語で「仲間の長」という意味で、鎖国で西欧と貿易はオランダ1国に絞られたが、長崎商館長をカピタンと呼んでいたそうだ。
 ヤン・ドンケル・クルティウスは最後のカピタンで、鎖国から開港に政策変更した幕府を、軍艦の発注、長崎海軍伝習所の設立などで支えた。

2008年6月8日日曜日

赤毛のアン出版100年

 カナダのL.M.モンゴメリー(1874年―1942年)によって書かれた「赤毛のアン(Anne of Green Gables)が1908年に出版されて、今年が100年目にあたる。節目の年anniversaryで、劇団四季が「ミュージカル赤毛のアン」を上演するなどちょっとしたブームとなっている。
 「赤毛のアン」は、孤児の少女が手違いで老兄妹に引き取られ、愛情に恵まれ成長していく物語で、日本では敗戦の傷が癒えぬ1952年(昭和27年)に村岡花子(1893年―1968年)の翻訳で紹介され、今なお読み継がれている。

 NHK教育テレビの英語講座で、「3ヶ月トピック英会話」という番組があり、4月から6月期は、「『赤毛のアン』への旅~原書で親しむAnneの世界~」を開講している。ここでの講師は松本侑子(まつもと・ゆうこ)で、女優の松坂慶子がサポーターを務めている。
 放送は毎週火曜日の午後11時10分から20分間で、翌週火曜日の朝6時40分から再放送されている。

 松本侑子は元テレビ朝日社員で、久米宏司会の「ニュースステーション」初代お天気予報キャスター兼リポーターも務めた。1987年には「すばる文学賞」を受賞している。「赤毛のアン」関連本を数冊著していている小説家だ。
 美人である。早くからインターネットに注目しており、ネット活用術をテーマにした講演を聴いたことがある。1997年か1998年だったと思う。
 NHKの英語講座では、名場面の抜粋を丁寧に読み解説している。60の手習いの当方も「アンの世界」を勉強させてもらっている。
 ――というオチのない原稿でした。

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 以下蛇足ながら‥‥。
 美人といえば、「赤毛のアン」の講座は松坂慶子。「ガタビーは確信の表現」の項で書いた「リトル・チャロ カラダにしみこむ英会話」では、主人公のチャロ役を女優の純名りさが演じている。「英語が伝わる!100のツボ」では東京学芸大卒の高学歴タレント優木まおみが、サポーター役を務めている。
 松坂慶子、純名りさ、優木まおみのNHK語学講座に出演の3人――失礼ながらお三方、年齢の幅はかなりありそうだが、いずれも英語の発音はその容姿同様にきれいなのである。

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2008年6月7日土曜日

村正の切れ味:関光徳

ハードパンチャー死す

 1960年代に強打のサウスポーとして活躍し、現役引退後は世界王者を育てた横浜光ボクシング・ジム会長の関光徳(せき・みつのり)が2008年6月6日、クモ膜下出血のため死去した。66歳だった。

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 世界戦に5度挑戦したが、世界王者の夢は遠く、「悲運のボクサー」とも言われた。
 5度の世界戦は、
1961年・世界フライ級 ポーン・キングピッチ(タイ) ●15R判定
1964年・世界フェザー級・シュガー・ラモス(キューバ) ●6RTKO
1966年・世界フェザー級・ビセンテ・サルジバル(メキシコ) ●15R判定
1967年・世界フェザー級・ビセンテ・サルジバル(メキシコ) ●7RTKO
1968年・世界フェザー級・ハワード・ウィンストン(英国) ●9RTKO
である。
 惜しかったのはサルジバルとの初戦だった。メキシコでの試合だったが、序盤に右フックで王者をKO寸前まで追い込んでいる。僅差の判定の末、敗れている。現役最後の試合(世界王座決定戦)となったウィンストン戦は右目を負傷し、レフェリーはTKO負けを宣した。ロンドンでの試合。まだ闘える状態だったと思った。あっけない幕切れだった。
 
 16歳でデビューした関は、26歳の若さで引退した。

 戦績は74戦62勝(35KO)11敗1分(6EX)。引退後は後進の指導にあたり、畑中隆則、新井田豊の世界王者を育てた。

 優男で痩躯――外見はひ弱にみえるが、繰り出すパンチは鋭く、切れ味がいい。妖刀と言われた「村正」に譬(たと)えられた。また「眠狂四郎」という人もいた。ボクシングブームを支えた人気ボクサーのひとりだった。
 
×  ×  ×

 以下蛇足ながら‥‥。
 あの頃、1960年代半ばから1970年代前半、ボクシング人気は高かった。テレビではボクシング番組が花盛りで、日本テレビは平沢雪村解説の「ダイナミックグローブ」、TBSの「東洋チャッピオンスカウト」は郡司信夫、白井義男の解説だった。フジテレビの「ダイヤモンドグローブ」「リングサイドアワー」、NET(テレビ朝日)の「エキサイトボクシング」など、毎日のようにボクシング番組があった。
 1966年5月31日の世界フェザー級タイトルマッチ、ファイティング原田対エディ・ジョフレ戦の視聴率は、驚異の63.7%を弾き出した。
 強打のサウスポーといえば、海老原博幸、青木勝利、そして関だった。右では、少し先輩に矢尾板貞雄、米倉健司、同年輩のファイティング原田がいた。軽量級に綺羅星如く才能あるボクサーがひしめいていたなぁ。

2008年6月3日火曜日

ガタビーは確信の表現

It’s got to be a Japanese boat.
(絶対に日本の船だ)

 最近は、毎朝NHK教育テレビのテレビ体操の後、英語講座を観ている。月曜日の「リトル・チャロ カラダにしみこむ英会話」は、ストーリー性に富み面白い。これは再放送で、前週の月曜の午後11時30分から本放送を行っている。
 この「チャロ」は、テレビより詳しい内容をラジオで、インターネットで復習できるクロスメディア対応という、新しいカタチの英語学習番組だそうだ。よく出来た教材である。

 その昔、40年以上も前の話だが、高校から大学にかけてNHKラジオで「松本亨の英会話」という番組を聴き、英会話というより英語発音の練習をしていた。7、8年勉強したのではないか。この番組を通して発音記号を学んだ。松本亨は、nativeより、癖のない上手な英語を話す人で、当時、テレビでは田崎清忠が講師をしていた。「百万人の英語」JBハリス五十嵐新次郎など活躍していた頃である。名前を挙げた英語の先達たちは優秀だったのに、なぜ草野球音の英語は上達しなかったのか(笑)。

 その「チャロ」で出てきたのが、冒頭の英語表現である。

 チャロは子犬で、飼い主の翔太とアメリカ旅行にやってきたが、日本への帰路手違いで空港にひとり取り残されてしまう。翔太のもとに戻ろうと、奮闘するチャロを主人公にした内容で、そのストーリーを追いながら英語表現を学ぶカリキュラムになっている。餓死寸前のチャロは、雪の降る日に、翔太に拾われた。右の耳が白で、左の耳が茶色であることから、翔太が「チャロ」と名付けた。
 そのチャロが日本を目指し、ニューヨークの港で船を乗り込むシーン――友達の
イタリアレストランの飼い犬マルゲリータMargheritaが船にsushiという文字を見つけ「絶対に日本の船だわ」と叫ぶ。実際はただの観光船で「無銭乗船」がバレて戻されるのだが‥‥。

 ここでの講師は佐藤良明で、東京大学の教授をしていた人でアメリカ文化研究者だ。彼が「got to beは強い感情を込めてタビーと発音しなさい」と言っていた。
It’s got to beit has got to beの詰まった形。it has to beit must be と同じで、「~違いない」という意味だ。つまり間違いない自信の表現になる。

 自信がさらに意を強くすると確信となる。

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 以下蛇足ながら‥‥。
 1999年5月16日。西武―オリックス戦で、初めて松坂大輔イチローと対決した。前年に横浜高校で春夏甲子園連覇を果たした怪物が、プロ野球1年目、天才打者に真っ向勝負を挑んだ。結果は4打席で3奪三振1四球と、完全に抑え込んだ。注目の対決の軍配は、松坂に上がった。当時のイチローはすでに他を圧する実力を示し、孤高の存在であった。その実力に勝った松坂は、試合後のインタビューで名言を残す。
 「自信から確信に変わりました」

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。