2007年11月15日木曜日

ジャイアンツ・馬場正平Ⅳ

 1958年(昭和33)新人の長嶋茂雄の人気は絶大だった。東京六大学野球リーグで首位打者2回、ベストナイン連続5回、通算最多の8本塁打と大活躍し、立教大三羽烏といわれた杉浦忠(南海)、本屋敷錦吾(阪急)とともにプロ入りした。

 兵庫・明石キャンプでは長嶋の行くところカメラが追いかけた。長嶋が巨人のユニホームを着て初めてキャッチボールをした相手が、4年目の馬場であった。絵になる構図にシャッターが一斉に切られた。

 馬場は20歳になっていた。前年一軍登板を果たし、いよいよ一軍定着の夢を壊したのは脳腫瘍であった。また、杉下茂が200勝を飾った巨人―中日戦後に右ひじに痛みを感じていた。1958年のキャンプは、病み上がりの状態で始まり、レギュラーシーズンに入っても全力投球ができないまま二軍生活に明け暮れた。それでも二軍では実力は段違いで10連勝を飾り3年連続で最優秀投手(二軍では1956年12勝1敗、1957年13勝2敗)に選出された。
 このころから「二軍のエース」と影でいわれ、二軍ズレした選手というレッテルが貼られたようだ。そして、甲子園のセンバツ優勝投手でありノーワインドアップで投げていた王貞治が早稲田実業高から入団した1959年(昭和34)も一軍からの「お呼び」はなく、オフに解雇通告を受けることになった。馬場21歳の秋であった。

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 馬場正平の読売巨人軍入団までの略歴を簡単に記す。
 1938年(昭和13)1月23日、新潟県三条市西四日市町で青果店を営む父・一雄、母・ミツの次男として生まれる。長男は正平5歳のときにガダルカナルで戦死、姉2人。少年時代から野球に親しむ。
 1953年新潟県立三条実業高校工業化に入学。入学当初、履けるスパイクがないため硬式野球部を諦め、美術部に所属する。特注の大きなスパイクを誂え、高校2年の春に野球部入部。夏の甲子園予選は無念のサヨナラで敗退した。
 その後、巨人・源川英治スカウトに勧められ、子供のころから巨人ファンだったことをあり入団を決意し、1955年(昭和30年)1月三条実業高を中退する。
 同月に高校を中退、読売と契約した。巨人の入団条件は支度金20万円・月収1万2000円で、背番号は「59」となった。

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 5年目のリストラ。月収は1万2000円から徐々に上がり5万円になっていたが、突然無職になった。入団時のヘッドコーチの谷口五郎が大洋に移籍が決まり、つてを頼り大洋の入団テストを受けることになった。1960年(昭和35)合格の内定をもらった矢先に風呂場で転倒し、ガラスで左ひじの腱を切り、出血し救急車で運ばれた。あれほど執着していたプロ野球選手生命を絶たれたのだった。
 余談だが、もし大洋入団が決まっていたら、三原脩監督が率いて日本一に輝いた優勝メンバー(日本シリーズで大毎に4連勝)に加わっていたかもしれない。詮無い話である。

 それから2か月余経った4月11日のことである。東京都中央区日本橋浪花町の日本プロレス・センターに、ブラジルから帰国したばかりの「日本プロレス界の父」というべき力道山を訪ねた大男の姿があった。野球を断念しプロレス界に身を投じることを決断した馬場正平、後のジャイアント馬場であった。
 巨人5年間・3試合のプロ野球成績は、プロレス38年・5,759試合を闘い抜いた偉大な巨人のサクセスストリー「序章」として記憶に留めておきたい。(完)

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