2008年1月31日木曜日

瞼の裏で咲いている1964

昭和39年編

 これほどの青空があるだろうか。
 秋天は高く澄みわたっていた。
 晴れ舞台――。
 1964年・昭和39年10月10日。東京国立霞ヶ丘陸上競技場。第18回夏季オリンピック大会が東京で開催された。

 「第18回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します」と昭和天皇は開会を宣した。

 最終聖火ランナーは坂井義則(早稲田大―フジテレビ)だった。広島に原爆が投下された1945年8月6日、広島県三次市に生まれた。敗戦から復興した日本が「世界のJAPAN」になった日。五輪開催と平和を世界に知らしめる人選ではなかったか。彼が163段の階段を駆け上がった。聖火台に灯を点した。
 選手宣誓は体操の小野喬だった。
 自衛隊のアクロバット飛行チーム、ブルーインパルスのF-86Fが国立競技場の上空に5つの輪を描いた。青い空に五輪が浮かび上がった。

 開会式のテレビ中継を担当したNHKアナウンサー北出清五郎(1922年―2003年)は「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」と第一声を発した。
 
 テレビに映し出される光景に、興奮と感動で身震いした。

×  ×  ×

 1964年・昭和39年は東京オリンピックの年である。

 東京オリンピックは10月10日の開会式から24日の閉会式の15日間、日本列島を熱狂の渦に巻き込んだ。最高潮は、「東洋の魔女」と異名をとった大松博文監督(1921年―1978年)率いる日本女子バレーチームがソ連を破って金メダルを獲得したときだった。

 「金メダルポイント」の実況アナウンサーが絶叫を繰り返していたなぁ。恐らく、日本人の大多数が同じ時間を共有したのではないか。
 この日本―ソ連戦のテレビ視聴率(関東地区)は66.8%で、スポーツ中継視聴率の歴代最高記録だそうだ。ちなみに第2位は2002年のサッカーW杯の日本―ロシア戦で66.1%、第3位は1963年のプロレスの力道山―デストロイヤー戦で64.0%。どこぞの大衆かわら版で読んだことがある。

 その瞬間は意外とあっけなく、ソ連のオバーネットで決着したと記憶している。魔女たちは、宮本恵美子も、松村勝美も、半田百合子も、谷田絹子も、磯部サダも小躍りして喜び、涙した。ただひとりを除いて。冷静な立ち振る舞いをみせたのは河西昌枝だった。
 河西は喜びの輪をとき、メンバーにゲーム後の整列をうながした。コートの端に、ソ連と対面し礼をすると、ソ連チームの歩み寄り健闘を称えた。大松のしごきに耐え、世界一のチームをまとめたキャプテンシーといえたが、もっと喜べ、喜んでいいはずの快挙だ、とテレビ中継を観ながら感じた。
 「俺についてこい」「回転レシーブ」「東洋の魔女」などが流行語となった。

 続いてのハイライトは円谷幸吉(1940年―1968年)のマラソンだろう。10,000mで6位入賞を果たして臨んだ。期待の君原健二(次のメキシコ五輪マラソンで銀メダル)、寺沢徹が脱落するなか、国立競技場に2位で入ってきた。その後方には英国のベイジル・ヒートリーが追走していた。「円谷がんばれ」。競技場内、茶の間のテレビからの大声援のなか、惜しくも抜かれ3位となったが、日本中が銅メダルを祝福した。
 メキシコ五輪では金メダルを目指したが、体調不良と重圧のためか、自刃した。遺書は哀切迫る。「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました」。名文である。
 マラソンは靴を履いたアベベ・ビキラ(1932年―1973年)がローマ大会に続き五輪2連覇した。

 日本中が悔しがったのは、柔道の神永昭夫(1936年―1993年)の敗戦だった。軽量級の中谷雄英、中量級の岡野功、重量級の猪熊功と期待通りの金メダルを獲得して迎えた無差別級。五輪競技として初めて採用された東京大会は柔道ニッポンの威信を世界に示す舞台であった。
 それが‥‥。
 決勝でオランダの2mの巨漢アントン・ヘーシンクの前に袈裟固めで押さえ込まれ、身動きできなくなり完敗した。
 女子バレーの金メダルと同じ日、閉会式の前日、10月23日の明暗だった。

 日本が獲得したメダル数は、金16個・銀5個・銅8個の合計29個だった。
 東京オリンピックの金メダルを羅列すると、
「女子バレー」:河西昌枝・磯部サダ・近藤雅子・佐々木範子・篠崎洋子・渋木綾乃・谷田絹子・半田百合子・藤本祐子・松村勝美・松村好子・宮本恵美子
「体操男子団体」:小野喬・遠藤幸雄・鶴見修治・早田卓次・三栗崇・山下治広
遠藤幸雄:体操男子個人総合・平行棒
早田卓治:体操男子つり輪
山下治広:体操男子跳馬
中谷雄英:柔道軽量級
岡野功
:柔道中量級
猪熊功:柔道重量級
桜井孝雄:ボクシング/バンタム級
三宅義信:ウェートリフティング/フェザー級
花原勉
:レスリンググレコローマン/フライ級
市口政光:レスリンググレコローマン/バンタム級
吉田義勝:レスリンググレフリースタイル/フライ級
上武洋次郎:レスリンググレフリースタイル/バンタム級
渡辺長武:レスリンググレフリースタイル/フェザー級
と懐かしい顔が並ぶ。

 外国人選手では、男子100mを制したボブ・ヘイズ(米国)、水泳男子の100mと400mで金メダルに輝いたドン・ショランダー(米国)、体操女子で個人総合優勝したベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)、ボクシングヘビー級金メダルのジョー・フレージャー(米国)の活躍が目立った。 東京大会で米国が獲得した金は36個と最多で、表彰式でアメリカ国家が頻繁に流れた。

×  ×  ×

 プロ野球はセ・リーグが阪神タイガース、パ・リーグは南海ホークスが優勝した。「御堂筋シリーズ」といわれた日本選手権は、南海がスタンカの熱投で、バッキーと村山を擁する阪神を4勝3敗で破り、日本一に輝いた。シリーズMVPは3勝をあげたスタンカが選出された。
 シリーズ第7戦は10月10日のオリンピック開会式とぶつかり、広い甲子園球場は空席の目立つ観客数15,172人だった。
・昭和39年の日本シリーズ
第1戦 南海2-0阪神 ○スタンカ ●村山
第2戦 南海2-5阪神 ○バッキー ●杉浦
第3戦 阪神5-4南海 ○石川 ●スタンカ HR藤井2発、ローガン、ハドリ
第4戦 阪神3-4南海 ○新山 ●村山 HR山内2発、ハドリ
第5戦 阪神6-3南海 ○バーンサイド ●皆川 HR辻佳、安藤、森下
第6戦 南海4-0阪神 ○スタンカ ●バッキー
第7戦 南海3-0阪神 ○スタンカ ●村山

・昭和39年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=王貞治(巨人)・スタンカ(南海)
新人王=高橋重行(大洋)・該当者なし
首位打者=江藤慎一(中日)・広瀬叔功(南海)
本塁打王=王貞治(巨人)・野村克也(南海)
打点王=王貞治(巨人)・野村克也(南海)
最優秀防御率=バッキー(阪神)・妻島芳郎(東京)
最多勝=バッキー(阪神)・小山正明(東京)
最優秀勝率=石川緑(阪神)・スタンカ(南海)
 王貞治が本塁打55本の日本記録を達成した。

 高校野球は春の選抜大会が徳島海南、夏の選手権は高知が優勝した。選抜大会の決勝では徳島海南の尾崎将司が、尾道商の小川邦和(早稲田大―日本鋼管―巨人)と投げ合い3-2で下し、紫紺の大旗を握った。尾崎は下関商の池永正明らとともに、昭和40年に西鉄入団、投手から野手に転向したが、野球では芽が出ず、プロゴルファーになって「ジャンボ尾崎」として大成したのは、周知の事実である。

 ボクシングでは、カシアス・クレー(後のモハメッド・アリ)がソニー・リストンを勝利し、世界ヘビー級王者に就いた。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」―華麗なボクシング・スタイルを披露した。

×  ×  ×

 歌謡界では都はるみ、水前寺清子、西郷輝彦がデビューを飾った年であった。都は同年「困るのことヨ」で世に出たが、一躍有名にしたのは「アンコ椿は恋の花」(星野哲郎作詞・市川昭介作曲)である。独特のうなり節は度肝を抜かれた。
女性歌手では珍しい着流し姿の水前寺は「涙を抱いた渡り鳥」(星野哲郎作詞・市川昭介作曲)でいきなりヒットを飛ばし、西郷は「君だけを」(水島哲作詞・北原じゅん作曲)でデビューすると、勢いに乗り橋幸夫、舟木一夫と「御三家」といわれ肩を並べるようになった。
 
 青山和子の「愛と死をみつめて」(大矢弘子作詞・土田啓四郎作曲)はレコード大賞を獲得した。「愛と死をみつめて」は難病で死んでいくミコと大学生マコの純愛書簡を文にしたもので、ベストセラーになった。これをもとに映画と歌が作られ、ともにヒットしている。
 映画では、日活で同年映画化され、ミコに吉永小百合、マコ役は浜田光夫が演じている。監督は小林旭の「渡り鳥シリーズ」で知られる斎藤武市が撮っている。

 井沢八郎(1937年―2007年)の「ああ上野駅」(関口義明作詞・荒井英一作詞)は集団就職で上京した若者が、上野駅に寄せる特別の想いを歌った曲である。心の駅から「くじけちゃいけない人生」は始まった。当時の若者が今、中高年になってなお歌い続けている。ちなみに女優の工藤夕貴は実娘である。

 ザ・ピーナッツの「ウナ・セラ・ディ東京」(岩谷時子作詞・宮川泰作曲)、岸洋子の「夜明けのうた」(岩谷時子作詞・いずみたく作曲)、和田弘とマヒナスターズ&松尾和子の「お座敷小唄」(作詞者不詳・陸奥明作曲)、フランク永井の「大阪ぐらし」(石濱恒夫作詞・大野正雄作曲)、坂本九の「幸せなら手をたたこう」(アメリカ民謡・木村利人訳詞)などがヒットした。
 洋楽ではアニマルズの「朝日のあたる家」、ボブ・ディランの「風に吹かれて」、ビートルズの「ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!」が流行った。

 昭和39年の日本映画の佳作を挙げると、
「砂の女」(勅使河原プロ=東宝・勅使河原宏監督)=岸田今日子出演
「怪談」(文芸プロにんじんくらぶ=東宝・小林正樹監督)=新珠三千代出演
「香華」(松竹・木下恵介監督)=乙羽信子
「赤い殺意」(日活・今村昌平監督)=西村晃出演
「飢餓海峡」(東映・内田吐夢監督)=三國連太郎出演
などがある。

 東海道新幹線が開業し、「平凡パンチ」が発刊された年だった。「アイビールック」が流行っていた。チノパンにボタンダウンシャツ、髪をフロントアップの七三に分け、紙袋を持って歩いたっけ。草野球音は高校2年生になっていた。

 昭和30年から同39年までの10年間を年毎に連作で追った「瞼の裏で咲いている」シリーズは、今回で終了します。
 
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2008年1月27日日曜日

瞼の裏で咲いている1963

昭和38年編

 1963年・昭和38年は「青春歌謡」を象徴する名曲がふたつ生まれた年として、草野球音は記憶に留めたい。

舟木一夫の「高校三年生」(丘灯至夫作詞・遠藤実作曲)
三田明の「美しい十代」(宮川哲夫作詞・吉田正作曲)
の2曲で、ふたりのデビュー曲であり、代表曲でもある。あのころ思春期だった人間には、心に残る詞・旋律だった。

 青春歌謡ってなんだろう。その定義を半可通の球音が語っても意味はないだろうが、ロカビリーとGS(グループ・サウンズ)ブームの狭間に咲いた一連の歌謡曲ではなかったか。その期間は昭和30年代後半から40年代初頭にかけてだろうか。
 曲の題材は、いつでも夢を抱く若者であり、フォークダンスで手を繋ぐと黒髪が甘く匂う君であり、君の瞳に出会うと心ふるえる僕であった。そこに青春があり、歌があった。

 青春歌謡ブームを牽引したのは、橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の3人である。西郷が1964年・昭和39年、「君だけを」(水島哲作詞・北原じゅん作曲)でデビューすると、「御三家」と呼ばれるようになり、そのブームは花開いた。舟木は橋より1歳年下の1944年生まれ、西郷は1947年生まれである。

 橋幸夫は前年の1962年・昭和37年に「江梨子」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)、吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)で股旅ものから転進を図り、舟木、西郷登場のお膳立ては整った。橋の前に松島アキラが1961年「湖愁」(宮川哲夫作詞・渡久地政信作曲)を、北原謙二(1939年―2005年)が1961年「忘れないさ」(三浦康照作詞・山路進一作曲)1962年に「若いふたり」(杉本夜詩美作詞・遠藤実作曲)を歌い、青春歌謡の機運を盛り上げていた。
 御三家の後に、久保浩の「霧の中の少女」(1964年・佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)、梶光夫の「青春の城下町」(1964年・西沢爽作詞・遠藤実作曲)、美樹克彦の「俺の涙は俺がふく」(1965年・星野哲郎作詞・北原じゅん作曲)、山田太郎の「新聞少年」(1965年・八反ふじお作詞・島津伸男作曲)に続く流れである。
 
 舟木一夫は1963年・昭和38年「高校三年生」でデビューすると、年内に「修学旅行」(丘灯至夫作詞・遠藤実作曲)「学園広場」(関沢新一作詞・遠藤実作曲)「仲間たち」(西沢爽作詞・遠藤実作曲)を歌い、4連打のヒットパレード状態だった。
 1947年生まれの三田明は、「御三家」に迫る人気で3人に加えて「四天王」という呼び方をされこともあった。
 ♪白い野バラを 捧げるぼくに
 君の瞳が 明るく笑う

 ロカビリーやGSと違い当時の中高年にも歌唱され支持された青春歌謡だが、人気上昇の一助となったのは、「ロッテ歌のアルバム」の存在である。1958年から始まった毎週日曜日12時45分からの30分間の音楽番組はTBS系で放送され、1979年まで続いた長寿番組となった。なんといっても絶頂期は御三家の出揃ったころである。司会は「1週間のごぶさたです」の玉置宏だった。青春歌謡は玉置の名調子に紹介され、日曜日の昼下がり茶の間に流れた。

 かくして青春歌謡は一時代を築いた。

 巷には東京オリンピックを翌年に控え、三波春夫(1923年―2001年)の「東京五輪音頭」(宮田隆作詞・古賀政男作曲)が流れていた。
 坂本九(1941年―1985年)の「上を向いて歩こう」(1961年・永六輔作詞・中村八大作曲)が米国で「スキヤキ」と名を変えてヒットし、6月にビルボードの週間ランキング1位になり、話題となった。

 昭和38年のヒット曲には、
ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」(岩谷時子作詞・宮川泰作曲)
西田佐知子の「エリカの花散るとき」(水木かおる作詞・藤原秀行作曲)
梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」(永六輔作詞・中村八大作曲)
坂本九の「見上げてごらん夜の星を」(永六輔作詞・いずみたく作曲)
春日八郎の「長崎の女」(たなかゆきを作詞・林伊佐緒作曲)
畠山みどりの「出世街道」(星野哲郎作詞・市川昭介作曲)
三沢あけみの「島のブルース」(吉川静夫作詞・渡久地政信作曲)
一節太郎の「浪曲子守唄」(越純平作詞作曲)
などがある。
 「ヘイポーラ」は梓みちよと田辺靖男がカバーしてヒットした。洋楽ではフォー・シーズンズの「シェリー」、シルヴィ・ヴァルタンの「アイドルを探せ」、ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」「抱きしめたい」などがある。

 同年テレビでは、米国テレビドラマ「ハワイアン・アイ」が始まった。ハワイが米国50番目の州になった1959年、ABCで制作されたドラマである。日本ではTBS系で放送された。
ハワイアン・ヴィレッジ・ホテルのプールサイドに事務所を構える探偵もので、冒頭の英語のナレーションが格好よかったなぁ。
 ♪ハワイアン ア~イ
とBGMがあり、
「ハワイアン・アイ」
スターリング「アンソニー・アイズリー」、「ロバート・コンラッド」
and「コニー・スティーブンス」
with「ハンシー・パンズ」
プロデュースド・バイ・ワーナーブラザーズ
 一気に番組に引き込まれるのだった。トム・ロパカ(ロバート・コンラッド)とトレーシー・スティール(アンソニー・アイズリー)の2人の探偵、クラブ歌手のクリケット(コニー・スティーブンス)、中国人の運転手キム(ハンシー・パンズ)の配役だった。
 探偵アクションに歌、踊り、ハワイアンムードの景色、憧れのハワイが楽しめた。毎週のように観ていた。

 日本のテレビでは同年、本格的時代劇「三匹の侍」が始まった。フジテレビ系列で放送され、フジテレビ社員プロデューサーの五社英雄(1929年―1992年)が手掛けた作品だった。主演は丹波哲郎(1922年―2006年)、平幹二郎(後に加藤剛に替わる)、長門勇の三匹いや3人だ。黒澤映画「用心棒」「椿三十郎」の殺陣を意識した、斬殺音が響き血飛沫が舞う画面―そのリアルさはテレビ時代劇の革命であった。濡れ場も随所にあり、ドキドキしながら観ていたぁ(笑)。

 邦画の佳作を挙げると、
「にっぽん昆虫記」(日活・今村昌平監督)=左幸子出演
「天国と地獄」(黒澤プロ=東宝・黒澤明監督)=三船敏郎出演
「太平洋ひとりぼっち」(石原プロ=日活・市川崑監督)=石原裕次郎
「五番町夕霧楼」(東映・田坂具隆監督)=佐久間良子
「武士道残酷物語」(東映・今井正監督)=中村錦之助出演
「しなやかな獣」(大映・川島雄三監督)=若尾文子出演
「非行少女」(日活・浦山桐郎監督)=和泉雅子出演
などがある。
 洋画では「アラビアのロレンス」(ピーター・オトゥール出演)、「奇跡の人」(アン・バンクロフト出演)、「鳥」(アルフレッド・ヒチコック監督、ロッド・テイラー出演)などがある。

×  ×  ×

 1963年・昭和38年はプロレスラーの力道山が赤坂で刺され、その傷が因で死去した。戦後のスーパースターであり、家庭にテレビが普及する前の「街頭テレビ」時代の英雄であった。

 プロ野球ではセ・リーグが読売ジャイアンツ、パ・リーグは西鉄ライオンズが優勝した。日本シリーズは川上哲治率いる巨人が、監督2年目の中西太の西鉄を4勝3敗で日本一に輝いた。シリーズMVPは長嶋茂雄だった。

第1戦 巨人1-6西鉄 ○稲尾、●伊藤 HR和田、ウィルソン
第2戦 巨人9-6西鉄 ○藤田、●安部 HR王、ウィルソン
第3戦 西鉄2-8巨人 ○伊藤、●稲尾 HR長嶋
第4戦 西鉄4-1巨人 ○安部、●宮田 HR田中久
第5戦 西鉄1-3巨人 ○高橋、●井上善 HR長嶋、長嶋、王、バーマ
第6戦 巨人0-6西鉄 ○稲尾、●伊藤 HRバーマ
第7戦 巨人18-4西鉄 ○高橋、●稲尾 HR柳田、柴田、王、池沢、王、伊藤光

・昭和38年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=長嶋茂雄(巨人)・野村克也(南海)
新人王=該当者なし・該当者なし
首位打者=長嶋茂雄(巨人)・ブルーム(近鉄)
本塁打王=王貞治(巨人)・野村克也(南海)
打点王=長嶋茂雄(巨人)・野村克也(南海)
最優秀防御率=柿本実(中日)・久保征弘(近鉄)
最多勝=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最優秀勝率=山中巽(中日)・田中勉(西鉄)森中千香良(南海)

 高校野球は春の選抜大会が下関商(山口)、夏の選手権は明星(大阪)が優勝した。春の覇者、下関商は夏も準優勝している。
 印象に残るのは下関商の池永正明だ。2年生の池永は、選抜大会では1回戦の明星(大阪)を5-0、2回戦の海南(和歌山)を延長16回の末3-2、準々決勝の御所工(奈良)を3―2、準決勝の市神港(兵庫)を3-1、決勝の北海(北海道)を10-0で破り紫紺の大旗を握った。
 選手権大会は負傷をおして投球が光った。1回戦の富山商(富山)1-0とくだしたが、2回戦の松商学園(長野)戦の7回、三塁へヘッドスライディングをした際に左肩を脱臼してしまう。それでも気力を絞り5-0と完封した。3回戦(沖縄の首里の5-0)は休養したが、準決勝で左肩を固定して戦列復帰し桐生(群馬)を2-1に下した。決勝の明星戦では初回にバント奇襲に負傷で対応できず2失点を許し、1―2と惜敗し、春夏連覇は夢と消えた。
 翌昭和39年の春にも甲子園のマウンドに登ったが、初戦の博多工(福岡)の0-1と敗れている。
 卒業後プロ野球西鉄に入団、1年目の1965年に20勝をあげ新人王、3年目の1967年には最多勝に輝く活躍をみせた。1970年(昭和40)「黒い霧」事件に絡み永久失格選手となった。35年の長い歳月を経て、2005年処分解除となった。
 池永正明58歳―頭には白髪が目立ち、顔に苦渋を重ねた皺(しわ)が無数に刻まれていた。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2008年1月24日木曜日

瞼の裏で咲いている1962

昭和37年編

 1962年・昭和37年は、東京都が世界初の1,000万都市となり、テレビ受信契約数が1,000万件を突破、堀江謙一がヨットで太平洋単独横断に成功し、王貞治が一本足打法を採り入れ本塁打を量産、美空ひばりと小林旭が挙式し、国際的には米ケネディ大統領がキューバを海上封鎖した「キューバ危機」があった年であったが、草野球音の目には、吉永小百合がひときわ光彩を放っていた。
 
 寡作ながら数々の秀作を生んだ映画監督、浦山桐郎(1930年―1985年)の監督デビューとなる映画「キューポラのある街」(1962年・日活)に主演した吉永小百合は、橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)、マヒナスターズとの「寒い朝」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)で歌謡界でもたて続けにヒットを飛ばした。
 「キューポラのある街」の演技でブルーリボン主演賞、「いつでも夢を」でレコード大賞を受賞している。

 「キューポラのある街」は早船ちよの原作を映画化したもので、15歳・中学3年生の石黒ジュン役を当時高校在学中の吉永小百合が演じた。
 鋳物の街、埼玉県川口が舞台である。キューポラとは、鋳物製造で銑鉄(せんてつ)を溶かすのに用いる円筒形の直立炉、溶銑炉のことだそうだ。ジュンの父親で鋳物職人に東野英治郎(1907年―1994年)、ジュンと同じ長屋に住む若い工員に浜田光夫、ジュンの弟に市川好郎といった配役だったと記憶する。
 物語は父親がリストラされるところから始まり、いろいろな経験を経て、高校進学を希望していたジュンだが、働きながら定時制高校で学ぶ道を選択する。貧しいが明るく健気に生きる少女を小百合が好演した。ジュンの弟タカユキの市川好郎と、その朝鮮人の友達サンキチ(森坂秀樹)ら子役の演技の巧さにびっくりさせられたなぁ。
 サンキチの家族が北朝鮮に行くことになる場面があった。当時、球音は気に留めなかったことだが、今にして思えば、あれは「地上の楽園」と宣伝し北朝鮮へ在日朝鮮人を送った「帰国事業」であった。
 
 浦山桐郎は翌1963年(昭和38)に和泉雅子、浜田光夫の主演で「非行少女」(日活)を撮っている。

 「いつでも夢を」は橋幸夫、吉永小百合という超アイドル同士のデュエットで、レコードは別々に吹き込みをしたという。テレビでもめったに2人揃って歌うシーンはお目にかからなかった。映画「いつでも夢を」(日活・野村孝監督)は翌1963年、定時制高校に通う男女の青春を描いている。小百合は看護婦、浜田光夫は工員、橋幸夫はトラック運転手の役を演じた。主題歌の「いつでも夢」はもちろん、「潮来笠」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)や「寒い朝」も挿入され、橋幸夫と小百合の両方のファンにも楽しめる内容になっていた。

 「キューポラ―」「いつでも夢を」の両作品に「定時制高校」という言葉が出てきた。高校進学率は戦後上昇の一途を辿り、1974年に90%超え2005年には97.6%となっている。当時の高校進学率は60%超で、40%弱の家庭が中学卒業後に就職をしていた。また働いて家計を助けるのは当たり前の時代であった。そのうち向学心のある者は仕事のあと、夜間の定時制に通った。経済高度成長期にあった日本を、労働力として足元から支え、将来への夢と希望を抱く若者がいた。そんな現実を映画や歌が映し出したといっていい。

 同年、松竹の新進女優・倍賞千恵子の「下町の太陽」(横井弘作詞・江口浩司作曲)もヒットした。これも翌1963年(昭和38)山田洋次監督のメガホンにより同名タイトル「下町の太陽」で映画化(松竹)された。倍賞が扮したのは家並みが密集する東京下町で働く女工であった。勝呂誉、早川保が共演した。ドラマ設定は「キューポラ―」「いつでも夢を」と似ていて、当時のトレンドだったのだろうか。

 吉永小百合自身も多忙のため高校(精華学園)を中退し、大学入学資格検定を経て早稲田大学第二文学部史学科西洋史専修に入学、スケジュールを調整しながら夜間に通い卒業を果たしている。
 
 昭和37年の日本映画の佳作を挙げると、
「切腹」(松竹・小林正樹監督)=仲代達矢
「破戒」(大映・市川崑監督=市川雷蔵
「椿三十郎」(黒澤プロ=東宝・黒澤明監)=三船敏郎
「座頭市物語」(大映・三隅研次監督)=勝新太郎
がある。
 洋画では、
ジョン・ウェインの「史上最大の作戦」
アラン・ドロンの「太陽はひとりぼっち」(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)がある。

 歌謡界では、橋幸夫は「江梨子」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)を出し、股旅物から青春歌謡へイメージチェンジを図った。同年に大映で映画化され、橋と共演する江梨子役には、新東宝から移籍した三条魔子が務め、その後三条「江梨子」に改名した(さらに「魔子」に戻している)。江梨子改名は、新東宝でのセクシー路線を払拭し、清純派への転進を狙ったと想像する。
  
 植木等は絶好調で歌唱力を生かしたコミックソング「ハイそれまでヨ」(青島幸男作詞・萩原哲晶作曲)をヒットさせた。低音の魅力、フランク永井は「霧子のタンゴ」(吉田正作詞作曲)を、石原裕次郎は「赤いハンカチ」(萩原四郎作詞・上原賢六作曲)を歌った。
 色っぽい五月みどりの「一週間に十日来い」(小島胡秋作詞・遠藤実作曲)、美空ひばりの「ひばりの佐渡情話」(西沢爽作詞・船村徹作曲)、三橋美智也の「星屑の町」(東条寿三郎作詞・安部芳明作曲)、北原謙二の「若いふたり」(杉本夜詩美作詞・遠藤実作曲)、畠山みどりの「恋は神代の昔から」(星野哲郎作詞・市川昭介作曲)などが流行った。

 そのころ、漣健児という名前をよく目にした。珍しい苗字なので、姉に聞くと「さざなみ・けんじ」だという。クリスマスソングの「赤鼻のトナカイ」や坂本九ちゃんが歌った「ステキなタイミング」などの訳詞を手掛けている。同年、甘ったるい声の飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」(ジーン・ピットニー)やパンチの効いた弘田三枝子の「VACATION」(コニー・フランシス)「悲しき片思い」(ヘレン・シャピロ)は、彼の訳詞でカバーしたものだった。
 腰に両手をあて汽車ポッポの仕草で「ロコモーション」を伊東ゆかりが歌っていた。

×  ×  ×

 プロ野球では読売ジャイアンツから東映フライヤーズに移籍2年目の水原茂監督がパ・リーグを制し、藤本定義監督の阪神タイガースが2リーグ分裂後初のセ・リーグ優勝を果たした。
 東映の当時のメンバーは、投手陣に江戸っ子エース土橋正幸、17歳の怪童・尾崎行雄、制球力の久保田治、早稲田伝説の安藤元博を擁していた。打撃陣には確実性と長打の張本勲、シュアな毒島章一、勝負強い吉田勝豊、暴れん坊・山本八郎、西園寺昭夫、青野修三、岩下光一など曲者揃いだった。個性豊かな集団をまとめたのが水原である。

 日本シリーズは東映が、
第1戦●5―6
第2戦●0-5
第3戦△2―2
第4戦○3-1
第5戦○6-4
第6戦○7-4
第7戦○2-1
の4勝2敗1分で日本一に輝いている。シリーズMVPには土橋正幸と種茂雅之のバッテリーが選ばれた。

 水原は、宿命のライバル三原脩の大洋に初優勝を許した1960年(昭和35)に巨人を辞任し、1961年から東映で指揮を執った。巨人11年間の監督生活で8度のリーグ制覇、4度の日本一に輝いた勝負師は、ここに両リーグで日本選手権を制した。

・昭和37年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=村山実(阪神)・張本勲(東映)
新人王=城之内邦雄(巨人)・尾崎行雄(東映)
首位打者=森永勝也(広島)・ブルーム(近鉄)
本塁打王=王貞治(巨人)・野村克也(南海)
打点王=王貞治(巨人)・野村克也(南海)
最優秀防御率=村山実(阪神)・久保田治(東映)
最多勝=権藤博(中日)・久保征弘(近鉄)
最優秀勝率=小山正明(阪神)・皆川睦夫(南海)
 同年は長嶋茂雄が入団5年目で初めて打率3割を下回る不振だった。王貞治は打撃コーチ荒川博の指導で一本足打法を採り入れ、本塁打38、打点85で初のタイトルを獲得した。

 高校野球では春の選抜大会、夏の選手権大会ともに作新学院(栃木)が優勝した。選抜は八木沢壮六(早稲田大―東京=ロッテ)、選手権は加藤斌(たけし・中日)と、主戦投手が代っての珍しい春夏連覇だった。

 八木沢は八幡商(滋賀)で延長18回(2-2)引き分け再試合、その後の松山商(愛媛)でも延長16回を投げ切った。早稲田大では24勝、ロッテの1973年(昭和48)には太平洋戦で完全試合を達成している。ロッテ監督して1992年から1994年シーズン途中まで指揮を執っている。球音は仙台の宮城球場で完全試合達成の瞬間を観ている。

 加藤斌は、夏の甲子園で八木沢が赤痢の疑いで出場停止となったため、急遽マウンドを任された下投げ投手で、準決勝の中京商(愛知)に2-0、決勝の久留米商(福岡)を1-0と連続完封した。エース不在を埋めて余りある活躍だった。中日入りし、将来を嘱望されたが、2年目のオフに交通事故死している。ちなみに加藤の入団が縁で、中日やロッテでコーチを務めた土屋弘光は加藤の姉と結婚している。
 
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2008年1月20日日曜日

続・瞼の裏で咲いている1961

昭和36年編
 1961年・昭和36年は、ジョン・F・ケネディが米大統領に就任し、ソ連の宇宙船ボストーク1号で地球1周に成功したガガーリンが「地球は青かった」の名言を残し、赤木圭一郎がゴーカートで撮影所の壁に激突、夭折した年であった。
 そして「シャボン玉ホリデー」が始まった年でもあった。

 あのころ日曜日の午後6時台は草野球音たち「テレビっ子」のゴールデンタイムだった。6時からは6チャンネル=TBS系「てなもんや三度笠」(注=番組開始は1962年)で、藤田まことの「あんかけの時次郎」に笑い、6時30分にはチャンネルを4=日本テレビ系に回して(当時のテレビはチャンネルを手で回した)、「シャボン玉ホリデー」で植木等(1926年―2007年)の「お呼びでない」のコントに笑った。ハナ肇(1930年―1993年)ザ・ピーナッツの父子に扮した「お粥コント」も定番のくすぐりだった。

 上記2番組は、「おれがこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」の前田製菓と、牛乳石鹸の提供番組だった。スポンサーまで覚えている番組なんて、今どきないよなぁ。それだけ白黒画面にかぶりついていたのだった。

 「シャボン玉ホリデー」は歌あり、コントありの音楽バラエティ番組だった。ザ・ピーナッツとハナ肇とクレージー・キャッツが主役だった。小松政夫、なべおさみ、布施明、伊東ゆかり、中尾ミエなど渡辺プロのタレントに、青島幸男(1932年―2006年)、前田武彦らの放送作家兼タレントも出演し、にぎやかだった。

 バカに面白いのは植木等だった。「お呼びでない‥‥これまた失礼致しました」という植木等のギャグが生まれたのも、この番組であった。ギャグが流行語になったのは2、3年後だったが、昭和36年には「スーダラ節」(青島幸男作詞・萩原哲晶作曲)がヒットした。
 「スイ、スイ、スーダラダッタ」と平泳ぎの手の動作で足をステップさせる少年たちの間で大流行し、人前でやるには憚(はばか)る気持ちはあったが、「わかっちゃいるけどやめられない」のだった。

 音楽バラエティ番組ではNHKの「夢であいましょう」が始まったのも同年である。中嶋弘子、黒柳徹子が司会を務めた。ここから世界的ヒット曲「スキヤキ」は誕生したのだった。同年8月の「今月の歌」のコーナーで、永六輔作詞・中村八大(1931年―1992年)作曲「上を向いて歩こう」坂本九(1941年―1985年)が歌った。
 「6・8・9」トリオの「上を向いて歩こう」は海を渡り、「スキヤキ」として1963年にはビルボード年間ランキング10位となった。レコードは米国内で100万枚を突破し、世界70余国で発売され総売上枚数は1,300万枚に達したという。国内でもヒット曲したが、「世界的に売れた」というのは空前の快挙といっていい。

 「夢であいましょう」からジェリー藤尾の「遠くに行きたい」(1962年)デューク・エイセスの「おさななじみ」(1963年)梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」(1963年)のヒット曲が生まれた。いずれも永六輔作詞・中村八大作曲である。

 坂本九は川崎っ子で、草野球音には同胞の親近感があった。雑誌「平凡」や「明星」で得た知識だが、橋幸夫とともに「九人兄弟の末っ子」であったと記憶している。その九ちゃんと一緒にテレビに出ていたのが森山加代子だ。「じんじろげ」(渡舟人作詞・中村八大作曲)のヒットを飛ばしたのは昭和36年である。
 ♪シッカリコマタキ ワイワイ
意味不明の歌詞だが、リズミカルで面白かった。
 ♪ラメチャンタラ ギッチョンチョンデ
の「パイのパイのパイ」なんて歌もあったなぁ。やたら不思議な歌が多かった加代ちゃんだった。
 
 同年、「東京ドドンパ娘」(宮川哲夫作詞・鈴木庸一作曲)でハスキーな歌声を披露したのは渡辺マリだった。フランク永井は「君恋し」(時雨音羽作詞・佐々木紅華作曲)で低音を響かせ、村田英雄「王将」(西條八十作詞・船村徹作曲)をドスの効いた声で聴かせた。

 石原裕次郎と牧村旬子のデュエット曲「銀座の恋の物語」(大高ひさを作詞・鏑木創作曲)、仲宗根美樹の「川は流れる」(横井弘作詞・桜田誠一作曲)、五月もどりの「おひまなら来てね」(枯野迅一郎作詞・遠藤実作曲)、島倉千代子の「恋しているんだもん」(西沢爽作詞・市川昭介作曲)などがヒットした。

 また外国の曲をカバーした西田佐知子の「コーヒールンバ」や、越路吹雪の「ラストダンスは私に」、飯田久彦の「悲しき街角」などもよく歌われた。コニー・フランシスの「ボーイ・ハント」やニール・セダカの「カレンダーガール」もよく耳にした。

 昭和36年の日本映画の佳作を挙げると、
「不良少年」(岩波映画・羽仁進監督)=山田幸男出演
「用心棒」(黒澤プロ=東宝・黒澤明監督)=三船敏郎出演「人間の条件」(文芸にんじんくらぶ・小林正樹監督)=仲代達矢
「名もなく貧しく美しく」(東京映画=東宝・松山善三監督)=高峰秀子出演
などがある。

 外国では、ジョージ・チャキリスとナタリー・ウッドのミュージカル映画「ウエストサイド物語」、トルーマン・カポーティの原作の映画化でオードリー・ヘプバーンが主演した「ティファニーで朝食を」などが注目された。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2008年1月19日土曜日

瞼の裏で咲いている1961

昭和36年編

 円城寺 あれがボールか 秋の空 ―詠み人知らず
 球史に残る事件は日本シリーズ第4戦に起こった。

 1961年・昭和36年の日本シリーズは読売ジャイアンツと南海ホークスの対決となった。率いるは監督1年目の川上哲治と親分と異名をとる鶴岡一人(1916年―2000年)である。

・第1戦(大阪球場)巨人0-6南海 ○スタンカ、●中村稔 HR=野村、穴吹、寺田
・第2戦(大阪球場)巨人6-4南海 ○堀本、●皆川 HR=穴吹
・第3戦(後楽園球場)南海4-5巨人 ○伊藤芳、●スタンカ HR=宮本

 巨人の2勝1敗で迎えた第4戦である。スコアを見ながら、読んでいただきたい。
・第4戦(後楽園球場)
南海 010 000 002=3
巨人 002 000 002=4
 ○堀本、●森中 HR=杉山、広瀬

 南海は9回広瀬叔功の2ランで逆転し3-2でリードし、9回裏を迎えた。3番手・祓川(はらいかわ)がいきなり死球を出すと、鶴岡監督はジョー・スタンカを投入した。この年、杉浦忠は右腕の血行障害で戦列離脱を余儀なくされていた。マウンドを任されたスタンカは坂崎一彦を三振、国松彰を二塁ゴロで難なく二死とした。代打の藤尾茂も一塁フライに打ち取った‥試合終了と思った瞬間、一塁手の寺田陽介がなんとポロリ落球した。長嶋茂雄の三塁ゴロを今度は小池兼司がファンブル、内野安打となり二死満塁、エンディ宮本(登録名:敏雄)を打席に迎えた。スタンカは、2-1からフォークを投じた。外角低めに‥。ストライク→勝利を確信した野村は腰を浮かして捕球した。

 そのとき、球審の円城寺満(1910年―1983年)は「ボール」を宣告したのだった。野村、スタンカ、鶴岡が猛抗議したが、判定はくつがえるはずもなく、再開。その直後の5球目を宮本に右前に適時打され、2者が生還し、南海はサヨナラ負けを喫した。
 バックアップに入る際、スタンカは円城寺に体当たりし、円城寺はひっくり返った。テレビ観戦していた草野球音には明らかにスタンカが故意にやったと映った。

 人は間違いを犯す動物である。審判にミスジャッジは付いて回る。そんなとき、勝負の綾(あや)を織りなすのだ。

 後のち当時の映像を見ると「ストライク」だと球音は思うが、この「ボール」判定で王手をかけた巨人は、4勝2敗で日本一に輝いている。シリーズMVPはエンディ宮本、敢闘賞にはスタンカが選出された。冒頭の句が詠まれたほどに、流れを変えた1球であった。

・第5戦(後楽園球場)南海6-3巨人 ○スタンカ、●藤田 HR=寺田、野村、長嶋
・第6戦(大阪球場)巨人3-2南海 ○中村稔、●スタンカ HR=王

 ちなみに円城寺満は最期まで「ボール」と確信していたという。もうひとりの悲劇の人、ポロリの寺田陽介は同年限りで南海を去り、1962年(昭和37)から中日、1964年の東映を最後に現役引退している。

・昭和36年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=長嶋茂雄(巨人)・野村克也(南海)
新人王=権藤博(中日)・徳久利明(近鉄)
首位打者=長嶋茂雄(巨人)・張本勲(東映)
本塁打王=長嶋茂雄(巨人)・野村克也(南海)中田昌宏(阪急)
打点王=桑田武(大洋)・山内和弘(大毎)
最優秀防御率=権藤博(中日)・稲尾和久(西鉄)
最多勝=権藤博(中日)・稲尾和久(西鉄)
最優秀勝率=伊藤芳明(巨人)・稲尾和久(西鉄)
 稲尾和久(1937年―2007年)は42勝を稼ぎ、シーズン最多勝利の日本記録、1931年のヴィクトル・スタルヒン(1916年―1957年=巨人)と並んだ。

 高校野球は春の選抜大会は法政ニ(神奈川)が、夏の選手権大会は浪商(大阪)が大旗を握った。柴田勲を擁した法政ニは夏・春連覇を果たしが、3連覇の夢を2年生の怪童・尾崎行雄の浪商の前に断たれた。

 柴田VS尾崎の甲子園対決は3度あり、柴田の2勝1敗だった。どれも息詰まる好試合である。

・昭和35年夏の選手権2回戦 法政ニ4-0浪商 ○柴田、●尾崎
・昭和36年春の選抜準々決勝 法政ニ3-1浪商 ○柴田、●尾崎
・昭和36年夏の選手権準決勝 浪商4-2法政ニ(延長11回) ○尾崎、●柴田

 いずれも勝者がそのまま勝ち進み優勝している。事実上の決勝戦であった。二人の対決については別の機会により詳しく書きたいと思っている。

 昭和36年編は2回に分けて記述します。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2008年1月13日日曜日

瞼の昭和:ちょいと一服

 「瞼の裏で咲いている‥‥」は、草野球音の昭和30年代――思い出や記憶を年ごとに辿る連作である。2007年11月18日の「昭和30年編」でスタートした。その以前に書いた「♪ああ 哀愁の街に霧が降る」(2007年10月26日)「アカシアの雨がやむとき」(2007年11月21日)も同類の原稿とし、最新の「昭和35年編」を加えると、計12項を「瞼の昭和」というカテゴリーで書いたことになる。東京五輪の「昭和39年編」を最終と考えているので、残すはあと4年分となった。

 誠に勝手気ままながら、ここら辺りでちょいと一服したい。

 「ちょいと」の間を利用して、プロ野球の個人タイトルについて、昭和34年から記したが、昭和30年から昭和33年までが欠落しているので、付け加えたい。その後、それぞれの年度の項の適当な場所に挿入することにする。

・昭和30年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=川上哲治(巨人)・飯田徳治(南海)
新人王=西村一孔(大阪)・榎本喜八(毎日)
首位打者=川上哲治(巨人)・中西太(西鉄)
本塁打王=町田行彦(国鉄)・中西太(西鉄)
打点王=川上哲治(巨人)・山内和弘(毎日)
最優秀防御率=別所毅彦(巨人)・中川隆(毎日)
最多勝=長谷川良平(広島)大友工(巨人)・宅和本司(南海)
最優秀勝率=大友工(巨人)・中村大成(南海)

・昭和31年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=別所毅彦(巨人)・中西太(西鉄)
新人王=秋山登(大洋)・稲尾和久(西鉄)
首位打者=与那嶺要(巨人)・豊田泰光(西鉄)
本塁打王=青田昇(大洋)・中西太(西鉄)
打点王=宮本敏雄(巨人)・中西太(西鉄)
最優秀防御率=渡辺省三(大阪)・稲尾和久(西鉄)
最多勝=別所毅彦(巨人)・三浦方義(大映)
最優秀勝率=堀内庄(巨人)・植村義信(毎日)

・昭和32年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=与那嶺要(巨人)・稲尾和久(西鉄)
新人王=藤田元司(巨人)・木村保(南海)
首位打者=与那嶺要(巨人)・山内和弘(毎日)
本塁打王=青田昇(大洋)佐藤孝夫(国鉄)・野村克也(南海)
打点王=宮本敏雄(巨人)・中西太(西鉄)
最優秀防御率=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最多勝=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最優秀勝率=木戸美摸(巨人)・稲尾和久(西鉄)

・昭和33年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=藤田元司(巨人)・稲尾和久(西鉄)
新人王=長嶋茂雄(巨人)・杉浦忠(南海)
首位打者=田宮謙次郎(大阪)・中西太(西鉄)
本塁打王=長嶋茂雄(巨人)・中西太(西鉄)
打点王=長嶋茂雄(巨人)・葛城隆雄(大毎)
最優秀防御率=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最多勝=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最優秀勝率=藤田元司(巨人)・秋本祐作(阪急)

 草野球音が生でプレーを観た選手で最古参は、川上哲治別所毅彦(1922年―1999年)青田昇(1924年―1997年)、ここには名前は登場していないが、別当薫(1920年―1999年)あたりである。別当は毎日の兼任監督時代で代打出場したのを観ている。いずれも引退間際のころで往年の力はなかったが、「打撃の神様」、「300勝の豪腕」、「じゃじゃ馬」、「球界の紳士」という冠詞のつく伝説のオーラは感じられた。

 ちなみに別所と青田は滝川中学で一緒に、川上は熊本工業で吉原正喜(巨人)とバッテリーを組み、別当は甲陽中学で、4人とも甲子園出場の経験を持つ。

 吉原正喜(1919年―1944年)は強肩の捕手で、1938年(昭和13年)左腕の川上とバッテリー揃って熊本工業から東京巨人軍入りした。入団1年目からレギュラー捕手を務めた。巨人の狙いは川上でなく吉原にあったといわれる逸材である。1941年、応召して太平洋戦争の戦地に赴いた。敗色濃い1944年(昭和19年)インパール作戦遂行中、25歳の若き命はビルマで散った。
 子供のころ川上哲治の伝記を読むと、必ず吉原正喜との件が登場する。吉原のプレーは観たことはないが、気になる存在であった。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2008年1月10日木曜日

瞼の裏で咲いている1960

昭和35年編

 1960年・昭和35年の歌謡曲編は「アカシアの雨のやむとき」(2007年11月21日)の項で粗方(あらかた)書いたので、ここではスポーツ編を中心に書きたい。「アカシアの雨のやむとき」を読んでいただけるとありがたい。

 安保闘争の空前のデモ、岸信介から池田勇人への首相交代、浅沼稲次郎の刺殺事件など政治的に大きな動きのあった昭和35年であった。
 ダッコちゃんブームが起こった年でもある。
 
 スポーツでは早慶6連戦が印象深い。早慶戦が行われた1週間は新聞のスポーツ欄を読むのが楽しみだった。朝が待ち遠しかった。不思議とテレビ中継を観た記憶がないのだ。安藤元博(1939年―1996年)の名を記憶に刻んだ。

 同年の六大学野球秋季リーグ戦は、最終週の早慶戦を前にして順位は、
1・慶大 8勝2敗 勝ち点4
2・早大 7勝3敗 勝ち点3
であった。
 慶応大は早稲田大から勝ち点(2勝)をあげれば優勝、早稲田大が優勝するには連勝するか、2勝1敗で同勝ち点・同勝率とし優勝決定戦に持ち込みさらに勝つことが条件であった。状況は早稲田不利であった。

 早慶戦が始まった。当時の慶応大には清沢忠彦、角谷隆、丹羽弘の投、打に榎本博明、安藤統夫(阪神)、大橋勲(巨人)、渡海昇ニ(巨人)がいた。一方の早稲田大には安藤元博(東映)、金沢宏のサブマリン2枚に打の野村徹、徳武定之(国鉄)がいた。率いるは早稲田大は石井連蔵、慶応大は前田祐吉だった。

六大学野球秋季リーグ戦
1回戦(11月6日=神宮球場)
早大 000 010 100=2
慶大 000 000 001=1
 (早大)安藤元―野村
 (慶大)清沢、角谷、丹羽―大橋

2回戦(11月7日=神宮球場)
慶大 120 000 001=4
早大 001 000 000=1
 (慶大)三浦、角谷―大橋
 (早大)金沢―野村

3回戦(11月8日=神宮球場)
早大 100 000 011=3
慶大 000 000 000=0
 (早大)安藤元―野村
 (慶大)清沢、丹羽―大橋
 早稲田大の2勝1敗で早慶ともに9勝4敗、勝ち点4と並んだため、両校による優勝決定戦となる。

優勝決定戦(11月9日=神宮球場)
早大 000 000 001 00=1
慶大 010 000 000 00=1
 延長11回日没引き分け(当時神宮球場にナイター設備はなかった)
 (早大)安藤元―野村
 (慶大)角谷―大橋

同・再試合(11月11日=神宮球場)
早大 000 000 000 00=0
慶大 000 000 000 00=0
 延長11回日没引き分け
 (早大)安藤元―野村
 (慶大)角谷、清沢―大橋

同・再々試合(11月12日=神宮球場)
早大 020 010 000=3
慶大 000 010 000=1
 (早大)安藤元―野村
 (慶大)角谷、清沢、三浦、丹羽―大橋

 かくして早稲田大が優勝決定戦再々試合の末、逆転優勝を果たした。スコアで一目瞭然で、優勝の要因は早稲田の安藤元博の獅子奮迅の活躍である。6連戦のうち5試合に先発完投をやってのけた。49イニング564球、まさに球史に残る熱投であった。日本シリーズでの昭和33年の稲尾和久(西鉄)、同・昭和34年の杉浦忠(南海)に伍す偉業だと思う。

 安藤元博は香川県丸亀出身。昭和32年夏の高校野球選手権大会に坂出商業のエースとして出場し、ベスト8に進出している。早稲田大に進み、六大学野球では通算35勝をあげた。昭和37年東映フライヤーズに入団し、新人ながら13勝を稼ぎリーグ優勝に貢献している。その後読売ジャイアンツでもプレーしている。
 草野球音が印象に残る安藤の投球内容は、
「ゆっくりしたワインドアップから頭から体を前方に倒し、下手からボールを繰り出す。 球威はないが丁寧にコーナーをつく技巧派」であった。

 高校野球は春の選抜大会が高松商(香川)が、夏の選手権大会は2年生エース柴田勲を擁した法政ニ(神奈川)が大旗を握った。

 プロ野球はセ・リーグが大洋ホエールズ、パ・リーグは大毎オリオンズが優勝し、日本シリーズは大方の予想を裏切って大洋が4連勝して日本一に輝いた。レギュラーシーズン、シリーズともに監督三原脩の采配が光った。敗将の西本幸雄はオーナーの永田雅一と采配を巡ってもめ監督を辞任した。シリーズMVPは大洋の近藤昭仁だった。

・昭和35年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=秋山登(大洋)・山内和弘(大毎)
新人王=堀本律雄(巨人)・該当者なし
首位打者=長嶋茂雄(巨人)・榎本喜八(大毎)
本塁打王=藤本勝巳(阪神)・山内和弘(大毎)
打点王=藤本勝巳(阪神)・山内和弘(大毎)
最優秀防御率=秋山登(大洋)・小野正一(大毎)
最多勝=堀本律雄(巨人)・小野正一(大毎)
最優秀勝率=秋山登(大洋)・小野正一(大毎)

 ローマ五輪が開催された。日本は金メダル4個、銀7個、銅7個の計18個のメダルを獲得した。
 金メダルは男子体操の活躍によるものだった。小野喬が跳馬と鉄棒の種目別で2個、相原信行が徒手で1個、団体総合(相原信行・遠藤幸雄・小野喬・竹本正男・鶴見修治・三栗崇)で1個。
 銀メダルでは、三宅義信が重量挙げバンタム級で、水泳の山中毅が400M自由形で、大崎剛彦が200M平泳ぎで獲得したのが記憶に残る。田中聡子が100M背泳ぎで、田辺清がボクシングのフライ級で銅メダルを得ている。
 エチオピアのアベベが古都ローマを裸足で駆け抜け金メダルに輝いたマラソンは全世界的な話題となった。米国のカシアス・クレイ(後のモハメッド・アリ)がボクシングのヘビー級で金メダルを獲得したのもローマ大会であった。

 池波正太郎が「錯乱」で直木賞(上半期)を受賞した。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2008年1月8日火曜日

続・瞼の裏で咲いている1959

昭和34年編

 1959年・昭和34年の歌謡曲といえば、草野球音的には水原弘(1935年―1978年)の「黒い花びら」が心に残る。
 ♪黒い花びら 静かに散った
作詞は永六輔で、作曲は中村八大(1931年―1992年)の「六八」コンビだ。

 実はこの曲は同年の東宝映画「青春に賭けろ」(日高繁明監督)の挿入歌であった。主演はデビュー間もない夏木陽介で、ロカビリーのスターに憧れるバンドボーイ役を演じていた。共演女優は北あけみで、「ロカビリー三人男」のひとり山下敬二郎はスター歌手役で出ていた。
 ちなみに山下敬二郎の父親は、エノケン(榎本健一)、ロッパ(古川緑波)と並ぶ喜劇の大御所であり、落語家の柳家金語楼(1901年―1972年)である。金語楼はNHKの「ジェスチャー」という人気クイズ番組で、男性軍キャプテンを務め、女性軍のそれは水の江滝子だった。ジェスチャーのみで表現した問題をあてるというゲームで、テレビの特性を生かした番組であった。司会は高橋圭三(1918年―2002年)も務めたそうだが、小川宏の印象が強い。

 「青春に賭けろ」を映画館で観ている。
 球音の近所に映画館が当時3館あったが、いずれも「二番館」であった。「二番館」とは封切りされた映画が数週間した後に割引料金で興行する映画館だ。
 生まれ育った川崎は工業都市であったが、映画の街であり「興行都市」でもあった。川崎駅近くに「ミスタウン」という封切り館が軒を並べた映画街があった。集団就職の労働力を吸収する工業地帯で、当時の娯楽の中心に映画はあり、日曜日や祝日には映画街に溢れるばかりの人が押し寄せた。実家は川崎駅から京浜工業地帯に向かう中間地点にあった。その商店街の映画館で観たのだった。

 山下敬二郎にほか、ミッキー・カーチス、坂本九(1941年―1985年)、かまやつひろし、井上ひろし(1941年―1985年)、寺本圭一などジャズ喫茶を根城にしていた連中が実名歌手で出演しているなか、水原弘もいた。主人公の夏木陽介が劇中で歌う曲が「黒い花びら」であった。夏木がギターを持ちテープの乱舞するなかで歌うシーンの音声は、水原弘であった。

 「黒い花びら」は若者を捉えヒットし、年末に開催された第1回レコード大賞を受賞した。ハスキーで甘い低音が魅力の水原は売れた。その後、長い低迷期があったが、「君こそわが命」(川内康範作詞・猪俣公章作曲)で復活した。
 「黒い花びら」の影に隠れて一般に印象は薄いが、「黄昏のビギン」(永六輔作詞・中村八大作曲)は好きな曲だったなぁ。名曲だと思う。中村八大のメロディは美しい。ちあきなおみがカバーしている。
 ♪雨に濡れてた 黄昏の街

 ペギー葉山の「南国土佐を後にして」(武政英策作詞・作曲)はヒットした。同年に日活で映画化され、小林旭が主演した。この映画があの無国籍で和製西部劇の「渡り鳥シリーズ」の発端となる。

 フランク永井は「夜霧に消えたチャコ」(宮川哲夫作詞・渡久地政信作曲)、松尾和子とのデュエット曲「東京ナイトクラブ」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)と好調を持続した。

 浜口庫之助(1917年―1990年)の異才ぶりが光った。スリー・キャッツの「黄色いさくらんぼ」(星野哲郎作詞・浜口庫之助作曲)と守屋浩の「僕は泣いちっち」(浜口庫之助作詞・作曲)。「ウッフン」と書いた星野哲郎も凄いが、合いの手を絶妙にメロディ化したハマクラも只者でない。さすがに人前で歌うのは憚(はばか)った。「泣いちっち」の歌詞もトンでいる。

 こまどり姉妹が「浅草姉妹」(石本美由起作詞・遠藤実作曲)を歌えば、同じ双生児のザ・ピーナッツが外国のカバー曲「可愛い花」を歌唱した。またコニー・フランシスの「カラーに口紅」を森山加代子がカバーした。

 浪曲ライバル、村田英雄は「人生劇場」(佐藤惣之助作詞・古賀政男作曲)、三波春夫は「大利根無情」(猪又良作作詞・長津義司作曲)をヒットさせた。

 三橋美智也の「古城」(高橋掬太郎作詞・細川潤一作曲)の歌詞「エイガの夢を」を、「映画の夢」と勘違いしていたなぁ。「栄華」であった。
 春日八郎は「山の吊橋」(横井弘作作詞・吉田矢健治作曲)を歌っていた。

 映画の佳作は
「キクとイサム」(大東映画=松竹・今井正監督)=高橋エミ子出演
「野火」(大映・市川崑監督)=船越英二(1923年―2007年)出演
「にあんちゃん」(日活・今村昌平監督)=長門裕之出演
「人間の条件」(にんじんクラブ=松竹・小林正樹監督)=仲代達矢出演
「浪花の恋の物語」(東映・内田吐夢監督)=中村錦之助(後の萬屋錦之介=1932年―1997年)、有馬稲子出演
などがある。錦之助と有馬稲子は「浪花の恋の物語」の共演が縁で昭和36年結婚している。ちなみに「野火」の船越英二の夫人は、長谷川一夫の姪の長谷川裕見子で、長男は「2時間ドラマの帝王」船越栄一郎である。

 ミス・ユニバースに日本人で初めて児島明子が選ばれ、下半期の直木賞を司馬遼太郎(1932年―1996年)が「梟の城」で受賞したのも同年だった。
 
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2008年1月6日日曜日

瞼の裏で咲いている1959

昭和34年編

 1959年・昭和34年は皇族関連の2つのニュースが記憶に残っている。4月10日の皇太子明仁親王ご成婚パレードと、もうひとつは昭和天皇と皇后がプロ野球公式戦を初めて観戦した天覧試合である。テレビ実況生中継で観た。
 
 沿道にできた人の波はどれも笑顔だった。日の丸の小旗が揺れていた。そのなかを皇太子(今上天皇)と正田美智子さんを乗せた古式ゆかしい馬車がゆっくりと優雅に進んでいった。白黒画面にかぶりつき、「美智子さんはきれいだね」などと大人たちは何度も口にしていた。
 突然、馬車めがけて石を投げ、駆け寄ろうとした少年が取り押さえられる光景も映し出された。一瞬の「投石事件」を妙に鮮明に覚えている。草野球音は当時、小鳥や伝書鳩を飼育していた。パレード中継を可愛がっていた手乗り文鳥を肩に乗せ観ていたなぁ。

 このご成婚パレードがテレビ普及に大いに寄与した。生中継を見ようとテレビを購入する家庭が激増し、成婚式の1週間前にテレビ受信契約数が200万を突破した。昭和34年の放送普及率(NHK受信契約)は、昭和33年の10.1%からわずか1年で20.7%と2倍以上に跳ね上がっている。

 試合は白熱していた。4―4の同点で迎えた9回裏の先頭打者は、読売ジャイアンツ・長嶋茂雄だった。カウント2-2から大阪タイガース・村山実(1936年―1998年)が投じた内角高め球を一閃すると、打球は後楽園球場左翼ポール際上空に消えていった。左翼線審の富沢宏哉の右手が天に向けてくるりと回った。ホームランだ。サヨナラだ。
 天皇・皇后が観戦した6月25日の伝統の巨人―阪神戦は劇的幕切れとなった。

 阪神 001 003 000 =4
 巨人 000 020 201×=5
 神=小山正明、村山実(敗戦投手) 
 巨=藤田元司(勝利投手)
 [本]長嶋茂雄、坂崎一彦、藤本勝巳、王貞治、長嶋茂雄

(試合経過)阪神は3回小山の適時打で先制する。巨人は5回長嶋、坂崎の連続本塁打で逆転するも、阪神は6回三宅秀史の適時打と藤本の2ランで再逆転する。巨人は7回王の2ランで同点に追いつく。阪神は小山を諦め新人の村山をマウンドに送る。巨人は9回、長嶋の劇的ホームランで決着をつける。

 緊迫した好試合だった。マウンドの紳士の藤田、精密機械の小山ザトペック投法の村山の投げ合いも見事だった。新人の王が本塁打を放ち、ONアベックアーチの最初の試合となった。守備では長嶋を凌ぐと言われた名三塁手の三宅、「戦後最強打者」といわれた浪華商の坂崎、昭和35年に本塁打と打点の2冠に輝いた藤本(島倉千代子の夫であった)、活躍した選手それぞれに華があった。後世に伝えられるように、野球の神様は珠玉の筋書きを演出したのだろうか。
 長嶋にとって値千金のホームランであり、勝負強さの代名詞となる一発であった。村山はこの借りを1500奪三振、2000奪三振を長嶋相手に取ることで返している。
 
 天覧試合の中継をNHKで観た。「まぁ、なんと申しましょうか」で知られる小西得郎(1896年―1977年)の解説、志村正順の実況という名コンビであった。

 同年のセ・リーグ優勝はセ・リーグ読売ジャイアンツ、パ・リーグは南海ホークスで、日本シリーズはエース杉浦忠(1959年―2001年)の4連投4連勝で南海が圧勝した。シリーズMVPは当然ながら杉浦に輝いた。
 レギュラーシーズンの個人タイトルで特筆すべきは杉浦である。38勝でわずか4敗、勝率.905、防御率1.40という驚異的数字を残している。69試合に登板し自責点は58だった。タイトルを総なめにした。セ・リーグ新人王はホームラン王(31本)の桑田武になったが、18勝で最優秀防御率(1.19)の村山と熾烈な争いとなった。

・昭和34年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=藤田元司(巨人)・杉浦忠(南海)
新人王=桑田武(大洋)・張本勲(東映)
首位打者=長嶋茂雄(巨人)・杉山光平(南海)
本塁打王=桑田 武(大洋)森徹(中日)・山内和弘(大毎)
打点王=森徹(中日)・葛城隆雄(大毎)
最優秀防御率=村山実(大阪)・杉浦 忠(南海)
最多勝=藤田元司(巨人)・杉浦忠(南海)
最優秀勝率=藤田元司(巨人)・杉浦忠(南海)

 高校野球は春の選抜大会が中京商(愛知)、夏の選手権大会は西条(愛媛)が優勝した。

 昭和34年編は2回に分けて記述します。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2008年1月1日火曜日

続・瞼の裏で咲いている1958

昭和33年編

 世界の食文化を変える発明が1958年・昭和33年に起こった。

 昭和33年8月にインスタントラーメンが発売された。日清食品の創業者である安藤百福(1910年―2007年)が開発者で不朽の「チキンラーメン」を開発した。台湾出身で旧名は呉百福といい、後に日本に帰化した男の48歳の快挙である。
 2007年1月5日に死去した安藤百福だが、同年1月9日付けの米紙ニューヨークタイムズの社説でその業績を20世紀の偉大な発明と評価された。
 即席麺は世界の食文化の革命ともいえる。2005年の統計によると即席麺は全世界で857億食も食べられているそうで、年々増加傾向にあるという。チキンラーメンの発売当初1食35円(うどんは1玉8円程度)と高かったが、爆発的な普及と企業努力で今や低料金の見本のような食品となっている。誰でも気軽に食べられる簡易性も魅力だ。「ノーベル賞」級の発明ではないか。
 
 東京タワーの完成は本格的なテレビ時代の到来を告げるものだった。

 「月光仮面」のテレビドラマが始まったのも同年だった。原作は川内康範である。オートバイに乗って颯爽と現れる正義の味方、月光仮面の衣装が派手だった。白いターバン、覆面にサングラス、白いスーツにマント。月光仮面の正体と見られる私立探偵の祝十郎役は大瀬康一が演じた。大瀬は後に「隠密剣士」にも出演し、東映のお姫様女優の高千穂ひづると結婚した。 ちなみに高千穂ひづるは、「俺がルールブックだ」の名言を残したプロ野球審判員・ニ出川延明(1901年―1989年)の娘である。
 劇場映画版の祝十郎は大村文武だった。テレビの大瀬康一のイメージが強く、映画の大村文武には違和感を抱いていたが、劇場で見るとそれなりに面白く納得した記憶がある。大瀬の顔の方が大村より少年受けしたような気がする。
 ♪どこの誰かは 知らないけれど
 誰もがみんな 知っている
と悪ガキたちと歌っていたっけ。作詞は原作者の川内康範、作曲は小川寛興だった。

 歌謡界では、フランク永井がヒット曲を連発した。前年に「東京午前三時」「夜霧の第二国道」を出し波に乗り、
「有楽町で逢いましょう」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)
「羽田発7時50分」(宮川哲夫作詞・豊田一雄作曲)
「西銀座駅前」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)
「こいさんのラブ・コール」(石濱恒夫作詞・大野正雄作曲)
「俺は淋しんだ」(佐伯孝夫作詞・渡久地政信作曲)
と売れた。フランクは裕次郎とともに低音魅力と言われた。
 「有楽町で逢いましょう」は大阪のデパート「そごう」が東京進出するキャッチコピーであった。
 ♪ABC・XYZ
という「西銀座駅前」の意表を突く歌い出しはどうだろう。佐伯孝夫(1902年―1981年)恐るべし。

 三波春夫の美声に対してドスの聞いた声でデビューしたのは村田英雄(1929年―2002年)だった。三波と同じ浪花節出身で、以後ふたりはライバルとなる。ギター伴奏で浪曲を唸る村田に古賀政男が目をつけ、歌謡曲の世界に誘う。「無法松の一生」(吉野夫二郎作詞・古賀政男作曲)は、荒くれ者で「無法松」と異名をとった車夫・富島松五郎の人生を語る詞と曲が村田の声に合っていた。

 松山恵子の「だから云ったじゃないの」(松井由利夫作詞・島田逸平作曲)は、酒場の年下の女を慰める強い女を歌っている。「あんた泣いてんのネ」のフレーズは流行った。
 島倉千代子の「からたち日記」(西沢爽作詞・遠藤実作曲)は、「幸せになろうね、あの人はいいました」という台詞入りだったなぁ。
 ♪くちづけすらの 想い出も
 のこしてくれず 去りゆく影よ
という歌詞は心に残る。

 その他の同年ヒット曲
若原一郎の「おーい中村君」(矢野亮作詞・中野忠晴作曲)
平尾昌章の「星はなんでも知っている」(水島哲作詞・津々美洋作曲)
三橋美智也の「夕焼けとんび」(矢野亮作詞・吉田矢健治作曲)
美空ひばりの「花笠道中」(米山正夫作詞作曲)

 米ポップスではポール・アンカの「ダイアナ」(ポール・アンカ作詞作曲)がヒットした。
 ♪Oh please stay by me Daina
と初めて英語の歌詞を覚えて悦に入っていた。
 
 映画の話題作品では、姥捨山の風習のある寒村を描いた「楢山節考」(松竹・木下恵介監督)があり、田中絹代(1909年―1977年)が熱演した。山下清に扮した小林桂樹主演の「裸の大将」(東宝・野村芳太郎監督)は面白かった。「兵隊の位で言えば。。。」「ボ、ボクは。。。」という語り口は、後に当たり役とした芦屋雁之助(1931年―2004年)に受け継がれた。

 その他の邦画と洋画の佳作には、
「隠し砦の三悪人」(東宝・黒澤明監督)=三船敏郎出演
「彼岸花」(松竹・小津安二郎監督)=佐分利信出演
「炎上」(大映・野村芳太郎監督)=市川雷蔵出演
「大いなる西部」(ウィリアム・ワイラー監督)=グレゴリー・ペック出演
「老人と海」(ジョン・スタージェス監督)=スペンサー・トレイシー出演
「鉄道員」(ピエトロ・ジェルミ監督出演)
などがある。