2008年12月30日火曜日

刑事・鳴沢了「帰郷」

確執の氷解
 堂場瞬一の「刑事・鳴沢了シリーズ」第5弾「帰郷」(中公文庫)を読む。
 確執のあった父・宗治が病死した。葬儀のため帰郷した鳴沢了のもとに、青年が訪ねて来る。彼は、15年前の殺人事件の被害者のひとり息子、鷹取正明だった。父・洋通を殺した犯人は、父の同僚、羽鳥美智雄だと訴える。事件は宗治の葬儀当日に時効を迎えていた。「捜一の鬼」といわれた宗治が唯一未解決だった事件に、了が乗り出す。
 雪虫/破弾/熱欲/弧狼と、父・宗治との心の葛藤というサイドストーリーが、上記4作のテーマである事件とは別に、シリーズを彩っていたが、この「帰郷」で了の心のわだかまりが氷解し、父の自分に対する愛情を感じるまでになる。
 緑川聡、大西海の新潟県警時代の先輩、後輩の刑事が、「雪虫」以来、再登場し、事件解決への手を貸す。また、愛する内藤優美と勇樹の母子にニューヨーク行きの話が持ち上がる。勇樹が全米の人気テレビドラマに出演のオファーがあり、了と母子との関係は今後どうなるのだろうか。興味津々。
 鳴沢了シリーズの「かっぱえびせん」状態は続く。「やめられない、とまらない」のだ。

2008年12月25日木曜日

藤沢周平「闇の穴」

 藤沢周平の「闇の穴」(新潮文庫)を読む。
木綿触れ
小川の辺
闇の穴
閉ざされた口
狂気
荒れ野
夜が軋む
以上7つの時代小説の短編が収められている。幼女に劣情を催し、殺人まで犯す大店の主人を描いた「狂気」が興味深かった。
 久々の周平ワールドを楽しむ。いつ読んでも時代短編小説の名手ぶりに唸る。

2008年12月23日火曜日

Dread Forever

ドレッドの魂

 ドレッドが死んだ。
 物語の展開から、それは予想されたことではありましたが、いざやって来るとちょっとジンと来ますなぁ。

 ドレッドDreadってどこのどいつだよ?
 えっ、知らない。ごもっとも。NHK英語講座「リトル・チャロLittleCharo~カラダにしみこむ英会話」に登場する、「ドレッド」というボクサー犬なんですな。「僕さ、ボクサー」なんてガッツ石松が、その昔ギャクっていましな。
 どうでもいい? それがどうした?
 失礼。たかが犬なんぞで、「ジンと来る」もないもんだ、と思うかもしれせんが、それが、まっ、隠居の話を聴いてくださいな。

 この物語、よく出来ていますぞ(原作・わかぎゑふ英語脚本・佐藤良明+栩木玲子)。主人公はチャロという、日本生まれの子犬でな。捨て犬だったところ、翔太という少年に助けられる。翔太の家族とニューヨーク旅行中に、はぐれて迷子になる。さぁ大変だ。ひとことで言えば、マンハッタンでひとりぼっちの子犬チャロが、日本へ必死に戻ろうとする冒険ストーリーなんですな。

 迷子のチャロに、生きていく方法を教えたのが、ドレッドです。その恩人(犬)の死というわけです。4月から放送し、数えて38話目(2208年12月22日放送)。
 虫の知らせで、チャロが巣に駆け戻ると、そこにマルゲリータMargheritaが悲嘆にくれて居ます。「ドレッドはどこ?どこに行ったの?」
 マルゲリータが言いますな。
 They carried him away , a few minutes ago… (ドレッドはさっき運ばれていったわ。ほんのちょっと前に)
 
かわいそうに。。。チャロはドレッドの死に目に会えなかったんですな。

 さらに、マルゲリータは言います。
 From now on, Dread will always be with us. (これから、ドレッドは、これからずっと、あたしたちの心の中にいるの)

 アニメのキャラクターが演じるわけなんですが、どうです、ちょっと感情移入して来ませんか。
 それにしても、マルゲリータは飼い主のローザがイタリアンレストラン出店のためマイアミに、キャンディCandyは飼い主クリスの心臓病術後の療養にシカゴに、とチャロは別れることになります。そしてドレッドの死‥‥「リットルチャロ」物語は急展開していますな。目が離せませんぞ。
 
×  ×  ×

 ところで、ペットロスPet Lossという言葉があります。家族同然のペットが死んだあと、その悲しみ・喪失感に襲われることを指すことで、日常生活に支障をきたす病的な場合は「ペットロス症候群」というそうです。
 隠居の家にも、ポメラニアンの老犬がいます。無芸大食のバカ犬ですが、バカな子ほど“可愛ゆい”のですな。来年1月には14歳になります。歳とともに、視覚・嗅覚、足腰などに衰えは出ています。死んだりしたら、きっとペットロスを苦く体験することになるのだろうなぁ。
 長生きしてほしい、と切実に思う昨今です。

※敬称略。文章中に事実誤認、赤字などありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2008年12月20日土曜日

ちょいとmemorandum

国民栄誉賞

 2008年12月6日に死去した作曲家、遠藤実に国民栄誉賞が贈られることになった。「高校三年生」「北国の春」など5000曲におよぶ大衆歌謡を世に送り出した功績を讃えられての受賞。これで、作曲家では古賀政男、服部良一、吉田正に次ぎ4人目。
 国民栄誉賞は、「国民に広く敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績をあった方に対して、その栄誉を讃えることを目的とする」とし、1977年に創設された内閣総理大臣表彰で、遠藤実は16人目の表彰となる。
 過去の受賞者と総理大臣
王貞治1977年=福田赳夫
古賀政男1978年=福田赳夫
長谷川一夫1984年=中曽根康弘
植村直己1984年=中曽根康弘
山下泰裕1984年=中曽根康弘
衣笠祥雄1987年=中曽根康弘
美空ひばり1989年=宇野宗佑
千代の富士1989年=海部俊樹
藤山一郎1992年=宮沢喜一
長谷川町子1992年=宮沢喜一
服部良一1993年=宮沢喜一
渥美清1996年=橋本竜太郎
吉田正1998年=橋本竜太郎
黒澤明1998年=小渕恵三
高橋尚子2000年=森喜朗

 イチローは、2001年(大リーグ初の日本人首位打者)と2004年(シーズン最多安打記録)と2度にわたり受賞を打診されたが、「現役でまだ発展途上にあり、いただけるなら引退時にいただきたい」と固辞している。
 国民的な人気という点では、長嶋茂雄は「国民栄誉賞」に最適人と草野は思うが、これまで受賞のタイミングがなかったようだ。石原裕次郎は亡くなったとき、受賞してもよかったのはないか。また、比較論からいえば、高橋尚子が選ばれたのなら、谷亮子や北島康介はどうなのだろうか。
 とかく支持率低迷内閣の人気とりといわれる賞だが、基準があるようであいまいで、“そのときの機運”で決まるようである。
 
 だが、しかし‥‥。選らばれた歴代16人の偉業は、燦然と輝いている。

2008年12月18日木曜日

刑事・鳴沢了「弧狼」

巨躯大食漢の今

 堂場瞬一「刑事・鳴沢了シリーズ」の第4弾「弧狼」(中公文庫)を読む。
 ひとりの刑事が死に、ひとりの刑事が失踪した。青山署の生活安全課から刑事課異動となった鳴沢了が、本庁理事官の沢登から、その特命捜査を受けるところから、ドラマは始まる。
 コンビを組む刑事は、練馬北署の、255ポンドの巨躯で大食漢の今敬一郎(こん・けいいちろう)だ。末は僧侶となる身で、気配りもできる人物。憎めないキャラクターである。また、シリーズ第2弾「破弾」でコンビを組んだ小野寺冴が、刑事を辞め、私立探偵となって再登場するのも妙味だ。
 極秘捜査は困難を極めるが、愛する優美の身辺にも危険が及ぶなか、了と確執のある、父・宗治が胃癌で療養していることが判明する。
 新潟県警時代の同僚刑事、新谷を通じて父の助言を受け、事件解決の闘志をたぎらせる了が、警察内部の不祥事に迫る。
 堂場瞬一はストーリーテラーですなぁ。今回も展開で読ませてくれました。

2008年12月13日土曜日

刑事・鳴沢了「熱欲」

内藤優美

 堂場瞬一の「刑事・鳴沢了シリーズ」の第3弾「熱欲」(中公文庫)を読む。
 青山署生活安全課の了は、マルチ商法の詐欺事件の内偵をする――ストーリーは始まる。
 鳴沢了が、人生の、人間としての悩みを抱えながら、事件に立ち向かうシリーズだが、そのラブロマンスも一興なのだ。
 第1弾の「雪虫」では幼馴染の石川喜美恵、第2弾「破弾」では同僚刑事の小野寺冴とふたりの美人が登場したが、堂場瞬一は第3弾でも読者の期待?に応える。  
 今度は、アメリカ留学時の親友の妹、内藤優美(ないとう・ゆみ)。小柄のキュートな美人。1度結婚に失敗し、男の子(勇樹)の母でもある。
 父親との葛藤、祖父を自殺に追い込んだと思い、また尊敬する先輩を射殺せざるを得なかったトラウマを、これまで頑なに他人に弱みを見せなかった了が、初めて心の悩みを打ち明ける――その相手こそ、優美であった。
 優美の兄、七海(ななみ)はニュヨーク市警の刑事で、チャイニーズマフィアも絡むサスペンス内容は読んでのお楽しみ。

2008年12月11日木曜日

遠藤 実:memory

瞼の昭和

 昭和の歌謡界を代表する作曲家、遠藤実が2008年12月6日死去した。「高校三年生」「北国の春」など誰にでも愛唱される歌謡曲作りに心血を注ぎ、5000余曲を世に送り出した。76歳だった。



 哀愁と親しみやすさを感じる、その楽曲を口ずさみながら、草野球音的「遠藤実アンソロジー」を―― 。

 作曲家・遠藤実が世に出たのは、1957年(昭和32年)だった。東京生まれ、新潟に疎開し育つ。17歳で上京し、ギター抱えた流しの生活を送った末、作曲家となる。
 デビュー曲は「お月さん今晩わ」。作詞は松村又一藤島桓夫の独特の鼻にかかった甘い歌声を記憶している。
 ♪こんな淋しい 田舎の村で
  若い心を 燃やしてきたに

 以後、ヒット曲を毎年のように生み出す。翌1958年には島倉千代子の「からたち日記」(作詞・西沢爽)だ。「幸せになろうね、あの人はいいました‥‥」台詞も島倉ファンを痺れさせた。
 ♪こころで好きと 叫んでも
  口では言えず ただあの人と
 以前にも書いたことあるが、草野は、「くちづけさえの 想い出も のこしてくれず 去りゆく影よ」という二番の歌詞がいいなぁ。

 浅草姉妹(1959年=歌・こまどり姉妹、作詞・石本美由起)
 ♪何も言うまい 言問橋の
  水に流した あの頃は
 双子姉妹こまどりのこぶしが心地よかった。

 アキラのドンドコ節(1960年=歌・小林旭、作詞・西沢爽)
 ♪町のみんなが 振り返る
  青い夜風も 振り返る
 小林旭の頭のてっぺんから出すような高音が響いた。ドリフや氷川きよしのズンドコ節の先駆けといえる。

 ソーラン渡り鳥(1961年=歌・こまどり姉妹、作詞・石本美由起)
 ♪津軽の海を 越えて来た
  ねぐら持たない みなしごつばめ
 三番の歌詞の「瞼の裏で咲いている 幼馴染のはまなすの花」というフレーズが好きだ。

 おひまなら来てね(1961年=歌・五月みどり、作詞・枯野迅一郎)
 ♪おひまなら来てよね 私淋しいの
  知らない 意地悪
 当時、二十歳そこそこの五月の色っぽさは少年をどきりとさせた。

 襟裳岬(1961年=歌・島倉千代子、作詞・丘灯至夫)
 ♪風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ
  春はいつ来る 灯台守と
 当地には、森進一(作詞・岡本おさみ、作曲・吉田拓郎)の曲と、2つの歌碑があるそうだ。

 若いふたり(1962年=北原謙二、作詞・杉本夜詩美)
 ♪君には君の 夢があり
  僕には僕の 夢がある
 青春歌謡というジャンルのはしりではなかろうか。北原謙二は大阪の浪商出身という、平凡だか明星だかで読んだことを覚えている。鼻に抜けるような高音が懐かしい。

 1963年(昭和38年)には舟木一夫の「高校三年生」が世に出る。作詞は丘灯至夫。
 ♪赤い夕日が 校舎をそめて
  ニレの木陰に 弾む声
 舟木が学生服姿でデビューした。凄まじい勢いでスター街道を突っ走った。同年に「修学旅行」「仲間たち」「学園広場」と遠藤実はたて続けに作曲する。

 修学旅行(1963年=歌・舟木一夫、歌詞・丘灯至夫)
 ♪二度とかえらぬ 思い出乗せて
  クラス友達 肩寄せあえば

 仲間たち(1963年=歌・舟木一夫、歌詞・西沢爽)
 ♪歌をうたって いたあいつ
  下駄を鳴らして いたあいつ

 学園広場(1963年=歌・舟木一夫、歌詞・関沢新一)
 ♪空にむかって あげた手に
  若さがいっぱい とんでいた
 
 詰襟の舟木一夫と、着流しの橋幸夫が歌謡界の人気を二分していた。通っていた中学校では舟木派と橋派の女の子たちの「派閥」が出来上がった。西郷輝彦を加えて「御三家」となるのは、この後である。
 橋は吉田正門下生として有名だが、デビュー前に遠藤実に歌唱指導を受けていたそうだ。

 哀愁出船(1963年=歌・美空ひばり、作詞・菅野小穂子)
 ♪遠く別れを 泣くことよりも
  いっそ死にたい この恋と
 歌謡界の女王にもしっかり楽曲を提供している遠藤であった。

 ギター仁義(1963年=歌・北島三郎、歌詞・嵯峨哲平)
 ♪雨の裏町 とぼとぼと
  俺は流しの ギター弾き
 遠藤実の実体験を曲に託したと知ったのは、二十台半ばであった。サブちゃんも流しだった。

 君たちがいて僕がいた(1964年=歌・舟木一夫、歌詞・丘灯至夫)
 ♪清らかな青春 爽やかな青春
  大きな夢があり

 青春の城下町(1964年=歌・梶光夫、西沢爽)
 ♪流れる雲よ 城山に
  のぼれば見える 君の家
 梶光夫の素朴な歌い方が曲に合っていたと思う。

 星影のワルツ(1966年=千昌夫、作詞・白鳥園枝)
 ♪別れることは つらいけど
  仕方がないんだ 君にため
 歌声にも東北なまりの出る千の歌唱に好感を抱いた。

 こまっちゃうナ(1966年=歌・山本リンダ、作詞作曲・遠藤実)
 ♪こまっちゃうナ デイトにさそわれて
  どうしよう まだまだはやいかしら
 作詞も遠藤。リンダの舌たらずの歌声にぶっ飛んだ。

 他人船(1966年=歌・三船和子、作詞作曲・遠藤実)
 ♪別れてくれと 云う前に
  死ねよと云って ほしかった
 作詞も遠藤。三船和子がしっとり歌っていた。

 新宿そだち(1967年=歌・大木英夫・津山洋子、作詞・別所透)
 ♪女なんてさ 女なんてさ
  嫌いと思って見ても

 君がすべてさ(1968年=歌・千昌夫、作詞・稲葉爽秋)
 ♪これきり逢えない 別れじゃないよ
  死にたいなんて なぜ云うの
 草野好みの1曲。

 ついて来るかい(1971年=小林旭、作詞作曲・遠藤実)
 ♪ついて来るかい 何も聞かないで
  ついて来るかい 過去のある僕に

 純子(1971年=歌・小林旭、作詞作曲・遠藤実)
 ♪遊び上手なやつに だまされていると聞いた
  噂だけだね 純子
 「ついて来るかい」「純子」とも遠藤の作詞作曲で、マイトガイ旭が情感を込めて歌う。歌う映画スターでも屈指の歌唱力と思う。

 せんせい(1972年=森昌子、作詞・阿久悠)
 ♪淡い初恋 消えた日は
  雨がしとしと 降っていた
 セラー服の森昌子は14歳だった。そういえばヒットメーカー阿久悠も昨年死去したのだ。

 くになしの花(1973年=歌・渡哲也、作詞・水木かおる)
 ♪いまでは指輪も まわるほど
  やせてやつれた おまえのうわさ
 技巧など全く無視したような渡の歌声だったなぁ。

 アケミという名で十八で(1973年=歌・千昌夫、作詞・西沢爽)
 ♪波止場でひろった 女の子
  死にたいなんて 言っていた
  アケミという名で十八で
 「蹴飛ばせ 波止場のドラムカン」と千は歌っていたっけ。

 すきま風(1976年=歌・杉良太郎、作詞・いではく)
 ♪人を愛して 人は心ひらき
  傷ついてすきま風 知るだろう
 杉は本物の歌手であった。

 そして、1977年(昭和52年)に、世界的大ヒット曲「北国の春」がリリースされる。翌1978年に大ブレークした。海外進出し、いまでは中国はじめ東南アジアでも広く愛唱されている。
 遠藤実が作った名曲「北国の春」は、坂本九の「上を向いて歩こう」(作詞・永六輔、作曲・中村八大)と並び、世界で最も有名な日本の歌といえる。
 作詞・いではく。歌手の千昌夫自身も思い入れ強く、この歌をNHK紅白歌合戦で3度も歌っている。
 ♪白樺 青空 南風
  こぶし咲くあの丘 北国の 
  あぁ北国の春

 夢追い酒(1978年=歌・渥美二郎、作詞・星野栄一)
 ♪悲しさまぎらす この酒を
  誰が名付けた 夢追い酒と

 みちづれ(1978年=歌・牧村三枝子、作詞・水木かおる)
 ♪水にただよう 浮草の
  おなじさだめと 指をさす

 雪椿(1987年=小林幸子、作詞・星野哲郎)
 ♪やさしさと かいしょのなさが
  裏と表に ついてくる

 最期を看取ったのは、遠藤実の家族と最大のヒット曲「北国の春」の作詞家いではくとその歌い手千昌夫だったという。

 昭和の象徴がまたひとつ消えた。

2008年12月4日木曜日

近代絵画の父セザンヌ

*横浜美術館(横浜・みなとみらい)で「セザンヌ主義(父と呼ばれる画家への礼賛~ピカソ・ゴーギャン・マティス・モディリアーニ)」展(2009年1月25日まで)を観る。
 
 ピカソが畏敬をこめて「父」と呼んだ、“近代絵画の父”ポール・セザンヌ(1839年―1906年)の作品約40点と、その影響を受けたと思われる画家の作品約100点を国内外から集め、比較して展観するという意図で、構成されている。
 出展作家を挙げると、
アンリ・マティス
パブロ・ピカソ
ポール・ゴーギャン

アンリ・マティス
モーリス・ドニ
ジョルジョ・ブラック
アメデオ・モディリアーニ
マルク・シャガール
安井曾太郎
岸田劉生
森田恒友
佐伯祐三
小野竹喬
などで、巨匠が並び壮観である。
 セザンヌ主義(セザニスム)と称される作品の数々である。

 と、知ったかぶりをしているが、草野は美術を鑑賞する力など全く持ち合わせいない。半可通の目には、セザンヌ作品では、「青い衣装のセザンヌ夫人」「帽子をかぶった自画像」「りんごとナプキン」、安井曾太郎の「夫人像」が印象に残った。
 セザンヌが国内外の画家におよぼした影響の大きさ、功績をうかがえる展示であった。

×  ×  ×
 セザンヌに強く影響を受けた岸田劉生(1891年―1929年)は、岸田吟香(1833年―1905年)の息子である。吟香はJ・Cヘボン(1815―1911)和英辞書「和英語林集成」刊行、ジョセフ彦(1837年―1897年)の新聞発行に尽力した。また、目薬「精錡水(せいきすい)」を販売した実業家であり、『「七つの顔」を持った男』(2008年9月7日記)であった。幕末から明治にかけて多岐にわたり活躍している。
 セザンヌを観に行って、岸田吟香まで連想を繋げられたことが、草野的には妙味であった。

2008年11月29日土曜日

刑事・鳴沢了シリーズ

破弾

 堂場瞬一刑事・鳴沢了シリーズの第2弾「破弾」(中公文庫)を読む。
 第1作「雪虫」で、50年前の事件を掘り起こし、祖父・鳴沢浩次を自殺に追い込んだことを自責して、新潟県警を辞めた鳴沢了だが、3代続いた刑事の血を断てず、警視庁の採用試験を受け、多摩署に配属される。仕事もないまま、資料室で過去の事件報告書を読み漁る無為な毎日を過ごすとき、ホームレス襲撃事件の捜査を命じられる。
 「雪虫」の石川喜美恵の続き、美人の登場だ。小野寺冴(おのでら・さえ)。モデルのような長身、美人刑事である。了と同期の30歳。犯人を射殺した不祥事を起こしたこと過去を持つ。
 ホームレス襲撃事件の現場で、了は冴から被害者が姿を消したことを告げられる。ここから、「破弾」のストーリーは展開する。
 後は読んでのお楽しみで、シロイヌだった。



破談

 シロもの繋がり――。
 オスのつもりでいたシロクマはメスだったという話題に最近出くわした。
 札幌の円山動物園がシロクマのオス2頭を、他の動物園に繁殖目的で「婿入り」させたところ、男女の関係に至らず、改めてDNA鑑定してみると、2頭ともオスであることが判明した。2頭は釧路市動物園のツヨシ(4歳)とおびひろ動物園(帯広市)のピリカ(2歳)。生後間もなく行われた目視や触診の性別判断が間違っていたという。
 破談となった。

 人間にもときたま「性同一性障害」ってあるけど、全然違う話か? 人間の場合は、医学的に証明されれば、男から女の名前に戸籍変更ができるらしいけど、「ツヨシ」はどうなるのだろか。
 それにしてもシロクマの破談も、「シロイヌ」(尾も白い⇒オモシロイ)だよね。

2008年11月24日月曜日

フランク永井:memory

魅惑の低音は永遠に

 低音の魅力と謳われたフランク永井が亡くなった。2008年10月27日のことだった。1985年(昭和60年)に自宅で自殺を図り、その後遺症で長らく闘病生活を送っていたが、帰らぬ人となった。76歳だった。

 昭和を代表する歌手であった。

 「あ―やんなっちゃった」のウクレレ漫談の牧伸二が、
♪フランク永井は低音の魅力
 神戸一郎も低音の魅力
 水原弘(1935年―1978年)も低音の魅力
 漫談の牧伸二、低能の魅力
と歌っていたっけ。
 
 三船浩(1929年―2005年)、石原裕次郎(1934年―1987年)と、昭和30年代初期、低音ブームを巻き起こした。

 フランク永井の存在を初めて草野球音が知ったのは、奇妙なタイトル曲からだった。「13800円」である。1957年(昭和32年)の作品。作詞・井田誠一、作曲・利根一郎。13800円は当時の大卒の初任給とか。

 1932年生まれ。終戦後、米軍基地でクラブ歌手をしていた。ジャズを歌っていた。才能が認められ、1955年(昭和30年)に「恋人よ我に帰れ」でデビューした。

 1957年に出した「有楽町で逢いましょう」がヒットし、スター歌手となった。作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正の黄金コンビの作品で、デパートのそごうが大阪から東京進出する際のPRソングだったという。
 ♪あなたを待てば 雨が降る
  濡れて来ぬかと 気にかかる

 東京午前三時(1957年=作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正)
 ♪真っ赤なドレスが よく似合う

 夜霧の第二国道(1957年=作詞・宮川哲夫、作曲・吉田正)
 ♪つらい恋なら ネオンの海へ

 羽田発7時50分(1958年=作詞・宮川哲夫、作曲・豊田一雄)
 ♪星も見えない空 淋しく眺め

 西銀座駅前(1958年=作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正)
 ♪ABC・XYZ これは俺らの口癖さ

 こいさんのラブ・コール(1958年=石浜恒夫、作曲・大野正雄)
 ♪なんで泣きはる 泣いてはる

 俺は淋しんだ(1958年=作詞・佐伯孝夫、作曲・渡久地政信)
 ♪赤い灯 青い灯 ともる街角に
 
 夜霧に消えたチャコ(1959年=作詞・宮川哲夫、作曲・渡久地政信)
 ♪俺のこころを知りながら なんでだまって消えたんだ
 
 東京ナイトクラブ(1959年=作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正)
 ♪なぜ泣くの 睫毛(まつげ)がぬれてる
  ※松尾和子(1935年―1992年)とのデュエット曲

 好き好き好き(1960年=作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正)
 ♪好き 好き好き 霧の都 東京

 君恋し(1961年=作詞・時雨音羽、作曲・佐々紅華)
 ♪宵闇せまれば 悩みは涯(はて)なし
  ※昭和初期の二木定一のヒット曲をカバー

 霧子のタンゴ(1962年=作詞作曲・吉田正)
 ♪好きだから とてもとてもとても

 大阪ぐらし(1964年=石浜恒夫、作曲・大野正雄)
 ♪赤い夕映え 通天閣も

 お前に(1977年=岩谷時子、作曲・吉田正)
 ♪そばにいてくれる だけでいい

 あの魅惑の低音が甘く切なく耳元に流れる。

×  ×  ×

※敬称略。文章中に事実誤認、赤字などありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2008年11月23日日曜日

♪ブルーライトヨコハマ

馴染みの駅メロ

 横浜は「ブルーライトヨコハマ」、京急川崎は「上を向いて歩こう」で、三崎口は「岬めぐり」である。なるほどと感じ入り、懐かしい。

 京急電鉄の発表したところによると、京浜急行16駅で使用する駅メロディ(列車接近案内音)が決まり、羽田空港駅開業10周年記念日にあたる、2008年11月18日から羽田空港駅を皮切りに順次各駅で使用開始されることになった。利用客に親近感を持ってもらうことと、周辺地区のPR促進が目的で、この駅メロは一般公募して、選考したそうだ。

 駅と駅メロを列記すると、
品川 赤い電車
青物横丁 人生いろいろ
立会川 草競馬
平和島 いい湯だな
京浜蒲田 夢で逢えたら
羽田空港 赤い電車
京急川崎 上を向いて歩こう
横浜 ブルーライトヨコハマ
上大岡 夏色
金沢文庫 MY HOME TOWN
金沢八景 道
新逗子 LIFE
横須賀中央 横須賀ストーリー
堀ノ内 かもめが翔んだ日
浦賀 ゴジラのテーマ
京急久里浜 秋桜
三崎口 岬めぐり
となっている。
 乗降客に馴染みがあり、親しみのある曲。地域色を感じさせて、ご当地ソングや、出身歌手・作曲家・作詞家による楽曲がずらり並ぶが、京急発表の選考理由に、改めて「そうだったのか」と納得し、勉強になったものもある。

 「ブルーライトヨコハマ」は、横浜を象徴する歌謡曲なのだろう。大阪出身のいしだあゆみは、横浜で歌手として地位を確立した。今でこそ演技派女優であるが、紅白出場歴9回を誇る歌手時代があった。
 ♪街の灯りがとてもきれいね
  ヨコハマ ブルーライトヨコハマ
 1968年(昭和43年)に作詞・橋本淳、作曲・筒美京平で世に出て、翌年ヒットした。ミニスカートから脚線美をみせた、いしだあゆみは美しい。

 1968年といえば青江三奈(1945年―2000年)「伊勢佐木町ブルース」も売れた。作詞・川内康範、作曲・鈴木庸一である。当時、横浜の中心といえば、伊勢佐木町であり、元町で、象徴するショットは山下公園、氷川丸、マリンタワーであった。現在はテレビドラマなどで登場する横浜の象徴ショットは、みなとみらい、ランドマークタワー、インターコンチネンタルホテルの夜景が多い。

 京急川崎の駅メロ「上を向いて歩こう」は、坂本九(1941年―1985年)がご当地出身で選定となった。「上を向いて―」は、世界で最も知られる日本の歌といえるだろう。作詞・永六輔、作曲・中村八大、“689トリオ”の傑作は1961年(昭和36年)に世に出て、1963年に「スキヤキ」という曲名で全米ビルボード1位にランクされるなど、世界的に大ヒットした。デビュー当時のまだ十代の九ちゃんは、テレビに登場すると、盛んに「川崎のみなさん、お元気ですか」などと、川崎出身を自己PRしていたものだ。川崎出身の草野は、大いに仲間意識を刺激されたのだった。

 青物横丁の「人生いろいろ」(1987年=作詞・中山大三郎、作曲・浜口庫之助)は、島倉千代子が品川出身ということの選定らしい。
 出身地といえば、横須賀中央の「横須賀ストーリー」は山口百恵、京急蒲田の「夢で逢えたら」は鈴木雅之、桑野信義のラッツ&スター、堀ノ内の「かもめが翔んだ日」は渡辺真知子、上大岡の「夏色」はゆず、金沢文庫の「MY HOME TOWN」は小田和正、新逗子の「LIFE」はキマグレン、金沢文庫の「道」はEXILEのHIROなど地縁からの選定ということである。

 浦賀の「ゴジラのテーマ」はゴジラが上陸したことで、立会川の「草競馬」(スティーブン・フォスター作詞・作曲)は大井競馬場に近いことが決めて手なったらしい。

 三崎口の「岬めぐり」は、山本コータローとウィークエンドのヒット曲である。作詞は山上路夫、作曲は山本厚太郎の1975年(昭和50年)の作品。
 ♪岬めぐりのバスは走る
  窓に広がる 青い海よ
と、思わず口ずさむ、心地よい歌だよね。

 今度、京浜急行に乗ったら、駅メロに耳を傾けてみよう。

2008年11月21日金曜日

よこはま・たそがれ英語版

Twilight Time in Yokohama

 英語トークバラエティ、「英語でしゃべらナイト」というNHK総合テレビの番組はご存知だろう。2008年11月17日の放送を観ていて、ニヤリとさせられた。五木ひろし「よこはま・たそがれ」を英語バージョンで歌っていた。2008年8月に再リリースした。

 「よこはま・たそがれ」は1971年(昭和46年)に、作詞・山口洋子、作詞・平尾昌晃で世に出てヒットし、「五木ひろし」をメジャーに押し上げた。売れずに何度かの改名をした後にスターの座をこの1曲で掴んだと記憶している。

 英語版のタイトルはTwilight Time in Yokohamaという。
♪yokohama,twilight time ,tiny unknown hotel room
A little kiss,traces of scent,still ligering smell of smoke

 ♪よこはま、たそがれ、ホテルの小部屋
 口づけ、残り香、たばこのけむり

♪あの人は行って行ってしまった
は、My love is gone away,away,so far away
となっている。英語詞はToney Allenという御仁である。意訳でなく、日本語を英語に忠実に置き換えていて、原曲を損なわれない英語詞となっているのではないか。

 なんとも「落ち」のない原稿だが、一度聴いてみることをお勧めする。

×  ×  ×

※蜘蛛巣丸太巣「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中での記憶違い・事実誤認・赤字などありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年11月15日土曜日

堂場瞬一「刑事・鳴沢了」

警察小説と探偵小説

 堂場瞬一の「刑事・鳴沢了」シリーズ第1弾の「雪虫」(中公文庫)を読む。シロイヌである。

 祖父・父に続き三代目の捜査一課の刑事となった鳴沢了(なるさわ・りょう)が主人公の警察小説である。「雪虫」はその最初の作品。新潟・湯沢で殺された老女は元宗教教団の教祖で、彼女は戦後間もない50年前、殺人事件に関わっていた――というストリーで展開される。ハードボイルドタッチで事件を追う鳴沢了の姿と、ラブロマンスも織りなしeasy-readingに最適だと思う。
 草野的には、鳴沢了の初恋の人、銀行に勤める石川喜美恵の存在が、気に入った。文章から想像するに、細身で知的な美人であろう。肩が凝らず、専ら就寝前にベッドで寝転がり、読んでいる。

 堂場瞬一(どうば・しゅんいち)は、「雪虫」を皮切りに「被弾」「熱欲」「孤独」「帰郷」「讐雨」「血烙」「被匿」「疑装」「久遠」などシリーズ化している。元読売新聞の記者で、デビュー作は2000年の小説すばる新人賞の「8年」というスポーツ小説だったという。



 警察小説というジャンルはいつごろから生まれたのだろうか。推理小説の新しい呼称であり、カテゴリーといえる。言葉として定着したのは、横山秀夫の登場あたりからではないだろうか。
 そういえば、昭和のころ「探偵小説」という呼び方があった。当用漢字の制限で「偵」が使用できないために、言葉として廃れたという。「探偵小説」に郷愁とレトロを感じるなぁ。

2008年11月14日金曜日

ピカソは「男」を全うした

創造の原動力

 ぶらり散歩は、浮世絵のお後はピカソである。東京・六本木の国立新美術館で「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」展を観た。
 残念ながらサントリー美術館は行けなかったが、サントリー美術館「巨匠ピカソ 魂のポートレート」展と同時開催で、20世紀を代表する芸術家を違う角度から特集している。どちらも12月14日(日)まで公開している。
 パリ国立ピカソ美術館の改修に伴う世界巡回展の一環として、名品の数々が来日しているのだ。

 国立新美術館では、パブロ・ピカソ(1881年―1973年)の91年の生涯を、油絵を中心に彫刻、素描など約170点の作品を、時代順に8室に分け展示している。
 「青の時代」に始まり、「バラ色の時代」を経て、すべてのものを幾何学的に分解するキュビスムに至り、古典主義に移り、シュールレアリスムに進む様が、作品を追って辿ることができる。
 「愛と創造の軌跡」と展覧会の表題にあるように、その作品を創ったその原動力は女性だったと、実感した。
 彼の人生を彩った女性たち――
・フェルナンド・オリヴィエ
・マルセル・アンベール
・オルガ・コクローヴァ

・マリー・テレーズ
・ドラ・マール
・フランソワ・ジロー
・ジャクリーヌ・ロック
 「ドラ・マールの肖像」(1937年)が印象に残った。

 美術鑑賞眼などまるでない草野だが、ピカソ90歳の作品「母と子」は感動ものだった。その迫力・気迫は、老齢など微塵も感じさせない。江戸東京博物館で観た「ボストン美術館 浮世絵名品展」で展示されていた葛飾北斎の作品と相通じるものがあった。

×  ×  ×

 1970年(昭和45年)夏にスペインのバルセロナを観光したことがある。ピカソ美術館は改修中で、見学できなかったと記憶している。38年前の話だが、未だに残念でならない。

2008年11月11日火曜日

色鮮やかなり江戸の夢

写楽そして北斎

 ぶらり散歩に出る。
 東京・両国の江戸東京博物館で「ボストン美術館 浮世絵名品展」が開催されている。以前からじっくり観たいと思って出かけたものの、なかなか人出が多く鑑賞するところまではいかない。
 しかし、名品の数々、その彩色は鮮やかで見事である。新しくても150年が経っているはずだが、とてもそうは思えない。特に幕末期の作品などは今刷り上ったばかりのようで、保存状態の良さに驚かされる。感動がそこにはあるのだ。

 ボストン美術館には5万点もの浮世絵版画が収蔵されているといわれるが、この展覧会では版画、肉筆画など137点が展示されている。
 展示は4部構成となっている。
・浮世絵初期
・春信様式の時代
・錦絵の黄金時代
~喜多川歌麿、東洲斎写楽
・幕末のビッグネームたち~葛飾北斎、歌川広重
 浮世絵の誕生から幕末までの変遷を、名だたる絵師の作品で辿ることができる。

 写楽と北斎に注目した。
 東洲斎写楽は、ご存知のように謎に包まれた浮世絵師である。生没年不詳だ。寛政6年(1794年)に出版され、わずか10ヶ月にその作品は集中している。その後の消息は不明だ。阿波の能役者・斎藤十郎兵衛という説が有力だそうだ。展覧会では、「二代目嵐龍蔵の金貸石部金吉」が目を惹いた。
 葛飾北斎(1760年―1849年)「冨嶽三十六景」「山下白雨」があった。この「冨嶽三十六景」を描いたのが70歳前半という。その創作意欲に感嘆する。

 音声ガイドを聞きながら回った。ナレーションは俳優の里見浩太朗が務めている。これも一興である。

×  ×  ×

 写楽と北斎で高橋克彦の推理小説を思い出した。高橋は、浮世絵の研究家である。1983年(昭和58年)「写楽殺人事件」で江戸川乱歩賞受賞し、「北斎殺人事件」を1987年に著している。「北斎―」では、ボストン美術館での殺人事件がストーリーの導入部となっている。

2008年10月30日木曜日

世界一になったマニエル

34歳の赤鬼

 男は頬に肉がたっぷりついて、垂れ下がっていた。老けたなぁ。それでも、笑顔に昔の面差しがうかがえる。30年前、男は34歳で、「赤鬼」と異名をとっていた。

×  ×  ×

 米大リーグ球団フィラデルフィア・フィリーズを率いる監督、チャリー・マニエルCharles Manuelは、2008年10月29日(日本時間30日)ワールド・シリーズでタンパベイ・レイズを破り、世界一に輝いた。1883年創設の古豪球団に、28年ぶり2回目の頂点をもたらした。男は64歳になっていた。

 日本球界を去り、1982年ミネソタ・ツインズのスカウトの後、マイナーリーグで9年間の監督修行を積み、1994年にクリーブランド・インディアンズの打撃コーチに就任した。そこで、日本式の早出特打を実践し打線強化を図った。打撃コーチの功績が認められ、2000年に監督昇格した。
 2003年からはフィリーズのGM特別補佐となり、2005年から監督として指揮を執っていた。その指導の下、ハワード、アットリーがMLB屈指の打者に成長、今季は救援投手陣を整備し、投打のバランスがとれたチームを作り上げた。
 ワールド・シリーズ中に母親ジューンを亡くしている。

 「練習、練習」が口癖だという。ほとんど練習を休まなかったという。新聞やネットを斜め読みしていると、日本流をMLBに生かしての栄冠という、評価が多い。

×  ×  ×

 1978年(昭和53年)。30年前、男はヤクルト・スワローズに在籍していた。練習を休まない、当時の監督、広岡達朗の方針を嫌っていた。
 また、守備力を重視する広岡の下では、守備と走塁に難がある男の評価は、非凡な打撃は認めるものの、かんばしくなかった。
 とにかく練習漬けだった。移動日も練習場を探して行った。レギュラーシーズン中に完全休養日はほとんどなかった。外国人選手である男とデイヴ・ヒルトンは、特別免除の措置もあったが、それでも他球団の外国人選手に比べ練習拘束時間は長かったろう。
 ヤクルトは球団史上初めてセ・リーグ制覇を果たし、大方の下馬評を裏切って、日本シリーズでは阪急ブレーブスを破り日本一に輝いた。
 優勝の余韻の醒めぬ中、男は近鉄にトレード移籍が決まった。
 男は広岡体制でのプレーを望まなかった。永尾泰憲と男と、近鉄の神部年男、佐藤竹彦、寺田吉孝との交換が成立したのだ。
 その年の活躍はすばらしかった。130試合中127試合に出場し、39本塁打、103打点、3割1分2厘の打率を残した。若松勉、大杉勝男(1945年―1992年)、ヒルトン、松岡弘、安田猛、鈴木康二朗など投打が噛み合ったが、この男なくして優勝はなかったのではないか。
 翌1979年、ヤクルトは日本一から最下位に転落する。ヘッドコーチの森昌彦はシーズン途中で解任され、広岡は途中休養(指揮権放棄)のまま、監督は武上四郎(1941年―2002年)が執ることになった。

 男の存在は大きかったといえる。

 一方、男は移籍の新天地で奮闘した。97試合で37本塁打、打率は94打点、3割2分4厘で、近鉄バファローズの初優勝に貢献し、本塁打王とMVPに輝いた。6月のロッテ・オリオンズ戦で八木沢壮六から死球をくらい、14試合欠場したが、顔を防御するフェイスカバー付きの特殊ヘルメットで登場した。
 翌1980年も近鉄はリーグ優勝した。男は打棒を振るい、本塁打と打点の2冠を手にした。
 近鉄を指揮した西本幸雄との関係は良好だった。

 男の日本在籍時の打撃成績をみてみよう。
1976年ヤクルト 84試合 11本塁打 32打点 打率.243
1977年ヤクルト 114試合 42本塁打 97打点 打率.316
1978年ヤクルト 127試合 39本塁打 103打点 打率.312
1979年近鉄 97試合 37本塁打 94打点 打率.324
1980年近鉄 118試合 48本塁打 129打点 打率.325
1981年ヤクルト 81試合 12本塁打 36打点 打率.260
 日本での6年間の打撃通算は、621試合に出場、189本塁打、491打点、打率3割3厘だった。リーグ優勝3回、日本一1回、本塁打王2回、打点王1回の成績を誇る。

×  ×  ×

 MLBでの現役成績は、通算6年で242試合に出場、384打数76安打、4本塁打、43打点、打率1割9分8厘と二流だった。

 指導者での成功は、日本での経験が大きかったのではないか、と草野は推測する。
 とりわけ30年前、嫌っていた広岡監督の存在があったのではないか。万年Bクラス球団を弛まぬ練習で鍛え上げ、一流に伸し上げた手腕である。
 選手として容認できなかった猛練習を、指導者になって選手に強いる――。

 その男、マニエルにどなたか聞いてほしいのだ。
 「広岡の野球のやり方を、あなたは認めますか?」

2008年10月28日火曜日

芥川文体は端麗だった

「地獄変」など

 
たまには名作も‥‥読書の「口直し」である。芥川龍之介著の「地獄変」(集英社文庫)を読む。
 表題作の「地獄変」など、
・大川の水
・羅生門
・鼻
・芋粥
・地獄変
・蜘蛛の糸
・奉教任の死
・蜜柑
・舞踏会
・秋
・藪の中
・トロッコ
12編が収録されている。難解な言葉・事象には語注が付いていている。

 中学、高校時分に何編かは読んでいる。端麗な文体はさすがだなぁ。北方謙三があとがきを寄せ、「文章修行のために芥川作品を書き写した」と記していたが、うなずける。

 書評は書けない。その能力がない。たまには名作にも触れることにしょうと思う。
 

2008年10月25日土曜日

英語小話:dried bonito

 英語で鰹(カツオ)はbonito、鰹節はdried bonitoという。

×  ×  ×

 冷凍カツオの取引価格が急落しているというニュースを、テレビで知った。国内の水揚量6割を扱う静岡・焼津港で2008年10月から下落し、9月に1キロ200円台の価格が、10月には100円台になった、という。大いに業者を悩ませている。
 金融危機による世界的な景気悪化に加え、ユーロ安、ドル安が加速して、外国の缶詰企業が買い控えていることが影響しているらしい。
 海外では冷凍カツオはツナ缶に使用されるが、日本では主に鰹節の原料となる。

×  ×  ×

 冷凍カツオのニュースから鰹節の英語小話を思い出した。

 日本人の中年男性と妙齢なイタリア人女性が英語で話をしていた。
 話題は日本料理のことになった。和食の代表的な調味料である鰹節を説明する段になり、日本人男性は「カツオを英語でなんというか」、度忘れした。
 咄嗟に、「ドライド カツオ」といったのである。

 かのイタリア人女性は顔を赤らめ“too big!” と感嘆の声を上げた。

 イタリア語で「カツオ」というと、「男性シンボル」を指すそうだ。お後がよろしいようで‥‥。

×  ×  ×

※蜘蛛巣丸太巣での草野球音の記憶違い・事実誤認・赤字などありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年10月23日木曜日

篤姫の「玉の輿」里帰り

ペリーのミシン

 徳川13代将軍、家定の正室である天璋院篤姫(1836年―1883年)が婚礼時に乗ったとされる駕籠が日本に里帰りする。12月16日から江戸東京博物館の「珠玉(たま)の輿(こし)~江戸と乗物」展で公開される。
――という記事が、2008年10月22日付の朝日新聞に掲載されていた。

 黒漆地に金の蒔絵で、徳川家の家紋の三葉葵(あおい)紋と、篤姫の養家・近衛家牡丹(ぼたん)紋、篤姫の文様の二葉葵をあしらった唐草文が精巧に施してあるそうだ。まさに「玉の輿」だ。現在、米国ワシントンのスミソニアン協会アーサー・M・サックラー・ギャラリーが所蔵している。
 同展では家定の母・本寿院の女乗物と併せて公開するというので、展示の際には実物を拝したい。

 輿(こし)。
 玉の輿。
 デジタル大辞泉によれば、「輿(こし)」は「人を乗せる、屋形の下に2本の轅(ながえ)をつけた乗り物」とある。「玉の輿」は、「①貴人の乗る立派な輿、②女性が婚姻によって手にする富貴な身分」とある。

 篤姫は薩摩藩島津家の一門に生まれ、本家の養女となり、五摂家筆頭の近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、幕末の動乱期から明治期(没年は明治11年)まで生きた女性である。

 さて、家定(1824年―1858年)である。12代将軍、家慶(1873年―1853年)が嘉永6年にペリー来航の騒動の最中(離日の10日後)に没したため、その後継となったが、在位は嘉永6年から安政5年(1858年)と短い。幼少のころから病弱で、脳性麻痺だったといわれる。
 そのため将軍在位中から後継問題が浮上した。井伊直弼(1815年―1860年)の推す紀州藩主の徳川慶福(後の14代家茂=1846年―1866年)の南紀派と、島津斉彬(1809年-1858年)と徳川斉昭(1800年-1860年)が推す一橋慶喜(15代慶喜=1873年ー1913年)の一橋派である。
 家定の在位は足掛け6年と短く、幕政に関与していなかったが、日米和親条約(1854年)、日米修好通商条約(1858年)を締結した。その日本の節目・岐路に家定がいたことを記憶したい。
 安政4年(1857年)10月、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリス(1804年―1878年)と江戸城で引見している。

 家定と篤姫の間に子宝は恵まれなかった。

 マシュー・カルブレイス・ペリー(1794年―1858年)は来航時にミシンを将軍・家定に献上したといわれる。日本で初めてミシンを扱った女性は、天璋院篤姫だという。

2008年10月16日木曜日

野村胡堂の「銭形平次」

ガラッ八キャスト

 野村胡堂著・末國善己編「奇譚銭形平次」(「銭形平次捕物控」傑作選~PHP文庫)を読む。
・金色の処女
・呪いの銀簪
・人肌地獄
・七人の花嫁
・南蛮秘法箋
・江戸阿呆宮
・火遁の術
・遠眼鏡の殿様
・密室
上記9編が収録されている。どれも一気に読める内容で、シロイヌだった。

 野村胡堂(1882年―1963年)は1931年に銭形平次捕物控の第1作「金色の処女(こんじきのおとめ)」を発表し、太平洋戦争を挟んだ1957年までの26年間に長短編を含めて383編を執筆している。
 結婚前のお静が登場する「金色の処女」は、徳川3代将軍・家光の暗殺計画の陰謀、邪教集団の美女連続誘拐事件など波乱万丈に展開する。

 恥かしながら、「銭形平次」を読むのは、草野は初めてで、子供の頃、長谷川一夫の映画で親しんだクチである。フジテレビで放送した大川橋蔵のモノは、何故かほとんど観ていない。
 というわけで、383編の9編を読んだだけで、書評などするつもりはない。

 銭形平次といえば長谷川一夫(1908年―1984年)となる。平次は長谷川一夫の当り役で17本も撮っている。調べてみると、新東宝で1本と残り16本は大映作品だった。制球力抜群、鮮やかな寛永通宝の投げ銭が見せ場だった。
平次の子分である「ガラッ八」の八五郎役がバラエティーに富んでいる。主だったところを順不同で列記すると、
・花菱アチャコ
・堺駿二
・榎本健一
・船越英二
・三木のり平
・ハナ肇
と、名脇役が並ぶ。ちなみに堺駿二は堺正章の、船越英二は船越栄一郎のオヤジ殿で、船越英二夫人の長谷川裕見子は長谷川一夫の姪にあたる。

×  ×  ×

※蜘蛛巣丸太巣「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中での記憶違い・事実誤認・赤字などありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年10月9日木曜日

「オットセイ将軍」家斉

最長在位50年

 「源氏物語1000年」展からの小ネタ――。その数々の展示品のなかで、草野球音が興味を抱いたのは、徳川11代将軍・家斉の息女、文姫が高松藩主・松平頼胤に嫁いだ際の婚礼調度品、源氏絵を描いた屏風である。

 正確に言えば、興味は屏風ではない。文姫のオヤジ殿の徳川家斉だ。

 佐伯泰英の「居眠り磐音シリーズ」(2008年10月4日の項)に10代将軍の家治、その嫡男で11代候補の家基が登場するが、史実によれば家基は夭逝するので、今後の展開はどのようになるのか、と書いた。

 家基の亡きあと11代将軍は、一橋家から家斉が11代将軍を継ぐ。棚から牡丹餅(ぼたもち)というか、お鉢が回ってきた将軍を務めることになった家斉は、徳川265年の歴史で最長記録となる50年間も在位するのだ。
 文姫は家斉のなんと16女である。家斉は大奥を最も利用した将軍で、特定されるだけで、16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人の子供を儲けたという。大奥経費、養育費がかさみ幕政を逼迫させるほどだった。さらに12代将軍を家慶に譲ってからも、「大御所」として隠然たる権力を揮った。

 精力絶倫の秘密はなにか?
 彼はオットセイのペニスの粉末を愛用していたそうだ。

2008年10月7日火曜日

源氏物語1000年に想う

人口男女比

 ぶらり散歩がてらに横浜美術館に入った。横浜・みなとみらいの当館は自宅から歩いて行ける貴重な文化施設で、7月の大暑の候に寄って以来である。

 特別展は「源氏物語の1000年~憧れの王朝ロマン~」だ。

 紫式部が書いたといわれる「源氏物語」は、平安時代中期に執筆されたとされるが、確かな執筆年は特定されていない。
 紫式部日記には、寛弘5年(1008年)に源氏物語と思われる物語の冊子作りをしたと記述があるそうで、ここを起点にすると、今年が1000年目のアニバーサリーになるという。
 ちょうど1000年に当たるかどうかは別として、世界に誇る日本文学の名作が、世に出て凡そ1000年が経過したことは間違いあるまい。

 恥かしながら、草野球音は源氏物語を読んでいない。高校時代に古文の授業で、断片的にさわりを勉強したに留まる。よって、詳しい内容は書かない。
 
 平日の午前中だというのに、結構な人出である。スムースに閲覧できないほどだ。見物人の属性は、高齢化社会を実感するほどに、60歳以上が大半。男女比は、約7割が女性というところ。元気なおばさんが実に多い。

 総務省統計局の人口推計のデータを見てみよう。
 2008年(平成20年)9月1日現在(概算値)の「年齢(5歳階級)、男女別人口推計」では、
0歳~4歳 男277・女264(単位=万人)
20歳~24歳 男365歳・女346
30歳~34歳 男458・女445
40歳~44歳 男423・女416
45歳~49歳 男390・女387
50歳~54歳 男391・女392
60歳~64歳 男436・女457
70歳~74歳 男322・女375
80歳~84歳 男156・女248
85歳以上 男94・女250
となっている。
 出生時から4歳までの男女の人口比は、男性277万人に対して264万人と13万人少ない女性だが、40代までその差を3万人と縮め、50代に入り初めて逆転する。50歳~54歳では1万人上回り、60歳~64歳で21万人、70歳~74歳で53万人、80歳~84歳で92万人と年を追うごとに差を広げる。85歳以上となると、男性94万人に対して250万人と、実に146万人の大差となり、「勝負あった」となる。

 高齢化ニッポン、女は男を凌駕する。

 そういえば、平安朝の”おんとき”も、紫式部、清少納言らが健筆を揮った「女性の時代」であった。

2008年10月4日土曜日

佐伯泰英「居眠り磐音」

easy-reading

 佐伯泰英の“居眠り磐音江戸双紙シリーズ第27弾「石榴ノ蠅」”(双葉文庫を読む。いつもながら飽きさせず、気楽に読ませてくれる。

 第1弾の「陽炎ノ辻」から数えて27冊も文庫を読んだことになる。
 陽炎ノ辻/寒雷ノ坂/花芒ノ海/雪華ノ里/龍天ノ門/雨降ノ山/狐火ノ社/朔風ノ岸/遠霞ノ峠/朝虹ノ島/無月ノ橋/探梅ノ家/残花ノ庭/夏燕ノ道/驟雨ノ町/蛍火ノ宿/紅椿ノ谷/捨雛ノ川/梅雨ノ蝶/野分ノ灘/鯖雲ノ城/荒海ノ津/万両ノ雪/朧夜ノ桜/白桐ノ夢/紅花の邨/石榴ノ蠅
 「居眠り磐音江戸双紙」読本にある番外編「跡継ぎ」も含めて、ほぼ完全制覇(?)している。佐伯泰英の他作品では「密命シリーズ」(祥伝社文庫)も「寒月霞斬り」から「残夢」まで11巻読んだところで、現在休止中である。

 登場人物がキャラクターに富み、多彩である。内容については、これから読まれる方もいるので触れないが、主人公の坂崎磐音(後に佐々木家に養子となり佐々木姓となる)、妻となる江戸小町のおこん、磐音の許婚で花魁、白鶴になる奈緒、道場主で磐音の養父となる佐々木玲圓、両替商・今津屋の老分の由蔵、貧乏御家人の友である品川柳次郎、そして徳川10代将軍の嫡男、家基などが生き生きとドラマを展開する。
 奈緒が好みだ。磐音の許婚から苦界に身を沈め、吉原では白鶴と名乗り、松の位の花魁にのぼり詰め、山形の紅花商人に落籍される。数奇な運命に翻弄されるが、ひたむきに磐音を愛す姿が健気で、実によいのだ。

 毎巻のお約束のチャンバラも魅力だ。豪剣・備前包平が冴えわたる。

 剣あり、恋あり、1950年代の東映時代劇を彷彿させるのだ。片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵らが颯爽と斬りまくっていた、あのころの時代劇である。肩の凝らない娯楽チャンバラ映画は懐かしい。

 さて、今後の行方はどのような展開になるのだろうか。
 史実によれば、10代将軍の家治の長男である徳川家基は18歳(満16歳)で夭逝している。幼年期から文武両道に長け、将来の名君を期待されていたが、11代将軍は家斉が一橋家から継いでいる。ちなみに、家斉は男子26人・女子27人の子女を儲けた「オットセイ将軍」として知られる。
 家基はどうなるのだろか。
 

2008年9月28日日曜日

東野圭吾「容疑者Xの献身」

東野圭吾の「容疑者Xの献身」(文春文庫)を読む。
シロイヌだね。何かって? 尾も白い(面白い)――。












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専ら時代小説、江戸ノベルを読んでいるが、たまには口直しもする。天才物理学者の湯川学を主人公とした「探偵ガリレオ」「予知夢」なども読んでいる。東野圭吾はこの「容疑者Xの献身」で直木賞を受賞している。5度ノミネートされ落選していた東野なので、悲願の受賞といえるかもしれない。

 またフジテレビの「月9ドラマ」で、福山雅治、柴咲コウ主演の「ガリレオ」も観ていた。この劇場版として「容疑者Xの献身」(東宝:西谷弘監督)が映画化されたという。

 湯川学(福山雅治)と並ぶこの作品での主人公である、天才数学者の石神哲哉役は堤真一だそうだ。湯川の帝都大学の同窓生であり、「ダルマの石神」と異名を持ち、現在頭髪が薄くなったメタボ風の体型と堤とは似つかわしくないように思えたが、映画評なども概ね堤の演技は好評である。意図があってのキャストだし、草野球音が心配することではないだろう。
 小説の最後では、留置所で石神は花岡靖子(松雪泰子)が出くわし、号泣するが、映画ではどう描かれるのだろうか。

2008年9月25日木曜日

756号が飛んできた!

王貞治の辞任

 博多の夜が咽(むせ)び泣いた。

 せめて勝っていたら‥‥。勝って終われらせてあげたかった。
昨日から新聞を読みテレビを観ながら、涙が出てならない。堪(こら)えると、今度は鼻水が止まらなくなった。歳をとると、どうもシマリがなくなってけねぇや。

 2008年9月23日に辞任を表明したプロ野球福岡ソフトバンク・ホークスの監督、王貞治(68)は翌24日本拠地福岡ヤフードームでの本拠地最終戦に臨んだ。試合はオリックスに1―4と、ラストゲームを飾ることはできなかった。
 試合後、集まった観衆3万5526人に辞任を報告した王は、ナインから胴上げされ、美しく舞った。そして去った。

 通算本塁打数868本を記録し「世界の王」といわれた栄光の現役22年、日本一2回、世界一(WBC)1回を成し遂げた監督19年――これが、不世出のプロ野球人の最後のユニホーム姿なのだろうか。

×  ×  ×

 あれは1977(昭和52)年9月3日だった。あのとき、球史に残る打球は、目の前に飛んできた。
 後楽園球場で行われた巨人―ヤクルト戦。王はヤクルトの鈴木康二朗からハンク・アーロンの持つ世界記録を破る756号を右翼席に叩き込んだ。
 当時担当のヤクルトは優勝争いからはずれ、注目は王の世界記録一色だった。担当球団の取材を離れ、右翼席に世界新の本塁打が放たれることを予想して、試合開始から陣取っていた。そこに756号が飛んできたのだった。
 打球を捕った(拾った)男性は、歓喜のファンが殺到し、もみくちゃになった。
 その男性は、スタッフに護られて球場事務所に駆け込んだ。貴重なホームランボールを渡し、その替わりに記念品と王のサイン入りボールと色紙を手にした。
 汗びっしょりの取材だったと、記憶している。

 打たれた鈴木康二朗は奮起して、翌1978年13勝を稼ぎ、ヤクルト球団史上初めてのリーグ優勝・日本一に貢献した。近鉄に移籍後も救援投手として活躍した。

 後楽園球場には、世界新の打球が落下した右翼席の地点に記念のモニュメントが設置された。現在は、東京ドーム内の野球博物館に飾られている。

2008年9月20日土曜日

ザ・ファースト・サムライ

立石斧次郎

 トミーこと立石斧次郎(たていし・おのじろう=1843年―1917年)は、幕末期にアメリカで最も有名な日本人だった。全米に初めて知られた“ザ・ファースト・サムライ”であった。

 こんな御仁がいたのか。関心を抱いた。ぶらり散歩の横浜開港資料館で観た、若い侍が映っている写真である。その説明文を要約すると、「1860(万延元)年の遣米使節団に同行した16歳の通詞見習、立石斧次郎。アメリカの婦人方に人気で“トミー・ポルカ”という流行歌まで作られた」と記されていた。

 トミーの養父がオランダ語通詞の立石得十郎である。1853(嘉永6)年のペリー来航時に、
“I can speak Dutch”(拙者はオランダ語を話せる)
と日米外交史の口火を切ったのは、堀達之助(ほり・たつのすけ=1823年―1894年)だった。翌嘉永7年、マシュー・C・ペリーMatthew Calbraith Perry(1794年―1858年が再来日し、日米和親条約を締結した際の首席通詞は森山栄之助(もりやま・えいのすけ=1820年―1871年)だった。立石得十郎は、2度にわたるペリー来航の際、堀や森山を手助けしている。

×  ×  ×

 以下は遣米使節団に加わるまでのトミーの略歴――。
1843(天保14)年、直参旗本の次男として生まれる。幼名は「為八」。ペリー来航後に、母方の親戚である立石得十郎の養子となり、最初にオランダ語、次いで英語を学ぶ。和親条約締結後にタウンゼント・ハリスTownsend Harris(1804年―1878年)が下田に在住すると、得十郎は下田詰めとなる。トミーは下田で森山栄之助や、ハリス、ハリスの通訳ヒュースケンHenry Conrad Joannes Heusken(1832年―1861年)に英語を学ぶ。若くしてネイティブに接したトミーの英語は上達する。

×  ×  ×

 日本初の遣米使節団は、1860年、日米修好通商条約(1858年締結)の批准書交換のため、徳川幕府が編成した組織で、正使新見豊前守正興、副使村垣淡路守範正、そして目付小栗上野介豊後守忠順とする総勢77名である。一行は同年2月、アメリカが提供した軍艦ポーハタン号に乗り込んで渡米した。その護衛艦として随行したのが咸臨丸である。提督には軍艦奉行の木村攝津守、艦長には軍艦操練教授方、勝麟太郎が任命された。ちなみに通詞にはジョン・万次郎、木村攝津守の従者として福沢諭吉がいた。

 使節に選ばれた立石得十郎は養子トミーの同行を願い出た。許可され、晴れて16歳のトミーは通詞見習の身分として使節のメンバーとなった。

2008年9月13日土曜日

歴史を見た「たまくす」

横浜開港資料館にて

 ぶらり散歩に出る。
 横浜開港資料館(横浜・中区日本大通3=みなとみらい線「日本大通り」駅3番出口から徒歩2分)を見学する。旧館は1972年(昭和47年)まで英国総領事館だった。横浜指定文化財となっている。新館には横浜開港に関連した資料・地図・写真・かわら版などが展示されている。
 旧館と新館に囲まれた中庭に大木のタブノキがある。タブノキはクスノキ科の常緑高木で、この木は通称「たまくす」、知る人ぞ知る「有名木」なのである。
 その「たまくす」が、最近弱り気味のため、周囲の土を掘り返し、土中に空気を送り栄養を補給する土壌改良作業を行うことになった。作業中に、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊・焼失した英国総領事館の外塀の瓦礫(がれき)が大量に見つかったという記事が、2008年9月11日付の朝日新聞横浜版に載った。

 歴史を見てきた「たまくす」である。
かなり有名な話なので、どこぞで見聴きしたことがあるかもしれないが、なぞってみる。
 1853年、嘉永6年6月、マシュー・C・ペリーMatthew Calbraith Perry(1794年―1858年)提督が米国艦隊4隻を率い、フィルモア大統領国書を持って浦賀にやってきた。江戸の幕府に開港を強く迫った。世にいう「黒船来航」である。泰平の眠りに冷や水をかけられた。
 大慌ての幕府は、将軍・家慶の病気(ペリーの離日10日後に死去)を理由にお引取り願ったが、翌嘉永7年(1854年)の正月に再度来航したペリーの開戦も辞さずの強硬姿勢に、断れ切れず日米和親条約を結んだ。ここに鎖国の門はこじ開けられた。
 日米和親条約締結の地が、当時小さな農漁村の横浜の、現在の開港資料館あたりであった。「たまくす」は、ペリーが横浜村に上陸した時に、傍観していたのだ。ペリー艦隊の随行画家ウィリアム・ハイネWilliam Heine(1827―1885)の「横浜上陸」や「水神の祠」などに背景として描かれている。
 1858(安政5)年の日米修好通商条約締結を経て、翌1859年に横浜開港となっている。
 1866(慶応2)年の大火では「たまくす」は樹形が変わるほど焼失したものの生きながらえ、さらに1923年の関東大震災では樹木は消滅したが、その根から芽を吹き、生命は絶えることがなかった。まさに奇跡の木といえる。
 土壌改良作業の際、出土したのは、関東大震災時の瓦礫であったのだ。
×  ×  ×
 来年2009年に、横浜は開港150年を迎える。150年間生き生きと青葉茂る、横浜の「生き証人」である「たまくす」はなに想うのか。

2008年9月7日日曜日

「七つの顔」を持った男

岸田吟香

 ヘボンの和英辞書「和英語林集成」刊行、ジョセフ彦の新聞発行に尽力した岸田吟香(きしだ・ぎんこう=1833―1905)は、「七つの顔」を持った男だった。

 ある時は片目の運転手、またある時は気障な中国人‥‥そして、その実体は藤村大造‥‥。あの片岡千恵蔵「七つの顔の男」シリーズのような御仁なのだ。

 中小姓・儒官・妓楼の主人・辞書編纂者・新聞記者・実業家・教育者――など岸田の生涯の様変わりは激しく、面白い。

 岸田の生まれは美作国(みまさかのくに)で百姓だが、勉学を志した。1856年(安政3年)、三河拳母(みかわころも)藩の中小姓、後に儒官と昇任したが、脱藩。深川で湯屋の三助で糊口(ここう)を凌ぎ、その後吉原で妓楼の主人となった。当時の名前が銀次で、仲間うちで「銀公」と呼ばれていた。
 目を患い、眼科医として知られるJ・Cヘボン(1815―1911)を訪ね治療を受ける。その縁で、「和英語林集成」の編纂を手伝うようになる。1864年、ジョセフ彦(1837―1897)を執筆でサポートし、日本初の新聞を発行している。
 当時の日本には活版印刷機がなかったため、辞書の印刷のため、上海に渡る。そこでは、日本語のカナ文字がなく、岸田が手書きした版下を基に活字を鋳造している。1867年(慶応3年)「和英語林集成」刊行に漕ぎつける。その年、ヘボンから伝授された目薬「精錡水」(せいきすい)を発売する。
1873年(明治6年)、東京日日新聞に主筆として迎えられ、台湾出兵の際には日本初の従軍記者で活躍する。1877年には売薬事業の楽善堂を開き、事業で成功を収める。福祉活動にも積極的に参加し、1880年には盲人教育を目的とした薬善会訓盲院(現筑波大学附属盲学校)を設立した。

 波瀾万丈の岸田吟香であった。

2008年9月4日木曜日

麗しのオードリーと同名

  我々が日常的に使っているヘボン式ローマ字を創始したのが、ジェームズ・カーティス・ヘボンJames Curtis Hepburn(1815―1911)である。アメリカ人で宣教師であり、医師であった。

 ヘボンHepburnは、あの名優のオードリー・ヘプバーンAudrey Hepburn(1929―1993)キャサリン・ヘプバーンKatharine  Hepburn(1907―2003)と同じ綴りの苗字で、当時の日本人が耳で聞いた通りの発音で「ヘボン」となったと推測する。

 かのヘボンは、日米修好通商条約が締結され、翌1959年(安政6年)開港したばかりの横浜に来日した。まず住んだのが、宣教師宿舎にあてられた神奈川成仏寺であった。3年後に横浜居留地39番に移り住んでいる。人形の家(中区山下町)に近い横浜地方合同庁舎の前には、「ヘボン博士邸跡」の石碑がある。

 日本初の和英辞典「和英語林集成」を編纂、三国平文の名で出版している。その表記に生まれたのがヘボン式ローマ字だったそうだ。また、英語教育にも貢献し、1863年(文久3年)横浜にヘボン塾を開いたり、明治学院の創設に尽力している。

 日本に33年間滞在し、1892年(明治25年)にアメリカに帰国している。

 ヘボンの「和英語林集成」編纂を手伝ったは、ジョセフ彦の日本初の新聞発行に協力した岸田吟香(1833-1905)だった。

2008年8月31日日曜日

米領事館だった本覚寺

神奈川宿あたり

 4週間のご無沙汰です。「蜘蛛巣丸太」をあまりに更新しないので、臥(ふ)せっているのでは、とご心配をいただいたりした。勝手ながら夏休みをとり、ひねもす北京五輪をテレビ観戦するズボラ暮らしを送っていた。呑気な隠居でも、そろそろ惰眠から覚めねば、額に汗して働いているみなさんに申し訳が立たない。極楽トンボを返上する。
 草野球音の話題は、4週間を経ても、相変わらず幕末~明治維新に留まっている。

×  ×  ×

 ぶらり散歩に出る。住まいの界隈をぶらつく。
 まず足は京浜急行の神奈川駅に向かう。
 神奈川駅は青木橋の袂(たもと)にある。急行も止まらぬ小さな駅だが、東海道五十三次の宿場、神奈川宿のあった場所である。
 東海道は起点の江戸日本橋から7里(28k)、品川、川崎と数えて3番目の宿場で、人の往来は頻繁であった。

 1872年(明治5年)新橋~横浜に鉄道の開通に伴って架けられた跨線橋である青木橋をわたると、本覚寺が見える。
 この寺(横浜市神奈川区高島台1番地の2)は、幕末の横浜開港時、アメリカの領事館だった。
 本覚寺は鎌倉時代に臨済宗の寺として開山されたが、戦国時代に荒廃し、後に1500年頃に曹洞宗の寺として再興された。江戸時代は万病に効く「黒薬」が宿場の名物として売れたという。
 坂を上り、本覚寺に着くと、門前には「アメリカ領事館跡」の石碑は立っている。その近くには、岩瀬肥後守忠震の顕彰碑がある。岩瀬は神奈川(横浜)開港を首唱し、タウンゼント・ハリス(1804―1878)と交渉した役人である。
 1858年日米修好通商条約が締結された。翌1959年、ハリスは本覚寺を見分けし、神奈川の船着場に近く高台にあり景色がよく、対岸の横浜村が見渡せることから、領事館として最適とした。
 
 この付近には、幕末の頃、外国領事館だったお寺が多い。京浜急行神奈川駅から品川に向かい、歩き出せば、程なくイギリス領事館だった浄瀧寺フランス領事館で浦島太郎伝説の慶運寺なども現れる。そのほかオランダ領事館長延寺、宣教師宿舎でヘボン式ローマ字のヘボンがと居た成仏寺も「隣組」である。

 生麦事件で負傷したイギリス人、マーシャルとクラークが生麦から逃げ込んだが本覚寺であり、その治療を施したのがジェームス・カーティス・ヘボン博士(1815―1911)だった。

2008年8月3日日曜日

新聞の父ジョセフ彦Ⅱ

吉村昭の記述

 コレって、不思議だよね。
 改造したばかりの福田内閣支持率が、朝日と読売で段違いである。
 朝日新聞社は「横ばい24%」、片や読売新聞社は「好転41%」と、2008年8月3日の紙面ならびに電子版が伝えている。どちらも8月1日と2日の緊急世論調査(電話方式)によるという。
 内閣支持率は朝日が低め、読売高めの傾向となっているが、今回の17%という差は珍しい。というより、こんなに世論調査の結果がなぜ違うのだろうか。あり得ない差異ではないか、と思う。
 発行部数において日本のトップ2を誇る2紙だけに、大いに気になるところだ。

×  ×  ×

 さて、新聞といえば、新聞の父といわれるジョセフ彦のことを書いた歴史小説「アメリカ彦蔵」(吉村昭著=新潮文庫)を読む。
 吉村昭の本は、恥かしながら、今まで読んだことがなかった。難(かた)そうで敬遠していた。
 興味を抱く幕末を題材した小説を数多く書かれているので、向学のためにも「食わず嫌い」を捨てた(ご大層な言い方か)。読み出すと、その取材力の周到さに圧倒される。とても及びもつかぬ。頭が下がる。耽読した次第である。

 「新聞の父:ジョセフ彦」(2008年7月17日記)では、リンカーンのゲティスバーグの演説記事を読んで、新聞発行の意を強くしたと書いたが、吉村昭著では記述がなかった。草野球音はどこぞで読んだ記憶で書いたものだが、吉村は自ら確認したことだけを信用して書いている。彼の書いたものに、「どこぞ」などという中途半端な記述は一切ないのだ。ゲティスバーグの件は、彼の取材では”裏”が取れなかったのではないか、と推測する。
 「私(吉村昭)は小説を書くとき、その裏付けとして取材するが、まず他人の書いたものを信用しない。自らの足で歩き自らの耳で聴くことに徹する」。
 彼は信念の記述をする書き手である。
 コレって、まさに、新聞報道の基本ともいえるものではないか。

 とかくいい加減な記述のある草野球音、いたく勉強となった「アメリカ彦蔵」だった。でも、とても真似はできないのだ。

2008年7月29日火曜日

「ヴ」考案は福澤諭吉

英語の先駆者

 高校野球で慶応高校が、北神奈川県予選を勝ち抜き、夏の甲子園出場を46年ぶりに果たした――というわけで、半ば強引に、慶応義塾の創始者である福澤諭吉の小ネタである。
×  ×  ×
 英語の「V」の発音を、「ウ」に濁点をつけた「ヴ」と表記することを初めて考案したのは、福澤諭吉(1835年―1901年)だという。
 万延元年(1860年)、彼は「華英通語」という本を出版した。英語と中国語との対訳の単語短文を日本語に訳したもので、英語の発音をカタカナで表記している。ここで、「ヴ」という表記が本邦初登場した。「ブ」との発音の差異を明確にしたわけで、さすが先駆者は賢いと感心したことがある。
 諭吉は安政6年(1859年)、開港したばかりの横浜を訪れている。横浜は日米修好通商条約締結(1858年)後に開かれた5つの港(箱館、新潟、神戸、長崎、横浜)のひとつだった。横浜は、江戸に隣接し防衛上の問題から東海道の神奈川宿に外国船の発着を避けたい幕府の要望で、宿場とは離れた寒村に港を築いた。なにもないところに忽然として外国文字の店が建ち並ぶ、不思議な空間がそこにあった、と想像する。
 大坂の緒方洪庵(1810年―1863年)の適塾で蘭学を学びオランダ語に通じていた彼は、腕試しとばかりに興味深く街を歩いたが、店の看板、行き交う人の言葉を、さっぱり理解できなかった。衝撃を受ける。英語を知らなければ、世界に通用しないことを悟ったのだった。
 翌日から彼の英語学習は始まった。
 万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准のため、日本初の遣米使節団として、咸臨丸勝海舟ジョン万次郎らと渡米する。

2008年7月27日日曜日

川本幸民ビールの味

黒船期に試醸

 冷えたビールが旨い今日この頃です。(「季節に関係なく、年がら年中、旨いと言って飲んでいる」、との陰の声あり)。さて、揃って食事となれば、「とりあえずビール」となりますなぁ。これを英語で言えば、
We’ll start with beer.
となると、NHK語学講座「英語が伝わる!100のツボ」で“楽習”しました――「シュダヴは後悔の表現」(2008年6月29日)。

×  ×  ×

 ぶらり散歩に出る。
 横浜は、あの生麦事件のあった鶴見区生麦のキリン横浜ビアビレッジ(京浜急行の生麦駅から徒歩10分)である。
 1時間のブルワリーツアー(工場見学)に参加した。ビールの製造工程(原料、仕込み、発酵・貯蔵、ろ過、パッケージング)を女性ガイドが案内してくれる。最後の20分は出来たてのビールの試飲(大きなビアグラスで2杯までOK)ができる。無料なので、これは夏の時間つぶしの穴場といえる。

 さて、このビールを初めて醸造した日本人は、川本幸民(1810年―1871年)という蘭学者だった。化学の実験で試醸したのだが、幸民は自分で醸して飲みたい気持ちがあったのではないか。彼は飲兵衛だったという。
 このビールの試醸は、黒船来航の嘉永6年(1853年)頃だった。当時、西欧でよく読まれていた、ドイツの農芸化学書のオランダ語版を自ら翻訳した「化学新書」を手に、江戸・芝露月町の私宅で作ったビールはどんな味だったろうか。
 
 1810年(文化7年)摂津国有馬郡三田藩(兵庫県三田市)の藩医の子として生まれる。幼少の頃から勉学に励む。江戸に出てオランダ医学を学び、後に物理・化学を分野まで精通する、著名な蘭学者となる。学識を買われ、薩摩藩に迎えられている。
 化学という言葉を初めて使った人としても知られ、マッチ、銀板写真の製作なども手掛けていて、西欧の文化を幕末、明治維新期の日本に紹介することで大いに貢献した。偉大な学者だった。

×  ×  ×

 日本での本格的なビール醸造は、文明開化の横浜から始まった。
 1870年(明治3年)、アメリカ人のウィリアム・コープランド(1834年―1902年)が横浜居留地・山手123番(現在の中区、北方小学校付近)に「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設し、日本で初めて商業的にビールを醸造した。客は主に居留地の外国人だった。その後、麒麟麦酒の前身「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」に引き継がれ、1888年(明治21年)「麒麟ビール」が全国に販売された。
 1923年(大正12年)の関東大震災で、山手工場が破損したため、生麦に工場を移転し、今日に至っている。

 キリン横浜ビアビレッジの見学コース入り口から徒歩3分ほどのところに、あの「生麦事件」のあった場所を示す石碑が、よく見ないと通り過ぎるほど地味に建っている。薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件である。文久2年(1862年)のことだった。

2008年7月26日土曜日

キュレーターって何?

curator
 ユースプログレシッブ英和辞典によると、「博物館・動物園などの学芸員」とある。

キュレーター
 デジタル大辞泉によると、「博物館・美術館などの、展示会の企画・構成・運営などをつかさどる専門職。また、一般に、管理責任者」とある。

 

2008年7月24日木曜日

ちあきなおみの「喝采」

伝説の歌手

 喝采は場内を包み、劇場を揺り動かしている。緞帳(どんちょう)が静かに開く。それでも晴舞台に、主は現れない――。
 伝説の歌手、ちあきなおみのことである。
ここ数年、彼女の歌謡が繰り返し話題となり、あの歌唱をもう一度聴かせとほしい、と望むファンは多い。
×  ×  ×
「喝采」に出くわした。
 前回の項(写真:スフィンクスと侍=2008年7月22日)の続きである。茂木健一郎、はな、角田光代、荒木経惟の4氏をゲストキュレーターとした横浜美術館の展示会でのこと。
 館内に、ちあきなおみの「喝采」(作詞・吉田旺、作曲・中村泰士)が静かに流れていた。
♪いつものように 幕が開き
 恋の歌 うたう私に
 
 なんで? 
 場違いでは?  
 中島清之の描いた「喝采」の展示を観て、得心が行った。ちあきなおみが「喝采」でレコード大賞を受賞した際、中島清之が描いた作品だそうで、赤いドレスでマイクを手に歌唱している女性歌手の絵だった。
 レコード大賞が1972年(昭和47年)だから、そのあたりに描いた作品だろうか。展示会で絵画よりもBGMの興味を惹かれるのは妙な話だが、その曲が、ちあきなおみだからだろう。
×  ×  ×
 巧い歌い手。美空ひばり(1937年―1989年)がテレビのインタビューで、かって語ったことがある。彼女の物真似を問われて、「私の物真似で巧いのは、話し言葉は中村メイコ。歌はちあきなおみが一番ネ」と、太い低い声で応えているのを観たことがある。
 競作となった「矢切の渡し」など、他の歌手には悪いが、情感あり、一番訴えるものがある、と思う。
 水原弘(1935年―1978年)の名曲「黄昏のビギン」(作詞・永六輔、作曲・中村八大)のカバーが、テレビCMに流れことがあった。おミズもいいが、ちあきもいい、と感じ入った。
 1992年(平成4年)、夫の俳優、郷鍈治と死別した。郷が荼毘に付されるとき、棺にすがりつき、「わたしも一緒に焼いて」と号泣したという。以来、芸能活動を断ち、今日に至っている。
×  ×  ×
 カムバックの声は、これからも何度となく起こることだろう。
 だが、しかし‥‥。再登場はないのではないか。それだけの思いで、歌を断ったのではないか、と推測する。
 だから、こそ‥‥。ちあきなおみは伝説の歌手となった。

2008年7月22日火曜日

写真:スフィンクスと侍


横浜美術館にて

 大暑。ぶらり散歩に出る。
 横浜・みなとみらいの横浜美術館で、茂木健一郎、はな、角田光代、荒木経惟の4氏をゲストキュレーターとした展覧会を開催(8月17日まで)している。4氏が同美術館のコレクションから選定し、各セクションを構成している。
 横浜市長の中田宏が選定した「この1点!」も紹介されている。
 目を惹いたのは中田市長の「この1点!」だった。1864年(元治元年)、遣欧使節団がエジプトの名所スフィンクスをバックに映っている写真である。150年ほど前の幕末のシロモノで、スフィンクスと羽織、袴の侍の対象が、なんとも面白いのだ。左下に「A.Beato」の署名がある。
 遣欧使節団は、文久3年(1863年)にフランスとの外交交渉のため、フランス艦モンジュ号で横浜を発った。
 1858年に米、英、仏、蘭、露5カ国と貿易を行う修好通商条約を締結したが、日本国内は攘夷の嵐が吹き荒れ、外国人を襲う事件が頻繁であった。幕府は開港をしたものの、世情不安に動揺し、しばらく閉港を願い出る交渉を行うことになった。そのための遣欧使節であったが、結局、交渉は不調に終わる。
 当時、まだスエズ運河は工事中(開通は1869年)だった。
×  ×  ×
 A.Beatoはアントニオ・ベアトで、その兄弟はフェリックス・ベアト(F.Beato)である。当時、F.Beatoは幕末の日本に滞在しており、明治初期まで日本の風俗、風景などを撮影している。
×  ×  ×
 大暑の横浜・みなとみらいは、スフィンクスが佇むギザの熱風が届いたように、熱かった。
 

2008年7月19日土曜日

瓦版は幕末からの呼称

読売・辻売絵双紙

 江戸時代の新聞といえば「かわら版」である。
 映画やテレビの時代劇では、時代に関わらず「かわら(瓦)版」といっていることが多いが、かわら版という呼称は、幕末以降(明治説もある)になってできたものだ。

 ――赤穂浪士の討ち入り後、翌日の朝に、「さぁさぁかわら版だ。大石内蔵助が主君の仇を討ったとよ。買った、買ったぁ」などと、浪士の活躍を知らせるかわら版が江戸の街中で売られたりするのは、明らかな嘘ということになる。
 そんな速報を伝えるメディアは、事件のあった元禄年間(1688年―1703年)に存在しない。また、当時はまだ「かわら版」とはいわなかった。
 では、なんと呼んでいたのか? 読売(よみうり)辻売(つじうり)絵双紙、あるいは単に絵双紙などと言っていたそうだ。

 かわら版は「瓦の版」で摺ったのだろうか。文字通り、最初は粘土を固め彫刻し焼きあげ、瓦としたものを版木代わりにして摺ったと言われるが、本当にそうなのだろうか、疑問を抱いている。

 現存する最古のかわら版は、元和元年(1615年)5月8日の大坂夏の陣の落城を伝える「大坂安倍之合戦之図」と「大坂卯年図」だと言われている。これは木版摺りだ。

 かわら版が扱った内容は、地震・火事・洪水などの天変地異、心中、仇討ち、犯罪事件から流行の唄本など種々雑多だった。政治ニュースはタブーだったが、幕末の黒船来航時には民衆の「知る権利」が官憲の取締りを凌駕し、禁は破られ、かわら版は大いに売れた。

 値段は、1枚4文から上下四丁の唄本の組物で16文程度、幕末のころには分量や内容が増え25文から30文ほどになったという。

 明治10年の西南戦争ごろまで、かわら版は発行されたが、新聞に取って代わられ、時代から消え去るのである。

2008年7月17日木曜日

新聞の父:ジョセフ彦

浜田彦蔵(はまだ・ひこぞう)

 ジョセフ彦って知っていますか?

 ジョセフ彦(1837年―1897年)は、日本で初めて新聞を発行し「新聞の父」といわれる御仁です。

×  ×  ×

 ざっと彼の略歴を紹介する。
 ジョセフ彦は、天保8年(1837年)8月21日、播磨国加古郡(現在の兵庫県播磨町)に漁師の子として生まれる。13歳のとき、海で遭難し約2ヶ月間の漂流の末、米商船オークランド号に救助され、1851年サンフランシスコに着く。1852年、米国政府はこの彦らを日本に送り返し、国交の糸口を掴もうと、ペリー艦隊にマカオで乗船させようとしたが、ペリーの入港が遅れてため、再びアメリカに渡る。
 サンフランシスコで着き、税関長サンダースの知遇を得て、教育を受ける。1854年キリスト教の洗礼を受け、1858年にはアメリカに帰化する。
1859年(安政6年)、21歳でタウンゼント・ハリス(1804年―1878年)に伴われ開国(1858年日米修好通商条約締結)したばかりの日本の地にやって来る。横浜の領事館通訳をしていたが、攘夷の動きが激しく身辺が危うくなり、1861年三度目の渡米。1862年には、米大統領リンカーンと接見する。1862年(文久2年)、南北戦争(1861年―1865年)の米国を後に三度目の帰国を果たす。1963年領事館通訳を辞し、横浜居留地で商売を始める

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 横浜で貿易商を始めたころ、「ニューヨークタイムズ」を目にしてジョセフ彦は、激しく心を揺さぶられた。アブラハム・リンカーンの名演説と、その反響ぶりを伝える記事だった。
 1863年11月19日、南北戦争の激戦地ゲティスバーグで、リンカーンは後世に残る名言を残している“government of the people, by the people, for the people” (人民の、人民による、人民のための政治)――一瞬にして国民に知らしめた新聞という文明の利器の威力に感嘆したのだった。

 知る権利。日本の民衆にも世界の情勢を知らせたい、それには新聞発行が、という思いが広がった。開国間もない日本にその風土はなく、発行は困難を極めた。攘夷を唱える浪士から再び狙われことになった。
 それでもジョセフ彦は新聞作りに励み、ついに元治元年(1864年)6月28日、岸田吟香、本間潜蔵らの助けを得て、発行に漕ぎつけたのだった。手書き5部であった。翌年に木版印刷となり、初版から26号まで発行した。当時100部程度を刷っていた。慶応2年(1866年)の横浜大火で、居留地の4分の1が焼失し、絶版となった。新聞の内容は、海外情報、事件、貿易の状況、金や海外相場、居留地の商店の広告などを掲載した。
 横浜での本拠を失ったジョセフ彦は、商売の拠点を長崎に移した。木戸孝充、伊藤博文、坂本竜馬が訪れ、欧米の政治、経済など情報を入手している。また、英国商館と鍋島藩とを斡旋し、高島炭鉱の企業や、大阪造幣局作りに尽力している。

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 新聞発行をした場所は、横浜・居留地141番地で、現在は中華街となっており、「日本国新聞発行の地」の碑が建っている。
 ジョセフ彦は日本籍の復帰が叶わず、東京・青山の外国人墓地にある。明治30年(1897年)に永眠し、「浄世夫彦の墓」の下に眠る。

2008年7月10日木曜日

堀達之助の英和辞書

 「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」が世に出たのは、黒船来航から9年後の1962年のことだった。日本で初めて本格的な英和辞書が出版された。編纂責任者は堀達之助(ほり・たつのすけ1823年―1894年)である。
 3万余語におよぶ語数を集め、英蘭辞書をもとに編まれている。袖珍とは、袖(そで)に入るくらい小型のもので、ポケット版の意味だ。徳川幕府洋書調所から刊行された。初版は200部印刷されたが、英語需要が高まり、好評で1866年、1867年、1869年に各1000部以上増刷された。その値段は当初1冊2両ほどだったが、後に「プレミア」つきで1冊20両にもなったという。

 “I can speak Dutch”
(拙者はオランダ語を話せる)
と黒船に向かって叫んだ堀達之助のことは、「泰平の眠りを覚ますⅡ」~黒船通詞・堀達之助~2008年5月25日に記し、何故英語でオランダ語を話せると言ったのか、「当時の堀は英語より蘭語、蘭学一般に通暁していたと推測される」と書いたが、外交的配慮であったという説を読んだので、補足しておく。
 英語で外交交渉をすれば、ネイティブの米国側に有利となり、第3の言語を使う必要があった。対等な立場で交渉を行うべく発した、堀の外交センスが生んだ第一声だったという。事実、交渉はオランダ語で行われた。
 提督マシュー・カルブレース・ペリー(1794年―1858年)の率いる軍艦にはポートマンというオランダ語通訳がいた。

 ちなみに日米和親条約の契約書は、英語、日本語のほかにオランダ語、中国語(漢文)の4カ国語が存在する。黒船の中国語通訳は、中国在住歴20年という宣教師のウィリアムズがいた。

 ペリー来航当時、日本で英語を最も理解し話したのは、中浜(ジョン)万次郎(なかはま・まじろう=1827年―1898年)であり、森山栄之助(もりやま・えいのすけ=1820年―1871年)であった。
 海で遭難し米捕鯨船に救助されアメリカにわたり、英語教育を受けたジョン万次郎を通訳に起用しようとの案もあったが、スパイではないにしろ長らくのアメリカ暮らしでアメリカ不利なことは避けるのではないか、という懸念があり、幕閣は通訳に踏み切れなかった。
 森山栄之助は長崎出身で、代々オランダ通詞の家系に生まれ、幼少からオランダ語に馴染み、漂着した米人ラナルド・マクドナルドからネイティブな英語を学んだ。ペリーも森山の存在を知っており、来航時の通訳は彼が務めると思っていた。ところが、同じ時期にロシア船が長崎に来航しており、その対応に追われ、黒船での通訳はできなかった。ペリーが二度目の来航した、翌1854年(嘉永7年)には(このとき日米和親条約は締結されたのだが)、通訳を務めている。父・源左衛門は通訳の最高位の大通詞だった。

 オランダ通詞の職制は大通詞、小通詞、稽古通詞に大別され、そのほかに私的通訳として内通詞がいた。

 堀達之助は、30歳で黒船来航に遭い、そのとき小通詞であった。

2008年6月29日日曜日

シュダヴは後悔の表現

You should’ve turned the heat off.
(火を消しておかなくちゃダメだよ)

 
 NHKテレビ英語講座「英語が伝わる100のツボ」は、月~木の週4回放送している。1回わずか10分という短い番組だが、「この日本語を英語でどう表現するの?」という疑問に平易に応えていて、「楽習」になる。

 その講師、西蔭浩子(大正大学教授だそうだ)が冒頭の「シュダヴ」を、should’ve「シュダヴ」=後悔と、解説していた。
 不注意でガス漏れを起こしたことを注意する場面の表現で、
以下はその説明
――実際やらなかったことを、「しておくべきであったのにやらなかった」という場合にshould have+過去分詞で、表現する。やや非難めいていうときに使う。Should haveはshould’veと短縮していい、「シュダヴ」と発音する。

 なかなか英語では言えそうで言えない表現だよね。
以下は、心に残った同番組での言い回し
・とりあえずビール
We’ll start with beer.
・お酒は付き合い程度なら

I’m just a social drinker.
・お噂はうかがっています

I’ve heard a lot about you.

 「気紛れ記:生涯学習」(2008年5月3日)という項を記したが、学習というよりは「楽習」で、楽しく学ぶのも、いいじゃないか。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年6月28日土曜日

伊勢佐木町ブルース

 寂しいニュースが流れた。

――大丸、松坂屋の持ち株会社であるJ・フロントリテイリングは2008年6月24日、横浜松坂屋(横浜市)の閉鎖とスーパーなど関連3事業の子会社の再編を発表した。百貨店の閉鎖は昨年9月の経営統合後初めて。不採算店舗のほか、事業が重複する百貨店子会社を整理し、統合効果を高める。

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 横浜松坂屋は幕末の1864年、生糸商人の茂木惣兵衛(1827年―1894年)が創業した「野澤屋呉服店」を前身とする。1974年に「ノザワ松坂屋」、1977年に「横浜松坂屋」と変遷し、2003年に松坂屋の100%子会社となっている。
 名古屋の松坂屋本家は、もとは「いとう屋」という屋号で、これは織田信長の小姓を務めていたとされる創業者、伊藤蘭丸祐道の苗字から由来している。

 横浜松坂屋といえば、横浜を代表する百貨店で、伊勢佐木町のシンボル的存在だった。伊勢佐木町は、明治期から昭和40年代まで横浜随一の賑わいを誇っていた。近年、横浜駅西口の再開発、東口の発展、みなとみらい地区の隆盛に押され気味で、横浜松坂屋の閉店もこのあたりに原因がありそうだが、依然、元町とともに横浜有数の繁華街であることに間違いない。

 大学生の頃、よく伊勢佐木町をぶらついた。ザキブラである。生まれの育ちも川崎だが、横浜に吹く風はハイカラな、粋な匂いがする。有隣堂本店は洋書が充実していたなぁ。在留の外国人(特にアメリカ人)が犬を連れ、散歩する姿があった。そこは、憧れのアメリカ合衆国へ繋がっているように思えた。
 当時、根岸屋はまで営業していた。戦後すぐに、進駐軍の盛り場、バーとしてGI、娼婦、893の「御用達」の店であった。混乱期の日本の縮図のような酒場だった。
不二家、オデオン座、丸井など懐かしい街を彩っていた。

 伊勢佐木町ブルースが流行ったのは、その頃である。1968年(昭和43年)に、青江三奈(1945年―2000年)が独特のハスキーボイスで歌った。作詞・川内康範、作曲・鈴木庸一、編曲・竹村次郎であった。「アァ、アァ‥‥」という導入部分の溜め息が、意表を突き、セックスを連想させるためだろうか、NHK紅白歌合戦では溜め息を喇叭(カズー)の音に変え、歌唱している。

♪伊勢佐木あたりに 灯がともる
 恋と情けの
 ドゥドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥバー
 灯がともる

 「ドゥドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドゥバー」なんて、クラブでジャズを歌っていた青江三奈だからサマになったのだろう。都会的なムード歌謡だった。青江の没後、伊勢佐木町4丁目イセザキモールに、歌碑が建立された。

 草野球音の瞼の裏では、伊勢佐木あたりの灯はいつも点(とも)っている。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年6月21日土曜日

月見草の詩:野村克也

♪誰に言われた 訳ではないが
好きで選んだ 裏通り

影でひっそり 咲く花は
俺の花だよ 月見草

 作詞・山口洋子、作曲・四方章人で野村克也が、1993年(平成5年)ヤクルト監督時代に歌ったCDである。タイトルは「俺の花だよ月見草」という。この曲、聴いたことのある人は少ないだろう。お世辞にもヒットしたとは言えない。



 プロ野球、楽天イーグルズ監督の野村克也(72歳)は2008年6月18日、阪神タイガース最終戦(甲子園)で敗れ、監督通算1454敗目を喫し、知将といわれた三原脩(1911年―1984年、巨人―西鉄―大洋―近鉄―ヤクルト)を抜いて単独で歴代最多敗戦監督となった。勝利数の通算1457勝は歴代5位で、1位は鶴岡一人(1916年―2000年、南海)の1773勝。 野村は南海(現ソフトバンク)でプレーイングマネジャーを務めた後、ヤクルト、阪神で監督を務め、2006年から楽天で4球団目の指揮を執っている。今季が監督通算23シーズン目。これまでにリーグ優勝5度、日本一に3度輝いている。
  
 プロ野球歴代敗戦数10傑(2008年6月18日現在)
1・野村克也1454敗1457勝72分・リーグ優勝5
2・三原脩1453敗1687勝108分・リーグ優勝6
3・藤本定義1450敗1657勝93分・リーグ優勝9
4・西本幸雄1163敗1384勝118分・リーグ優勝8
5・別当薫1156敗1237勝104分・リーグ優勝0
6・鶴岡一人1140敗1773勝81分・リーグ優勝・11
7・上田利治1136敗1322勝116分・リーグ優勝5
8・水原茂1123敗1586勝73分・リーグ優勝9
9・王貞治1075敗1287勝71分・リーグ優勝・4
10・長嶋茂雄889敗1034勝59分・リーグ優勝5
 野村と王は現役監督であり、勝利数と敗戦数の上乗せがあり、今後、野村は負ける度に記録を更新することになる。

 その他の監督では、川上哲治が1066勝741敗61分を記録、勝利数は10位でリーグ優勝11回(日本一11回)輝いている。
 川上は勝ちながら、不敗神話は作り上げていったが、野村は敗戦から勝利理論を構築した監督だろう。
 失敗から学ぶ――人間は試行錯誤によって成長する。学習能力が、人類、ホモサピエンスを今日まで生きながらえさせたのだろう。敗戦から学ぶものは、野村の最大の武器になった。
 「勝ちに不思議な勝ちあり。負けに不思議な負けなし」と、野村は名言を吐いている。
 敗戦の原因は必ずあり、勝利の時も、次ぎの敗戦に繋がる敗戦の要因が潜んでいる。よって勝って結果オーライとせず、その中の敗因を究明することが大事である、というのが野村の大意であろう。

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 京都府竹野郡網野町(現北丹後市)は、景勝・天橋立にほど近い。といっても、天橋立から北近畿丹後鉄道に乗って、網野駅まで2時間半もかかる。丹後ちりめんで知られる。野村克也は1935年(昭和10年)6月29日、この地で生まれた。
 家業は「野要」という食料品店だった。屋号は父要市の姓名からとった。
 3歳で父を亡くした。日中戦争に出征し、華北地方で伝染病に倒れた。
 母フミは、克也が小学校2年生のとき、子宮ガンを患い、大手術を受けた。
 家計は傾いた。
 大病で入院費がかさみ、店を手放した。
 フミは結婚前に資格をとっていた看護婦になった。
 克也は網野小学校3年から、兄とともに新聞少年になった。50軒が配達のノルマだが、2倍の100軒を受け持った。冬は腰まで届く積雪を踏み、配った。月600円の収入で、母を助け、中学を卒業するまで一日も休まなかった。
 京都府立峰山高校になんとか通わせてもらった。母に内緒で野球部に入部した。バットも買えなかった。一升瓶に水を入れ、素振りをしていた。

 少年時代は逆境との闘いだった。貧乏から脱したいという強烈な思いがあった。

 1954年(昭和29年)契約金ゼロのテスト生として南海ホークスに入団した。1年目のオフ、戦力外通告を受ける。「クビになったら、生きては行けません。南海電車に飛び込んで自殺します」。交渉役のマネージャーを泣き落とし、縋(すが)りついて残留に漕ぎ付けた。
 3年目の1956年、ハワイキャンプに抜擢され、正捕手の座に就いた。1957年には中西太(西鉄)、山内和弘(毎日)の強打者と押しのけ、本塁打王のタイトルを獲得した。
 以後、大打者の道を歩む。南海―ロッテ―西武と渡り歩いて、実働26年、45歳まで生涯一捕手として現役を続けた。

 生涯通算成績は、出場試合3017、打数10472、安打2901、本塁打657、打点1988、犠飛113、併殺打378、打率.277を残す。MVP5回、戦後初の三冠王(1回)、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、ベストナイン19回に輝く。

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 「王や長嶋が太陽の下で咲く向日葵(ヒマワリ)なら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草だ」。

 「月見草」――野村克也の代名詞といえる、この言葉は何時ごろから使われたのだろうか。2説あるようだ。通算2500安打達成の記者会見という説と、通算600本塁打の時という説である。どちらにせよ、1975年(昭和50年)での記録達成時の発言である。
 2500安打なら、当時、史上初の達成であり、600号なら前年王貞治が達成後の2番手の記録となる。後輩王の後塵を拝した600号時の発言の方が、より月見草らしくないか。
 いや、何時どこでと特定するより、含蓄のある発言内容が重要だろう。

 太陽の王、長嶋に対し、野村は自らを月に譬(たと)えた。

 国民的な人気を誇るミスタープロ野球、長嶋茂雄には生涯通算記録では勝るが、人気では遠くおよばない。
 そして通算記録では、
本塁打数:①王貞治868・②野村克也657、
打点数:①王貞治2170・②野村克也1988、
安打数:①張本勲3085・②野村克也2901
と、2番手に甘んじた。

 彼らしく、考え抜いた末に出た名言なのである。だからこそ、語り継がれ代名詞となったといえる。

 したたかな老花の咲き具合をこれからも鑑賞したい。

2008年6月12日木曜日

ラジオ体操は放送80年

 Anniversary繋がり――「赤毛のアン」(Anne of Green Gables)が出版100年なら、「ラジオ体操」は放送80年である。
 利用者だ。正確にはテレビでラジオ体操をしている。NHK教育テレビで午前6時30分~40分の10分間、身体を動かすのが毎日の朝の日課となっている。ここでは、前半が「みんなの体操」で、後半が月水金は「ラジオ体操第1」、火木土は「ラジオ体操第2」で構成されている。日曜日は随時変わる。

 ラジオ体操は、逓信省簡易保険局(かんぽ生命保険)が1928年(昭和3)に制定したのが始まりで、放送は同年11月1日に開始された。国民保険体操というのが正式名称だそうだ。2008年(平成20)の今年、放送80周年となる。
 みんなの体操は、1999年(平成11)にNHKと当時の郵政省とが公募して制定した体操で、年齢・性別・障害の有無に関わらず誰にも身体を動かすことできるように配慮されて作られている。

 小学生の頃、昭和20年後半から30年前半、夏休みに近所の広場に集まりラジオ体操をしたものだ。ひと夏を通して皆勤すると、鉛筆やらノートの賞品をもらえた。そんな思い出を共有できる、御仁もいるのではないか。

 みんなの体操・ラジオ体操を壮年にはモノ足りぬ運動量かもしれないが、隠居にはほどよい身体慣らしとなる。

 NHKの英語講座では、純名りさ、優木まおみ、松坂慶子とレッスンごとに美女を配していると、「赤毛のアン出版100年」(2008年6月8日)に書いたが、体操のアシスタントもなかなかの健康美を魅せている。
 毎日なので名前を覚えた。大橋美加、大江紗由、金子梨沙、有賀暁子、横川道乃、家根本織永のおねえさん方である。
 断じて、邪(よこしま)な気持ちで観ているではありませんぞ(笑)。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年6月11日水曜日

泰平の眠りを覚ますⅢ

阿蘭陀風説書

 ぶらり散歩に出る。
 両国の江戸東京博物館(東京都墨田区横網1-4-1)で「特別展ペリー&ハリス~泰平の眠りを覚ました男たち~」を観る。

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 江戸時代を中心とした時代小説を好んで読む。とりわけ幕末――ペリー来航から明治維新までの時代は、凄まじく躍動していて面白い。その間、わずか15年であった。

 「特別展ペリー&ハリス」では、阿蘭陀風説書(オランダふうせつがき)の展示に興味を引かれた。
 阿蘭陀風説書とは、オランダ船が長崎に着くと、通詞が出向きオランダ商館長(カピタン)から海外情勢を聴き取り翻訳し、カピタンと通詞が捺印し、長崎奉行に提出された文書である。長崎奉行から江戸表へと届けられた。幕閣は、この文書で世界の動向を知ったのだった。鎖国の日本にあって、唯一貿易を許された国がオランダであった。情報は貴重なものだった。

 オランダとの関係は、1600年の慶長年間に端を発す。オランダ商船リフーデ号が豊後国臼杵に漂着した。乗組員にオランダ人のヤン・ヨーステン、イギリス人のウィリアム・アダムスがいた。徳川家康がふたりに面会し気に入り、外交顧問とした。イギリス、オランダとの交易が始まった。家康の死後、人民統制のためキリスト教の禁止令が出され、交易の門戸を平戸と長崎に限定した。海外貿易をさらに強め、三代将軍の家光の治世に鎖国の体制が整った。
 以来、西欧との交流はオランダ1国に、それも長崎の埋立地、出島に限られた。鎖国体制完成から幕末までの200余年間にわたり、徳川幕府の代は泰平に続いた。その間、オランダ語を通して蘭学という文化が花開く。

 さて阿蘭陀風説書である。
 カピタンは江戸に出向き、将軍に謁見し通商の御礼と貢物をするのを慣わしてとしていた。「カピタンの江戸参府」は当初毎年行われていたが、後に4年に1回の行事となった。
 通常の風説書より詳しい文書を「別段風説書」という。アヘン戦争(1840年―1842年)の翌々年の1842年から、幕府はカピタンに別段風説書の提出することを沙汰する。
 1852年(嘉永5年)、オランダ商館長に就いたヤン・ドンケル・クルティウスは別段風説書でアメリカが軍船で日本に来航し日本に開港を迫ると予告したが、幕閣は黙殺した。
 翌1853年の黒船来航となる。200余年の泰平から激動の幕末へ、時代は雪崩れ込むのである。

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 カピタンはポルトガル語で「仲間の長」という意味で、鎖国で西欧と貿易はオランダ1国に絞られたが、長崎商館長をカピタンと呼んでいたそうだ。
 ヤン・ドンケル・クルティウスは最後のカピタンで、鎖国から開港に政策変更した幕府を、軍艦の発注、長崎海軍伝習所の設立などで支えた。

2008年6月8日日曜日

赤毛のアン出版100年

 カナダのL.M.モンゴメリー(1874年―1942年)によって書かれた「赤毛のアン(Anne of Green Gables)が1908年に出版されて、今年が100年目にあたる。節目の年anniversaryで、劇団四季が「ミュージカル赤毛のアン」を上演するなどちょっとしたブームとなっている。
 「赤毛のアン」は、孤児の少女が手違いで老兄妹に引き取られ、愛情に恵まれ成長していく物語で、日本では敗戦の傷が癒えぬ1952年(昭和27年)に村岡花子(1893年―1968年)の翻訳で紹介され、今なお読み継がれている。

 NHK教育テレビの英語講座で、「3ヶ月トピック英会話」という番組があり、4月から6月期は、「『赤毛のアン』への旅~原書で親しむAnneの世界~」を開講している。ここでの講師は松本侑子(まつもと・ゆうこ)で、女優の松坂慶子がサポーターを務めている。
 放送は毎週火曜日の午後11時10分から20分間で、翌週火曜日の朝6時40分から再放送されている。

 松本侑子は元テレビ朝日社員で、久米宏司会の「ニュースステーション」初代お天気予報キャスター兼リポーターも務めた。1987年には「すばる文学賞」を受賞している。「赤毛のアン」関連本を数冊著していている小説家だ。
 美人である。早くからインターネットに注目しており、ネット活用術をテーマにした講演を聴いたことがある。1997年か1998年だったと思う。
 NHKの英語講座では、名場面の抜粋を丁寧に読み解説している。60の手習いの当方も「アンの世界」を勉強させてもらっている。
 ――というオチのない原稿でした。

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 以下蛇足ながら‥‥。
 美人といえば、「赤毛のアン」の講座は松坂慶子。「ガタビーは確信の表現」の項で書いた「リトル・チャロ カラダにしみこむ英会話」では、主人公のチャロ役を女優の純名りさが演じている。「英語が伝わる!100のツボ」では東京学芸大卒の高学歴タレント優木まおみが、サポーター役を務めている。
 松坂慶子、純名りさ、優木まおみのNHK語学講座に出演の3人――失礼ながらお三方、年齢の幅はかなりありそうだが、いずれも英語の発音はその容姿同様にきれいなのである。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年6月7日土曜日

村正の切れ味:関光徳

ハードパンチャー死す

 1960年代に強打のサウスポーとして活躍し、現役引退後は世界王者を育てた横浜光ボクシング・ジム会長の関光徳(せき・みつのり)が2008年6月6日、クモ膜下出血のため死去した。66歳だった。

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 世界戦に5度挑戦したが、世界王者の夢は遠く、「悲運のボクサー」とも言われた。
 5度の世界戦は、
1961年・世界フライ級 ポーン・キングピッチ(タイ) ●15R判定
1964年・世界フェザー級・シュガー・ラモス(キューバ) ●6RTKO
1966年・世界フェザー級・ビセンテ・サルジバル(メキシコ) ●15R判定
1967年・世界フェザー級・ビセンテ・サルジバル(メキシコ) ●7RTKO
1968年・世界フェザー級・ハワード・ウィンストン(英国) ●9RTKO
である。
 惜しかったのはサルジバルとの初戦だった。メキシコでの試合だったが、序盤に右フックで王者をKO寸前まで追い込んでいる。僅差の判定の末、敗れている。現役最後の試合(世界王座決定戦)となったウィンストン戦は右目を負傷し、レフェリーはTKO負けを宣した。ロンドンでの試合。まだ闘える状態だったと思った。あっけない幕切れだった。
 
 16歳でデビューした関は、26歳の若さで引退した。

 戦績は74戦62勝(35KO)11敗1分(6EX)。引退後は後進の指導にあたり、畑中隆則、新井田豊の世界王者を育てた。

 優男で痩躯――外見はひ弱にみえるが、繰り出すパンチは鋭く、切れ味がいい。妖刀と言われた「村正」に譬(たと)えられた。また「眠狂四郎」という人もいた。ボクシングブームを支えた人気ボクサーのひとりだった。
 
×  ×  ×

 以下蛇足ながら‥‥。
 あの頃、1960年代半ばから1970年代前半、ボクシング人気は高かった。テレビではボクシング番組が花盛りで、日本テレビは平沢雪村解説の「ダイナミックグローブ」、TBSの「東洋チャッピオンスカウト」は郡司信夫、白井義男の解説だった。フジテレビの「ダイヤモンドグローブ」「リングサイドアワー」、NET(テレビ朝日)の「エキサイトボクシング」など、毎日のようにボクシング番組があった。
 1966年5月31日の世界フェザー級タイトルマッチ、ファイティング原田対エディ・ジョフレ戦の視聴率は、驚異の63.7%を弾き出した。
 強打のサウスポーといえば、海老原博幸、青木勝利、そして関だった。右では、少し先輩に矢尾板貞雄、米倉健司、同年輩のファイティング原田がいた。軽量級に綺羅星如く才能あるボクサーがひしめいていたなぁ。

2008年6月3日火曜日

ガタビーは確信の表現

It’s got to be a Japanese boat.
(絶対に日本の船だ)

 最近は、毎朝NHK教育テレビのテレビ体操の後、英語講座を観ている。月曜日の「リトル・チャロ カラダにしみこむ英会話」は、ストーリー性に富み面白い。これは再放送で、前週の月曜の午後11時30分から本放送を行っている。
 この「チャロ」は、テレビより詳しい内容をラジオで、インターネットで復習できるクロスメディア対応という、新しいカタチの英語学習番組だそうだ。よく出来た教材である。

 その昔、40年以上も前の話だが、高校から大学にかけてNHKラジオで「松本亨の英会話」という番組を聴き、英会話というより英語発音の練習をしていた。7、8年勉強したのではないか。この番組を通して発音記号を学んだ。松本亨は、nativeより、癖のない上手な英語を話す人で、当時、テレビでは田崎清忠が講師をしていた。「百万人の英語」JBハリス五十嵐新次郎など活躍していた頃である。名前を挙げた英語の先達たちは優秀だったのに、なぜ草野球音の英語は上達しなかったのか(笑)。

 その「チャロ」で出てきたのが、冒頭の英語表現である。

 チャロは子犬で、飼い主の翔太とアメリカ旅行にやってきたが、日本への帰路手違いで空港にひとり取り残されてしまう。翔太のもとに戻ろうと、奮闘するチャロを主人公にした内容で、そのストーリーを追いながら英語表現を学ぶカリキュラムになっている。餓死寸前のチャロは、雪の降る日に、翔太に拾われた。右の耳が白で、左の耳が茶色であることから、翔太が「チャロ」と名付けた。
 そのチャロが日本を目指し、ニューヨークの港で船を乗り込むシーン――友達の
イタリアレストランの飼い犬マルゲリータMargheritaが船にsushiという文字を見つけ「絶対に日本の船だわ」と叫ぶ。実際はただの観光船で「無銭乗船」がバレて戻されるのだが‥‥。

 ここでの講師は佐藤良明で、東京大学の教授をしていた人でアメリカ文化研究者だ。彼が「got to beは強い感情を込めてタビーと発音しなさい」と言っていた。
It’s got to beit has got to beの詰まった形。it has to beit must be と同じで、「~違いない」という意味だ。つまり間違いない自信の表現になる。

 自信がさらに意を強くすると確信となる。

×  ×  ×

 以下蛇足ながら‥‥。
 1999年5月16日。西武―オリックス戦で、初めて松坂大輔イチローと対決した。前年に横浜高校で春夏甲子園連覇を果たした怪物が、プロ野球1年目、天才打者に真っ向勝負を挑んだ。結果は4打席で3奪三振1四球と、完全に抑え込んだ。注目の対決の軍配は、松坂に上がった。当時のイチローはすでに他を圧する実力を示し、孤高の存在であった。その実力に勝った松坂は、試合後のインタビューで名言を残す。
 「自信から確信に変わりました」

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年5月29日木曜日

トワンテ山に薔薇の香

 ぶらり散歩に出る。
 港の見える丘公園(横浜市中区山手)のローズガーデンで薔薇(バラ)を愛でる。ポカポカ陽気の中(5月27日)、優美に咲き誇り、見事だった。

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 港の見える丘公園あたりは、幕末期にイギリスフランスが軍を駐屯させた場所である。

 嘉永6年(1853年)の黒船来航。翌年の和親条約締結による鎖国の終焉。そして安政5年(1958年)のアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとの五カ国条約(修好通商条約)締結で、世界との交流・貿易への道が開かれた――。
 文久2年(1862年)生麦事件が起こった。江戸から京都に上る薩摩藩主島津忠義(当時の茂久)の父、島津久光の行列が武蔵国生麦村に差し掛かったとき、行列の前を横浜在住のイギリス人4人が乗馬で横切った。このイギリス人一行を薩摩藩士が殺傷し、これが因で薩英戦争にまで発展した事件である。
 イギリスやフランスは生麦事件から、日本国内の強い攘夷思想を憂慮し、自国民の保護を目的に軍隊を横浜居留地に駐屯させることを決断する。まずフランスが文久3年に、続きイギリスが翌年の文久4年に駐屯を始めた。現在の港の見える丘公園であった。
 公園のほぼ中央に、現在、横浜市イギリス館が佇んでいる。このあたりが幕末から明治初期にかけてイギリスが駐屯した場所で、横浜の港を見下ろす丘を、人々は「トワンテ山」と呼んだという。駐留したイギリス第20連隊の英語「twenty」(トゥエンティ)の発音から由来したという。
 一方、フランスが駐留したあたりを「フランス山」といい、今も地名として残る。

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 薔薇の香漂うトワンテ山に、幕末の風がそよいでいた。

2008年5月25日日曜日

泰平の眠りを覚ますⅡ

黒船通詞・堀達之助

 “I can speak Dutch”(拙者はオランダ語を話せる)
小船から羽織袴姿の武士が、上を見上げ渾身から大声を振り絞って、英語で叫んだ。その先には、日本人が初めてみる黒塗りの巨大な外輪船がそびえていた。

 嘉永6年(1853年)6月3日、司令官マシュー・カルブレース・ペリー(1794年―1858年)率いるアメリカ合衆国の東インド艦隊4隻が江戸湾の浦賀沖に現れた。旗艦のサスケハナとミッシッピーは外輪を持つ蒸気船、サラトガとプリマスは帆船で、世に言う黒船来航である。
 小船には武士がふたり乗っていた。浦賀奉行所与力の中島三郎助(1821年―1869年)と、蘭(オランダ)語の通詞(つうじ=通訳)の堀達之助(ほり・たつのすけ1823年―1894年)である。堀はアメリカ国旗を掲げたサスケハナ号に向かい、日本人で公式に初めて英語を発した。

 日米外交史はここから始まった。

 何故、“I can speak English”とは言わなかったのだろうか? 当時の堀は英語より蘭語、蘭学一般に通暁していたと推測される。
 ペリー艦隊には、幸いポートマンというオランダ語通訳がいた。以後、主にオランダ語を介して会話は行われたという話を、どこぞで読んだことがある。

 とにもかくにも、彼の発した英語が、鎖国をこじ開ける第一声となったのである。日本の外国学習をオランダ語から、世界語の英語主体に転換させる切っ掛けとなった。また日本における英語研究の基礎をなした人物として、黒船通詞・堀達之助の名を、記憶に留めたい。

×  ×  ×

 堀達之助は1823年長崎でオランダ語通詞、中山作三郎武徳の五男として生まれた。同役の堀儀左衛門の養子となり、後を継いだ。
 黒船来航時に、捕鯨船の薪水、食料などの補給基地として開港を求める米国フィルモア大統領国書を徳川幕府に取り次ぐ役目を主席通詞の堀は担った。将軍・家慶が病床のため交渉は1年先送りとなったが、翌嘉永7年(1854年)には、日米和親条約の締結時に、その和解(和訳)にあたっている。その後、下田詰めとなるが、ドイツ通商要求書簡独断没収(リュードルフ事件)の罪に問われ入牢する。4年余の獄中生活を経て赦免され、公職復帰し、初の英和辞典『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』を編んでいる。
 その後、箱館裁判所通詞に招かれるが、英語を読む・書く能力は秀でているが、聞く・話すに難があり、裁判で満足な活躍が出来なかったことがあったという話を、読んだことがある。
 だが、しかし‥‥。
 彼の評価をいささかも下げるものではないのではないか。英会話を実践する機会が極端に少ない時代である。鎖国という環境で英語を学ぶことがどんなに難しかったか。英語を学び、熟達の域にほど遠い草野球音は、自らの自戒と反省を込めて痛感するのである。

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※堀達之助の生涯・足跡は吉村昭著の「黒船」(中央文庫)、堀孝彦著「英学と堀達之助」(雄松堂出版)に詳しいそうだ(球音は両著とも残念ながら、読んでいない)。
 

2008年5月17日土曜日

泰平の眠りを覚ます‥

日米修好通商条約

 ぶらり散歩に出る。
 神奈川県立歴史博物館(横浜市中区南仲通5-60=みなとみらい線馬車道駅から徒歩1分)で、特別展の「横浜・東京-明治の輸出陶磁器」(2008年4月26日~同6月22日)を観る。来年が横浜開港150周年にあたり、その記念企画である。

 ところで、「真葛焼」(まくずやき)って知っていますか?
 真葛焼とは、初代宮川香山(1842年―1916年)が横浜で始めた焼き物のことをいうそうで、京都の真葛原出身の彼は、1871年(明治3)横浜に外国への輸出向けの陶磁器を作る工房、真葛釜を開いた。
 特別展では、表面に動物などの盛り上がった細工をほどこした「高浮彫」(たかうきぼり)で作られた宮川香山の作品などが展示されていた。奇抜なデザインや、細緻を極めた絵付けなど、なかなかな見ごたえがあった。

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 神奈川県立歴史博物館の常設展示物を覘(のぞ)くと、その中にアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5カ国と結んだ修好通商条約書があった。安政の五カ国条約(修好通商条約)を締結したのは、1858年(安政5)である。

 堅く鎖国を守っていた日本が、泰平の眠りを覚ましたのは嘉永6年(1853年)6月だった。マシュー・ペリー(1794年―1858年)提督が率いる米国の艦隊4隻、いわゆる黒船が浦賀沖に来航し、江戸の徳川幕府に開港を迫るフィルモア大統領親書を手渡した。
 大慌ての幕府は、将軍・家喜の病気を理由にお引取り願ったが、翌嘉永7年の正月に再度来航したペリーに開国を強く要望された際には、断れ切れず日米和親条約を結んだ。ここに鎖国の門はこじ開けられた。
 米国は薪水供給のために開港した下田と箱館(函館)に領事館を置き、下田にタウンゼント・ハリス(1804年―1878年)を派遣する。真綿で首を絞められるように圧力をかけられ、ついに安政5年6月、日米修好通商条約締結となる。勅許を得ないまま、同年4月に大老職に就いたばかりの井伊直弼(1815年―1860年)が強権的に結んだものだった。
 5月には、紀州藩主の徳川慶福を推す南紀派と、一橋徳川家当主の徳川慶喜(1837年―1913年)を推す一橋派と激しく対立していた将軍継嗣問題は、慶福が14代将軍に就くことで決着した。慶福は家茂(1846年―1866年)と改名し、江戸城に入った。
 将軍継嗣問題で島津斉彬(1809年―1858年)らを退けた井伊直弼は強権をさらに振るい、異を唱えるものを弾圧する安政の大獄へと走る。そして、ついに1960年(万延元年)3月、江戸城へ向かう井伊大老を水戸藩、薩摩藩の浪士が襲い暗殺する桜田門外の変が起きる。
 
 1858年――安政5年。150年前に締結した日米修好通商条約に思いを馳せた。 それは泰平の眠りを覚ますエポック・メーキングな出来事であった。

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幕末年号と将軍在職
嘉永1848年―1854年 家慶(天保8年―嘉永6年)
安政1854年―1860年 家慶―家定(嘉永6年―安政5年)―家茂
万延1860年―1861年 家茂(安政5年―慶応2年)
文久1861年―1864年 家茂
元治1864年―1865年 家茂
慶応1865年―1868年 家茂―慶喜(慶応2年―慶応3年)

2008年5月6日火曜日

球侍の炎1968ドラフトⅣ

飯島秀雄の巻:三

 1968年度(昭和43)ドラフト会議で東京(ロッテ)オリオンズから指名を受け、入団した飯島秀雄は、代走スペシャリストとして現役3年、ランニングコーチとして1年、わずか4年間でプロ野球の世界から足を洗うことになった。

 プロ野球では成功者とはいえない飯島だが、その陸上競技では輝いていた。日本陸上界に一時代を築いた男である。
 
 プロ野球入団前の飯島を辿る。
 1944年(昭和19)1月1日生まれの茨城県出身。県立水戸農業高で韋駄天ぶりが注目され、才能を買われ東京の私立・目黒高校に転向する。ここで「暁の超特急」と異名をとり、当時の100M走日本記録保持者である吉岡隆徳の指導を受け、本格的に陸上競技者に取り組んだ。

吉岡隆徳(よしおか・たかよし:生年1909年(明治7)―没年1984年(昭和59)。1932年(昭和7)ロサンゼルス五輪の100M走で6位入賞を果たし、1935年6月には2度にわたり10秒3の世界タイ記録を出している伝説の名ランナー。東京五輪に備え、飯島と依田郁子(1938年―1983年)の2人のスプリンターを指導した。

 目黒高から早稲田大学教育学部に入学した飯島は、競争部に入部した。東京五輪を控えた1964年(昭和39)6月26日、西ベルリンで行われた国際陸上競技会の100M走で10秒1の記録を出し、師匠の吉岡の日本記録を29年ぶりに更新した。このとき、日本中に飯島に対する期待が大いに膨らんだ。
 いよいよ東京五輪を迎えた。100M走の第一次予選は予選最高タイムで通過、第二次予算も通過したが、ゴール直後に転倒した。その影響か、世界の壁か、準々決勝は10秒6と振るわず、敗退した。
 ちなみに優勝し金メダルに輝いたのはボブ・ヘイズ(米国)で10秒0、銀メダルはエンリケ・フィゲロア(キューバ)10秒2、銅メダルはハリー・ジェローム(カナダ)だった。
 
 早稲田大学卒業後は、地元の茨城県庁に入庁し、気分も一新、1968年(昭和43)メキシコ五輪をめざしたが、ここでも100M走の準々決勝で敗退した。そのとき電子計時で10秒34の記録を出している。
 二度にわたり五輪で破れたものの、走ることを職業にしたいと思っていた。ツテを頼りにプロ野球にアプローチし、意気に感じた永田雅一の東京(ロッテ)が、その年のドラフトで指名したのである。

 さて、プロ野球を去った飯島はどうなっただろうか。
 いくつかの職を経て、郷里の水戸で運道用具店を営んでいた1983年(昭和58)8月、運転中に新宿で5歳の女児をはね死亡させる事故を起こしてしまう。裁判で実刑判決が下り、服役する。
 その服役中に、メキシコ五輪で出した10秒34が公認日本記録となったことを、また恩師の吉岡隆徳の死去を、知る。

 社会復帰後は陸上競技のスターターを務めている。1991年(平成3)世界陸上選手権(日本開催)男子100M走で、カール・ルイス(米国)が9秒86の世界記録を樹立したときの、スターターであった。

 走ることに拘り続ける飯島秀雄の姿があった。(飯島の項・完)

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 何度かロッテのランニングコーチ時代の飯島の走る姿を、東京球場で観たことがある。助走からスピードをあげ全速となり疾走する姿は、惚れ惚れするほど美しかった。現役を引退した後のことだが、どの選手も並走できぬほど、抜きん出て速かった。
 草野球音は、そこにアスリートの矜持を看破した。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年5月3日土曜日

気紛れ記:生涯学習

英語再訪

 切っ掛けはひょんなことから始まった。

 テレビ体操をしている。2ヶ月余続いている。ご存知の方も多いことだろうが、NHK教育テレビの午前6時30分から10分間放送している。
 身体を動かす。毎朝の日課となっている。

 体操が終わると、月~土曜日の6日間は英語講座が始まる。何気なく見ていると、なんだかやたらと懐かしくなってきた。
 画面をみつめ、英語を聴きながら、「やってみるか」と思い立ち、本屋で教本textbook)を購(あがな)った。
・リトル・チャロ カラダにしみこむ英会話
・英語が伝わる!100のツボ
・3ヶ月トピック英会話
の3冊である。

 英語に触れることにしたのである。

 草野球音は古い奴である。この蜘蛛巣丸太の中身も昭和を題材とした野球、映画、歌謡曲や、江戸ノベルといわれる時代小説などについて書いてきた。そんな男が、テレビの英語講座かよ、と違和感を持たれるかもしれない。
 大衆かわら版社に就職してから、英語とは無縁の生活をしてきた。大学では英語を専攻したが、モノにはならず、齢60を過ぎた隠居が、37年間のブランクを経て、その「鬼門」に敢えて挑む――そんな大袈裟なことでないか‥‥。

 生涯学習としての英語を、痴呆防止のアンチエージングの一助にしたい。

2008年4月27日日曜日

球侍の炎1968ドラフトⅢ

飯島秀雄の巻:二

 飯島秀雄のデビューは鮮烈だった。
 入団した1969年(昭和44)4月13日。ロッテの本拠地、東京球場で行われたロッテ―南海2回戦。3―3で迎えた9回裏無死、山崎裕之が一塁に出塁すると、ロッテ監督の濃人渉(1915年―1990年)は「代走飯島」を、球審の露崎元弥に告げた。

 東京球場の1万7000人が沸いた。「お目当て」の初登場である。5000万円の保険がかけられている黄金の俊足をみてみたい、という観客が多かった。
 万雷の拍手を浴びて背番号88の飯島が一塁ベースに立った。

 マウンドの南海投手、合田栄蔵は飯島の足に探りを入れるように、1球牽制球を投げた。ロッテのバッターボックスには広瀬宰(1947年―1999年)がいた。
 合田が初球を投げた。広瀬はバントの構えから、バットを引いた。南海の内野守備陣系の出方を見る常套手段だが‥‥。
 そのとき。飯島は二塁へまっしぐらに走っていた。単独スチールだ。濃人から「自分の判断で走っていい」と指示されていた。素人に難しい判断を要求せず、最大限に足を活かす自由を与えていた。

 南海内野陣は不意を突かれた格好となった。遊撃手の藤原満と二塁のドン・ブレイザー(1932年―2005年)の二塁ベースカバーが遅れた。捕手はあの野村克也である。野村は送球をためらい、二塁に投げたが、藤原は送球を捕れず、球はセンターに達した。
 飯島は二塁を一気に回り加速、三塁へヘッドスライディングをみせた。初盗塁である。観客は沸きに沸いた。

 一死後にロッテは井石礼司が打席に入った。井石は左翼へ大きな飛球を放った。三塁ベースコーチの与那嶺要は、飯島にタッチアップを指示した。飯島は三塁ベースにへばりついた。打球は左翼を超えた。「ゴー」という与那嶺の掛け声がかかった。飯島は全速力で本塁を駆け抜けた。サヨナラのホームインだった。
 スタンドは狂喜乱舞した。ゲーム後、サヨナラ打の井石より飯島を取り囲む報道陣が多かったのはいうまでもない。

 飯島の代走デビューは、絵に描いたような展開で劇的サヨナラを演出したのだった。ゴンドラ席で観戦していたロッテのオーナー永田雅一(1906年―1985年)は、ご機嫌で東京球場を後にした。

 100M走の序盤30Mまでなら、世界最速といわれた男は、プロ野球生活でも得意のロケットスタートを鮮やかに決めたかに、見えた。
 だが、しかし‥‥。
 素人が成功するほど甘くはなかったのだ。
 
 プロ野球の代走は足の速さだけでは通用しない。陸上競技ならスタートを切れば、前進のみでゴールを駆け抜ければいいが、野球ではベースでは止まる必要がある。投手の牽制球には帰塁しなければならない。盗塁のスタートのタイミングが難しい。打球の行方により、「進む・止まる・戻る」の三択を瞬時にしなければない。スライディングの技術も習得しなければならない。

 立ちはだかる難問を飯島はクリアできなかった。中学時代は野球部に属していたが、当然ながらプロ野球とのレベルは段違いである。
 代走屋の実働は3シーズンで117回起用され、成功した盗塁は23回だった。初年度の1969年は10個の盗塁をし、翌1970年は12個と数字は伸ばしたが、盗塁死は8個から9個に増えた。飯島が進歩を、相手バッテリーの研究が上回った。現役最後となった1971年にはめっきり出場機会が減り、盗塁数は1個と激減した。
 実働3年、117試合出場、46得点、盗塁23、盗塁死17、牽制死5――打撃と守備の機会ゼロが、生涯記録として残る。
 1970年には読売ジャイアンツとの日本シリーズに出場している。3試合で盗塁はないが、2得点、牽制死1であった。
 一度だけ二軍戦で打席に立ったことがある。イースタンリーグのヤクルト戦。飯島は、珍しい左投右打であった。右打席に入ったが、ヤクルト投手の松村憲章に3球三振を喫している。当時のロッテ二軍監督、大沢啓二が経験の積ませるため、打席に送ったのだった。

 1971年オフに戦力外となり、現役引退した。入団時に交わした永田雅一との約束により、1972年(昭和47)にランニングコーチとなった。が、わずか1年で退団した。
 映画会社の大映が経営不振で、永田は1972年のシーズン終了後、球団経営から撤退した。経営母体が永田大映からロッテ本社に移った。この機会に、ロッテ球団は飯島に契約更新をしない旨を伝えた。

 稀代の短距離走者、飯島秀雄はプロ野球から姿を消した。

 さらに飯島に過酷な運命が待ち受けていた。 (飯島の項つづく)

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年4月24日木曜日

球侍の炎1968ドラフトⅡ

飯島秀雄の巻:一

 1968年度(昭和43)プロ野球新人選手選択会議が開催された東京・日比谷の日生会館には、緊張と熱気が満ち溢れていた。
 田淵幸一(法政大)、山本浩二(法政大)、星野仙一(明治大)、山田久志(富士製鉄釜石)、東尾修(和歌山箕島高)ら前評判の高いスター軍団が、次々にドラフト指名を受けていった。

 そんな会場の空気が一変したのは、東京の9位指名がアナウンスされたときだった。「東京9位指名、飯島秀雄、外野手、茨城県庁、24歳」。どよめきと驚きが交錯した。張りつめた緊張が解け、なんともいえぬ失笑が漏れた。

 このドラフト会議出席者の誰もが、「飯島秀雄」の名前は知っていたが、それは野球選手としてではなく、100M走10秒1の日本記録保持者として、だった。東京とメキシコ五輪の代表選手であり、2大会連続で100M走準決勝進出を果たした日本人最速の男が、プロ野球球団に指名されたのだ。

 仕掛け人は東京オリオンズのオーナー永田雅一(1906年―1985年)であった。飯島の持ち味はロケットスタートで、最初の30Mまでなら世界最速といわれていた。野球規則によれば塁間は90フィートと定められており、メートル法では27.431Mとなる。代走専門の盗塁屋で使えば、飯島の足は最大限活きる。塁間を世界で一番速く走れるランナー――机上の計算ではそうなる。

 話題性もある。客も呼べる。名プロデューサーといわれる映画人の発想であった。
 永田は、1963年(昭和38)に「名前が気に入った」と埼玉大宮工業の長谷川一夫(投手、後に外野手転向)を入団させた経緯がある。本業の映画会社、大映の大スター長谷川一夫(1908年―1984年)と同姓同名だったのである。
 
 というわけで、永田の強い希望もあって飯島は東京に入団する。世界の飯島がプロ野球という未知の世界に飛び込んだ。

 飯島の同期入団組はどんなメンバーだろうか。1968年の東京オリオンズのドラフト指名選手をみて見てみよう。
1・有藤道世(近畿大・内野手)
2・広瀬宰(東京農業大・内野手)
3・池田信夫(京都平安高・投手)=入団拒否
4・土肥健二(富山高岡商業高・捕手)
5・八塚幸三(四国電力・投手)=入団拒否
6・山口円(徳島鳴門高・内野手)=入団拒否
7・佐藤敬次(埼玉大宮工業高・投手)
8・三浦健二(日本石油・投手)=入団拒否
9・飯島秀雄(茨城県庁・外野手)
10・安藤峰雄(コロムビア・投手)
11・藤田康夫(千葉成東高・投手)=入団拒否
12・舞野健司(福岡飯塚商業高・捕手)
13・市原明(千葉銚子商業高・内野手)
14・飯塚佳寛(鷺宮製作所・内野手)
と14人が指名され、5人が入団を拒否して、飯島を含めて9選手が入団している。

 働き頭は、「ミスター・ロッテ」といわれた有藤道世である。入団の1969年(昭和44)に新人王、1977年には首位打者のタイトルを獲得した。1970年と1974年のリーグ優勝に主力打者として貢献し、ベストナイン10回、ダイアモンドグラブ賞4回の栄誉に浴している。
 生涯2063試合に出場、2057安打、328本塁打、1061打点、282盗塁、打率.282の成績を残した。また1987年から3年間ロッテ監督も務めている。

 活躍二番手は、2位の広瀬宰と最下位指名の飯塚佳寛だろう。広瀬は堅実な守備で鳴らし、ロッテ―中日―太平洋―西武で実働13年間、生涯打率.224、飯塚は俊足を活かし実働12年間、1065試合に出場し生涯打率.256の成績を残している。
 また、土肥健二は、「おれ流三冠王」の落合博満に影響を与えた非凡な打撃技術の持ち主で、897試合で打率.268の成績だった。

 さて本題である飯島は入団後どうなっただろうか。

 初出場の機会がやってきた。入団1年目の1969年4月13日。本拠地・東京球場で行われたロッテ対南海戦2回戦である。この年から東京は菓子メーカーのロッテをスポンサーとして、球団名をロッテと改めている。ネーミングライツの先駆けといっていい。永田雅一は、本業の映画会社大映の経営難から、親交のある元首相の岸信介に仲介の労を頼んだ。岸から紹介されたのは、新興の菓子メーカー重光武雄の経営するロッテであった。
 永田が私財を投じて建てた東京球場も観客動員が低迷していたが、1969年は代走屋・飯島への関心が高く、この日はいつも5000人程度で閑古鳥の泣くスタンドに1万7000人がいた。
 飯島登場! 観客がどっと沸いた。 (飯島の項つづく)

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年4月22日火曜日

球侍の炎1968ドラフトⅠ

空前の豊作年:序章

 草野球音の記憶に残る陰日向に咲いた花――野球に人生を燃焼させた人間模様を、取り上げるシリーズを書いていきたい。

 「球侍の炎」と題するカテゴリーである。昭和30年代(1955年~1964年)の歌謡曲・映画・野球の追憶を辿った「瞼の裏で咲いている‥‥」(カテゴリー:瞼の昭和)のような連作となるが、今回は随時掲載する。例の勝手気紛れ更新である。
 別段、目新しいものではない。すでに書いてある「原辰徳:巨人の夜明け」「ラッパが聞こえる東京球場」「ジャイアンツ・馬場正平」の3連作も、このカテゴリーに属するものとし、「球侍の炎」に収めることにする。

 ちなみに、差出がましい話だが、「たまざむらい・の・ほのお」でなく、時代小説風に「たまざむらい・の・ほむら」と読んでいただくのが、筆者の好みである(笑)。

 星野仙一、田淵幸一、山本浩二、山田久志、福本豊、東尾修など綺羅星の如く名選手を輩出、空前の豊作年といわれた1968年度(昭和43)ドラフトを追う。

×  ×  ×

 陰日向に咲いた花たちの野球人生は、あの日ここから始まった。

 1968年(昭和43)11月12日、東京・日比谷の日生会館で第4回プロ野球新人選手選択会議が開かれていた。
 
 午前中に予備抽選を終え、いよいよ第1順目の指名に入った。
指名順位・球団と指名選手は、
1・東映=大橋穣(亜細亜大・内野手)
2・広島=山本浩二(法政大・外野手)
3・阪神=田淵幸一(法政大・捕手)
4・南海=富田勝(法政大・内野手)
5・サンケイ=藤原真(全鐘紡・投手)
6・東京=有藤道世(近畿大・内野手)
7・近鉄=水谷宏(全鐘紡・投手)
8・巨人=島野修(神奈川武相高・投手)
9・大洋=野村収(駒沢大・投手)
10・中日=星野仙一(明治大・投手)
11・阪急=山田久志(富士製鉄釜石・投手)
12・西鉄=東尾修(和歌山箕島高・投手)
となった。
 綺羅星の如く面々が並ぶ。長嶋茂雄の東京六大学の通算本塁打記録8本を大幅に22本にまで更新した田淵がいる。その彼と法政三羽烏といわれた山本と富田、六大学通算23勝の星野、関西大学きっての強打俊足の有藤、社会人のエース藤原がいる。
 1位の12人から後に6人が監督経験者となり、4人が名球会入りを果たしている。
 1位以外でも、阪急の2位は加藤秀司(松下電器・内野手)、7位は福本豊(松下電器・外野手)、中日の3位は大島康徳(大分中津工業・投手)と後に名球会入りしたメンバーがいる。
 さらに西鉄9位に大田卓司(大分津久見高・外野手)、南海4位に藤原満(近畿大・内野手)、東映4位に金田留広(日本通運浦和・投手)、東京2位に広瀬宰(東京農業大・内野手)、14位に飯塚佳寛(鷺宮製作所・内野手)、近鉄5位に芝池博明(専修大・投手)、広島2位に水沼四郎(中央大・捕手)がいる。

 空前の豊作といわれた年だけに、会議は序盤から大いに盛り上がり、熱気に溢れていた。

×  ×  ×

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年4月15日火曜日

球侍の炎:森中千香良

南海叩き上げ

 プロ野球の南海、大洋などで投手として活躍した森中千香良(もりなか・ちから)が2008年4月14日、死去した。68歳だった。

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 森中千香良。「千香良」=ちから、という名前の響きがよい。その活躍もさることながら、草野球音の記憶に残っているのは、「もりなか・ちから」という古風な響きの名前によるところが大きい。
 「主税」という漢字のイメージがいつもダブっていた。
 ♪湯島通れば 思い出す
 お蔦・主税の心意気
死ぬほど古いと言われそうだが、「婦系図」の「湯島白梅」(佐伯孝夫作詞・清水保雄作曲)の「主税」である。

 1958年(昭和33)、奈良・奈良商工高(現奈良商業高)からテスト生で南海ホークスに入団した。鶴岡一人(1916年―2000年)が率いた南海には、テスト生からの「叩き上げ」が多い。元近鉄監督の岡本伊三美、現楽天監督の野村克也、元南海監督の広瀬叔功らが、テスト生から二軍を経て一軍の晴れ舞台に這い上がった男たちである。 森中千香良もその一人だ。

 1960年から一軍昇格、1961年からは、11勝・10勝・17勝と3年連続で2桁勝利を稼ぎ、ローテーションの一角を担った。1963年は17勝8敗で、田中勉(西鉄)とパ・リーグ最優秀勝率のタイトルを分け合っている。
 1967年には南海から大洋に移籍、18勝を記録した。その後、1972年に東映移籍(日拓、日本ハムと球団名は変わり)、1975年に再び大洋に移り、現役を引退している。
 517試合に登板、114勝108敗1セーブ、防御率3.49の生涯記録を残す。

 その投球は、体を目一杯使った上手投げで、ストレートと落差のあるカーブのコンビネーションが武器だったと記憶する。打席は投手でありながら、珍しいスイッチヒッターだった。右投手に対して左打席に入るのだが、(球音の目には)どう見ても打てそうもないスウイングだったなぁ。

 確か生涯独身であった。
 
 南海黄金期を支えた一人である。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年4月3日木曜日

ノンちゃんは雲に乗って

 その訃報が記憶のセンサーに触れた。

×  ×  ×

 「ノンちゃん雲に乗る」の小説や、「クマのプーさん」「ピーターラビット」などの海外児童文学の翻訳で知られる児童文学者の石井桃子(いしい・ももこ)が、2008年4月2日死去した。101歳だった。
 日本児童文学に貢献、自伝的小説「幻の朱い実」で、1995年に読売文学賞。1997年に日本芸術院会員。晩年も英国作家A・A・ミルン自伝の翻訳や執筆活動を行い、100歳を過ぎても児童文学への関わりを持ち続けていた。

×  ×  ×

 草野球音は、浅学のため石井桃子のことは知らなかったが、記憶を呼び起こしたのは「ノンちゃん雲に乗る」である。したがって、故人には失礼な話だが、「ノンちゃん―」のことを書きたい。

 小説「ノンちゃん雲に乗る」の作品発表は、1947年(昭和22)と60年も前で、ベストセラーとなり、1955年(昭和30)に同名タイトルで映画化された。
 「ノンちゃん―」は、鰐淵晴子の映画デビュー作として記憶に留める。残念ながら、映画は観ていないが、子役の鰐淵の存在は輝いていた。当時10歳ではなかったか。父はバイオリニストの鰐淵賢舟、ドイツ人の母との混血児(ハーフというようになったのは後年か)特有の目鼻立ちの陰影の深さ、育ちの良さから漂う気品が感じられた。
 兄や姉から映画については聞かされていたが、あまりに子供で記憶に残っていない。鰐淵晴子は球音と誕生日が一緒で、彼女がちょうど2歳年上である。
 インターネットで調べると、
ノンちゃん:鰐淵晴子ノンちゃんの母親:原節子ノンちゃんの父親:藤田進 (1912年―1990年)雲の上で出逢う老人:徳川夢声(1894年―1971年)と、いう懐かしい顔ぶれだった。
 
 五輪スキーアルペン競技の三冠王、トニー・ザイラー(オーストリア)を招いて映画化された「銀嶺の王者」(1960年・松竹)には、ザイラーの相手役に選ばれ、話題をまいた。
 「伊豆の踊り子」(1960年・松竹)では踊り子役を演じ、学生役は津川雅彦だった。
 松竹では、桑野みゆき、岩下志麻、倍賞千恵子らと、看板女優として妍(けん)を競った時期があった。
 立派に成長した女優より、10代での面影が印象に残る鰐淵晴子である。

2008年3月29日土曜日

R・ウィドマークの死

 米国の映画俳優で名悪役で鳴らしたリチャード・ウィドマーク(Richard Widmark)が、2008年3月24日亡くなった。93歳だった。

 1914年生まれ。舞台俳優を経て、映画デビュー作「死の接吻(せっぷん)」(1947年)で不気味な笑みを浮かべる殺し屋を熱演し、いきなりアカデミー助演男優賞にノミネートされた。「アラモ」「シャイアン」「オリエント急行殺人事件」など60本以上に出演した。

×  ×  ×
 ブルドッグ――その不敵な面構えがとても印象的だった。特異な容貌を生かしたギャングの悪役が持ち味で、日本にもファンは多かった。観客の心に残る名悪役だった。後年は善玉も演じ、幅広い芸域をみせたが、悪玉に魅力を感じた。

 手塚治虫(1928年―1989年)が、漫画「鉄腕アトム」に登場させた悪役「スカンク草井」のモデルにしたといわれる。
 佐藤允(さとう・まこと)は東宝映画時代に、いかつい顔が似ていることから、「和製ウィドマーク」といわれた。

 その昔(多分、草野球音の記憶では昭和30年代だが)、芸能雑誌の「平凡」や「明星」に、「有名人同士のそっくりさん特集」などが、掲載されていた。
 高倉健と神戸一郎
 長嶋茂雄と張本勲
など、カップル(?)の顔写真が並べられていて、その中に、「リチャード・ウィドマークと佐藤允」があったりしたのだった。

×  ×  ×
 以下、蛇足ながら‥‥。 神戸一郎(かんべ・いちろう)、なんて懐かしい名前だなぁ。甘いマスクに美声で、芸名が示すとおり神戸の出身。1957年(昭和32)「十代の恋をさようなら」(石本美由起作詞・上原げんと作曲)でデビュー、瞬く間にスターとなった。
 ♪好きでならない 人なれど
 別れてひとり 湖に
 「銀座九丁目は水の上」(藤浦洸作詞・上原げんと作曲)、「別れたっていいじゃないか」(西條八十作詞・上原げんと作曲)などがヒットした。

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2008年3月27日木曜日

松井秀喜結婚とON婚約

 ニュヨーク・ヤンキース松井秀喜選手(33)の結婚を、2008年3月27日付のサンケイスポーツが報じた。

×  ×  ×

 都内最終版(即売)でのスクープで、早朝からテレビは喧(かまびす)しい。特にフジサンケイグループのフジテレビは、「身内」の特ダネに、トーンも上がっていたようだった。
 一番の興味は、相手の女性であるが、サンスポによれば「元会社員25歳」、「長澤まさみ似」とある。出会いは2006年オフだそうだ。
 恐らくスポーツ紙、テレビなどで詳しくは、報じられるはずである。8歳年下の彼女に関する取材合戦を、とくと拝見したい。

 ニューヨークの松井番の記者は、大騒ぎであろう。抜いたサンスポは鼻高々だが、日刊、報知、スポニチなどの番記者は自責の念にかられて、「A級戦犯」のような気持ちだろう。
 松井番にとって最大のニュースであり、関心事であったはずである。オーバーな言い方でなく、記者生命をかけて取材活動をしていたと推測される。松井の両親、親戚縁者、後援者、友人知人などに、婚約ニュースの「網」はそれぞれに仕掛けられていたはずである。逃がした魚は、ことさら大きく、そして悔しいのだ。

 かって長嶋茂雄番を巨人入団当初から務めていた大先輩が、長嶋茂雄婚約のニュースを抜かれたときは、「このままおめおめと会社にいられない」と辞表を真剣に考えたという話を聴いたことがある。

五輪と多摩川の恋

 人気プロ野球選手の婚約・結婚ニュースは番記者の悲喜交々(こもごも)を生むものである。あの大スターの長嶋茂雄と王貞治の場合はどうだったろうか。

 長嶋さんと王さんの違いは?
という草野球音の獏とした質問に、V9をつぶさに取材した先輩が応えてくれた。
 「結婚を見れば分かるよ。長嶋さんは報知がスクープしたのだが、王さんは1社にバレそうになったとき、急遽記者会見を開いて一斉に婚約発表したんだ」。

 1964年(昭和39)の東京オリンピック当時、五輪コンパニオンだった西村亜希子と長嶋茂雄は取材で出逢った。五輪コンパニオンには、外国の来賓を接待する語学堪能で教養豊かなレディが、その任に当たった。昭和30年代に大任を果たし得る人材は少なかったと、想像できる。長嶋は、目の前に現れた、その女性に一目ぼれ、出逢いから40日で婚約と電光石火の早業で決めたのだった。その婚約報を報知がすっぱ抜いた。1964年11月26日、報知新聞の1面見出しは「長嶋選手婚約 五輪が結んだ恋」だった。
 巨人は読売ジャイアンツである。巨人とともに読売グループの一部である報知新聞社は、こと巨人取材にかけては正確で迅速なニュースを提供するミッションがある。出逢った取材も報知の企画であれば、抜く条件は十分だった。

 だが、しかし‥‥。
 他の長嶋番記者は影で泣いたのである。悲しくて苦い酒を胃に流し込んだ。

 王貞治には王番がいる。王との飲み会などで、長嶋婚約時の担当記者の悲喜を聞かされていた王は、泣きを見る記者がいないように一斉発表した。
 長嶋の婚約から2年後の1966年(昭和41)に、王貞治は結婚した。相手は小八重恭子。王が入団した1年目に多摩川グラウンドで、高校1年生の小八重恭子に出逢っている。6年間の交際が実っての婚約だった。「多摩川の恋」と言われた。
 1966年10月5日、婚約発表の前日である。婚約ニュースを1社が嗅ぎ付け、記事にするという動きを知った王は、親しい記者に気を遣い、一斉の共同記者会見をすることを決め、マスメディアを招集した。ホテルニューオータニで、会見はこの種の記者発表としては異例に遅い午後9時過ぎから始まった。翌10月6日付のスポーツ紙の1面は揃って「王婚約」であった。公平平等を貫いた王だった。

 長嶋茂雄の結婚は、報知のスクープから2ヶ月後の1965年(昭和40)1月26日だった。その1年後の1966年1月26日に長男・一茂が誕生している。王貞治の結婚は、1966年12月1日であった。
 王恭子夫人は2001年12月11日に、長嶋亜希子夫人は2007年9月18日に鬼籍に入った。恭子57歳、亜希子64歳。日本人女性の平均寿命は、平成18年(2006)厚生労働省・簡易生命表によると、85.81歳(男性は79.00歳)となっている。若すぎる。スターを支える内助の功は計り知れないほど過酷だと想像する。
 
 松井秀喜の結婚ニュースからON婚約結婚に思いを馳せた。

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2008年3月23日日曜日

竜巻雷之進:林成年死す

 天下の二枚目、長谷川一夫の長男で俳優の林成年(はやし・なりとし、本名長谷川寿=はせがわ・ひさし)が2月6日、心不全で死去したことが2008年3月20日に分かり、翌21日付の新聞の訃報欄に掲載された。76歳だった。葬儀は近親者で終えた。
 慶応大学卒業後に大映から映画デビューし、「新・平家物語」、「大阪物語」、「赤胴鈴之助」シリーズ、伊丹十三監督の「たんぽぽ」などに出演。後年は舞台に活動を移し、東宝歌舞伎などに出演した。

×  ×  ×
 「チョコザイな小僧め、名を名乗れ」
 「赤胴鈴之助だぁ」
で始まるのは、ラジオ番組「赤胴鈴之助」であった。
 武内つなよし(1926年―1987年)原作で、昭和30年代に一世を風靡した少年雑誌「少年画報」の連載漫画である。以前に「僕らのナマカ赤胴鈴之助」(2007年10月30日)で書いたので、参照されると幸いである。

 その赤胴鈴之助の映画版は梅若正二の主演で、大映で製作された。鈴之助の千葉周作道場の兄弟子、竜巻雷之進役が林成年であった。
 竜巻雷之進は、鈴之助の入門当初、彼を快く思わず敵対するが、後にふたりの間に友情を芽生えるのだった。千葉周作役は渋い黒川弥太郎(1910年―1984年)だった。1957年(昭和32)から1958年の7本製作された。草野球音は漫画に夢中になった世代である。林成年といえば、その竜巻雷之進役が印象に残る。

 1957年の「大阪物語」(大映・吉村公三郎監督)は演技で光った作品と、当時子供ながらに認識している。井原西鶴の「日本永代蔵」などを題材した内容で、中村雁治郎(1902年―1983年)の放蕩息子役だった。

 ちなみに長谷川一夫を親とし、長谷川稀世長谷川季子は妹である。

×  ×  ×
 偉大な先代を親にもつ二世の宿命だろうか。

 訃報までも長谷川一夫(1908年―1984年)の息子として扱われる林成年も、さぞや辛かろうと、思った。その人を伝えるキャッチフレーズというか、枕詞(まくらことば)が、彼の場合、「長谷川一夫の息子」が付いて回り、死んでからも案の定だった。

 訃報が新聞に掲載されたのが、2008年3月21日だから、死後1ヶ月余も経過していた。近親者に見守られて静かに逝ったということが、想像される。
 先代・長谷川一夫の死はマスメディアが大きく扱い、死後、冒険家の植村直己(1941年―1984年)とともに国民栄誉賞を受賞している。1984年(昭和62)中曽根康弘内閣のときだった。

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2008年3月14日金曜日

バンプ女優:根岸明美

「闇の埋葬人」

 江戸八百八町は静かな眠りについていた。草木も眠る丑三つ時。深夜のしじまを破ように、古寺の鐘の音が「ゴーン」と響いた。

 黒羽二重の着流し、宗十郎頭巾の浪人ていの男が、墓場を掘り返していた。この男こそ、「闇の埋葬人」と江戸でささやかれる草野球音である。

 著名人の墓を掘り起しては、自らの墓碑銘を書き連ねた後、丁重に葬ることを生き甲斐とする。行為そのものは、けして褒められたものではなく罪深いことだが、お節介の行き過ぎ程度で、悪行と決めつけられぬ側面もある。江戸の庶民が忌み嫌うのは、墓場を掘り返すという神を恐れぬ所業、その不気味さである。 また、彼の墓碑銘に新たな感慨を抱き、周囲を憚(はばか)りながら、喝采を送る者もいるのだった。

 「また出ましたよ、親分。近頃、流行ってる墓場あらしの噂を聞きましたか。ありゃ、うすっ気味悪くていけねや。それに、あの野郎、“闇の埋葬人”なんて言われていい気になってやがる。ひとつ、どこのどいつだか、正体を暴(あば)いてやっておくなんさないよ」
 神田三河町の岡っ引、半七は好きな朝湯から帰ってきて、朝餉の前の一服を点けたところで、子分の多吉が飛び込んできた。昨夜は上野の寛永寺に墓場あらしで出たという。その前は芝の増上寺だった。

 「押し込みや殺しと比べりゃ、仏ごころもある。墓場を掘り起すが、ちゃんと丁寧に埋葬する。その後で、墓を掃除して、花まで供えるって言うじゃねえか。おれにはそんなに悪い奴にはみえねえがなぁ」と半七は、「闇の埋葬人」探索には気乗りがしない。
 「でもねえ、江戸の街じゃ噂が噂を呼んでいますぜ。きっと、奴には魂胆がある。きっと悪いことは企んでやがるに違ねえ。仏が眠る墓をあらす野郎は人非人決まってらぁ。近頃じゃ、大衆かわら版にも「闇の埋葬人の謎」なんて、赤子の頭ほどもある、でっけえ見出しが躍ってますぜえ」
 「まぁ、世間様が騒げば、御用を与(あずか)るおれとしちゃ、どんな野郎がやってんだか、確かめておかなくちゃなるめえよ」
 「さすが半七親分。よ、江戸の大明神」
 「莫迦野郎、おだてんな」

 と、いうわけで、墓場あらしが出没しては何かと物騒、と神田三河町の岡っ引、半七は夜回りに出たのだった。浅草伝法院にさしかかったところで、月明かりにぼんやりと黒衣の覆面侍が墓場に佇んでいるのを見つけた。深夜の墓場に黒装束――いかにも胡乱(うろん)である。訝(いぶか)しげに声をかけた。
 「お侍(さむれえ)さん、なにをなさっていますかい」
 「なに、その、墓を掘ってな‥‥」
 「墓を掘って、なにをするんでえ」
 「犬のポチがなくものでな、墓を掘れば宝が‥‥」
 「なにを! 墓を掘って宝だと。ありゃ、墓じゃねえ、畑でえ。花咲爺さんじゃねえやい。ふざけるねえ。この三一(さんぴん)」
 草野球音の言い訳、とっさに出たとはいえ、いかにも拙い。

 ♪裏の畑で ポチがなく
 正直爺さん 掘ったれば
 大判 小判が ザクザクザクザク
 小学唱歌「花咲爺さん」(石原和三郎作詞・田村虎蔵作曲)を持ち出しては、怪しいのがバレバレである。

 半七は呼子を吹いた。「ピー」という笛の音が江戸の闇を走る。こうなれば、岡引、役人、捕りかたが集まってくる。
 関わりはご免と、逃亡体勢に入った球音は、「ここ掘れワンワンは、それがしが悪かった。ワリーネ。ワリーネ。ワリーネ・デイトリッヒ。また、どこぞで遭う事もあろう」と言い残すと、すさまじい早さで闇に消えたのだった。

 その後、闇の埋葬人の消息は杳(よう)として知れなかった。

×  ×  ×

 枕(まくら)がいやに長くなったが、本題は短いので安心してほしい(笑)。
 女優の根岸明美(ねぎし・あけみ、1934年―2008年)が亡くなった。73歳だった。2008年3月11日のことだった。
 一般紙、スポーツ紙を拾い読みすると、日劇ダンシングチームに在籍中にジョーゼフ・フォン・スタンバーグ監督の日米合作映画「アナタハン」のオーディションで主役に抜擢され映画デビューしたというが、残念ながら、「アナタハン」の記憶は球音にはない。1953年(昭和28)のことだ。
 なによりも記憶に残すべきは、彼女の肉体の見事さだろう。20代のころ、身長167センチ、B103・W60・H98という、昭和30年代では日本人離れした、とんでもないナイスバディだった。陰影のある目鼻立ちもあり、日本の映画スクリーンでは収まり切れなかったように思うのだ。
 黒澤明(1910年ー1998年)はその肉体の持つ存在感に目をつけ、映画「どん底」「赤ひげ」「どですかでん」に起用している。
 バンプ女優の草分け的な存在だろう。

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2008年3月4日火曜日

球侍の炎:林 義一

伝説の被弾

 その訃報は、2008年3月4日付の日刊スポーツ(7版★)6面の最下段に載っていた。半段の顔写真と「パ初のノーヒッター」の1段見出しが付いていた。 国鉄で監督を務めたことのある林義一(はやし・ぎいち)の死亡を知らせる記事である。亡くなったのは1月17日で87歳だった。

 1月17日に死去したのに、なぜ3月になって記事が掲載されたのだろうか。身内だけで葬儀・告別式を済ませたため、死去の公表が遅れたと推測する。

 林義一は伝説を作った男である。「作った」というのは正確ではない。「作ることに貢献した」男なのだ。
 徳島商業―明治大学―ノンプロ全徳島を経て、1949年(昭和24)に大映スターズに入団した。阪急ブレーブスでも投げた。

 1953年(昭和28)8月29日。福岡・平和台球場での西鉄対大映戦。大映の林義一は西鉄の中西太にとてつもないデッカイ本塁打を浴びた。その打球はライナーでグングン伸びてバックスクリーンを越え、場外の福岡城址まで飛んで行った。推定160M以上といわれる、日本プロ野球史上最長飛距離の本塁打である。
 そのとき、林は打球を捕ろうとジャンプした。それほど弾道は低かったが、差し出すグラブの上をものすごい勢いで通過、場外へ消えたという逸話が残っている。真偽はわからない。

 1953年といえば中西は、高松第一高校から西鉄に入団して2年目で、36本塁打、86打点で2冠王に輝き、打率.314を記録、その上、盗塁36と俊足ぶりをみせている。一方、林だが、その年17勝11敗の好成績を残している。主砲と主戦投手の対決で、伝説は生まれたのだった。

 林は前年の4月27日の阪急戦でパ・リーグ初のノーヒットノーランを達成している。

 ノンプロ全徳島では、徳島商の2年後輩で巨人の名遊撃手の平井三郎(1923年―1969年)、池田高校で全盛制覇した名将、蔦文也(1923年―2001年)らとプレーしている。また阪神のコーチ時代に江夏豊にプロとしての手ほどき・指導したことで知られる。
 
 右の横手投げ技巧派で、現役通算成績は実働10年で98勝98敗、防御率2.66の記録が残っている。近鉄代理監督、国鉄監督の経験がある。国鉄の監督時代は、天皇と異名をとったエース金田正一との確執が取り沙汰された、と草野球音は少年の頃、野球雑誌で読んだことがある。投手コーチとしての評価は高い。

 日本一飛距離のあるホームランを打たれた男が逝った。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年3月2日日曜日

柴錬「眠狂四郎」恐るべし

 柴田錬三郎(1917年―1978年)の「眠狂四郎無頼控」〔一〕(新潮文庫)を読む。

 「眠狂四郎」は、時代小説の古典的な作品であるが、恥かしながら初めて読んだ。とにかく面白かった。1956年(昭和31)「週刊新潮」の創刊ともに登場し、人気を博し、柴田錬三郎の代表作となった。

 市川雷蔵(1931年―1969年)の映画を観ていたので、狂四郎に漂う虚無感と、随所で見られるエロティシズムが本でも感じられるだろうと、察していた。その通りだった。まず柴錬の本があり、それを映画化した順序を考えれば、当然だろう。まず本ありき、で映画は始まった。

 大映の監督、田中徳三(1920年―2007年)が雷蔵主演で企画を出して、「眠狂四郎殺法帖」が撮られ、シリーズ化したという。1960年代の邦画黄金期を彩った作品のひとつである。

 どちらかといえば日本人然とした市川雷蔵に、ハーフの眠狂四郎は適役ではないと声をいまだに耳にするが、雷蔵の演技力と類まれなメイクの技術で、はまり役の域まで引き上げたと、草野球音はみる。

 映画でなく、原作本が本題である。

 魅力的なのは眠狂四郎のキャラクターである。
 オランダ医師で、転び伴天連(バテレンの父が大目付の娘を犯した結果、生まれた私生児。女性を惹きつける混血児特有の彫りの深い相貌。男の艶。剣を学んだ老師から、兵法極意秘伝書の代わりに、与えられた無想正宗の名刀。その二尺三寸の剣をして円を描くように回し、相手を空白の眠りに陥らせる円月殺法。黒羽二重の着流し――颯爽たる狂四郎が目に浮かぶ。
 生い立ちから形成された虚無的な性格。転び伴天連の父を斬る宿命と、ストーリーも活劇調で小気味良い。
 
 時代小説のブーム期にある。佐伯泰英らの「居眠り磐音」「密命」シリーズなど文庫書き下ろしが売れている。柴田錬三郎が今、「眠狂四郎」を登場させたなら、必ずやベストセラーになるだろう、と思う。
 わずか一冊読んで、したり顔で語りすぎか。

 以下、蛇足ながら‥‥。
 以前、取り上げた岡本綺堂(1872年―1939年)の「半七捕物帳」(光文社文庫)は(四)巻まで読み進んだ。なかなかスピードが上がらない。 (五)巻に突入したが、最後の(六)巻まで読み終わるまで、どのくらいかかるやら。
 藤原緋沙子の「見届け人秋月伊織事件帖シリーズ遠花火」(講談社文庫)が面白かった。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年3月1日土曜日

球侍の炎:江藤愼一

波瀾流転の男

 プロ野球の中日、ロッテなどで強打者として鳴らし、セ・パ両リーグで首位打者に輝いた江藤愼一(えとう・しんいち=旧名は慎一)の訃報が流れたのは、2008年2月28日だった。70歳だった。
 
×  ×  ×

 訃報に接すると、考えることがある。故人の人生はどんなものだったろうか、と。この人の場合は「波瀾」「流転」という言葉がまず浮かんだ。人の生き様を勝手に形容するのは、甚だご本人に失礼な話かもしれないが、ご勘弁願いたい。

 熊本商業を卒業後、ノンプロの日鉄二瀬を経てプロ野球の中日入団―ロッテ―大洋―太平洋―ロッテと渡り歩いた。
 
 1959年(昭和34)中日新人の年に130試合フル出場を果たした。同期入団には王貞治(巨人)、張本勲(東映)がいる。特筆すべきは、1964年と翌1965年の2年連続首位打者である。全盛時代の王の三冠王を阻んだ。闘争心を表面に出すプレースタイルで「闘将」と異名をとった。

 だが、しかし‥‥。
 波瀾万丈・流転の野球人生の発端は1969年だった。

 本業の傍ら自動車部品関連の会社を経営していた江藤だが、破綻をきたした。すでに中日のチームリーダーであり、影響力のある存在にのし上がっていたが、債権者が球場に現れる至り、野球に全身全霊を注ぐ環境ではなくなった。その年から、采配を執った監督の水原茂(1909年―1982年)は、公私の区別をつけられぬ主砲を構想外・戦力外とした。
 江藤は水原に土下座して非を詫びたが、受け入れられず、その年のオフに任意引退となった。
 勝負師・水原との確執から、11年在籍した名古屋の街を追われた。
 
 結局、移籍がまとまったのは1970年(昭和45)6月だった。開幕から2ヶ月が過ぎていた。救いの手は、ロッテの監督である濃人渉(1915年―1990年)が差し伸べた。ノンプロ日鉄二瀬、中日での恩師である。1970年は72試合の出場ながら、ロッテのパ・リーグ制覇に貢献している。
 そして、1971年には打率.337で、両リーグ初の首位打者のタイトルを獲得した。3度目の首位打者を決めた日は10月6日、誕生日であった。
 サプライズは突然にやって来る。歓喜の直後にそれは来た。翌日の10月7日に、大洋との間で野村収投手との1対1の交換トレードが成立し、通達を受けたのだった。その年のシーズン途中で、ロッテの監督は濃人渉から大沢啓二に代わっていた。「守り」を固めるチーム構築を目指す大沢監督は、江藤を戦力外とし、投手力強化を狙っていた。

 ロッテ在籍は2年間だった。大洋3年、太平洋では兼任監督として1年(リーグ3位)、最後は金田正一監督に拾われて再びロッテ1年のプロ野球生活を送った。
 
 引退後は「日本野球体育学校」を設立したりしたが、プロ野球の表舞台からは一歩退いていた。

 セ・パ両リーグで首位打者3回、ベストナイン6回、全12球団から本塁打、2084試合出場、2057安打、367本塁打、通算打率・287を延べ5球団実働18年の生涯記録とする。

 斗酒(としゅ)猶(なお)辞せずの酒豪だった。日刊スポーツの「悼む」には、敬愛する先輩の署名記事で、奥さんの実家のある広島の酒「賀茂鶴」を愛飲したと書いてあった。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

2008年2月27日水曜日

スチャラカ社員:気紛れ記

 「スチャラカ社員」って知っていますか?

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 映画「明日への遺言」(小泉尭史監督)の記者会見での藤田まこと富司純子を、テレビは映し出していた。ふたりは、級戦犯として戦後軍事裁判にかけられる岡田資中将とその妻を演じている。2008年3月1日封切。
 
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 さて、「スチャラカ社員」だ。1961年(昭和36)から1967年にかけて日曜日の昼にテレビ放送されたドタバタ・コメディである。
 中田ダイマル(1913年―1982年)・ラケット(1920年―1997年)が主役のグータラ中堅社員役、社長はミヤコ蝶々(1920年―2000年)で、若手社員に藤田まこと、美人のOLに長谷百合というキャストであった。藤純子(後の富司純子)はその会社に新しく入社してきて、長谷百合が番組に出なくなり、職場の華が藤純子にとって替わった、と記憶している。

 藤田まことが長谷百合を「ハセく~ん」と、言葉を伸ばして言う呼び方や、課長役の人見きよし(1930年―1985年)の「ほんと、ちい~とも知らなかったわぁ」が流行った。
 給仕の少年役は白木みのるだった。

 藤純子は途中で映画出演に追われ、出演しなくなったが、登場した彼女の容姿は目を見張るものがあった。まだ十代(高校生)だったろう。まさに「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」である。後年、東映を支えた「緋牡丹博徒」の矢野竜子役の颯爽たるさまは、実に美しいかったなぁ。

 というわけで、藤田まことと富司純子の映画共演から「スチャラカ社員」に思いを馳せたという次第である。
 あれから50余年――歳月流るる如し。