2007年12月31日月曜日

瞼の裏で咲いている1958

昭和33年編

 1958年・昭和33年は話題の多い年だった。
 長嶋茂雄のプロ野球デビュー、石原裕次郎人気爆発、皇太子と正田美智子さんの婚約、インスタントラーメン発売、フラフープの大流行、月光仮面のテレビドラマ開始、1万円札発行、岩戸景気始まる、東京タワーの完成、など盛りだくさんである。

 立教大の長嶋茂雄は、前年の六大学野球秋季リーグ戦で通算8本の本塁打を放ち鳴り物入りで読売ジャイアンツに入団した。ゴールデンボーイと言われた。そして迎えた国鉄スワローズとの開幕戦、プロ野球を代表する大投手の金田正一と対戦し、4打席4三振の苦いデビューとなった。これはもはや周知の事実であり、伝説となっている。
 その開幕戦(後楽園球場)をテレビで観た。金田は調子よく、高めの速球が伸びていた。長嶋は力いっぱいのスイングで応じたが、ファールが精一杯、前に打球は飛ばなかった、と記憶している。

 当時の巨人の開幕オーダー(読売入団までの経路)=監督経験
(左) 与那嶺 要(フェリント高―3Aサンフランシスコ)=中日監督
(遊) 広岡 達朗(三津田高―早稲田大)=ヤクルト、西武監督
(三) 長嶋 茂雄(佐倉一高―立教大)=巨人監督
(一) 川上 哲治(熊本工)=巨人監督
(右) 宮本 敏雄(ボールドウィン高―ハワイ朝日)
(中) 岩本 堯 (田辺高―早稲田大)=近鉄監督
(ニ) 土屋 正孝(松本深志高)
(捕) 藤尾 茂 (鳴尾高)
(投) 藤田 元司(西条高―慶応大―日本石油)=巨人監督

 長嶋は3番でスタメン出場している。早稲田実の王貞治が入団するのは翌昭和34年で、「不動の4番」であり「打撃の神様」川上哲治はこの年限りで現役を引退する。それにしても豪華なオーダーで、その後、宮本、土屋、藤尾を除く6人がプロ野球監督を務めることになる。
 試合結果は金田の好投の前に打線は沈黙し、1―4で読売は敗れている。勝利投手は金田、敗戦投手は藤田元司だった。

 長嶋は只者ではない。デビューの失敗からすぐさま立ち直った。シーズン中盤戦からは川上に替わり4番に座り、29本塁打、92打点で2冠に輝き、打率.305で2位(首位打者は阪神の田宮謙次郎)の成績を残した。実は30本の本塁打を放ったが、9月の広島戦で一塁を踏み忘れるミスで1本を帳消しにしている。37盗塁で併殺打はわずか3本と、その俊足ぶりが目立つルーキーだった。
 
 セ・リーグは読売ジャイアンツ、パ・リーグは西鉄ライオンズが優勝し、日本シリーズは西鉄が3連敗のあと4連勝し日本一に輝いた。鉄腕・稲尾和久(1937年―2007年)は語り草となる奮投をみせひとりで4勝を上げ、「神様・仏様・稲尾様」と言われた。 シリーズMVPは当然ながら稲尾。

・昭和33年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=藤田元司(巨人)・稲尾和久(西鉄)
新人王=長嶋茂雄(巨人)・杉浦忠(南海)
首位打者=田宮謙次郎(大阪)・中西太(西鉄)
本塁打王=長嶋茂雄(巨人)・中西太(西鉄)
打点王=長嶋茂雄(巨人)・葛城隆雄(大毎)
最優秀防御率=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最多勝=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最優秀勝率=藤田元司(巨人)・秋本祐作(阪急)

 高校野球では、春の選抜大会が済々黌(熊本)、夏の選手権大会は柳井(山口)が優勝した。なかでも夏の甲子園大会では、徳島商のエース板東英二(中日)の好投が印象に残る。準決勝の魚津の村椿輝男との投げ合いは見事で延長18回を0-0と決着がつかず、再試合となり徳島商が3-1で勝利した。板東はこの大会83の奪三振記録を樹立した。記録は現在も破られていない。
 板東は魚津の延長18回で25奪三振、再試合でも9三振を奪い奪三振は80とした。さすがに決勝の柳井戦では連投の疲労が出て、0―7と敗れ、奪った三振も3と激減したが、大会通産の83奪三振は球史に燦然と輝く。
 速球一本勝負の小気味よい投球をする球児だった。テレビに映し出されるお笑いタレントのような板東とは、明らかにイメージが違うなぁ。

 昭和33年編は年を挟んで2回に分けて記述します。

2007年12月27日木曜日

続・瞼の裏で咲いている1957

昭和32年編
 
 今回は書き残した1957年・昭和32年の歌謡曲編である。

 日本の石原裕次郎の人気のアメリカ版がエルヴィス・プレスリー(1935年―1977年)だったと思う。下半身を振って歌う姿におとなたちは眉を顰(ひそ)めたが、若者の支持は絶大だった。
 1957年・昭和32年には、プレスリーは前年の「ハートブレーク・ホテル」に続き「監獄ロック」をヒットさせた。彼のロックンロールは世界を席捲し日本にも飛び火し、平尾昌章、ミッキー・カーティス、山下敬二郎の「ロカビリー3人男」を生み、生ロックを鑑賞できるカフェ、ジャズ喫茶を誕生させた。
 プレスリー以前に江利チエミの「テネシーワルツ」や雪村いづみ、旗照夫、ペギー葉山などがジャズを日本語と原語の混じる訳詞で歌唱していたが、俄然、翻訳詞が流行った。

 「ハートブレーク・ホテル」は小坂一也が訳詞で歌った。同年、ハリー・ベラホンテの「バナナ・ボート」は浜村美智子が歌い、大ヒットした。余談だが、2007年11月24日・25日に放送されたビートたけし主演のテレビドラマ「点と線」(松本清張原作)の劇中で、ラジオから浜村美智子の
 ♪デーオ
が聞こえてきて、昭和32年当時のドラマ設定を印象付けるBGMに使っていた。
 美輪明宏(当時は丸山明宏)の「メケメケ」も流行り、その訳詞は美輪自身によるものだった。

 裕次郎、プレスリー、ロカビリーと若者文化隆盛のなか、浪曲師から歌謡曲に転じた三波春夫(1923年―2001年)デビューした。「チャンチキおけさ」(門井八郎作詞・長津義司作曲)、「船方さんよ」(門井八郎作詞・春川一夫作曲)をヒットさせた。路地裏の酒場で見知らぬ同士が小皿を叩きながら、おけさを歌い故郷を偲ぶ。

 昭和30年代は東京と地方の両極を唄った時代といえる。経済成長の担い手として地方から東京に出るもの、地方に留まるもの、都会の街っ子――それぞれの想いが綴られ曲となった。

 ジャズ歌手から歌謡曲に移ったフランク永井は都会派歌謡の旗手となった。「東京午前三時」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)、「夜霧の第二国道」(宮川哲夫作詞・吉田正作曲)が売れた。

 ヒット曲の“常連組”美空ひばりは「港町十三番地」(石本美由起作詞・上原げんと作曲)、島倉千代子は「東京だヨおっ母さん」(野村俊夫作詞・船村徹作曲)、春日八郎は「あん時ゃどしゃぶり」(矢野亮作詞・佐伯としを作曲)を歌った。
 「東京だヨおっ母さん」は東京に住む娘が田舎の母を呼び東京見物するシーンが目に浮かぶ。皇居の二重橋で記念写真を撮り、靖国神社では英霊となった兄を偲び、浅草の観音様をお参りする。
 まるで東京名所巡りのはとバスだが、バスといえば「東京のバスガール」(丘灯至夫作詞・上原げんと作曲)をコロムビア・ローズがヒットさせた。また鼻にかかった声で藤島桓夫が歌った「お月さん今晩は」(松村又一作詞・遠藤実作曲)が印象に残る昭和32年の歌謡界であった。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2007年12月25日火曜日

瞼の裏で咲いている1957

昭和32年編

 1957年・1958年にかけてスターからカリスマに成長した石原裕次郎を特集したが、今回は裕次郎を除く1957年・昭和32年編を書きたい。
×  ×  ×

 スーパースターの蕾(つぼみ)がいた。
 早稲田実業高の2年生・王貞治である。後に読売ジャイアンツに入団し、868本の通算本塁打を記録して「世界の王」となったのは周知の事実であるが、有名球児―巨人入団への足掛りとなった「甲子園の王」を書く。

 昭和31年第38回高校野球選手権大会(夏の甲子園)に王貞治は1年生ながら外野手兼投手として出場した。当時の全国での予選は1,739校が出場し、晴れ舞台・甲子園へ23校が駒を進めていた。王にとって初めての甲子園である。
 早稲田実は初戦の新宮(和歌山)を大井の好投で2-1と下し、迎えた2回戦で岐阜商(岐阜)と対戦した。相手の岐阜商には大会屈指の左腕、清沢忠彦(慶応大)がいた。宮井勝成監督(後に中央大監督)は1年生の王をマウンドに送った。
 王は制球に苦しみ4回途中で6点を失い、KOされた。球威はあるものの四球から自滅した。試合も1-8の大敗だった。徳武定祐(早稲田大―国鉄)、醍醐猛夫(毎日)、王という大型打者を揃えた早稲田実業打線も好投手清沢の前に沈黙した。

 帰京した王に宮井監督はノーワインドアップ投法を試みる。甲子園での不出来な内容原因は制球難にある。宮井は大型左腕・王を擁して全国制覇の夢を描いていた。剛球と長打力を兼ね備えた王のような球児は、めったに現れないことは承知していた。千載一遇の好機の到来と踏んでいた。
 宮井は名伯楽と言われ、早稲田実業で徳武、醍醐、中央大に移ってからも武上四郎(ヤクルト)、末次利光(読売)、高橋良昌(東映―読売)、高木豊(横浜)など名選手を輩出している。選手の鑑定眼は確かである。

 両手を大きく振りかぶって投げるワインドアップに対して、両手を胸のあたりに置き、振りかぶらず投げる方法をノーワインドアップといい、ワインドアップに比べ球威は落ちるが、制球がまとまるのが利点の投法である。

 秋から冬とノーワインドアップ投法に磨きをかけた王は、2年生となり選抜大会と選手権大会に春夏ともに甲子園に駒を進めることになる。昭和32年のことだ。
 同年の第29回選抜大会(出場20校)に出場した早稲田実業2年生の王はエースで4番の中心選手だった。新投法が冴えた。初戦の寝屋川(大阪)を1安打完封の1-0で下した。準々決勝の柳井(山口)を4-0、準決勝の久留米商(福岡)を6-0と3試合連続完封を果たした。
 決勝は高知商(高知)と対戦となった。相手のマウンドには左腕の小松俊広(読売)がいた。王は久留米商戦で左手中指の爪を割り、投げたボールの血の跡は見えるほどだったが、8回に3点を失ったものの気力をふりしぼり完投を果たした。紫紺の大旗を初めて関東にもたらした。「血染め」の日本一であった。

 その年の夏の選手権大会(全国予選1,769校・出場23校)では、初戦(2回戦)の寝屋川(大阪)戦では1-0、延長11回ノーヒットノーランの離れ業をやってのけた。準々決勝の法政ニ(神奈川)には1―2の惜敗を喫した。深紅の大旗は広島商に輝いた。
 昭和33年の春の選抜大会(出場30校)では、初戦(2回戦)の御所実業(奈良)、準々決勝の済々黌(熊本)に2試合連続の本塁打を記録し、後の世界のホームラン王の片鱗を見せたのだった。
 ちなみに同年夏の東京大会は明治高と決勝で対戦、延長12回5-6と逆転負けを喫し5季連続の甲子園出場の夢を絶たれた。

 当時、野球と映画が最大の娯楽であった。草野球音は野球少年であり、映画好きだった。早実の王は憧れだった。王が読売入団し、物になったのは4年目(1962年)で「一本足打法」を早稲田実業の先輩である荒川博コーチにすすめられ採りいれ、38本塁打、85打点で2冠を獲得したことが契機になった。「ノーワインドアップ投法」「一本足打法」と、王は「変則」技術で大成への道を歩んだ。

 プロ野球はセ・リーグが読売ジャイアンツ、パ・リーグは西鉄ライオンズが優勝し、日本シリーズは西鉄が稲尾和久の活躍で日本一を制している。シリーズMVPは大下弘(西鉄)だった。

・昭和32年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=与那嶺要(巨人)・稲尾和久(西鉄)
新人王=藤田元司(巨人)・木村保(南海)
首位打者=与那嶺要(巨人)・山内和弘(毎日)
本塁打王=青田昇(大洋)佐藤孝夫(国鉄)・野村克也(南海)
打点王=宮本敏雄(巨人)・中西太(西鉄)
最優秀防御率=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最多勝=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最優秀勝率=木戸美摸(巨人)・稲尾和久(西鉄)
 
昭和32年の日本映画の佳作を挙げる。
 寡作の黒澤明監督(1910年―1998年)が珍しく「蜘蛛巣城」(東宝)「どん底」(東宝)の2本も撮っている。いずれも主演は三船敏郎(1920年-1997年)である。
 灯台を守る夫婦(佐田啓二と高峰秀子出演)を描いた「喜びも悲しみも幾年月」(松竹・木下恵介監督)が印象に残る。
 ♪おいら岬の 灯台守は
と、声量豊かに歌う若山彰(1927年―1998年)はヒットした。木下恵介(1912年―1998年)の実弟・木下忠司が作詞・作曲を手がけている。その他では「米」(東映・今井正監督)=江原真二郎出演、などがある。
 洋画では、「道」(フェデリコ・フェリーニ監督)、「翼よ!あれが巴里の灯だ」(ビリー・ワイルダー監督)=ジェームス・ステュワート出演、「戦場にかける橋」(デビッド・リーン監督)=ウィリアム・ホールデン出演、などがある。

 昭和32年編は2回に分けて記述します。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2007年12月23日日曜日

瞼の裏で咲いている裕次郎

昭和32年・33年編

 石原裕次郎(1934年―1987年)を1957年から1598年にかけて特集する。
×  ×  ×

 導火線に火がついた。巨大な爆弾が弾ける予感がした。

 石原裕次郎ブームは1957年・昭和32年から始まる。同年9本の映画に出演している。
・お転婆三人姉妹・踊る太陽(日活・井上梅次監督)=ペギー葉山、芦川いづみ
・ジャズ娘誕生(日活・春原政久監督)=江利チエミ、青山恭二
・勝利者(日活・井上梅次監督)=三橋達也、北原三枝
・今日のいのち(日活・田坂具隆監督)=北原三枝、津川雅彦
・幕末太陽伝(日活・川島雄三監督)=フランキー堺、左幸子
・海の野郎ども(日活・新藤兼人監督)=殿山泰司、西村晃
・鷲と鷹(日活・井上梅次監督)=三國連太郎、浅丘ルリ子
・俺は待ってるぜ(日活・蔵原惟繕監督)北原三枝、二谷英明
・嵐を呼ぶ男(日活・井上梅次監督)北原三枝、芦川いづみ

 「嵐を呼ぶ男」は昭和32年の12月歳末に正月映画として封切りしたので、昭和33年に観た人が多かったろう。裕次郎というマグマが弾け、列島を揺るがす大爆発を起こしたのは翌33年を待つことになる。

 「狂った果実」(昭和31年)で主役の座に就いた裕次郎は、「太陽族」のイメージが重なり、その不良性が若者の心を捉えた。上原謙(1909年―1991年)のような従来の端正な顔立ちの二枚目と違い、八重歯に短髪、鋭い目に輝きを放ち、やたら足の長い男が銀幕に現れると、溜め息と羨望が館内に満ちるのだった。

 「勝利者」はボクサー役で、北原三枝の役名は「白木真理」だったと記憶する。白木マリはこれを芸名としたという。「幕末太陽伝」は川島雄三監督作品で高い評価がある名画だが、主役は居残り佐平次役のフランキー堺で、裕次郎は高杉晋作役で登場する。
 「俺は待ってるぜ」はスチール写真が秀逸だ。夜霧の波止場で、白いトレンチコートの襟を立て、舫杭に片足をのせ佇む姿をローアングルで足の長さを強調して撮った写真だが、裕次郎のポーズは実に決まっている。脚本は石原慎太郎。

 裕次郎をスーパースター・カリスマにしたのは「嵐を呼ぶ男」である。ドラマーの国分正一の裕次郎は格好よかったなぁ。渡辺プロの渡辺美佐をモデルにしたといわれる辣腕の女マネジャー役に北原三枝。恋敵でドラム合戦をするチャーリー桜田役にジャズ歌手の笈田敏夫という配役だった。暴漢に襲われ手を怪我した主人公が、ドラムを叩けなくなり、マイクを引き寄せ唄う。
 ♪おいらはドラマー やくざなドラマー
 ドラム合戦のクライマックス――その瞬間、裕次郎の颯爽たる様に衝撃を受け身震いした。映画館を出る草野球音は裕次郎になり切っていた。

 裕次郎ブーム頂点の1958年・昭和33年映画作品
・夜の牙(日活・井上梅次監督)=月丘夢路、浅丘ルリ子、森川信
・錆びたナイフ(日活・舛田利雄監督)=北原三枝、小林旭、宍戸錠、杉浦直樹
・陽のあたる坂道(日活・田坂具隆監督)=北原三枝、千田是也、小高雄二、川地民夫
・明日は明日の風が吹く(日活・井上梅次監督)=北原三枝、金子信雄
・素晴らしき男性(日活・井上梅次監督)=北原三枝、月丘夢路、白木マリ
・風速40米(日活・蔵原惟繕監督)=北原三枝、渡辺美佐子、川地民夫
・赤い波止場(日活・蔵原惟繕監督)=北原三枝、中原早苗、大坂志郎
・嵐の中を突っ走れ(日活・蔵原惟繕監督)=北原三枝、市村俊幸、白木マリ
・紅の翼(日活・中平康監督)=芦川いづみ、中原早苗、二谷英明

 「夜の牙」は遺産相続を巡るサスペンスで、犯人は意外や和尚役の森川信であった。「錆びたナイフ」は石原慎太郎の脚本で、杉浦直樹とのアクションシーンの迫力が凄かった。「素晴らしき男性」は裕次郎には珍しいミュージカル映画。「風速40米」は、ワイシャツをボタンで締めず胸下で縛ったファッションが人目を惹いた。「赤い波止場」はピストル名手で“左射ちの二郎”役、白いスーツ姿の格好よさにしびれたねぇ。「紅の翼」は八丈島の破傷風の患者に血清を届けるパイロット役で、セスナにギャングの二谷英明が乗り合わせるストーリーだったと記憶する。

 「陽のあたる坂道」は石坂洋次郎原作で、異父兄弟役の川地民夫のデビュー作。川地は神奈川県逗子の裕次郎の近所に住んでいた縁で出演したという。石坂洋次郎(1900年―1986年)作品は多い。「乳母車」(1956年=田坂具隆監督)で始まり、「若い川の流れ」(1959年=田坂具隆監督)、「あじさいの歌」(1960年=滝沢英輔監督)、「あいつと私」(1961年=中平康監督)、「若い人」(1962年=西河克己監督)と6本も演じている。「あいつと私」と「若い人」は吉永小百合との共演作品である。

 瞼の裏で裕次郎の赤い大輪が咲き誇っている。

 歌謡曲の世界でも、裕次郎ブームは昭和32年・33年、列島を席捲した。
前年「狂った果実」(石原慎太郎作詞・佐藤勝作曲)で歌手デビューした石原裕次郎は、昭和32年ヒット曲を連発した。「俺は待ってるぜ」(石崎正美作詞・上原賢六作曲)「錆びたナイフ」(萩原四郎作詞・上原賢六作曲)で、ともに曲が売れ映画化となった。「錆びたナイフ」(日活・舛田利雄監督)は翌1958年(昭和33)の上映。
 昭和33年のヒット曲は「嵐を呼ぶ男」(井上梅次作詞・大森盛太郎作曲)、「鷲と鷹」(井上梅次作詞・萩原忠司作曲)、「風速40米」(友重澄之介作詞・上原賢六作曲)、「口笛が聞こえる港町」(猪又良作詞・村沢良介作曲)がある。

 歌う映画スターの先輩には高田浩吉(1911年―1998年)、鶴田浩二(1924年―1987年)がいるが、裕次郎以降に日活では主演俳優が主題歌を吹き込むことが定着した。小林旭、赤木圭一郎(1939年―1961年)が裕次郎に続くことになる。
 
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2007年12月20日木曜日

瞼の裏で咲いている1956

昭和31年編

 この歌は変わっているぞ。と、子供心に思ったものだ。
 ♪でしゃばりお米(よね)に手を引かれ
と歌った鈴木三重子(1931年―1987年)の「愛ちゃんはお嫁に」という歌謡曲である。1956年・昭和31年、作詞は原俊雄、作曲は村沢良介の手で世に出てヒットした。鈴木三重子は同年のNHK紅白歌合戦に出場している。

 花嫁さんは「愛ちゃん」で、婿さんは「太郎」という。文金高島田に白無垢の愛ちゃんの手を引いて先導するのは、「お米」という。どうやら近所のおばさんで、「でしゃばり」ときた。歌詞のなかで固有名詞が特定されるリアルさと面白さが、妙に印象的だった。
 
 歌舞伎の演目、青砥稿花紅彩画(白浪五人男)を題材とした「弁天小僧」(1955年)をヒットさせた三浦洸一の「東京の人」(1956年)も気になった。
 ♪並木の雨の トレモロの
おい、「トレモロ」ってなんだよ?

 当時知らないままにほったらかしにしていたものを、今頃になってデジタル大辞泉(三省堂)で引く。

トレモロ<イタリアtremolo>同音または異なる2音を、急速に反復させる奏法。主に弦楽器で行う。震音。

 歌詞を読むと、東京=都会の女が恋に悩む姿が浮かぶ。銀座のカフェのテラスで小雨に打たれながら、雨音を聴いている。恋に忍び泣いているのだ。作詞は佐伯孝夫、作曲は吉田正の都会派歌謡である。
 50年来の疑問が氷解した(笑)。

 佐伯―吉田コンビは同年、「哀愁の街に霧が降る」(山田真二・唄)=2007年10月26日の項=を出している。

 美空ひばり(1937年―1989年)の「波止場だよお父つぁん」は名曲だと、思った。年老い目が見ない父の手を引く健気な娘。父は元マドロスで、海の郷愁を忘れられない。ハマっ子のひばりの情感たっぷりの歌唱にしびれたものだが、いつしか歌わなくなってしまった。
 どうしたのものだろうか?
 この疑問はすぐに解決した。放送コードに歌詞がひっかかり歌えなくなったと教えてもらった。目の不自由な人を指す差別表現が1番の歌詞にあったのだ。

 作曲は船村徹で、問題の作詞をしたのは西沢爽(1919年―2000年)であった。西沢は島倉千代子の「からたち日記」、美空ひばりの「ひばりの佐渡情話」、小林旭の「さすらい」などを作詞している。放送されない名曲である。

 前年デビューした三橋美智也(1930年―1996年)と島倉千代子が1956年に、ヒット曲を連発した。「おんな船頭唄」で世に出た三橋は「リンゴ村から」(矢野亮作作詞・林伊佐緒作曲)「哀愁列車」(横井弘作詞・鎌多俊與作曲)、「この世の花」の島倉は「逢いたいなぁあの人に」(石本美由紀作詞・上原げんと作曲)、「東京の人さようなら」(石本美由紀作詞・竹岡信幸作曲)を出しスター歌手街道を突っ走った。
 「哀愁列車」に出てくる
 ♪未練心につまづいて
という歌詞は巧い表現だと、ませたガキの球音は感じ入った。

 1955年デビュー組には大津美子もいた。「東京アンナ」で歌唱を印象付けた大津は結婚式の定番「ここに幸あり」(高橋掬太郎作詞・飯田三郎作曲)をヒットさせた。
 女の強さを歌ったコロムビア・ローズの「どうせひろった恋だもの」(野村俊作詞・船村徹作曲)、曽根史郎の「若いお巡りさん」(井田誠一作詞・利根一郎作曲)、青木光一の「早く帰ってコ」(高野公男作詞・船村徹作曲)などのメロディがラジオから流れていた。

 前年後半期の芥川賞を獲得した石原慎太郎の小説「太陽の季節」が映画化された。日活製作で古川卓也監督、長門裕之が主演している。この映画で原作者の慎太郎の弟、石原裕次郎がデビューし、「狂った果実」(日活・中平康監督)では主演を果している。アロハシャツにサングラスで湘南を闊歩した「太陽族」、短髪の「慎太郎刈り」など流行語になった。
 その他の映画では、竹山道雄の小説の映画化「ビルマの竪琴」(日活・市川崑監督)=三國連太郎、安井昌二出演、「夜の河」(大映・吉村公三郎監督)=山本富士子出演、「赤線地帯」(大映・溝口健二監督)=京マチ子出演、「猫と庄造と二人のをんな」(東京映画=東宝・豊田四郎監督)=森繁久弥出演、などがある。
 
 1956年・昭和31年はオーストラリアでメルボルン五輪が開催された。南半球初のオリンピックであった。日本は4つの金、10個の銀、5個の銅メダルを獲得した。
 “潜水泳法”の古川勝が男子競泳200M平泳ぎで金メダルに輝いた。その後、潜水泳法は国際水泳連盟のルール改正で禁止された。その他の金メダリストは、小野喬(男子体操・鉄棒)、池田三男(レスリング・フリースタイル・ウェルター級)、笹原正三(レスリング・フリースタイル・フェザー級)。笹原は強かったなぁ。
 惜しくも銀メダルとなったが、山中毅が男子競泳400Mと1500Mで、地元オーストラリアのマレー・ローズと競り合ったのが印象的だった。

 プロ野球ではセ・リーグが読売ジャイアンツ、パ・リーグが西鉄ライオンズはリーグ優勝し、日本シリーズは西鉄が4勝2敗で制した。 シリーズMVPは豊田泰光(西鉄)だった。

・昭和31年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=別所毅彦(巨人)・中西太(西鉄)
新人王=秋山登(大洋)・稲尾和久(西鉄)
首位打者=与那嶺要(巨人)・豊田泰光(西鉄)
本塁打王=青田昇(大洋)・中西太(西鉄)
打点王=宮本敏雄(巨人)・中西太(西鉄)
最優秀防御率=渡辺省三(大阪)・稲尾和久(西鉄)
最多勝=別所毅彦(巨人)・三浦方義(大映)
最優秀勝率=堀内庄(巨人)・植村義信(毎日)

 高校野球は春の選抜大会が中京商(愛知)、夏の選手権大会は平安(京都)が大旗を握った。春夏ともに準優勝の岐阜商の左腕・清沢忠彦(慶応大)の投球が光った。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2007年12月18日火曜日

瞼の裏で咲いている1955

 歌は世に連れ、世は歌に連れ
――歌謡曲、映画、野球界などの記憶を思い起こしながら、多感だったあの頃を、昭和30年代を振り返る。草野球音の瞼の裏で花のように咲いている追想を書いてみたい。よって年ごとを追う連作としたい。題して「瞼の裏で咲いている‥‥」。

 昭和20年、太平洋戦争が終わった。敗戦の痛手や食糧難と貧困にわれわれ日本人が真正面からぶつかった復興期の20年代。日本株式会社が遮二無二突っ走った経済高度成長期の30年代。そして昭和39年の東京五輪で「世界のJAPAN」となった。
 酔眼朦朧かつ痴呆気味の現在と違い、純真無垢だった頃(笑)、記憶も鮮明だった。

昭和30年編

 春日八郎の「別れの一本杉」は、球音のような小学低学年の子供も歌うほどヒットした。1955年(昭和30)、高野公男作詞・船村徹作曲により世に出た。
 ♪泣けた 泣けた
 こらえきれずに 泣けたっけ
 高度成長期の日本株式会社は労働力の需要期であった。この頃から集団就職の列車は上野を目指したのだろう。東京に人は集まった。俺は上京したが、結婚を誓ったあの娘は故郷に残った。村のはずれの一本杉まで見送った。
 3番の歌詞の出てくる、
 ♪嫁にもいかずに この俺の
 帰りひたすら 待っている
 あの娘はいくつ とうに二十歳(はたち)はよう
 過ぎたたろうに
適齢期を過ぎたあの娘が待っている故郷はたまらなく切ない。

 高野公男(1930年―1955年)は薄命の人だった。「別れの一本杉」がヒットして間もなく肺結核に侵され、発売された昭和30年、25歳の若さで帰らぬ人となる。船村徹とは売れない貧乏学生の時からの親友であった。彼の短い生涯は翌1956年、松竹で映画化されている。
 春日八郎(1924年―1991年)はすでに1952年「赤いランプの終列車」、1954年「お富さん」のヒットで一流歌手であったが、「別れの一本杉」でその地位を不動にした。昭和30年には三橋美智也(1930年―1996年)が「おんな船頭唄」(西條八十作詞・万城目正作曲)で、島倉千代子が「この世の花」(藤岡哲郎作詞・山口俊郎作曲)でデビューを飾っている。

 ♪田舎のバスは おんぼろ車
中村メイコの「田舎のバス」(三木鶏郎作詞・作曲)が明るく歌い、ビブラートが特徴的でかって歌まねの定番であった菅原都々子の「月がとっても青いから」(清水みのる作詞・陸奥明作曲)、宮城まり子の「ガード下の靴みがき」(宮川哲夫作詞・利根一郎作曲)、鶴田浩二の「赤と黒のブルース」(宮川哲夫作詞・吉田正作曲)、美空ひばりの「娘船頭さん」(西條八十作詞・古賀政男作曲)も同年の作品である。
 
 映画では宍戸錠のデビュー作として記憶に留める森繁久弥主演の「警察日記」(日活=久松静児監督)がある。三島雅夫、十朱久雄、三國連太郎、杉村春子、伊藤雄之助、東野英治郎、沢村貞子などの芸達者が揃った出演者のなかで、子役の二木てるみの演技が評判を呼んだ。
 米小説家ジョン・スタインペックの長編「エデンの東」を、ジェイムス・ディーン主演でエリア・カザンが監督として映画化している。

 プロ野球セ・リーグは読売ジャイアンツ、パ・リーグは南海ホークスがリーグ制覇し、日本シリーズで対決したが、巨人が4勝3敗で日本一に輝いている。別所毅彦(1922年―1999年)が3勝を稼ぐ活躍で、シリーズMVPに輝いた。長嶋茂雄も王貞治もいない巨人で、「ジャイアンツ・馬場正平」(2007年11月10日の項)の項でも書いたが、馬場のほか森昌彦(岐阜高)、国松彰(同志社大中退)、エンディ・宮本(ハワイ朝日)が入団した年であった。

・昭和30年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=川上哲治(巨人)・飯田徳治(南海)
新人王=西村一孔(大阪)・榎本喜八(毎日)
首位打者=川上哲治(巨人)・中西太(西鉄)
本塁打王=町田行彦(国鉄)・中西太(西鉄)
打点王=川上哲治(巨人)・山内和弘(毎日)
最優秀防御率=別所毅彦(巨人)・中川隆(毎日)
最多勝=長谷川良平(広島)大友工(巨人)・宅和本司(南海)
最優秀勝率=大友工(巨人)・中村大成(南海)

 高校野球は春の選抜大会が浪華商(大阪)、夏の選手権大会は四日市(三重)が優勝している。浪華商の4番、坂崎一彦(巨人―東映)が打率6割、2本塁打、10打点を記録し「戦後最強打者」と言われた。

 昭和30年下半期の芥川賞は石原慎太郎が「太陽の季節」で受賞している。石原慎太郎は一橋大学生であった。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2007年12月13日木曜日

目玉の松ちゃん:伝聞書きⅡ

撮りも撮ったり1,003本

 牧野省三―尾上松之助コンビの第1作「基盤忠信源氏礎」(1909年・横田商会)が当たり、松之助はスパースターの座へ登りつめていく。亡くなるまで未確認情報ながら実に1,003本の映画に主演したといわれる。
 1912年(大正元)に横田商会などが合併し日本活動写真株式会社(日活)が設立してから、牧野と松之助コンビは、牧野が日活を離れ「牧野教育映画製作所」を設立する1921年(大正10)まで、約10年間で200本余の映画を撮りまくった。大衆の支持があったからこその多作である。

 松之助の映画はどんな内容だったのだろうか。
 「目玉の松ちゃんは児雷也をやったよ」
 「忍術映画が多かった」
 「立川文庫という小さな本があって、それを題材にしていたな」
などと、子供のころ聞いていた。
 
 立川文庫は、大阪の立川文明堂が1911年(明治44)から1924年(大正13)まで発行した文庫本である。発行者は立川熊次郎。少年を対象に公団や戦記、史伝を約200編刊行し、人気を博している。サイズは縦12.5センチ横9センチで現在の文庫サイズ(15.5センチ×10.5センチ)よりひと回り小さく、定価は20―30銭だった。水戸黄門、真田幸村、猿飛佐助など題材とし、大衆文学、時代劇に影響をおよぼした。
 
 時代劇の定番メニューとなっている忠臣蔵の大石内蔵助や水戸黄門、清水次郎長や国定忠治の任侠もの、宮本武蔵や塚原ト伝の剣豪もの、後にアラカンこと嵐寛寿郎の持ちネタとなった鞍馬天狗、猿飛佐助や霧隠才蔵と児雷也の忍術もの、ありとあらゆる役を演じた。
 主演作品1,003本といわれている。この数字は現在資料で確認できる松之助の主演映画は970本程度なので、異論の余地はあるが、この根拠は1925年(大正14)に日活で「松之助1千本記念映画」として「荒木又右衛門」が製作されおり、その後亡くなるまでに「国定忠治」(1925年日活)」、「実録忠臣蔵」(1926年日活)、「侠骨三日月 前篇」(同)の3本に主演していることから算出したものである。
 松之助映画のほとんどは上映時間60分以内と短く、現在の映画と比較できない。その内容も子供向けの幼稚なチャンバラ映画と、インテリには眉を顰(ひそ)められたが、他の追従を許さないほど圧倒的な人気を誇ったのは、まぎれもない事実である。日本の無声映画時代を先導した男であった。

 松之助は晩年日活の重役となった。しかし、歌舞伎を基調とした立ち回りや講談ものを舞台にしたような映画は、沢田正二郎(1892年―1929年)の創始した新国劇のリアルな殺陣、バンツマこと坂東妻三郎(1901年―1953年)の写実的な映画やアメリカ映画の活劇に押されていった。
 坂東妻三郎、大河内伝次郎が銀幕に登場し、さらに市川右太衛門、片岡千恵蔵、長谷川一夫、嵐寛寿郎を加えた六大スターの剣戟映画の全盛が待ち受けていた。
 
 松之助は1926年「侠骨三日月」の撮影中に心臓病で倒れ、息を引き取った。51歳だった。その葬儀は日活の社葬として京都市内で行われた。都大路に日本最初の映画スターの死を悼む20万人の市民が詰め掛け、路面電車を止めてしまうほどであった。
 ――これが尾上松之助の生涯ダイジェストである。

 名せえゆかりの目玉の松ちゃんこと尾上松之助たぁおれがことだぁ!(ト、十八番の大きく目をむき見得を切る松之助。「終」のエンドマークがフェードアウトする)

2007年12月12日水曜日

目玉の松ちゃん:伝聞書き

日本最初の映画スター

 “目玉の松ちゃん”を知っていますか?

 知らざぁ言って聞かせやしょう(おまえは弁天小僧か)。
 日本最初の映画スーパースターで、明治末から大正にかけて超人気を誇った尾上松之助(おのえ・まつのすけ)のことだ。大きく目を見開き見得を切る演技が目立ったことから“目玉の松ちゃん”と呼ばれ、大衆に親しまれた。

 草野球音は目玉の松ちゃんの映画は観たことがない。生涯主演作品がなんと1,003本(未確認情報)、ギネスブックに登場しそうなスーパースターを追う。
 松之助本人が大正時代に書いたといわれる「尾上松之助自伝」の記述も誤りが多く指摘されており、現存するフィルムもほとんど残っていない。よってこの項は、子供のころに聞いていた話や、読んだ書物、資料などを基にして書くものである。

 尾上松之助は本名を中村鶴三(なかむら・かくぞう)といい、1875年(明治8)に岡山県岡山市で生まれた。父は貸し座敷業を営み、芸妓を抱えていた。その環境から芸事に幼少より親しむ。6歳のとき初舞台を踏んだ。その後、芝居好きが高じて俳優を志し、15歳で旅回り役者となり、19歳で一座を結成し、尾上松之助を名乗るようになった。

 “日本映画の父”といわれる牧野省三(1878年―1929年)と出遭うことになる。1904年と1908年という説があるが、ともかく会遇したときは問題ではなく、遭った事実が重要である。この縁が映画スター松之助の運命を切り開いた。

 日本映画草創期の年譜1893年(明治26):米国の発明王トーマス・エジソンが「キネスコープ」発明
          *箱の中の連続画像を観る
1895年(明治28):フランスのリュミエール兄弟が「シネマトグラフ」発明
          *スクリーンの映像を多くの人が同時に観る
1897年(明治30):稲畑勝太郎がフランスから「シネマトグラフ」機械を持ち帰る
1903年(明治34):横田商会設立。浅草に初の映画館「浅草電気館」開館
1908年(明治41):日本最初の「本能寺合戦」制作
1909年(明治42):牧野省三と尾上松之助コンビの「基盤忠信源氏礎」制作
1912年(大正元):横田商会などが合併し日本活動写真株式会社(日活)設立

 牧野省三は当時、京都の西陣で「千本座」という芝居小屋を経営していた。稲畑勝太郎は当初、自ら映画興行を行うつもりだったが、興行界は江戸時代以来の「裏社会」が存在し、参入には壁が立ちはだかった。そこでシネマトグラフの興行事業を知人の横田永之助に頼む。横田は興行を行う横田商会を設立し、映画を企画する。そして映画制作を横田は演劇界に明るい牧野に依頼した。
 牧野は1908年、中村福之助、嵐璃徳の主演で「本能寺合戦」を撮る。これが日本の映画第1号となった。その後、何本か映画を制作したが当たらなかった。
 運命的な出遭いとなる。
 松之助の芝居を観た牧野は、メリハリがあり、けれんみのある演技に目をつけ映画出演を勧めた。監督牧野―主演松之助のコンビで初めて世に出した映画が「基盤忠信源氏礎」(横田商会)であった。1909年のことである。
 派手な立ち回りで松之助は爆発的な人気を得ることになる。日本中に「目玉の松ちゃん」が知れ渡ることになった。それは、日本映画史上初めてのスターであり、超人気アイドルの登場であった。 (つづく)

2007年12月9日日曜日

半七はお江戸のホームズ

 岡本綺堂の「半七捕物帳」〔一〕(光文社時代小説文庫)を読む。

 “永遠の二枚目”長谷川一夫(1908年―1984年)の「半七捕物帳」はテレビでよく観た。TBSで1966年(昭和41)~1968年で放送された。お仙は淡島千景だった。桜井長一郎(1917年―1999年)が十八番(おはこ)の長谷川一夫の声帯模写をする場合、「赤穂浪士」(NHK大河ドラマ)の大石内蔵助の「おのおのがた」か、この半七の「おせん」だった。「お仙」のあとに「おせんにキャラメル」といって、お決まりの笑いを誘っていたものだ。

 読書はこのところ専ら時代小説だ。20代後半から30代にかけては司馬遼太郎(1923年―1996年)の「竜馬はゆく」「坂の上の雲」「花神」「菜の花の沖」などの歴史小説、40代は池波正太郎(1923年―1990年)の「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」シリーズもの、50代からは藤沢周平(1927年―1997年)ものを読んでいる。最近では佐伯泰英の「居眠り磐音」「密命」シリーズ、鳥羽亮、稲葉稔、葉治英哉などにも手を出している。
 歴史小説は歴史上の人物が登場し、ほぼ史実通りに筋が展開するが、時代小説は架空の人物を登場させる。歴史小説は歴史上の人物の思想や事件をテーマを、時代小説は面白さ・エンターテインメント性を重視したものといわれる。

 「半七捕物帳」は前々から読みたい、読まなければならないと思っていた。「捕物帳」の元祖であり、探偵小説の草創期の傑作である。江戸時代の風習、制度など時代考証に忠実な書物という。岡本綺堂が45歳(1917年)から65歳(1937年)までの20年間にわたり書いた。明らかにコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」に影響を受け、意識して書かれている。
×  ×  ×
 
これらの探偵談は半七としては朝飯前の仕事に過ぎないので、その以上の人を衝動するようなまだまだほかにたくさんあった。彼は江戸時代に於ける隠れたシャアロック・ホームズであった。
――第1話「お文の魂」より
 
×  ×  ×

 なぜ岡本綺堂はホームズを意識したのか。
 綺堂は1872年(明治5)に東京・高輪に生まれ、麹町で育った。享年は66歳。父・敬之助(後に純=きよし=と改名)は徳川家御家人で、維新後に英国公使館の書記官を務めている。
 綺堂は幼少から英語を学び、英国公使館に出入りする留学生に接していた家庭環境もあり、英語達者であった。
 コナン・ドイル(1859年―1930年)の「シャーロック・ホームズ」は1887年から1927年にかけて60編(長編4・短編56)が発表されている。つまりドイルと同時期に生き、「ホームズ」が執筆されている時に原書で読んでいたのである。
 記憶にまだ江戸の面影が残る綺堂は、ロンドンの街で活躍する探偵シャーロック・ホームズを、江戸の岡っ引・半七に見立てたのだろう。

 また「捕物帳」という言葉を遣ったのも綺堂が最初であり、その後広く一般化したといわれている。
×  ×  ×

「捕物帳というのは与力や同心が岡っ引らの報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に当座帳のようなものがあって、書役(しょやく)が取りあえずこれに書きとめて置くんです。その帳面を捕物帳といっておりました」と、半七は先ず説明した。
――第2話「石燈籠」より

×  ×  ×

 「捕物帳」というものが江戸時代に実在したどうかは分からないそうだが、類似した書き物はあったという。

 まだ一巻(短編14)のみだが、読んでみると実に新しい。綺堂が第1話の「お文の魂」を発表してからすでに90年の歳月を経過したが、「半七捕物帳」には現在もなお十分に通用する鮮度があった。

2007年12月6日木曜日

拳銃無宿&ライフルマン

海外テレビ西部劇Ⅲ

 今回で海外テレビ西部劇の完結編としたい。まだまだ書き足りない点は多々あるが‥‥。
 前2回は「ガンスモーク」「バット・マスターソン」「ローハイド」の3番組を紹介したが、「拳銃無宿」「ライフルマン」「ララミー牧場」などに触れる。

 「ガンスモーク」が大人向け西部劇なら、お子様向けは「ローン・レンジャー」である。1933年にラジオ番組で人気となり、コミックも売れた。映画、そしてテレビドラマ化され、全米中で有名になった。日本では1958年(昭和33)にフジテレビ系列で放送された。

 番組の導入部でまず草野球音のような少年を魅了した。イタリアの作曲家、ジョアキーノ・ロッシーニ(1792年―1868年)作曲の「ウィリアムテル」序曲の勇壮なBGMに乗って荒野から登場する。「ハイヨ、シルバー」――白馬にまたがる白い騎兵隊の帽子に「怪傑ゾロ」のような黒いマスクの男、それは正義の味方ローン・レンジャー(クレイトン・ムーア)だ。腰には二挺拳銃、その弾丸は銀製だった。

 愛馬の名はシルバーといい、純白の美しい野生馬でとてつもない駿足。列車もおよばないほどだ。相棒はネイティブ・アメリカンのトントで、ナイフの名手だった。しばしばローン・レンジャーの危機を救う。彼がローン・レンジャーに対して尊称のように遣う「キモサベ」という言葉は、当時少年の間で流行した。

 ちなみに「キモサベ」とは、ネイティブ・アメリカンのポタワトミ族の言葉で「信頼のおける友」という意味だそうだ。

 「拳銃無宿」は賞金稼ぎの主人公ジョッシュ・ランダルを演じたスティーブ・マックィーン(1930年―1980年)の魅力が光る。賞金首を捕らえることを生業(なりわい)とする非情さに、男の哀愁が漂っていた。この後、ハリウッド・スターへ躍進し、「荒野の七人」「大脱走」「華麗なる賭け」「ブリッド」「パピオン」などに次々と主演したのは周知のことである。

 原題は「WANTED:DEAD or ALIVE」(お尋ね者、生死を問わず)。

 ライフルのウィンチェスタの銃身を短くちょん切った「ランダル銃」の独自性も格好よく、しびれたものだ。1958年~1961年に米CBSテレビが制作、日本では1959年(昭和34)~1961年にフジテレビ系列で放送された。

 「ライフルマン」はウィンチェスタを拳銃のように扱う。レバーアクションの早撃ち・連射が見ものだった。1958年~1963年に米ABCが制作、日本では1960年(昭和35)からTBSで放送され、人気を得た。
 妻に先立たれたやもめのルーカス・マッケイン(チャック・コナーズ)と息子マーク(ジョニー・クロフォード)がノースフォークの町にやってきた。牧場が気に入り、その購入資金を稼ぐために射撃大会に出場する――これがドラマの始まりだったと記憶する。その後、父子愛を軸に無法と闘う様が描かれる。
 
 主役のチャック・コナーズは2メートルの大男で元米大リーガー。ブルックリン・ドジャースに在籍していたこともある。ドジャースはかってニューヨークを本拠地にしていて、ロサンゼルスに移転したのは1958年のことだ。

 ♪いかつい顔に やさしい目
  笑えば誰でも なつくけど
と、歌手から俳優に転じた小坂一也(1935年―1997年)が唄った日本オリジナルの主題歌「ライフルマン」もヒットした。
 
 視聴率40%を超えた「ララミー牧場」の人気も凄かった。主演のジェス・ハーパー役を演じたロバート・フラーの人気はすさまじく、1961年に来日した際には日本列島が沸いた。時の池田勇人首相が招き記念写真に納まったほどだった。
 牧場を営むシャーマン兄弟を、早撃ちと投げ縄の名手であるジェスが支える物語である。シャーマン兄弟の兄スリム役にジョン・スミス、弟でジェスを慕うアンディ役にはロバート・クロフォードが扮した。ロバート・クロフォードは「ライフルマン」のマーク役のジョニー・クロフォードの弟。

 「ハイ、またあなたとお会いしましたね」「では、さよなら、さよなら、さよなら」。番組終わりに変なおじさんが登場したのも、人気を盛り上げた。
 「小松の親分さん」のギャグで知られるタレント小松政夫の物真似の本家である映画評論家、淀川長治(1909年―1998年)である。「西部こぼれ話」のコーナー出演で、アメリカの映画・俳優の広範にわたる知識を披露した。

 上記のほかでは、ホームドラマ型西部劇「ボナンザ」、タイ・ハーディンの「ブロンコ」、クリント・ウォーカーの「シャイアン」など、1960年代の前半は毎日どこかのテレビ局でアメリカ製西部劇が放送される「百花繚乱」の時であった。

2007年12月4日火曜日

ローハイドとその背景

海外テレビ西部劇Ⅱ

 テレビ西部劇「ローハイド」は、1959年から1965年に米CBSテレビで制作され、日本では1960年(昭和35)からNET(現テレビ朝日)で放送された人気番組である。
 
 原題のRAWHIDEとは、牛を追いたてる牛皮で編んだ鞭(むち)のことだそうだ。

 隊長のギル・フェィバー役のエリック・フレミングは渋く貫禄があり、副隊長ロディ・イェーツ役のクリント・イーストウッドが魅力的で、今にして思えば、その後の大成を納得させる「輝き」があった。

 加えて主題歌を唄ったフランキー・レーンの力強い声と、「ビッシ」という鞭の音が印象的だった。曲もヒットした。あれは牛を追いたてるRAWHIDEの音だったのか。
 ♪ローレン ローレン (ビッシ)
 日本語盤を唄った伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズがスリッパをひっぱだいて鞭の効果音を出していたっけ。

 南北戦争後の1870年代、テキサス州サンアントニオからミズリー州セデリアまで3,000頭の牛を運ぶ物語だ。

 南北戦争は1861年から1865年かけて起こったアメリカの内戦(The Civil War)で、1960年に奴隷制反対のエイブラハム・リンカーンが16代大統領に就任したことが発端となった。奴隷制存続と自由貿易を主張する南部11州がアメリカ合衆国を脱退しアメリカ連合国を結成し、米英戦争(1812年~1814年)以降に工業化が進み保護貿易を唱える北部23州との対立が激化し内乱に発展した。結果は北軍の勝利となった。
 
 戦争中にテキサスを中心とした南西部地区では、ロングホーン牛を世話する若者が従軍したため、焼印をつけ市場に運ぶ働き手を失った。そのため、戦後の南西部には焼印のない牛が500万頭もいたと推測された。一方、東部では戦争により牛が出荷されず深刻な肉牛不足となった。
 肉牛需要のある東部、そして牛を供給できる南西部。東部で1頭50ドルもする肉牛は、南西部では1頭3―4ドルで調達できた。南西部の牛をかき集め焼印を押し、東部までの運送拠点である鉄道の駅まで牛を運ぶ「キャトル・ドライブ」という仕事が自然発生したのである。

 「ローハイド」はそのキャトル・ドライブを描いている。道なき道を放牧しながらの行程は約1,000マイル、期間は3-4ヶ月に及んだ。牛は食肉用なので痩せては商品価値が落ち、1日の10マイルほどしか歩かせず、体重を維持しながら牛を追い立てる。
 カウボーイの1日は日の出とともに始まり、朝食は焼きたてのビスケットとベーコンを濃いコーヒーで流し込む。昼食は朝に焼いたビスケットを馬上で食べ、夜食は「オールド・ウーマン」と呼ばれたコック(ウィッシュボン役はポール・ブレニッガ)が温かい肉の煮込みや豆料理、ビスケット、コーヒーを用意した。夜通し交替で大事な商品である牛の群れを監視し、1日の労働時間は10-12時間におよぶ過酷さだった。馬の鞍を枕に自分の毛布で身をくるみ就寝した。きつい・汚い・危険の3K仕事であった。
 3K仕事を束ねるのがトレイル・ボスである。牧場主と契約して牛の輸送を請負う。ローハイドではフェィバーさんだ。

 前回の「ガンスモーク」の項で触れたダッジシティもキャトル・ドライブの終着地で、トレイル・ボスが牛を売り、激務に耐えた数ヶ月におよぶカウボーイに報酬を支払った。労苦から開放された彼らは手にした大金をウイスキー、ギャンブル、女につぎ込んだ挙句、喧騒、諍い、果ては拳銃沙汰の決闘までが起こった。

 1880年代後半には南西部までにも鉄路は敷かれた。鉄道拠点まで苦労して牛を追う必要がなくなった。キャトル・ドライブの終焉である。

 かってぼんやり観ていたテレビ西部劇「ローハイド」も、書くにあたり調べてみると、その時代背景を知り新たな発見があった。

2007年12月2日日曜日

全米で人気ガンスモーク

海外テレビ西部劇Ⅰ

 一陣の風に根無し草が町一番の大通りを吹き抜けて行った。

 二人のガンマンが背中合わせに立ち、それぞれに前に歩みを進めた。一歩、二歩‥‥十歩目で振り返ると、ほぼ同時に拳銃の撃鉄を起こしトリガー(引き鉄)を引いた。轟音が響きわたった直後、ひとりがばったりと倒れた。
 
 生死を分けたのは一瞬の手さばきの差にすぎない。

 連邦保安官マット・ディロイは愛用の銃身の長いコルト45を収めると、酒場「ロング・ブランチ・サルーン」に向かった。足の悪い保安官助手チェスターが急いで駆け寄った。「ドッグ、一杯やろう」。決闘を心配そうに見守った老医者に声をかけた。

 酒場の前には板張りの歩道に馬つなぎの柵がある。
 その店先まで出た女主人ミス・キティが満面の笑みで勝者と介添人を迎えた。

 ダッジシティにガンスモーク(硝煙)がたちこめていた。

 「ガンスモーク」は大人向けの米国テレビ西部劇であったが、何故か好きで毎週のように観ていた。同ドラマは1955年(昭和30)にCBSテレビで製作され、20年間余続いた超人気番組だった。日本ではフジテレビ系列で1959年(昭和34)から放送されたが、米国での人気ほど支持は得られなかったと思う。
×  ×  ×

 《「24」は「かっぱえびせん」》(2007年11月6日)で書いたように、米国のテレビドラマ「24」にハマり、その後もTSUTAYAに通いSEASON6終了まで漕ぎ着けた。米国のテレビドラマに対する、このような熱気は、昭和30年代以来ではないだろうか。
 そういえば、あのころ西部劇を毎日のように観ていたような気がする。

×  ×  ×
 「ロング・ブランチ・サルーン」は酒場兼ホテルで実在し、歴史に名を刻むほどアメリカでは有名だそうだ。ミス・キティは実在の人物ではない。
 「ガンスモーク」の配役
・保安官マット・ディロン(ジェームズ・アーネスト)
・酒場の女主人ミス・キティ(アマンダ・ブレイク)
・医者ドック(ミルバーン・ストーン)
・助手チェスター(デニス・アーネスト)
 ドラマの核は撃ち合いより、人物の心情に力点が置かれたいたように思う。

 カンザス州ダッジシティは1870年代から1880年代にかけ、無法の町であった。軍隊も法も通じない。ならず者が横行していた。

 そのダッジシティでワイアット・アープの助手を務めたバット・マスターソンを主人公にした「バット・マスターソン」もよく観た。最新のスーツを着込み、ダイヤモンドのネクタイピンを着け山高帽にステッキを持った西部一の伊達男と言われた。
 NBCで制作され、日本ではNET(現テレビ朝日)で放送された。マスターソン役は、後に「バークにまかせろ」に主演したジーン・バリーだった。まさに適役だった。
 
 「拳銃無宿」「ライフルマン」「ローハイド」「ララミー牧場」などの話は次回に持ち越す。