2007年10月8日月曜日

原辰徳:巨人の夜明けⅣ

 原辰徳の「長い1日」を重ねて追う。
 現在巨人の監督を務める辰徳の手本はだれだろうか。采配、起用法、作戦、選手管理・育成、マスコミ対応など監督の仕事の範疇は広く、複雑で、プロ野球監督は人生をかける仕事でもある。辰徳が人間的にも尊敬できなければ手本としない。それは間違いなく原貢と藤田元司の二人である。
 二人の師匠、貢と藤田の接点を1980年ドラフト指名から24年前の1956年(昭和31)に見出すことができる。
 昭和31年社会人野球京都大会。東洋高圧大牟田に所属していた貢は打撃好調で首位打者に輝いている。貢は、当時ノンプロ実力ナンバーワン投手である日本石油の藤田と対戦し、なんとセンター越えの長打を放ったのだ。藤田といえば、六大学野球の慶応大学で31勝をあげながら優勝できず悲運のエースといわれ、日本石油に入社してからもこの年の都市対抗野球では3完封など獅子奮迅の活躍で日本一に輝いている。翌年巨人入団。17勝を稼ぎ新人王を獲得している超ビッグネームである。一方、貢といえば東洋高圧大牟田の主力打者ではあったが、中央球界では無名の存在である。まさに同じ野球選手とはいえ「月とすっぽん」ほどに差があった。
 辰徳が巨人入団した1981年2月、宮崎キャンプを訪れた貢は藤田監督と会食をともにしたが、藤田も京都大会のことをよく覚えていて昔を懐かしんでいる。さらに1984年、藤田のひとり娘の結花と結婚したのは、ドラフト当日に貢、辰徳親子と監督室に同席した助監督の岩井美樹(国際武道大学野球部監督)だった。貢―辰徳―藤田の因縁は深い。

 藤田と対戦した翌年の1957年、23歳の貢は勝代と結婚した。辰徳は1958年(昭和33)7月22日に産声を上げた。5歳下に妹の詠美がいる。

 2007年11月26日午前11時30分。相模原市東林間の原家。居間で親しい友人夫妻とドラフト会議のテレビ中継を凝視していた母・勝代は、巨人指名に小躍りして喜んだ。早く辰徳に会いたいと思った。家の周囲はテレビ局、新聞社の取材が取り巻いている。外出すればマスコミとのカーチェイスが待っている。それは危険であり喧騒は避けたい。勝代は脱出計画を練った。
 まず懇意にしている東海大相模高に程近い寿司店「六ちゃん」に電話した。原家は東林間駅から徒歩5分の住宅街にある。通りに面しているが、裏は隣家と接している。通りには報道陣はいるが、裏は無警戒である。スカーフを被り、顔を隠した勝代は2メートルほどの垣根を乗り越え、隣家をすり抜け裏通りに出た。そこには「六ちゃん」差し回しの車が待っていた。平塚市土屋の合宿所を目指した。
 同じころ、辰徳は勝代に会い喜びを分かち合いたいと願った。記者会見が終わると、貢とふたりで昼食もとらず東林間の自宅に急いだ。ふたりは勝代の脱出を知らない。
 親子のすれ違いが起こった。
 結局、親子対面は午後4時近くになってしまった。
 「ただいまッ」
 息子を待っていた勝代が玄関に飛び出し、抱きついた。
 妹の詠美も「お兄ちゃん」とふたりに駆け寄った。
 家族団欒(だんらん)の間もなく、巨人系スポーツ新聞社の原番記者が辰徳を隠れるように家から連れ出し、その新聞社内で現役を引退し助監督になった王貞治との対談を企画した。その後はテレビ取材と、家族4人が水入らずの状態になったのは深夜である。

 11月27日午前6時。初冬の凛とした冷気が相模原市東林間の原家を包んでいた。郵便受けにどっさり新聞が配達された。「東海大・原は巨人が指名」の大見出しが躍っていた。原家では神奈川新聞と日刊スポーツ新聞の2紙を購読していたが、ドラフトの翌朝には手回しよく読売新聞と報知新聞が届けられていた。
 大山詣から始まったドラフトの長い1日――「24-TWENTYFOUR-」が終わろうとしていた。(完)

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