2007年12月12日水曜日

目玉の松ちゃん:伝聞書き

日本最初の映画スター

 “目玉の松ちゃん”を知っていますか?

 知らざぁ言って聞かせやしょう(おまえは弁天小僧か)。
 日本最初の映画スーパースターで、明治末から大正にかけて超人気を誇った尾上松之助(おのえ・まつのすけ)のことだ。大きく目を見開き見得を切る演技が目立ったことから“目玉の松ちゃん”と呼ばれ、大衆に親しまれた。

 草野球音は目玉の松ちゃんの映画は観たことがない。生涯主演作品がなんと1,003本(未確認情報)、ギネスブックに登場しそうなスーパースターを追う。
 松之助本人が大正時代に書いたといわれる「尾上松之助自伝」の記述も誤りが多く指摘されており、現存するフィルムもほとんど残っていない。よってこの項は、子供のころに聞いていた話や、読んだ書物、資料などを基にして書くものである。

 尾上松之助は本名を中村鶴三(なかむら・かくぞう)といい、1875年(明治8)に岡山県岡山市で生まれた。父は貸し座敷業を営み、芸妓を抱えていた。その環境から芸事に幼少より親しむ。6歳のとき初舞台を踏んだ。その後、芝居好きが高じて俳優を志し、15歳で旅回り役者となり、19歳で一座を結成し、尾上松之助を名乗るようになった。

 “日本映画の父”といわれる牧野省三(1878年―1929年)と出遭うことになる。1904年と1908年という説があるが、ともかく会遇したときは問題ではなく、遭った事実が重要である。この縁が映画スター松之助の運命を切り開いた。

 日本映画草創期の年譜1893年(明治26):米国の発明王トーマス・エジソンが「キネスコープ」発明
          *箱の中の連続画像を観る
1895年(明治28):フランスのリュミエール兄弟が「シネマトグラフ」発明
          *スクリーンの映像を多くの人が同時に観る
1897年(明治30):稲畑勝太郎がフランスから「シネマトグラフ」機械を持ち帰る
1903年(明治34):横田商会設立。浅草に初の映画館「浅草電気館」開館
1908年(明治41):日本最初の「本能寺合戦」制作
1909年(明治42):牧野省三と尾上松之助コンビの「基盤忠信源氏礎」制作
1912年(大正元):横田商会などが合併し日本活動写真株式会社(日活)設立

 牧野省三は当時、京都の西陣で「千本座」という芝居小屋を経営していた。稲畑勝太郎は当初、自ら映画興行を行うつもりだったが、興行界は江戸時代以来の「裏社会」が存在し、参入には壁が立ちはだかった。そこでシネマトグラフの興行事業を知人の横田永之助に頼む。横田は興行を行う横田商会を設立し、映画を企画する。そして映画制作を横田は演劇界に明るい牧野に依頼した。
 牧野は1908年、中村福之助、嵐璃徳の主演で「本能寺合戦」を撮る。これが日本の映画第1号となった。その後、何本か映画を制作したが当たらなかった。
 運命的な出遭いとなる。
 松之助の芝居を観た牧野は、メリハリがあり、けれんみのある演技に目をつけ映画出演を勧めた。監督牧野―主演松之助のコンビで初めて世に出した映画が「基盤忠信源氏礎」(横田商会)であった。1909年のことである。
 派手な立ち回りで松之助は爆発的な人気を得ることになる。日本中に「目玉の松ちゃん」が知れ渡ることになった。それは、日本映画史上初めてのスターであり、超人気アイドルの登場であった。 (つづく)

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