2007年12月31日月曜日

瞼の裏で咲いている1958

昭和33年編

 1958年・昭和33年は話題の多い年だった。
 長嶋茂雄のプロ野球デビュー、石原裕次郎人気爆発、皇太子と正田美智子さんの婚約、インスタントラーメン発売、フラフープの大流行、月光仮面のテレビドラマ開始、1万円札発行、岩戸景気始まる、東京タワーの完成、など盛りだくさんである。

 立教大の長嶋茂雄は、前年の六大学野球秋季リーグ戦で通算8本の本塁打を放ち鳴り物入りで読売ジャイアンツに入団した。ゴールデンボーイと言われた。そして迎えた国鉄スワローズとの開幕戦、プロ野球を代表する大投手の金田正一と対戦し、4打席4三振の苦いデビューとなった。これはもはや周知の事実であり、伝説となっている。
 その開幕戦(後楽園球場)をテレビで観た。金田は調子よく、高めの速球が伸びていた。長嶋は力いっぱいのスイングで応じたが、ファールが精一杯、前に打球は飛ばなかった、と記憶している。

 当時の巨人の開幕オーダー(読売入団までの経路)=監督経験
(左) 与那嶺 要(フェリント高―3Aサンフランシスコ)=中日監督
(遊) 広岡 達朗(三津田高―早稲田大)=ヤクルト、西武監督
(三) 長嶋 茂雄(佐倉一高―立教大)=巨人監督
(一) 川上 哲治(熊本工)=巨人監督
(右) 宮本 敏雄(ボールドウィン高―ハワイ朝日)
(中) 岩本 堯 (田辺高―早稲田大)=近鉄監督
(ニ) 土屋 正孝(松本深志高)
(捕) 藤尾 茂 (鳴尾高)
(投) 藤田 元司(西条高―慶応大―日本石油)=巨人監督

 長嶋は3番でスタメン出場している。早稲田実の王貞治が入団するのは翌昭和34年で、「不動の4番」であり「打撃の神様」川上哲治はこの年限りで現役を引退する。それにしても豪華なオーダーで、その後、宮本、土屋、藤尾を除く6人がプロ野球監督を務めることになる。
 試合結果は金田の好投の前に打線は沈黙し、1―4で読売は敗れている。勝利投手は金田、敗戦投手は藤田元司だった。

 長嶋は只者ではない。デビューの失敗からすぐさま立ち直った。シーズン中盤戦からは川上に替わり4番に座り、29本塁打、92打点で2冠に輝き、打率.305で2位(首位打者は阪神の田宮謙次郎)の成績を残した。実は30本の本塁打を放ったが、9月の広島戦で一塁を踏み忘れるミスで1本を帳消しにしている。37盗塁で併殺打はわずか3本と、その俊足ぶりが目立つルーキーだった。
 
 セ・リーグは読売ジャイアンツ、パ・リーグは西鉄ライオンズが優勝し、日本シリーズは西鉄が3連敗のあと4連勝し日本一に輝いた。鉄腕・稲尾和久(1937年―2007年)は語り草となる奮投をみせひとりで4勝を上げ、「神様・仏様・稲尾様」と言われた。 シリーズMVPは当然ながら稲尾。

・昭和33年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=藤田元司(巨人)・稲尾和久(西鉄)
新人王=長嶋茂雄(巨人)・杉浦忠(南海)
首位打者=田宮謙次郎(大阪)・中西太(西鉄)
本塁打王=長嶋茂雄(巨人)・中西太(西鉄)
打点王=長嶋茂雄(巨人)・葛城隆雄(大毎)
最優秀防御率=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最多勝=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最優秀勝率=藤田元司(巨人)・秋本祐作(阪急)

 高校野球では、春の選抜大会が済々黌(熊本)、夏の選手権大会は柳井(山口)が優勝した。なかでも夏の甲子園大会では、徳島商のエース板東英二(中日)の好投が印象に残る。準決勝の魚津の村椿輝男との投げ合いは見事で延長18回を0-0と決着がつかず、再試合となり徳島商が3-1で勝利した。板東はこの大会83の奪三振記録を樹立した。記録は現在も破られていない。
 板東は魚津の延長18回で25奪三振、再試合でも9三振を奪い奪三振は80とした。さすがに決勝の柳井戦では連投の疲労が出て、0―7と敗れ、奪った三振も3と激減したが、大会通産の83奪三振は球史に燦然と輝く。
 速球一本勝負の小気味よい投球をする球児だった。テレビに映し出されるお笑いタレントのような板東とは、明らかにイメージが違うなぁ。

 昭和33年編は年を挟んで2回に分けて記述します。

2007年12月27日木曜日

続・瞼の裏で咲いている1957

昭和32年編
 
 今回は書き残した1957年・昭和32年の歌謡曲編である。

 日本の石原裕次郎の人気のアメリカ版がエルヴィス・プレスリー(1935年―1977年)だったと思う。下半身を振って歌う姿におとなたちは眉を顰(ひそ)めたが、若者の支持は絶大だった。
 1957年・昭和32年には、プレスリーは前年の「ハートブレーク・ホテル」に続き「監獄ロック」をヒットさせた。彼のロックンロールは世界を席捲し日本にも飛び火し、平尾昌章、ミッキー・カーティス、山下敬二郎の「ロカビリー3人男」を生み、生ロックを鑑賞できるカフェ、ジャズ喫茶を誕生させた。
 プレスリー以前に江利チエミの「テネシーワルツ」や雪村いづみ、旗照夫、ペギー葉山などがジャズを日本語と原語の混じる訳詞で歌唱していたが、俄然、翻訳詞が流行った。

 「ハートブレーク・ホテル」は小坂一也が訳詞で歌った。同年、ハリー・ベラホンテの「バナナ・ボート」は浜村美智子が歌い、大ヒットした。余談だが、2007年11月24日・25日に放送されたビートたけし主演のテレビドラマ「点と線」(松本清張原作)の劇中で、ラジオから浜村美智子の
 ♪デーオ
が聞こえてきて、昭和32年当時のドラマ設定を印象付けるBGMに使っていた。
 美輪明宏(当時は丸山明宏)の「メケメケ」も流行り、その訳詞は美輪自身によるものだった。

 裕次郎、プレスリー、ロカビリーと若者文化隆盛のなか、浪曲師から歌謡曲に転じた三波春夫(1923年―2001年)デビューした。「チャンチキおけさ」(門井八郎作詞・長津義司作曲)、「船方さんよ」(門井八郎作詞・春川一夫作曲)をヒットさせた。路地裏の酒場で見知らぬ同士が小皿を叩きながら、おけさを歌い故郷を偲ぶ。

 昭和30年代は東京と地方の両極を唄った時代といえる。経済成長の担い手として地方から東京に出るもの、地方に留まるもの、都会の街っ子――それぞれの想いが綴られ曲となった。

 ジャズ歌手から歌謡曲に移ったフランク永井は都会派歌謡の旗手となった。「東京午前三時」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)、「夜霧の第二国道」(宮川哲夫作詞・吉田正作曲)が売れた。

 ヒット曲の“常連組”美空ひばりは「港町十三番地」(石本美由起作詞・上原げんと作曲)、島倉千代子は「東京だヨおっ母さん」(野村俊夫作詞・船村徹作曲)、春日八郎は「あん時ゃどしゃぶり」(矢野亮作詞・佐伯としを作曲)を歌った。
 「東京だヨおっ母さん」は東京に住む娘が田舎の母を呼び東京見物するシーンが目に浮かぶ。皇居の二重橋で記念写真を撮り、靖国神社では英霊となった兄を偲び、浅草の観音様をお参りする。
 まるで東京名所巡りのはとバスだが、バスといえば「東京のバスガール」(丘灯至夫作詞・上原げんと作曲)をコロムビア・ローズがヒットさせた。また鼻にかかった声で藤島桓夫が歌った「お月さん今晩は」(松村又一作詞・遠藤実作曲)が印象に残る昭和32年の歌謡界であった。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2007年12月25日火曜日

瞼の裏で咲いている1957

昭和32年編

 1957年・1958年にかけてスターからカリスマに成長した石原裕次郎を特集したが、今回は裕次郎を除く1957年・昭和32年編を書きたい。
×  ×  ×

 スーパースターの蕾(つぼみ)がいた。
 早稲田実業高の2年生・王貞治である。後に読売ジャイアンツに入団し、868本の通算本塁打を記録して「世界の王」となったのは周知の事実であるが、有名球児―巨人入団への足掛りとなった「甲子園の王」を書く。

 昭和31年第38回高校野球選手権大会(夏の甲子園)に王貞治は1年生ながら外野手兼投手として出場した。当時の全国での予選は1,739校が出場し、晴れ舞台・甲子園へ23校が駒を進めていた。王にとって初めての甲子園である。
 早稲田実は初戦の新宮(和歌山)を大井の好投で2-1と下し、迎えた2回戦で岐阜商(岐阜)と対戦した。相手の岐阜商には大会屈指の左腕、清沢忠彦(慶応大)がいた。宮井勝成監督(後に中央大監督)は1年生の王をマウンドに送った。
 王は制球に苦しみ4回途中で6点を失い、KOされた。球威はあるものの四球から自滅した。試合も1-8の大敗だった。徳武定祐(早稲田大―国鉄)、醍醐猛夫(毎日)、王という大型打者を揃えた早稲田実業打線も好投手清沢の前に沈黙した。

 帰京した王に宮井監督はノーワインドアップ投法を試みる。甲子園での不出来な内容原因は制球難にある。宮井は大型左腕・王を擁して全国制覇の夢を描いていた。剛球と長打力を兼ね備えた王のような球児は、めったに現れないことは承知していた。千載一遇の好機の到来と踏んでいた。
 宮井は名伯楽と言われ、早稲田実業で徳武、醍醐、中央大に移ってからも武上四郎(ヤクルト)、末次利光(読売)、高橋良昌(東映―読売)、高木豊(横浜)など名選手を輩出している。選手の鑑定眼は確かである。

 両手を大きく振りかぶって投げるワインドアップに対して、両手を胸のあたりに置き、振りかぶらず投げる方法をノーワインドアップといい、ワインドアップに比べ球威は落ちるが、制球がまとまるのが利点の投法である。

 秋から冬とノーワインドアップ投法に磨きをかけた王は、2年生となり選抜大会と選手権大会に春夏ともに甲子園に駒を進めることになる。昭和32年のことだ。
 同年の第29回選抜大会(出場20校)に出場した早稲田実業2年生の王はエースで4番の中心選手だった。新投法が冴えた。初戦の寝屋川(大阪)を1安打完封の1-0で下した。準々決勝の柳井(山口)を4-0、準決勝の久留米商(福岡)を6-0と3試合連続完封を果たした。
 決勝は高知商(高知)と対戦となった。相手のマウンドには左腕の小松俊広(読売)がいた。王は久留米商戦で左手中指の爪を割り、投げたボールの血の跡は見えるほどだったが、8回に3点を失ったものの気力をふりしぼり完投を果たした。紫紺の大旗を初めて関東にもたらした。「血染め」の日本一であった。

 その年の夏の選手権大会(全国予選1,769校・出場23校)では、初戦(2回戦)の寝屋川(大阪)戦では1-0、延長11回ノーヒットノーランの離れ業をやってのけた。準々決勝の法政ニ(神奈川)には1―2の惜敗を喫した。深紅の大旗は広島商に輝いた。
 昭和33年の春の選抜大会(出場30校)では、初戦(2回戦)の御所実業(奈良)、準々決勝の済々黌(熊本)に2試合連続の本塁打を記録し、後の世界のホームラン王の片鱗を見せたのだった。
 ちなみに同年夏の東京大会は明治高と決勝で対戦、延長12回5-6と逆転負けを喫し5季連続の甲子園出場の夢を絶たれた。

 当時、野球と映画が最大の娯楽であった。草野球音は野球少年であり、映画好きだった。早実の王は憧れだった。王が読売入団し、物になったのは4年目(1962年)で「一本足打法」を早稲田実業の先輩である荒川博コーチにすすめられ採りいれ、38本塁打、85打点で2冠を獲得したことが契機になった。「ノーワインドアップ投法」「一本足打法」と、王は「変則」技術で大成への道を歩んだ。

 プロ野球はセ・リーグが読売ジャイアンツ、パ・リーグは西鉄ライオンズが優勝し、日本シリーズは西鉄が稲尾和久の活躍で日本一を制している。シリーズMVPは大下弘(西鉄)だった。

・昭和32年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=与那嶺要(巨人)・稲尾和久(西鉄)
新人王=藤田元司(巨人)・木村保(南海)
首位打者=与那嶺要(巨人)・山内和弘(毎日)
本塁打王=青田昇(大洋)佐藤孝夫(国鉄)・野村克也(南海)
打点王=宮本敏雄(巨人)・中西太(西鉄)
最優秀防御率=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最多勝=金田正一(国鉄)・稲尾和久(西鉄)
最優秀勝率=木戸美摸(巨人)・稲尾和久(西鉄)
 
昭和32年の日本映画の佳作を挙げる。
 寡作の黒澤明監督(1910年―1998年)が珍しく「蜘蛛巣城」(東宝)「どん底」(東宝)の2本も撮っている。いずれも主演は三船敏郎(1920年-1997年)である。
 灯台を守る夫婦(佐田啓二と高峰秀子出演)を描いた「喜びも悲しみも幾年月」(松竹・木下恵介監督)が印象に残る。
 ♪おいら岬の 灯台守は
と、声量豊かに歌う若山彰(1927年―1998年)はヒットした。木下恵介(1912年―1998年)の実弟・木下忠司が作詞・作曲を手がけている。その他では「米」(東映・今井正監督)=江原真二郎出演、などがある。
 洋画では、「道」(フェデリコ・フェリーニ監督)、「翼よ!あれが巴里の灯だ」(ビリー・ワイルダー監督)=ジェームス・ステュワート出演、「戦場にかける橋」(デビッド・リーン監督)=ウィリアム・ホールデン出演、などがある。

 昭和32年編は2回に分けて記述します。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2007年12月23日日曜日

瞼の裏で咲いている裕次郎

昭和32年・33年編

 石原裕次郎(1934年―1987年)を1957年から1598年にかけて特集する。
×  ×  ×

 導火線に火がついた。巨大な爆弾が弾ける予感がした。

 石原裕次郎ブームは1957年・昭和32年から始まる。同年9本の映画に出演している。
・お転婆三人姉妹・踊る太陽(日活・井上梅次監督)=ペギー葉山、芦川いづみ
・ジャズ娘誕生(日活・春原政久監督)=江利チエミ、青山恭二
・勝利者(日活・井上梅次監督)=三橋達也、北原三枝
・今日のいのち(日活・田坂具隆監督)=北原三枝、津川雅彦
・幕末太陽伝(日活・川島雄三監督)=フランキー堺、左幸子
・海の野郎ども(日活・新藤兼人監督)=殿山泰司、西村晃
・鷲と鷹(日活・井上梅次監督)=三國連太郎、浅丘ルリ子
・俺は待ってるぜ(日活・蔵原惟繕監督)北原三枝、二谷英明
・嵐を呼ぶ男(日活・井上梅次監督)北原三枝、芦川いづみ

 「嵐を呼ぶ男」は昭和32年の12月歳末に正月映画として封切りしたので、昭和33年に観た人が多かったろう。裕次郎というマグマが弾け、列島を揺るがす大爆発を起こしたのは翌33年を待つことになる。

 「狂った果実」(昭和31年)で主役の座に就いた裕次郎は、「太陽族」のイメージが重なり、その不良性が若者の心を捉えた。上原謙(1909年―1991年)のような従来の端正な顔立ちの二枚目と違い、八重歯に短髪、鋭い目に輝きを放ち、やたら足の長い男が銀幕に現れると、溜め息と羨望が館内に満ちるのだった。

 「勝利者」はボクサー役で、北原三枝の役名は「白木真理」だったと記憶する。白木マリはこれを芸名としたという。「幕末太陽伝」は川島雄三監督作品で高い評価がある名画だが、主役は居残り佐平次役のフランキー堺で、裕次郎は高杉晋作役で登場する。
 「俺は待ってるぜ」はスチール写真が秀逸だ。夜霧の波止場で、白いトレンチコートの襟を立て、舫杭に片足をのせ佇む姿をローアングルで足の長さを強調して撮った写真だが、裕次郎のポーズは実に決まっている。脚本は石原慎太郎。

 裕次郎をスーパースター・カリスマにしたのは「嵐を呼ぶ男」である。ドラマーの国分正一の裕次郎は格好よかったなぁ。渡辺プロの渡辺美佐をモデルにしたといわれる辣腕の女マネジャー役に北原三枝。恋敵でドラム合戦をするチャーリー桜田役にジャズ歌手の笈田敏夫という配役だった。暴漢に襲われ手を怪我した主人公が、ドラムを叩けなくなり、マイクを引き寄せ唄う。
 ♪おいらはドラマー やくざなドラマー
 ドラム合戦のクライマックス――その瞬間、裕次郎の颯爽たる様に衝撃を受け身震いした。映画館を出る草野球音は裕次郎になり切っていた。

 裕次郎ブーム頂点の1958年・昭和33年映画作品
・夜の牙(日活・井上梅次監督)=月丘夢路、浅丘ルリ子、森川信
・錆びたナイフ(日活・舛田利雄監督)=北原三枝、小林旭、宍戸錠、杉浦直樹
・陽のあたる坂道(日活・田坂具隆監督)=北原三枝、千田是也、小高雄二、川地民夫
・明日は明日の風が吹く(日活・井上梅次監督)=北原三枝、金子信雄
・素晴らしき男性(日活・井上梅次監督)=北原三枝、月丘夢路、白木マリ
・風速40米(日活・蔵原惟繕監督)=北原三枝、渡辺美佐子、川地民夫
・赤い波止場(日活・蔵原惟繕監督)=北原三枝、中原早苗、大坂志郎
・嵐の中を突っ走れ(日活・蔵原惟繕監督)=北原三枝、市村俊幸、白木マリ
・紅の翼(日活・中平康監督)=芦川いづみ、中原早苗、二谷英明

 「夜の牙」は遺産相続を巡るサスペンスで、犯人は意外や和尚役の森川信であった。「錆びたナイフ」は石原慎太郎の脚本で、杉浦直樹とのアクションシーンの迫力が凄かった。「素晴らしき男性」は裕次郎には珍しいミュージカル映画。「風速40米」は、ワイシャツをボタンで締めず胸下で縛ったファッションが人目を惹いた。「赤い波止場」はピストル名手で“左射ちの二郎”役、白いスーツ姿の格好よさにしびれたねぇ。「紅の翼」は八丈島の破傷風の患者に血清を届けるパイロット役で、セスナにギャングの二谷英明が乗り合わせるストーリーだったと記憶する。

 「陽のあたる坂道」は石坂洋次郎原作で、異父兄弟役の川地民夫のデビュー作。川地は神奈川県逗子の裕次郎の近所に住んでいた縁で出演したという。石坂洋次郎(1900年―1986年)作品は多い。「乳母車」(1956年=田坂具隆監督)で始まり、「若い川の流れ」(1959年=田坂具隆監督)、「あじさいの歌」(1960年=滝沢英輔監督)、「あいつと私」(1961年=中平康監督)、「若い人」(1962年=西河克己監督)と6本も演じている。「あいつと私」と「若い人」は吉永小百合との共演作品である。

 瞼の裏で裕次郎の赤い大輪が咲き誇っている。

 歌謡曲の世界でも、裕次郎ブームは昭和32年・33年、列島を席捲した。
前年「狂った果実」(石原慎太郎作詞・佐藤勝作曲)で歌手デビューした石原裕次郎は、昭和32年ヒット曲を連発した。「俺は待ってるぜ」(石崎正美作詞・上原賢六作曲)「錆びたナイフ」(萩原四郎作詞・上原賢六作曲)で、ともに曲が売れ映画化となった。「錆びたナイフ」(日活・舛田利雄監督)は翌1958年(昭和33)の上映。
 昭和33年のヒット曲は「嵐を呼ぶ男」(井上梅次作詞・大森盛太郎作曲)、「鷲と鷹」(井上梅次作詞・萩原忠司作曲)、「風速40米」(友重澄之介作詞・上原賢六作曲)、「口笛が聞こえる港町」(猪又良作詞・村沢良介作曲)がある。

 歌う映画スターの先輩には高田浩吉(1911年―1998年)、鶴田浩二(1924年―1987年)がいるが、裕次郎以降に日活では主演俳優が主題歌を吹き込むことが定着した。小林旭、赤木圭一郎(1939年―1961年)が裕次郎に続くことになる。
 
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2007年12月20日木曜日

瞼の裏で咲いている1956

昭和31年編

 この歌は変わっているぞ。と、子供心に思ったものだ。
 ♪でしゃばりお米(よね)に手を引かれ
と歌った鈴木三重子(1931年―1987年)の「愛ちゃんはお嫁に」という歌謡曲である。1956年・昭和31年、作詞は原俊雄、作曲は村沢良介の手で世に出てヒットした。鈴木三重子は同年のNHK紅白歌合戦に出場している。

 花嫁さんは「愛ちゃん」で、婿さんは「太郎」という。文金高島田に白無垢の愛ちゃんの手を引いて先導するのは、「お米」という。どうやら近所のおばさんで、「でしゃばり」ときた。歌詞のなかで固有名詞が特定されるリアルさと面白さが、妙に印象的だった。
 
 歌舞伎の演目、青砥稿花紅彩画(白浪五人男)を題材とした「弁天小僧」(1955年)をヒットさせた三浦洸一の「東京の人」(1956年)も気になった。
 ♪並木の雨の トレモロの
おい、「トレモロ」ってなんだよ?

 当時知らないままにほったらかしにしていたものを、今頃になってデジタル大辞泉(三省堂)で引く。

トレモロ<イタリアtremolo>同音または異なる2音を、急速に反復させる奏法。主に弦楽器で行う。震音。

 歌詞を読むと、東京=都会の女が恋に悩む姿が浮かぶ。銀座のカフェのテラスで小雨に打たれながら、雨音を聴いている。恋に忍び泣いているのだ。作詞は佐伯孝夫、作曲は吉田正の都会派歌謡である。
 50年来の疑問が氷解した(笑)。

 佐伯―吉田コンビは同年、「哀愁の街に霧が降る」(山田真二・唄)=2007年10月26日の項=を出している。

 美空ひばり(1937年―1989年)の「波止場だよお父つぁん」は名曲だと、思った。年老い目が見ない父の手を引く健気な娘。父は元マドロスで、海の郷愁を忘れられない。ハマっ子のひばりの情感たっぷりの歌唱にしびれたものだが、いつしか歌わなくなってしまった。
 どうしたのものだろうか?
 この疑問はすぐに解決した。放送コードに歌詞がひっかかり歌えなくなったと教えてもらった。目の不自由な人を指す差別表現が1番の歌詞にあったのだ。

 作曲は船村徹で、問題の作詞をしたのは西沢爽(1919年―2000年)であった。西沢は島倉千代子の「からたち日記」、美空ひばりの「ひばりの佐渡情話」、小林旭の「さすらい」などを作詞している。放送されない名曲である。

 前年デビューした三橋美智也(1930年―1996年)と島倉千代子が1956年に、ヒット曲を連発した。「おんな船頭唄」で世に出た三橋は「リンゴ村から」(矢野亮作作詞・林伊佐緒作曲)「哀愁列車」(横井弘作詞・鎌多俊與作曲)、「この世の花」の島倉は「逢いたいなぁあの人に」(石本美由紀作詞・上原げんと作曲)、「東京の人さようなら」(石本美由紀作詞・竹岡信幸作曲)を出しスター歌手街道を突っ走った。
 「哀愁列車」に出てくる
 ♪未練心につまづいて
という歌詞は巧い表現だと、ませたガキの球音は感じ入った。

 1955年デビュー組には大津美子もいた。「東京アンナ」で歌唱を印象付けた大津は結婚式の定番「ここに幸あり」(高橋掬太郎作詞・飯田三郎作曲)をヒットさせた。
 女の強さを歌ったコロムビア・ローズの「どうせひろった恋だもの」(野村俊作詞・船村徹作曲)、曽根史郎の「若いお巡りさん」(井田誠一作詞・利根一郎作曲)、青木光一の「早く帰ってコ」(高野公男作詞・船村徹作曲)などのメロディがラジオから流れていた。

 前年後半期の芥川賞を獲得した石原慎太郎の小説「太陽の季節」が映画化された。日活製作で古川卓也監督、長門裕之が主演している。この映画で原作者の慎太郎の弟、石原裕次郎がデビューし、「狂った果実」(日活・中平康監督)では主演を果している。アロハシャツにサングラスで湘南を闊歩した「太陽族」、短髪の「慎太郎刈り」など流行語になった。
 その他の映画では、竹山道雄の小説の映画化「ビルマの竪琴」(日活・市川崑監督)=三國連太郎、安井昌二出演、「夜の河」(大映・吉村公三郎監督)=山本富士子出演、「赤線地帯」(大映・溝口健二監督)=京マチ子出演、「猫と庄造と二人のをんな」(東京映画=東宝・豊田四郎監督)=森繁久弥出演、などがある。
 
 1956年・昭和31年はオーストラリアでメルボルン五輪が開催された。南半球初のオリンピックであった。日本は4つの金、10個の銀、5個の銅メダルを獲得した。
 “潜水泳法”の古川勝が男子競泳200M平泳ぎで金メダルに輝いた。その後、潜水泳法は国際水泳連盟のルール改正で禁止された。その他の金メダリストは、小野喬(男子体操・鉄棒)、池田三男(レスリング・フリースタイル・ウェルター級)、笹原正三(レスリング・フリースタイル・フェザー級)。笹原は強かったなぁ。
 惜しくも銀メダルとなったが、山中毅が男子競泳400Mと1500Mで、地元オーストラリアのマレー・ローズと競り合ったのが印象的だった。

 プロ野球ではセ・リーグが読売ジャイアンツ、パ・リーグが西鉄ライオンズはリーグ優勝し、日本シリーズは西鉄が4勝2敗で制した。 シリーズMVPは豊田泰光(西鉄)だった。

・昭和31年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=別所毅彦(巨人)・中西太(西鉄)
新人王=秋山登(大洋)・稲尾和久(西鉄)
首位打者=与那嶺要(巨人)・豊田泰光(西鉄)
本塁打王=青田昇(大洋)・中西太(西鉄)
打点王=宮本敏雄(巨人)・中西太(西鉄)
最優秀防御率=渡辺省三(大阪)・稲尾和久(西鉄)
最多勝=別所毅彦(巨人)・三浦方義(大映)
最優秀勝率=堀内庄(巨人)・植村義信(毎日)

 高校野球は春の選抜大会が中京商(愛知)、夏の選手権大会は平安(京都)が大旗を握った。春夏ともに準優勝の岐阜商の左腕・清沢忠彦(慶応大)の投球が光った。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2007年12月18日火曜日

瞼の裏で咲いている1955

 歌は世に連れ、世は歌に連れ
――歌謡曲、映画、野球界などの記憶を思い起こしながら、多感だったあの頃を、昭和30年代を振り返る。草野球音の瞼の裏で花のように咲いている追想を書いてみたい。よって年ごとを追う連作としたい。題して「瞼の裏で咲いている‥‥」。

 昭和20年、太平洋戦争が終わった。敗戦の痛手や食糧難と貧困にわれわれ日本人が真正面からぶつかった復興期の20年代。日本株式会社が遮二無二突っ走った経済高度成長期の30年代。そして昭和39年の東京五輪で「世界のJAPAN」となった。
 酔眼朦朧かつ痴呆気味の現在と違い、純真無垢だった頃(笑)、記憶も鮮明だった。

昭和30年編

 春日八郎の「別れの一本杉」は、球音のような小学低学年の子供も歌うほどヒットした。1955年(昭和30)、高野公男作詞・船村徹作曲により世に出た。
 ♪泣けた 泣けた
 こらえきれずに 泣けたっけ
 高度成長期の日本株式会社は労働力の需要期であった。この頃から集団就職の列車は上野を目指したのだろう。東京に人は集まった。俺は上京したが、結婚を誓ったあの娘は故郷に残った。村のはずれの一本杉まで見送った。
 3番の歌詞の出てくる、
 ♪嫁にもいかずに この俺の
 帰りひたすら 待っている
 あの娘はいくつ とうに二十歳(はたち)はよう
 過ぎたたろうに
適齢期を過ぎたあの娘が待っている故郷はたまらなく切ない。

 高野公男(1930年―1955年)は薄命の人だった。「別れの一本杉」がヒットして間もなく肺結核に侵され、発売された昭和30年、25歳の若さで帰らぬ人となる。船村徹とは売れない貧乏学生の時からの親友であった。彼の短い生涯は翌1956年、松竹で映画化されている。
 春日八郎(1924年―1991年)はすでに1952年「赤いランプの終列車」、1954年「お富さん」のヒットで一流歌手であったが、「別れの一本杉」でその地位を不動にした。昭和30年には三橋美智也(1930年―1996年)が「おんな船頭唄」(西條八十作詞・万城目正作曲)で、島倉千代子が「この世の花」(藤岡哲郎作詞・山口俊郎作曲)でデビューを飾っている。

 ♪田舎のバスは おんぼろ車
中村メイコの「田舎のバス」(三木鶏郎作詞・作曲)が明るく歌い、ビブラートが特徴的でかって歌まねの定番であった菅原都々子の「月がとっても青いから」(清水みのる作詞・陸奥明作曲)、宮城まり子の「ガード下の靴みがき」(宮川哲夫作詞・利根一郎作曲)、鶴田浩二の「赤と黒のブルース」(宮川哲夫作詞・吉田正作曲)、美空ひばりの「娘船頭さん」(西條八十作詞・古賀政男作曲)も同年の作品である。
 
 映画では宍戸錠のデビュー作として記憶に留める森繁久弥主演の「警察日記」(日活=久松静児監督)がある。三島雅夫、十朱久雄、三國連太郎、杉村春子、伊藤雄之助、東野英治郎、沢村貞子などの芸達者が揃った出演者のなかで、子役の二木てるみの演技が評判を呼んだ。
 米小説家ジョン・スタインペックの長編「エデンの東」を、ジェイムス・ディーン主演でエリア・カザンが監督として映画化している。

 プロ野球セ・リーグは読売ジャイアンツ、パ・リーグは南海ホークスがリーグ制覇し、日本シリーズで対決したが、巨人が4勝3敗で日本一に輝いている。別所毅彦(1922年―1999年)が3勝を稼ぐ活躍で、シリーズMVPに輝いた。長嶋茂雄も王貞治もいない巨人で、「ジャイアンツ・馬場正平」(2007年11月10日の項)の項でも書いたが、馬場のほか森昌彦(岐阜高)、国松彰(同志社大中退)、エンディ・宮本(ハワイ朝日)が入団した年であった。

・昭和30年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=川上哲治(巨人)・飯田徳治(南海)
新人王=西村一孔(大阪)・榎本喜八(毎日)
首位打者=川上哲治(巨人)・中西太(西鉄)
本塁打王=町田行彦(国鉄)・中西太(西鉄)
打点王=川上哲治(巨人)・山内和弘(毎日)
最優秀防御率=別所毅彦(巨人)・中川隆(毎日)
最多勝=長谷川良平(広島)大友工(巨人)・宅和本司(南海)
最優秀勝率=大友工(巨人)・中村大成(南海)

 高校野球は春の選抜大会が浪華商(大阪)、夏の選手権大会は四日市(三重)が優勝している。浪華商の4番、坂崎一彦(巨人―東映)が打率6割、2本塁打、10打点を記録し「戦後最強打者」と言われた。

 昭和30年下半期の芥川賞は石原慎太郎が「太陽の季節」で受賞している。石原慎太郎は一橋大学生であった。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

2007年12月13日木曜日

目玉の松ちゃん:伝聞書きⅡ

撮りも撮ったり1,003本

 牧野省三―尾上松之助コンビの第1作「基盤忠信源氏礎」(1909年・横田商会)が当たり、松之助はスパースターの座へ登りつめていく。亡くなるまで未確認情報ながら実に1,003本の映画に主演したといわれる。
 1912年(大正元)に横田商会などが合併し日本活動写真株式会社(日活)が設立してから、牧野と松之助コンビは、牧野が日活を離れ「牧野教育映画製作所」を設立する1921年(大正10)まで、約10年間で200本余の映画を撮りまくった。大衆の支持があったからこその多作である。

 松之助の映画はどんな内容だったのだろうか。
 「目玉の松ちゃんは児雷也をやったよ」
 「忍術映画が多かった」
 「立川文庫という小さな本があって、それを題材にしていたな」
などと、子供のころ聞いていた。
 
 立川文庫は、大阪の立川文明堂が1911年(明治44)から1924年(大正13)まで発行した文庫本である。発行者は立川熊次郎。少年を対象に公団や戦記、史伝を約200編刊行し、人気を博している。サイズは縦12.5センチ横9センチで現在の文庫サイズ(15.5センチ×10.5センチ)よりひと回り小さく、定価は20―30銭だった。水戸黄門、真田幸村、猿飛佐助など題材とし、大衆文学、時代劇に影響をおよぼした。
 
 時代劇の定番メニューとなっている忠臣蔵の大石内蔵助や水戸黄門、清水次郎長や国定忠治の任侠もの、宮本武蔵や塚原ト伝の剣豪もの、後にアラカンこと嵐寛寿郎の持ちネタとなった鞍馬天狗、猿飛佐助や霧隠才蔵と児雷也の忍術もの、ありとあらゆる役を演じた。
 主演作品1,003本といわれている。この数字は現在資料で確認できる松之助の主演映画は970本程度なので、異論の余地はあるが、この根拠は1925年(大正14)に日活で「松之助1千本記念映画」として「荒木又右衛門」が製作されおり、その後亡くなるまでに「国定忠治」(1925年日活)」、「実録忠臣蔵」(1926年日活)、「侠骨三日月 前篇」(同)の3本に主演していることから算出したものである。
 松之助映画のほとんどは上映時間60分以内と短く、現在の映画と比較できない。その内容も子供向けの幼稚なチャンバラ映画と、インテリには眉を顰(ひそ)められたが、他の追従を許さないほど圧倒的な人気を誇ったのは、まぎれもない事実である。日本の無声映画時代を先導した男であった。

 松之助は晩年日活の重役となった。しかし、歌舞伎を基調とした立ち回りや講談ものを舞台にしたような映画は、沢田正二郎(1892年―1929年)の創始した新国劇のリアルな殺陣、バンツマこと坂東妻三郎(1901年―1953年)の写実的な映画やアメリカ映画の活劇に押されていった。
 坂東妻三郎、大河内伝次郎が銀幕に登場し、さらに市川右太衛門、片岡千恵蔵、長谷川一夫、嵐寛寿郎を加えた六大スターの剣戟映画の全盛が待ち受けていた。
 
 松之助は1926年「侠骨三日月」の撮影中に心臓病で倒れ、息を引き取った。51歳だった。その葬儀は日活の社葬として京都市内で行われた。都大路に日本最初の映画スターの死を悼む20万人の市民が詰め掛け、路面電車を止めてしまうほどであった。
 ――これが尾上松之助の生涯ダイジェストである。

 名せえゆかりの目玉の松ちゃんこと尾上松之助たぁおれがことだぁ!(ト、十八番の大きく目をむき見得を切る松之助。「終」のエンドマークがフェードアウトする)

2007年12月12日水曜日

目玉の松ちゃん:伝聞書き

日本最初の映画スター

 “目玉の松ちゃん”を知っていますか?

 知らざぁ言って聞かせやしょう(おまえは弁天小僧か)。
 日本最初の映画スーパースターで、明治末から大正にかけて超人気を誇った尾上松之助(おのえ・まつのすけ)のことだ。大きく目を見開き見得を切る演技が目立ったことから“目玉の松ちゃん”と呼ばれ、大衆に親しまれた。

 草野球音は目玉の松ちゃんの映画は観たことがない。生涯主演作品がなんと1,003本(未確認情報)、ギネスブックに登場しそうなスーパースターを追う。
 松之助本人が大正時代に書いたといわれる「尾上松之助自伝」の記述も誤りが多く指摘されており、現存するフィルムもほとんど残っていない。よってこの項は、子供のころに聞いていた話や、読んだ書物、資料などを基にして書くものである。

 尾上松之助は本名を中村鶴三(なかむら・かくぞう)といい、1875年(明治8)に岡山県岡山市で生まれた。父は貸し座敷業を営み、芸妓を抱えていた。その環境から芸事に幼少より親しむ。6歳のとき初舞台を踏んだ。その後、芝居好きが高じて俳優を志し、15歳で旅回り役者となり、19歳で一座を結成し、尾上松之助を名乗るようになった。

 “日本映画の父”といわれる牧野省三(1878年―1929年)と出遭うことになる。1904年と1908年という説があるが、ともかく会遇したときは問題ではなく、遭った事実が重要である。この縁が映画スター松之助の運命を切り開いた。

 日本映画草創期の年譜1893年(明治26):米国の発明王トーマス・エジソンが「キネスコープ」発明
          *箱の中の連続画像を観る
1895年(明治28):フランスのリュミエール兄弟が「シネマトグラフ」発明
          *スクリーンの映像を多くの人が同時に観る
1897年(明治30):稲畑勝太郎がフランスから「シネマトグラフ」機械を持ち帰る
1903年(明治34):横田商会設立。浅草に初の映画館「浅草電気館」開館
1908年(明治41):日本最初の「本能寺合戦」制作
1909年(明治42):牧野省三と尾上松之助コンビの「基盤忠信源氏礎」制作
1912年(大正元):横田商会などが合併し日本活動写真株式会社(日活)設立

 牧野省三は当時、京都の西陣で「千本座」という芝居小屋を経営していた。稲畑勝太郎は当初、自ら映画興行を行うつもりだったが、興行界は江戸時代以来の「裏社会」が存在し、参入には壁が立ちはだかった。そこでシネマトグラフの興行事業を知人の横田永之助に頼む。横田は興行を行う横田商会を設立し、映画を企画する。そして映画制作を横田は演劇界に明るい牧野に依頼した。
 牧野は1908年、中村福之助、嵐璃徳の主演で「本能寺合戦」を撮る。これが日本の映画第1号となった。その後、何本か映画を制作したが当たらなかった。
 運命的な出遭いとなる。
 松之助の芝居を観た牧野は、メリハリがあり、けれんみのある演技に目をつけ映画出演を勧めた。監督牧野―主演松之助のコンビで初めて世に出した映画が「基盤忠信源氏礎」(横田商会)であった。1909年のことである。
 派手な立ち回りで松之助は爆発的な人気を得ることになる。日本中に「目玉の松ちゃん」が知れ渡ることになった。それは、日本映画史上初めてのスターであり、超人気アイドルの登場であった。 (つづく)

2007年12月9日日曜日

半七はお江戸のホームズ

 岡本綺堂の「半七捕物帳」〔一〕(光文社時代小説文庫)を読む。

 “永遠の二枚目”長谷川一夫(1908年―1984年)の「半七捕物帳」はテレビでよく観た。TBSで1966年(昭和41)~1968年で放送された。お仙は淡島千景だった。桜井長一郎(1917年―1999年)が十八番(おはこ)の長谷川一夫の声帯模写をする場合、「赤穂浪士」(NHK大河ドラマ)の大石内蔵助の「おのおのがた」か、この半七の「おせん」だった。「お仙」のあとに「おせんにキャラメル」といって、お決まりの笑いを誘っていたものだ。

 読書はこのところ専ら時代小説だ。20代後半から30代にかけては司馬遼太郎(1923年―1996年)の「竜馬はゆく」「坂の上の雲」「花神」「菜の花の沖」などの歴史小説、40代は池波正太郎(1923年―1990年)の「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」シリーズもの、50代からは藤沢周平(1927年―1997年)ものを読んでいる。最近では佐伯泰英の「居眠り磐音」「密命」シリーズ、鳥羽亮、稲葉稔、葉治英哉などにも手を出している。
 歴史小説は歴史上の人物が登場し、ほぼ史実通りに筋が展開するが、時代小説は架空の人物を登場させる。歴史小説は歴史上の人物の思想や事件をテーマを、時代小説は面白さ・エンターテインメント性を重視したものといわれる。

 「半七捕物帳」は前々から読みたい、読まなければならないと思っていた。「捕物帳」の元祖であり、探偵小説の草創期の傑作である。江戸時代の風習、制度など時代考証に忠実な書物という。岡本綺堂が45歳(1917年)から65歳(1937年)までの20年間にわたり書いた。明らかにコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」に影響を受け、意識して書かれている。
×  ×  ×
 
これらの探偵談は半七としては朝飯前の仕事に過ぎないので、その以上の人を衝動するようなまだまだほかにたくさんあった。彼は江戸時代に於ける隠れたシャアロック・ホームズであった。
――第1話「お文の魂」より
 
×  ×  ×

 なぜ岡本綺堂はホームズを意識したのか。
 綺堂は1872年(明治5)に東京・高輪に生まれ、麹町で育った。享年は66歳。父・敬之助(後に純=きよし=と改名)は徳川家御家人で、維新後に英国公使館の書記官を務めている。
 綺堂は幼少から英語を学び、英国公使館に出入りする留学生に接していた家庭環境もあり、英語達者であった。
 コナン・ドイル(1859年―1930年)の「シャーロック・ホームズ」は1887年から1927年にかけて60編(長編4・短編56)が発表されている。つまりドイルと同時期に生き、「ホームズ」が執筆されている時に原書で読んでいたのである。
 記憶にまだ江戸の面影が残る綺堂は、ロンドンの街で活躍する探偵シャーロック・ホームズを、江戸の岡っ引・半七に見立てたのだろう。

 また「捕物帳」という言葉を遣ったのも綺堂が最初であり、その後広く一般化したといわれている。
×  ×  ×

「捕物帳というのは与力や同心が岡っ引らの報告を聞いて、更にこれを町奉行所に報告すると、御用部屋に当座帳のようなものがあって、書役(しょやく)が取りあえずこれに書きとめて置くんです。その帳面を捕物帳といっておりました」と、半七は先ず説明した。
――第2話「石燈籠」より

×  ×  ×

 「捕物帳」というものが江戸時代に実在したどうかは分からないそうだが、類似した書き物はあったという。

 まだ一巻(短編14)のみだが、読んでみると実に新しい。綺堂が第1話の「お文の魂」を発表してからすでに90年の歳月を経過したが、「半七捕物帳」には現在もなお十分に通用する鮮度があった。

2007年12月6日木曜日

拳銃無宿&ライフルマン

海外テレビ西部劇Ⅲ

 今回で海外テレビ西部劇の完結編としたい。まだまだ書き足りない点は多々あるが‥‥。
 前2回は「ガンスモーク」「バット・マスターソン」「ローハイド」の3番組を紹介したが、「拳銃無宿」「ライフルマン」「ララミー牧場」などに触れる。

 「ガンスモーク」が大人向け西部劇なら、お子様向けは「ローン・レンジャー」である。1933年にラジオ番組で人気となり、コミックも売れた。映画、そしてテレビドラマ化され、全米中で有名になった。日本では1958年(昭和33)にフジテレビ系列で放送された。

 番組の導入部でまず草野球音のような少年を魅了した。イタリアの作曲家、ジョアキーノ・ロッシーニ(1792年―1868年)作曲の「ウィリアムテル」序曲の勇壮なBGMに乗って荒野から登場する。「ハイヨ、シルバー」――白馬にまたがる白い騎兵隊の帽子に「怪傑ゾロ」のような黒いマスクの男、それは正義の味方ローン・レンジャー(クレイトン・ムーア)だ。腰には二挺拳銃、その弾丸は銀製だった。

 愛馬の名はシルバーといい、純白の美しい野生馬でとてつもない駿足。列車もおよばないほどだ。相棒はネイティブ・アメリカンのトントで、ナイフの名手だった。しばしばローン・レンジャーの危機を救う。彼がローン・レンジャーに対して尊称のように遣う「キモサベ」という言葉は、当時少年の間で流行した。

 ちなみに「キモサベ」とは、ネイティブ・アメリカンのポタワトミ族の言葉で「信頼のおける友」という意味だそうだ。

 「拳銃無宿」は賞金稼ぎの主人公ジョッシュ・ランダルを演じたスティーブ・マックィーン(1930年―1980年)の魅力が光る。賞金首を捕らえることを生業(なりわい)とする非情さに、男の哀愁が漂っていた。この後、ハリウッド・スターへ躍進し、「荒野の七人」「大脱走」「華麗なる賭け」「ブリッド」「パピオン」などに次々と主演したのは周知のことである。

 原題は「WANTED:DEAD or ALIVE」(お尋ね者、生死を問わず)。

 ライフルのウィンチェスタの銃身を短くちょん切った「ランダル銃」の独自性も格好よく、しびれたものだ。1958年~1961年に米CBSテレビが制作、日本では1959年(昭和34)~1961年にフジテレビ系列で放送された。

 「ライフルマン」はウィンチェスタを拳銃のように扱う。レバーアクションの早撃ち・連射が見ものだった。1958年~1963年に米ABCが制作、日本では1960年(昭和35)からTBSで放送され、人気を得た。
 妻に先立たれたやもめのルーカス・マッケイン(チャック・コナーズ)と息子マーク(ジョニー・クロフォード)がノースフォークの町にやってきた。牧場が気に入り、その購入資金を稼ぐために射撃大会に出場する――これがドラマの始まりだったと記憶する。その後、父子愛を軸に無法と闘う様が描かれる。
 
 主役のチャック・コナーズは2メートルの大男で元米大リーガー。ブルックリン・ドジャースに在籍していたこともある。ドジャースはかってニューヨークを本拠地にしていて、ロサンゼルスに移転したのは1958年のことだ。

 ♪いかつい顔に やさしい目
  笑えば誰でも なつくけど
と、歌手から俳優に転じた小坂一也(1935年―1997年)が唄った日本オリジナルの主題歌「ライフルマン」もヒットした。
 
 視聴率40%を超えた「ララミー牧場」の人気も凄かった。主演のジェス・ハーパー役を演じたロバート・フラーの人気はすさまじく、1961年に来日した際には日本列島が沸いた。時の池田勇人首相が招き記念写真に納まったほどだった。
 牧場を営むシャーマン兄弟を、早撃ちと投げ縄の名手であるジェスが支える物語である。シャーマン兄弟の兄スリム役にジョン・スミス、弟でジェスを慕うアンディ役にはロバート・クロフォードが扮した。ロバート・クロフォードは「ライフルマン」のマーク役のジョニー・クロフォードの弟。

 「ハイ、またあなたとお会いしましたね」「では、さよなら、さよなら、さよなら」。番組終わりに変なおじさんが登場したのも、人気を盛り上げた。
 「小松の親分さん」のギャグで知られるタレント小松政夫の物真似の本家である映画評論家、淀川長治(1909年―1998年)である。「西部こぼれ話」のコーナー出演で、アメリカの映画・俳優の広範にわたる知識を披露した。

 上記のほかでは、ホームドラマ型西部劇「ボナンザ」、タイ・ハーディンの「ブロンコ」、クリント・ウォーカーの「シャイアン」など、1960年代の前半は毎日どこかのテレビ局でアメリカ製西部劇が放送される「百花繚乱」の時であった。

2007年12月4日火曜日

ローハイドとその背景

海外テレビ西部劇Ⅱ

 テレビ西部劇「ローハイド」は、1959年から1965年に米CBSテレビで制作され、日本では1960年(昭和35)からNET(現テレビ朝日)で放送された人気番組である。
 
 原題のRAWHIDEとは、牛を追いたてる牛皮で編んだ鞭(むち)のことだそうだ。

 隊長のギル・フェィバー役のエリック・フレミングは渋く貫禄があり、副隊長ロディ・イェーツ役のクリント・イーストウッドが魅力的で、今にして思えば、その後の大成を納得させる「輝き」があった。

 加えて主題歌を唄ったフランキー・レーンの力強い声と、「ビッシ」という鞭の音が印象的だった。曲もヒットした。あれは牛を追いたてるRAWHIDEの音だったのか。
 ♪ローレン ローレン (ビッシ)
 日本語盤を唄った伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズがスリッパをひっぱだいて鞭の効果音を出していたっけ。

 南北戦争後の1870年代、テキサス州サンアントニオからミズリー州セデリアまで3,000頭の牛を運ぶ物語だ。

 南北戦争は1861年から1865年かけて起こったアメリカの内戦(The Civil War)で、1960年に奴隷制反対のエイブラハム・リンカーンが16代大統領に就任したことが発端となった。奴隷制存続と自由貿易を主張する南部11州がアメリカ合衆国を脱退しアメリカ連合国を結成し、米英戦争(1812年~1814年)以降に工業化が進み保護貿易を唱える北部23州との対立が激化し内乱に発展した。結果は北軍の勝利となった。
 
 戦争中にテキサスを中心とした南西部地区では、ロングホーン牛を世話する若者が従軍したため、焼印をつけ市場に運ぶ働き手を失った。そのため、戦後の南西部には焼印のない牛が500万頭もいたと推測された。一方、東部では戦争により牛が出荷されず深刻な肉牛不足となった。
 肉牛需要のある東部、そして牛を供給できる南西部。東部で1頭50ドルもする肉牛は、南西部では1頭3―4ドルで調達できた。南西部の牛をかき集め焼印を押し、東部までの運送拠点である鉄道の駅まで牛を運ぶ「キャトル・ドライブ」という仕事が自然発生したのである。

 「ローハイド」はそのキャトル・ドライブを描いている。道なき道を放牧しながらの行程は約1,000マイル、期間は3-4ヶ月に及んだ。牛は食肉用なので痩せては商品価値が落ち、1日の10マイルほどしか歩かせず、体重を維持しながら牛を追い立てる。
 カウボーイの1日は日の出とともに始まり、朝食は焼きたてのビスケットとベーコンを濃いコーヒーで流し込む。昼食は朝に焼いたビスケットを馬上で食べ、夜食は「オールド・ウーマン」と呼ばれたコック(ウィッシュボン役はポール・ブレニッガ)が温かい肉の煮込みや豆料理、ビスケット、コーヒーを用意した。夜通し交替で大事な商品である牛の群れを監視し、1日の労働時間は10-12時間におよぶ過酷さだった。馬の鞍を枕に自分の毛布で身をくるみ就寝した。きつい・汚い・危険の3K仕事であった。
 3K仕事を束ねるのがトレイル・ボスである。牧場主と契約して牛の輸送を請負う。ローハイドではフェィバーさんだ。

 前回の「ガンスモーク」の項で触れたダッジシティもキャトル・ドライブの終着地で、トレイル・ボスが牛を売り、激務に耐えた数ヶ月におよぶカウボーイに報酬を支払った。労苦から開放された彼らは手にした大金をウイスキー、ギャンブル、女につぎ込んだ挙句、喧騒、諍い、果ては拳銃沙汰の決闘までが起こった。

 1880年代後半には南西部までにも鉄路は敷かれた。鉄道拠点まで苦労して牛を追う必要がなくなった。キャトル・ドライブの終焉である。

 かってぼんやり観ていたテレビ西部劇「ローハイド」も、書くにあたり調べてみると、その時代背景を知り新たな発見があった。

2007年12月2日日曜日

全米で人気ガンスモーク

海外テレビ西部劇Ⅰ

 一陣の風に根無し草が町一番の大通りを吹き抜けて行った。

 二人のガンマンが背中合わせに立ち、それぞれに前に歩みを進めた。一歩、二歩‥‥十歩目で振り返ると、ほぼ同時に拳銃の撃鉄を起こしトリガー(引き鉄)を引いた。轟音が響きわたった直後、ひとりがばったりと倒れた。
 
 生死を分けたのは一瞬の手さばきの差にすぎない。

 連邦保安官マット・ディロイは愛用の銃身の長いコルト45を収めると、酒場「ロング・ブランチ・サルーン」に向かった。足の悪い保安官助手チェスターが急いで駆け寄った。「ドッグ、一杯やろう」。決闘を心配そうに見守った老医者に声をかけた。

 酒場の前には板張りの歩道に馬つなぎの柵がある。
 その店先まで出た女主人ミス・キティが満面の笑みで勝者と介添人を迎えた。

 ダッジシティにガンスモーク(硝煙)がたちこめていた。

 「ガンスモーク」は大人向けの米国テレビ西部劇であったが、何故か好きで毎週のように観ていた。同ドラマは1955年(昭和30)にCBSテレビで製作され、20年間余続いた超人気番組だった。日本ではフジテレビ系列で1959年(昭和34)から放送されたが、米国での人気ほど支持は得られなかったと思う。
×  ×  ×

 《「24」は「かっぱえびせん」》(2007年11月6日)で書いたように、米国のテレビドラマ「24」にハマり、その後もTSUTAYAに通いSEASON6終了まで漕ぎ着けた。米国のテレビドラマに対する、このような熱気は、昭和30年代以来ではないだろうか。
 そういえば、あのころ西部劇を毎日のように観ていたような気がする。

×  ×  ×
 「ロング・ブランチ・サルーン」は酒場兼ホテルで実在し、歴史に名を刻むほどアメリカでは有名だそうだ。ミス・キティは実在の人物ではない。
 「ガンスモーク」の配役
・保安官マット・ディロン(ジェームズ・アーネスト)
・酒場の女主人ミス・キティ(アマンダ・ブレイク)
・医者ドック(ミルバーン・ストーン)
・助手チェスター(デニス・アーネスト)
 ドラマの核は撃ち合いより、人物の心情に力点が置かれたいたように思う。

 カンザス州ダッジシティは1870年代から1880年代にかけ、無法の町であった。軍隊も法も通じない。ならず者が横行していた。

 そのダッジシティでワイアット・アープの助手を務めたバット・マスターソンを主人公にした「バット・マスターソン」もよく観た。最新のスーツを着込み、ダイヤモンドのネクタイピンを着け山高帽にステッキを持った西部一の伊達男と言われた。
 NBCで制作され、日本ではNET(現テレビ朝日)で放送された。マスターソン役は、後に「バークにまかせろ」に主演したジーン・バリーだった。まさに適役だった。
 
 「拳銃無宿」「ライフルマン」「ローハイド」「ララミー牧場」などの話は次回に持ち越す。

2007年11月29日木曜日

藤田まさと:魅惑の世界

 古い奴だとお思いでしょうが、古い奴ほど新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう――着流しの鶴田浩二(1924年―1987年)が登場する。マイクに純白のハンカチを沿え、左耳に手を当て唄う「傷だらけの人生」の冒頭の台詞。1970年(昭和45)のヒット曲で、作曲は吉田正、作詞は藤田まさとである。
 
 「古い奴」草野球音は、藤田まさとの作詞が子供のころから心に残っている。股旅歌謡は特に心惹かれる。前世は渡世人か博徒で、任侠の世界に生きたのではないか、とすら思うことがある。根はやくざな性格でまっとうな人間ではないのだ。

 藤田まさとの作詞の魅力は巧みなリフレーンではないか。
明治一代女(昭和10年)=大村能章作曲から
  ♪浮いた浮いたの 浜町河岸に
  浮かれ柳の はずかしさ

流転(昭和12年)=安部武雄作曲から
  ♪浮世かるたの 
  浮世かるたの
  浮き沈み

妻恋道中(昭和12年)=安部武雄作曲から
  ♪好いた女房に 三行半(みくだりはん)を
  投げて長どす 永の旅

麦と兵隊(昭和13年)=大村能章作曲から
  ♪徐州徐州と 人馬は進む
  徐州居よいか 住みよいか

大利根月夜(昭和14年)=長津義司作曲から
  ♪利根の流れの ながれ月
  昔笑うて ながめた月も 

岸壁の母(昭和29年)=平川浪竜作曲から
  ♪母は来ました 今日も来た
  この岸壁に 今日も来た

 七五調の言葉の配置とリフレーンそして韻が、日本人の心の琴線に触れる。魅惑の「詞の世界」へ引き込む。人生を唄う。
 上記のほかにも巷に溢れ、人の心に残る詞は、股旅歌謡の「旅笠道中」(昭和10年=大村能章作曲)、藤田の死後にヒットした「浪花節だよ人生は」(昭和51年=四方章人作曲)と数多(あまた)ある。人を魅せる詞を創造する天賦の才の持ち主である。

藤田まさとの略歴:1908年(明治41)―1982年(昭和57)。静岡県榛原郡川崎町(現牧之原市)生まれ。小学校3年終了後に単身で満州に渡る。大連商業時代に全国中等学校野球大会に出場した経験がある。明治大学中退。享年74歳。

追伸:
 なんだかんだと蜘蛛巣丸太で御託を並べて参りましたが、かくいう球音も日陰育ちのひねくれ者、お天道様に背中を向けて歩く‥‥馬鹿な男でございますが、伏してご愛読をお願い申し上げます。

2007年11月27日火曜日

点と線&上海帰りのリル

 松本清張原作のテレビドラマ化「点と線」を観る。ビートたけし主演で、2007年11月24日(土)と25日(日)に連続で放送された。多彩な配役、テレビドラマとしてはお金をかけたであろうセットなど見所もあり、面白かった。
 
 1958年(昭和33)東映で製作された映画「点と線」(小林恒夫監督)を観たことがある。松本清張の原作は1957年から1958年にかけて雑誌「旅」に連載され、1958年に光文社から刊行された。本が世に出て直後に売れ映画化されたもので、当時の推理小説人気、清張ブームを反映させている。
 
 映画とテレビの配役
・加藤   嘉 (鳥飼刑事) ビートたけし
・南    廣 (三原刑事) 高橋 克典
・山形   勲 (安田辰郎) 柳葉 敏郎
・高峰三枝子 (安田亮子) 夏川 結衣
と、映画の主演は高峰三枝子で、テレビドラマはビートたけし、というビッグネームのキャストにもその意図がうかがえる。ちなみに南廣は、元ジャズドラマーで「警視庁物語」などに出演した二枚目俳優である。

 鳥飼刑事役のたけしが太平洋戦争の体験を自ら語り、焼夷弾の破片を右肩に残し消せぬ過去を背負った象徴的なシーンとして、「上海帰りのリル」を歌っていた。テレビ独自の脚色である。
 ♪海を見つめていた
 ハマのキャバレーにいた

 「上海帰りのリル」は1951年(昭和26)の津村謙(1923年―1961年)のヒット曲である。作詞は東条寿三郎、作曲は渡久地政信。津村は端正な顔立ちに、滑らかで心地よい歌声は「天鵞絨(ビロード)」と形容され人気があったという。
 この曲は子供もころからよく聴いていたが、疑問があった。
 2番の歌詞に、
 ♪夢の四馬路の 霧降る中で
 何も言わずに 別れた瞳
とあるが、「四馬路」(スマロ)とは何ぞや? 
 
 また、戦前からのスター歌手、ディック・ミネ(1908年―1991年)のヒット曲に「夜霧のブルース」*がある。
 1947年(昭和22)島田磬也作詞・大久保徳二郎作曲の作品にも、1番の歌詞に、
 ♪夢の四馬路か
 ホンキュの街か
と「四馬路」が登場する。

 「四馬路」とは上海の道路で、現在の「福州路」のことだそうだ。中国では「馬路」とは馬車が通れる大きな通りをいい、上海で最も大きな道路は「南京路」で、昔は「大馬路」といったそうな。南京路から南に四番目の通りということで「四馬路」と呼ばれた。
 
 では、ついでに「ホンキュの街」の「ホンキュ」って何だろう?
 ホンキュは「虹口」(ホンコウ)のことで、その昔、日本人は「ホンキュ」といっていたそうだ。虹口は日本人居留地(日本租界)である。
 
 歴史を紐解けば、アヘン戦争後の1842年南京条約により開港され、イギリス、フランスなど列強の租界が出来た。以来、上海は世界へ向け窓口を開いた街となった。
 1985年(昭和60)に上海に滞在したことがある。当時の中国は貧しく、現在の経済発展の象徴のような摩天楼が乱立する姿はなかったが、古いが堂々たる威容を誇るビルが見られ国際都市の往時を忍ぶ佇まいであった。
 そのとき「四馬路」も「ホンキュ」も忘れて遊び呆けていた。ただただ恥じ入るばかりである。

夜霧のブルース:松竹映画「地獄の顔」の主題歌。主演は水島道太郎で、ディック・ミネも共演している。

2007年11月26日月曜日

花の三度笠:思い出語り

 そのとき「事件」は起こった。
 
 50年余り昔。小学1年生のときの出来事である。小学校に入学して間もない期間、父兄が登下校時に連れ添うことになっていた。下校の寸前、起立して担任女性教師の注意を聞いていた。母親連中は教室の後方に陣取っていた。

 そのとき。。。

 ♪男三度笠 横ちょにかぶり
と唄いだした同級生がいて、草野球音は一緒に釣られて唄ったのだった。直後、先生が「そういう歌は唄ってはいけません」とぴしゃりと静止された。
 球音は俯(うつむ)き、母は赤面して周囲を憚(はばか)った。

 「花の三度笠」(1952年=昭和27)という歌は小畑実(1923年―1979年)が唄っていた。佐伯孝夫作詞・吉田正作曲の股旅歌謡である。
 小畑実のヒット曲には、
・湯島の白梅(昭和17年)佐伯孝夫作詞・清水保雄作曲
  ♪湯島通れば 思い出す お蔦主税の 心意気
・勘太郎月夜唄(昭和18年)佐伯孝夫作詞・清水保雄作曲
  ♪影か柳か 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙り
・薔薇を召しませ(昭和24年)石本美由紀作詞・上原げんと作曲
・高原の駅を、さようなら(昭和26年)佐伯孝夫作詞・佐々木俊一作曲
  ♪しばし別れの夜汽車の窓よ
などがある。

 小学1年生といえば7歳である。当時、普通の家庭の子供なら唄う歌は小学唱歌であった。ところが、家では聴く歌、周囲から聞える歌は違っていたのだった。
 ♪あなたにもらった 帯止めの
 だるまの模様が チョイト気に掛かる
 「トンコ節」(1951年=昭和26)で久保幸江が唄うお座敷ソングながら、西條八十作詞・古賀政男作曲という由緒正しい大御所コンビが世に出した。
 また西條・古賀コンビで創った神楽坂はん子の「芸者ワルツ」(昭和27年)も、
 ♪あなたのリードで 島田も揺れる
などと、大きな声で唄っていたのだ。

 商店街に真ん中に暮らし、映画館が徒歩5分ほどのところに3館、パチンコ店が軒を並べる生活環境であった。
 小学校という公の場と近所や家では違う世界があり、本音と建前があることを、そのとき初めて知ったのだった。

2007年11月21日水曜日

アカシアの雨がやむとき

昭和35年編

 衝撃は突然やって来る。

 60年代の最初の年、1960年・昭和35年は何度かの「衝撃」を経ながらエキサイティングに過ぎて行った。60年代に入り敗戦の荒廃と貧困から立ち直った日本経済は、高度成長の軌道を全速力で突っ走った。

 赤木圭一郎のヒット曲「霧笛が俺を呼んでいる」を生んだ水木かおる作詞・藤原秀行作曲のコンビは、同年の1960年に西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」を世に出している。全共闘の心象風景と重なり合う曲と言われる。
 6月15日、「アンポ反対」のデモが国会議事堂を渦巻いていた。1月に新安保条約が調印され、国会の批准を待つばかりになっていた。当時日本を二分する大論争となった。安保反対を唱える全学連が国会に突入し警官隊と激突、ひとりの女子大生が圧死する事故が起こっている。東大生の樺(かんば)美智子だった。安保闘争で死者が出たことで、日本中に衝撃を与えた。
 結局、安保条約は参議院での採決を待たず、自然承認で幕が下りた。

 ♪アカシアの雨に 打たれて
 このまま 死んでしまいたい
 西田佐知子の渇いた声音と水木かおるの歌詞が、満たされぬ若者を心と共鳴し合ったのかもしれない。

 岸信介内閣は混乱を収拾するため総辞職し、7月には替わって池田勇人内閣が誕生し「所得倍増論」を打ち出した。
 10月には日本社会党委員長の浅沼稲次郎が日比谷公会堂で右翼少年、17歳の山口二矢(おとや)に刺殺される事件が起こっている。

 17歳の橋幸夫が「潮来笠」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)でデビューした。着流しに潮来カットといわれた角刈り姿は、新鮮であった。
 森山加代子が、
♪ティンタレー
と歌い出した「月影のナポリ」には驚かされた。坂本九の「悲しき六十歳」(訳詞・青島幸夫)など洋楽に訳詞をつけカバーした曲が流行った。「月影―」の訳詞は岩谷時子だった。

 同年のヒット曲には、
和田弘とマヒナスターズ&松尾和子の「誰よりも君を愛す」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)
・松尾和子の「再会」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)
・守屋浩の「有難度や節」(浜口庫之助作詞補曲)
・小林旭の「アキラのダンチョネ節」(西沢爽作詞・作曲者不詳)
・三橋美智也の「達者でナ」(横井弘作詞・中野忠晴作曲)
・藤島桓夫の「月の法善寺横町」(十二村哲作詞・飯田景応作曲)
・花村菊江の「潮来花嫁さん」(柴田よしかず作詞・水時富士夫作曲)
などがある。

 同年の映画には、
「悪い奴ほどよく眠る」(黒澤明監督・三船敏郎出演)
・「秋日和」(小津安二郎監督・原節子出演)
・「笛吹川」(木下恵介監督・高峰秀子出演)
「太陽がいっぱい」(ルネ・クレマン監督・アラン・ドロン出演)
・「甘い生活」(フェデロコ・フェリーニ監督・マルチェロ・マストロヤンニ出演)
などがある。

 スポーツでは東京六大学野球である。優勝決定再々試合までもつれた早慶6連戦で、早稲田大学が安藤元博の連投で優勝を飾った。安藤は6試合中5試合に先発する活躍を見せた。幾多の名勝負を展開した華の早慶戦にあっても、いまだに語り草の激闘である。

 衝撃に次ぐ衝撃の1960年・昭和35年であった。

2007年11月20日火曜日

夭折の美学:赤木圭一郎Ⅱ

 咲き誇る花よりも、散る花は美しい。

 赤木圭一郎(1939年―1961年)の死はハリウッド俳優のジェイムズ・ディーン(1931年―1955年)のそれと例えられる。映画「エデンの東」「理由なき反抗」で主演し、彗星のように出現したスターだったが、ポルシェを運転中に交通事故死した。24歳。若すぎる男の衝撃的な死を、全米はおろか世界中が悲しみ悼んだ。
 新撰組の隊士、沖田総司にもいえる。近藤勇、土方歳三とともに天然理心流の道場、試衛館で剣技を磨き十代で免許皆伝を取り塾頭を務めた天才剣士であり、労咳(肺結核)を患い若くして世を去った。池田屋事件で喀血したことが映画などで描かれているが、美少年説とともに事実かどうか定かではない。生年ははっきりせず享年については24歳~27歳まで諸説あり。とにかく幕末という動乱のなかに身を置き、生き急ぐように逝った。

 夭折に人々の心は動かされる。老いは誰にも例外なく訪れるが、老いを晒すことなく、清廉な若さのまま人の記憶に残るのだ。

 赤木圭一郎は1958年の日活第4期ニューフェイスで入社した。ちなみに日活第1期ニューフェイスに宍戸錠、名和宏、第3期に小林旭、ニ谷英明、第5期に高橋英樹、第6期に山本陽子、第7期に渡哲也がいる。
 トニー・カーティスに似ていることから、「トニー」の愛称で呼ばれた。
 生涯で20数本の映画に出演した。初主演は鈴木清順監督の「素っ裸の年令」(1959年)。「鉄火場の風」「清水の暴れん坊」では石原裕次郎と共演している。
 「拳銃無頼帖」シリーズが代表作品か。愛用のコルトで相手の利き腕の肩を射抜く射撃の名手“抜き撃ちの竜”に扮している。1960年に野口博志監督でたてつづけに4本製作された。
・拳銃無頼帖 抜き撃ちの竜
・拳銃無頼帖 電光石火の男
・拳銃無頼帖 不敵に笑う男
・拳銃無頼帖 明日なき男
 「電光石火の男」は吉永小百合の映画デビュー作品である。中学生だった草野球音は、小百合の清純可憐さに目を見張った。

 当時の日活は主演スターが主題歌も唄ったが、ヒットしたのは映画と同名曲「霧笛が俺を呼んでいる」(水木かおる作詞・藤原秀行作曲)だろうか。
 映画は個人的には最後の公開作品となった「紅の拳銃」(1961年・牛原陽一監督)が好きだ。戦争で片腕を失った射撃の名手(垂水悟郎)が、天才的な素質の男(赤木圭一郎)を見出し殺し屋に育成するというストーリーだった。

 瞼の裏のスクリーンに永遠の21歳・トニーが甦る。(完)

2007年11月18日日曜日

夭折の美学:赤木圭一郎

 日活同窓会が開かれた――と、大衆かわら版で読んだ。
×  ×  ×

 映画会社・日活の出身俳優で構成する「俳優倶楽部」とスタッフらで組織する「旧友会」が2007年11月17日、東京・新宿の京王プラザホテルで14年ぶりとなる合同パーティーを開いた。渡哲也(65)、宍戸錠(73)、浅丘ルリ子(67)ら日活黄金期を支えた約280人が顔をそろえ、懐かしい思い出話に花を咲かせた。故石原裕次郎(享年52)は生前に録音された声で「出席」して会を盛り上げた。
 主な出席者(名前の後の数字は年齢)
 ・監督 井上梅次84、斎藤武市(不詳)、鈴木清順84、舛田利雄80
 ・俳優 川地民夫69、山内賢63、深江章喜79
 ・女優 芦川いづみ72、笹森礼子67、松原智恵子62、香月美奈子70
×  ×  ×

 日活は、1912年(大正元)に創立した「日本活動写真株式会社」を略した社名に端を発す。日本最初の映画スター「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助主演のチャンバラ映画でその名を知られた。
 この蜘蛛巣丸太で言う「日活」は、戦後に活動再開した1954年(昭和29)からロマンポルノへ移行した1971年(昭和46)までの映画活動をしていた会社である。

 日活の黄金期とはいつ頃のことだろうか。石原裕次郎(1934年―1987年)が「太陽の季節」で颯爽と登場し瞬く間にスパースターとなり、小林旭が「渡り鳥シリーズ」が売れ、赤木圭一郎が第3の男として世に出て、和田浩治が15歳でデビューを飾った頃ではないか。
 日活ダイヤモンドラインの結成である。
 
 なかでも人気上集中の最中に壮絶に散り、今なお多くの人の心を捉えて離さないトニーこと赤木圭一郎(1939年―1961年)を記憶に鮮明に残したい。

 1961年(昭和36)2月14日、映画「激流に生きる男」の撮影の休み時間に東京・調布市の日活撮影所内でゴーカートを運転中に鉄扉に激突し、慈恵医大病院に緊急搬送されたが、同月21日前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため死去した。21歳。若すぎる死だった。
 もともと「激流に生きる男」は石原裕次郎主演で撮る予定だったが、1961年1月24日ブナ平スキー場で女性スキーヤーと衝突した裕次郎が右足首粉砕複雑骨折で入院し長期入院となったため、急遽、トニーに代役が回ってきたものだった。
 さらに代役を立てるか、日活首脳は協議したが、製作見送りとなっている。しかし、翌年の1962年高橋英樹主演で吉永小百合などが共演して製作されている。
 赤木の事故死の段階で撮影は半ば撮り進んでいた。芦川いづみ、葉山良二、笹森礼子などが共演していた。
 
 元ボクサーで船員の男が、通りすがりで車に轢かれそうな子供を助けたことから、その親代わりの女性が切り盛りするクラブのバーテンとして雇われる。そのクラブにギャングの魔手が伸びる。。。
 日活アクション映画のよくある筋書きだが、哀愁のある独特の存在感のトニーが演じるなら、その魅力が遺憾なく発揮されたことだろう、と今でも思うのである。 (つづく)

2007年11月15日木曜日

ジャイアンツ・馬場正平Ⅳ

 1958年(昭和33)新人の長嶋茂雄の人気は絶大だった。東京六大学野球リーグで首位打者2回、ベストナイン連続5回、通算最多の8本塁打と大活躍し、立教大三羽烏といわれた杉浦忠(南海)、本屋敷錦吾(阪急)とともにプロ入りした。

 兵庫・明石キャンプでは長嶋の行くところカメラが追いかけた。長嶋が巨人のユニホームを着て初めてキャッチボールをした相手が、4年目の馬場であった。絵になる構図にシャッターが一斉に切られた。

 馬場は20歳になっていた。前年一軍登板を果たし、いよいよ一軍定着の夢を壊したのは脳腫瘍であった。また、杉下茂が200勝を飾った巨人―中日戦後に右ひじに痛みを感じていた。1958年のキャンプは、病み上がりの状態で始まり、レギュラーシーズンに入っても全力投球ができないまま二軍生活に明け暮れた。それでも二軍では実力は段違いで10連勝を飾り3年連続で最優秀投手(二軍では1956年12勝1敗、1957年13勝2敗)に選出された。
 このころから「二軍のエース」と影でいわれ、二軍ズレした選手というレッテルが貼られたようだ。そして、甲子園のセンバツ優勝投手でありノーワインドアップで投げていた王貞治が早稲田実業高から入団した1959年(昭和34)も一軍からの「お呼び」はなく、オフに解雇通告を受けることになった。馬場21歳の秋であった。

×  ×  ×

 馬場正平の読売巨人軍入団までの略歴を簡単に記す。
 1938年(昭和13)1月23日、新潟県三条市西四日市町で青果店を営む父・一雄、母・ミツの次男として生まれる。長男は正平5歳のときにガダルカナルで戦死、姉2人。少年時代から野球に親しむ。
 1953年新潟県立三条実業高校工業化に入学。入学当初、履けるスパイクがないため硬式野球部を諦め、美術部に所属する。特注の大きなスパイクを誂え、高校2年の春に野球部入部。夏の甲子園予選は無念のサヨナラで敗退した。
 その後、巨人・源川英治スカウトに勧められ、子供のころから巨人ファンだったことをあり入団を決意し、1955年(昭和30年)1月三条実業高を中退する。
 同月に高校を中退、読売と契約した。巨人の入団条件は支度金20万円・月収1万2000円で、背番号は「59」となった。

×  ×  ×

 5年目のリストラ。月収は1万2000円から徐々に上がり5万円になっていたが、突然無職になった。入団時のヘッドコーチの谷口五郎が大洋に移籍が決まり、つてを頼り大洋の入団テストを受けることになった。1960年(昭和35)合格の内定をもらった矢先に風呂場で転倒し、ガラスで左ひじの腱を切り、出血し救急車で運ばれた。あれほど執着していたプロ野球選手生命を絶たれたのだった。
 余談だが、もし大洋入団が決まっていたら、三原脩監督が率いて日本一に輝いた優勝メンバー(日本シリーズで大毎に4連勝)に加わっていたかもしれない。詮無い話である。

 それから2か月余経った4月11日のことである。東京都中央区日本橋浪花町の日本プロレス・センターに、ブラジルから帰国したばかりの「日本プロレス界の父」というべき力道山を訪ねた大男の姿があった。野球を断念しプロレス界に身を投じることを決断した馬場正平、後のジャイアント馬場であった。
 巨人5年間・3試合のプロ野球成績は、プロレス38年・5,759試合を闘い抜いた偉大な巨人のサクセスストリー「序章」として記憶に留めておきたい。(完)

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2007年11月13日火曜日

ジャイアンツ・馬場正平Ⅲ

 「ジャイアンツ・馬場正平」を掲載中に訃報が飛び込んできた。2007年11月13日、西鉄ライオンズの黄金期のエース稲尾和久が急死した。享年70歳。生涯防御率1.98、42勝の日本プロ野球最多シーズン勝利など伝説の鉄腕投手であった。
 先の「ラッパが聞える東京球場」でも掲載の最中、ロッテ・オリオンズ球団の元オーナー中村長芳死去のニュースが流れた。連載中に登場人物が亡くなる、奇しき因縁があるかもしれぬ。

 寄り道をして稲尾について書きたい。草野球音は日本プロ野球史上最高の投手だと思っている。連投に屈しない闘争心と持久力、外角低めの伸びやかな速球と切れるスライダー、絶妙といえる制球力と逆算投法といわれた投球術、さらに牽制球と守備の巧さ――心技体、すべてに超一流だった。
 馬場の物語は1957年の日本シリーズに差しかかっているが、なんといっても稲尾の圧巻は翌1958年(昭和33)の同シリーズである。三度、巨人と西鉄の対戦になった。西鉄はいきなり3連敗と追い詰められたが、どっこい稲尾が3戦以降5連投し第5戦では自らサヨナラホームランをかっ飛ばすなど獅子奮迅の活躍(ひとりで4勝)で大逆転し、日本一3連覇を達成した。ここに「神様・仏様・稲尾様」という言葉が生まれた。

 1958年日本シリーズ
  巨人―西鉄  勝利投手  敗戦投手  本塁打
第1戦 9-2   大友 工  稲尾和久  豊田泰光 広岡達朗
第2戦 7-3   堀内 庄  島原幸雄  豊田泰光
第3戦 1-0   藤田元司  稲尾和久  
第4戦 4-6   稲尾和久  藤田元司  広岡達朗 豊田泰光2発
第5戦 3-4   稲尾和久  大友 工  与那嶺要 中西太 稲尾和久
第6戦 0―2   稲尾和久  藤田元司  中西太
第7戦 1-6   稲尾和久  堀内 庄  中西太 長嶋茂雄
 稲尾は6試合に登板して4勝2敗で当然のMVPに輝いた。長嶋は新人で第7戦の本塁打はランニングホームランであった。

 1959年にはこの逆転日本一をクライマックスにした「鉄腕・稲尾和久物語」という映画が、西鉄球団の全面協力を得て東宝で作られている。稲尾が自身を演じ、白川由美、柳川慶子、志村喬、浪花千栄子らが出演した。「ゴジラ」などの特撮物で知られる本多猪四郎が監督を務めている。
×  ×  ×

 伝説の鉄腕の死を悼みながら、時計の針を1957年(昭和32)に巻き戻そう。

 日本中が沸く日本シリーズだったが、馬場にはじっくり観戦する余裕などなかった。目が見えない原因が脳腫瘍であり、選手寿命を絶つことになるかもしれない。ようやく病院を回り回った末、東大病院に辿りつき、手術を決断する。当時の馬場は野球ができないことは死を意味していた。どうしても野球をやりたい。出術に賭けた。
 合宿所の私物を整理し、背水の覚悟で病院の手術準備、ベッドの空きを待った。12月23日に執刀された。全身麻酔から覚めたのは手術後36時間も経っていた。病室の電球を見たとき、生還を確認し喜びが身体から沸いてきた。手術は成功した。しかし、当分入院加療が必要であり、野球をやるなどというスケジュールは病院側も持っていなかった。
 ところが奇跡的かつ超人的な回復をみせる。31日の大晦日に退院に漕ぎつけ、正月には軽い運動が出来るまでになった。並みはずれた体力は、一般人の回復速度よりはるかに早く、1958年の兵庫・明石キャンプに初日から参加したのであった。

 東京六大学野球で最多の通算8本塁打を記録したゴールデンボーイ長嶋茂雄の入団で、巨人キャンプは例年以上の活況を呈していた。(つづく)

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2007年11月11日日曜日

ジャイアンツ・馬場正平Ⅱ

 「替わりまして巨人軍ピッチャー馬場」。
場内アナウンスがアルプススタンドに響いた。一般人に比べれば大きい野球選手にあってもひと際デッカイ、雲を突くような大男がマウンドに立った。打席に歩いたのは“牛若丸”と異名をとる球界一の小兵だった。どよめきが球場を包み、その後に笑いまじりの歓声と拍手が沸き起こった。
 1957年(昭和32)8月25日、伝統の阪神―巨人戦。舞台は甲子園球場である。大量リード許した8回裏、巨人が投手を選手登録200cmの馬場正平に代えた。迎える打者は165cmの阪神・吉田義男だった。その差35cmだが、馬場の過少申告を考慮すれば、実際の差40cmはあったろうか。
 これが馬場の入団3年目に巡ってきたプロ野球初登板である。敗戦処理の起用だが、巨人監督の水原円裕の粋な演出でもあった。結果は三塁ゴロに仕留め、馬場に軍配が上がった。無難にその後の2人を「二塁フライ」「遊撃ライナー」に打ち取り、1イニングを無失点に抑えたのだった。

 プロ野球野球選手・馬場のハイライトは最初で最後となった先発であった。
 同年のレギュラーシーズンも押し迫った10月23日の中日戦。舞台は本拠地の後楽園球場。巨人先発はプロ初先発の馬場。中日は200勝をかけてマウンドに登る“フォークの神様”杉下茂である。大投手である杉下はこれまで通算199勝をあげ、大台に王手をかけていた。負ければ来年回しとなる可能性もあり、ぜひとも巨人戦で記録達成を意気込んでいた。
 結果は1―0で中日が勝利し、杉下は完封で、しかも区切りの200勝を巨人戦で飾った。敗戦投手は馬場だった。馬場は5回を投げ、被安打5、1奪三振、四死球0、1失点の好投を見せている。
 ちなみに唯一の打席は杉下の前に3球三振だった。2度目の打席は5回裏に回ってきたが、代打が起用された。 来年こそ一軍の手掛かりを掴んだ試合だった。
 杉下の200勝に「花を添えた」馬場の力投であった。両者ともに忘れえぬ試合となったのではないか。

 この試合を街頭テレビで見た記憶がある。馬場の投球フォームは、ゆっくりとしたワインドアップし、上げた左足を大またに開き上手から投げ下ろす。最高球速は140㌔台か。球種は直球とカーブの2種類のみ。小高いマウンド上(野球ルールでは25.4cmと規定)で2m超の上手投げから投じられるボールは、打者から見れば2階から投げたように感じ角度があり、打ちづらかったと推測する。細かい制球力はないが、四球で自滅することはないタイプとみた。

 1957年の3試合登板、合計7イニング、被安打5、3奪三振、四死球0、失点1、防御率1.29で、打撃は1打席1三振 打率.000――この記録こそ、馬場正平が日本プロ野球に在籍したことを示す唯一の証(あかし)である。

 馬場の初先発からわずか3日後に同年の日本選手権シリーズは開催された。1956年に続き読売ジャイアンツ―西鉄ライオンズの対戦であった。水原円裕と三原脩の因縁の名将対決で「巌流島の決闘」といわれ、注目を浴びた。結果は前年に続き西鉄が1引き分けを挟み4連勝して日本一に輝いている。
  1957年日本選手権シリーズ
   巨人―西鉄  勝利投手 敗戦投手  本塁打
第1戦 2-3      稲尾和久 大友 工  豊田泰光
第2戦 1―2    河村英文 堀内 庄  宮本敏雄
第3戦 4-5    稲尾和久 義原武敏  大下弘、関口清治、与那嶺要、宮本敏雄
第4戦 0-0      (河村―島原と木戸―堀内が好投譲らず)
第5戦 5―6    島原幸雄 木戸美摸  和田博実2発、十時啓視、川上哲治
 予想外の西鉄の圧勝だった。
 
 このシリーズの時期、馬場に病魔が襲う。
 視力が極端に低下した。ぼんやりかすみ、5m先の人物を判別できなくなった。何軒か病院をまわり診察を受けた結果、ようやく脳に腫瘍があることが判明した。視力の低下は脳の腫瘍が視神経を圧迫しているためだった。
 来年への手ごたえを掴んだ矢先。現役続行は難しく、手術も難しいとの宣告を受けた馬場は、「野球ができなくなる」と視力の低下以上に目の前が真っ暗になった。(つづく)

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2007年11月10日土曜日

ジャイアンツ・馬場正平

 まずお断りをしておく。表題は「ジャイアント馬場」でなく「ジャイアンツ・馬場」である。

×  ×  ×

 この項は、歌手の桑田佳祐が“世界の巨人”ジャイアント馬場とCM共演するということを、大衆かわら版で読んだのが発端となった。ご存知の方も多いだろう。過去にも黒澤明、植木等と合成映像で「出演」している缶コーヒーのテレビCMだ。

×  ×  ×

 ジャイアント馬場(1938年―1999年=享年61)がプロレスラーになる前、プロ野球の読売巨人軍の投手であったことを記憶に留めたい。巨人に在籍したのは5年間。一軍の登板機会はわずか3試合で7イニングだけ。奪った三振は3、失点1で防御率は1.29、打撃は1打席のみで3球三振という記録が残っている。投手の実績を見るバロメーターである生涯防御率は、400勝投手の金田正一(国鉄―巨人、実働20年)の2.34、鉄腕・稲尾和久(西鉄、実働14年)の1.98を上回る。当然、冗談半分に単純比較をするつもりはないが、意外というべき防御率の良さではないか。
 プロ野球選手歴5年・3試合。そしてプロレスラー歴38年・5,759試合、NWA世界ヘビー級王者であり頂点を極めた男――希少価値のある「巨人投手・馬場正平」を草野球音が追う。

 馬場が投げているのを生で見たことありますか?
 実は「ナマ馬場」を見たことがあるのだ。これが自慢だ。1957年(昭和32)だったと記憶する。当時、巨人の合宿所は多摩川の川崎・丸子橋のたもとにあった。野球少年の球音は、近所の友達と巨人の練習を見に出掛けた。たまたま練習が休みだったのか、多摩川の河原で馬場はキャッチボールをしていた。相手は安原達佳投手(倉敷工高)と十時啓視外野手(岩国高)だった。
 安原は上手投げから下手投げに投法改造して成功した投手である。十時は代打で登場した左の外野手だった。安原は1954年、十時は馬場と同じ1955年入団である。

 同期入団組には、十時のほかにV9の頭脳捕手であり西武監督として日本一に6度輝いた森祇晶(まさあき、旧名・昌彦=岐阜高)、いきなり主軸を打ち2度の打点王を獲得した外野手のエンディ宮本(登録名・敏雄、ボールドウィン高―ハワイ朝日)、投手で入団したが俊足巧打の外野手としてV9に貢献した国松彰(同志社大中退)、1957年に新人の藤田元司とともに17勝を稼いだ木戸美摸(よしのり、加古川農短大附属高)がいる。
 
 1955年(昭和30)の選手名簿を見ると、馬場は巨人選手のなかで最年少の17歳となっている。これは新潟・三条実業を中退して入団したためである。身長は200cm体重90kと登録されている。プロスラーとして公表していた209㎝135k(全盛時は145k)と比較すると、ひと回り小さい。大きいことを喧伝されることを嫌い過少申告していたのではないかと想像する。
 
 王貞治は1959年、長嶋茂雄は1958年の巨人入団。ONがまだいない巨人はどのような陣容だったのか。
 1955年の開幕戦オーダー(所属経歴は同年時)は、
(左)与那嶺 要=フェリントン高―3Aサンフランシスコ
(ニ)千葉  茂=松山商
(中)岩本  尭=田辺高―早稲田大
(一)川上 哲治=熊本工
(右)南村 侑広=市岡中―早稲田大―横浜金港クラブ―西日本
(三)広岡 達朗=三津田高―早稲田大
(捕)広田  順=ハワイ大―ハワイアサヒ
(投)別所 毅彦=滝川中―日本大(中退)―南海―近鉄―南海
(遊)平井 三郎=徳島商―明治大―全徳島―阪急―西日本
となっている。
 投手陣は別所のほか、剛球左腕の中尾硯志(京都商)、安定感のある下投げ大友工(大阪逓信講習所―神戸通信局―但馬貨物)、スライダーの藤本英雄(この年引退=下関商―明治大―巨人―中日)と並び、投打ともにビッグネームのオンパレードである。川上と千葉は兼任助監督であり、率いるは勝負師・水原円裕(本名・茂、のぶしげ=登録名は1955年~59年まで使用)であった。(つづく)

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2007年11月6日火曜日

「24」は「かっぱえびせん」

 「24」は「かっぱえびせん」のようだった。
 出来の悪いなぞかけのようだが、その心は「やめられない、とまらない」のである。なぞかけの解く対象が「かっぱえびせん」という旬でないのは、おやじのご愛嬌と許していただきたい。

 遅まきながら(もうとっくの昔に観たという人も多かろうが)、米国の人気テレビドラマ「24-TWENTY FOUR-」にはまったのは、1ヶ月半ほど前だった。散歩がてらに寄った横浜みなとみらいのTSUTAYA(草野球音はハマの隠居)で、「24」のレンタルDVDを手にとり自宅で観だしたら、とまらない。次々と借りまくった。6週間ほどで、SEASON1から5まで、DVD60巻を観てしまった。
 1巻に2時間分(2話)が収録されている。ドラマ1話の1時間枠はCMが入るので約45分。1巻は90分だから、60巻となると5,400分で90時間となる。

 ドラマの展開が速くかつ複雑で、多岐にわたる登場人物、さらに飽きさせない予算外の筋書きの連続。主人公のジャック・バウアー(キーファー・サザーランド)は米国連邦機関CTUのロサンゼルス支局に勤める捜査官で、凄腕である。拳銃は名手にして、パソコンはSE並み、飛行機の操縦もできれば、医学の知識もあるスーパーマンなのだ。ご覧になっている方が多いので、生兵法は怪我の基となる。内容は詳しく語らない。
 配役が面白い。CTUの情報分析担当官であるクロエ・オブライエン(メアリー・リン・ライスカブ)に味がある。しかめ面で口下手だが、バウアーを支える活躍をする。料理を引き立てるわさびのような存在と見た。

 「かっぱえびせん」といえば、思い出すのは、プロ野球大毎オリオンズで活躍した山内一弘(旧名・和弘)の異名である。「シュート打ちの名人」「オールスター男」などと言われた現役時代は、走攻守そろった外野手で首位打者1回・本塁打王2回・打点王4回に輝いた。打撃コーチとして手腕も高く、読売、阪神で務め、またロッテと中日で監督経験もある。
 1971年から1974年まで打撃コーチを務めた読売で、その打撃指導が熱心で教えだしたら「やめられない、とまらない」ことから、当時の武宮敏明寮長が「まるで“かっぱえびせん”のようじゃなぁ」と言ったことを聞きつけた巨人番が原稿にしたことが発端となり、有名なテレビCMのフレーズもありあっという間に広まった。

 かっぱえびせん(カルビー)が発売されたのは1964年(昭和39)のこと。創業者の松尾孝がエビのてんぷらが大好物であったのが、ヒントとなって生まれた製品という。かっぱえびせん発売の昭和39年、世紀の大トレードといわれた小山正明との交換が成立し、山内一弘は大毎オリオンズから阪神タイガースに移籍した年だった。

 奇縁である。

2007年11月4日日曜日

竜馬も北辰一刀流手練れ

 竜馬はもとより、後年、性沈毅といわれた武市半平太も、若かった。
 その夜、千葉重太郎とさな子を連れ、夜陰にまぎれて四人で品川の藩邸をぬけだしたのである。見つかれば、かるくて切腹、おもければ打首だろう。
 めざす相手は浦賀にうかぶ米国艦隊であった。四隻の黒船を、北辰一刀流と鏡心明智流の腕で手づかみにしてくれようという。
 ――司馬遼太郎「竜馬がゆく」より=原文のまま
×  ×  ×
 
 嘉永6年(1853)6月3日、米国の東印度艦隊司令長官M・C・ペリーが4艦を引きつれ相州浦和に現れ、投錨し、将軍に米大統領フィルモアの親書を呈するために来航した旨を伝えた。黒船来航である。この日を境に日本中が騒然となった。ペリー来航から明治元年(1868)の15年間を「幕末」という人は多い(江戸末期の1830年代か1840年代から江戸幕府が崩壊するまで、とより長い期間で捉える説もある)。
 
 泰平の眠りをさます上喜撰、たった四はいで夜もねられず
と江戸に狂歌が流行った。蒸気船と同音異義語の上喜撰はお茶の高級品名。

 江戸時代は、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた1603年(慶長8)から、徳川慶喜が大政を奉還して将軍職を辞した1867年(慶応3)までの、江戸に徳川幕府の存続した265年間をいう。またこれも家康が関が原の闘いに勝利を収めた1598年(慶長3)を始期とする説もある。

 天下泰平のときは遊惰に溺れがちだが、有事となれば武勇に頼るのだろうか。幕末には武芸が盛んであった。
 北辰一刀流の創始者は千葉周作(1793年―1856年)である。
 1822年(文政5)に日本橋品川町に玄武館を構え、6年後に神田お玉が池に移転している。従来の精神論に偏らず合理的に剣技を磨くことを重視し、袋竹刀と防具を使用、習得までの過程を簡素化し時間を短縮したことと謝礼が安価なことで、門下生を増やした。弟子に尊攘の策謀家と知られる清河八郎、新撰組の山南敬助、藤堂平助がいる。水戸藩の水戸斉昭の招きで剣術指南役を務めた関係で水戸藩士が多く通い、大老井伊直弼の首をとった有村治左衛門も門下生であった。

 冒頭の坂本竜馬は千葉周作の門下ではなく、周作の実弟・定吉の京橋桶町の道場で腕を磨き、北辰一刀流免許皆伝を手にしたといわれる。重太郎は定吉(「竜馬がゆく」では貞吉となっている)の長男で、さな子は定吉の娘であり剣士である。

 武市半平太は鏡新明智流の免許皆伝で塾頭も務めた。鏡新明智流の士学館四代目桃井春蔵が道場主で、京橋浅蜊(あさり)河岸にあり、土佐藩邸が近く土佐藩士の門弟が多かった。手錬れとしては、土佐勤皇党の武市半平太、維新後宮内大臣に就く田中光顕(みつあき)、「人斬り以蔵」の異名をとる岡田以蔵などがいる。

 玄武館、士学館に並ぶ幕末三大道場は神道無念流、斎藤弥九郎の錬兵館である。神田俎(まないた)橋際に建てたが、後に九段坂上(現靖国神社境内)に移転している。そのころから長州藩士が多く入門した。塾頭を務めた桂小五郎、高杉晋作、品川弥二郎ら維新の志士を育ている。維新後、弥九郎は明治政府に出仕している。

 赤胴鈴之助―平手造酒―坂本竜馬の北辰一刀流つながりである。

2007年11月1日木曜日

人生枯れ落葉か平手造酒

 平手造酒赤胴鈴之助と同門なのだ。師匠は北辰一刀流の創始者、千葉周作。前回の赤胴鈴之助からの連想である。

 平手造酒も赤胴鈴之助と同様に架空の人物だと思っていたら、平田三亀(ひらた・みき)という剣士が実在しモデルになっているそうだ。「そうだ」という伝聞口調で申し訳ないが、詳しいことは知らない。ここでは映画や浪曲、歌謡曲でおなじみの、天保水滸伝の作中人物である「平手造酒」として話を進める。

 戦前(1939年=昭和14)の田端義夫のヒット曲「大利根月夜」(作詞・藤田まさと、作曲・長津義司)では、
 ♪もとをただせば 侍育ち
 腕は自慢の 千葉仕込み
と出てくる。
 さらに、戦後(1959年=昭和34)三波春夫が唄った「大利根無情」(作詞・猪又良、作曲・長津義司)では科白の中に、
 お玉ケ池の千葉道場か。
 うむ。。。平手造酒も今じゃやくざの用心棒、
 人生裏街道の枯れ落葉か。
とある。

 平手造酒は千葉周作道場で俊英といわれた剣豪だったが、酒がもとで失敗し名門・玄武館を追われた。江戸を離れ浪々の末に辿り着いた利根川べりの町で、腕を見込まれ土地の親分、笹川繁蔵の食客となる。そこには繁蔵と勢力を二分する顔役、飯岡助五郎との激しい縄張り争いが起こっていた。
 不治の病に侵されていた平手造酒は、心ならずも巻き込まれたやくざの抗争に、一宿一飯の義で手を貸すことになり、天保15年(1844)8月、大利根河原の決闘で命を落とす。悲愴な終焉である。

 ところで、「大利根月夜」と「大利根無情」――ふたつの曲の作曲者はともに長津義司(1904年―1986年)である。
 あの三波春夫の
 ♪知らぬ同士が 小皿叩いて
 チャンチキおけさ
の「チャンチキおけさ」(1957年=昭和32)も長津作品。
 20年の歳月を経て「平手造酒」という同じテーマで曲を作ったことになる。数奇な浪人に心を動かせるなにかがあったのだろうか。

2007年10月30日火曜日

僕らのナマカ赤胴鈴之助

 ♪がんばれ 頼むぞ 
  ぼくらの仲間 赤胴鈴之助
  懐かしい「赤胴鈴之助の歌」が流れていた。

 ぶらり散歩に出る。新横浜の「ラーメン博物館」。館内は昭和30年代の雰囲気に満ちていた。オーシャンバー、駄菓子屋、露店、学校給食のあげパンも売っていた。そんななかに札幌けやき、熊本こむらさき、荻窪春木屋など全国有名ラーメン店が配置されている。

 赤胴鈴之助は小学生のころ熱狂した漫画である。少年向け漫画雑誌「少年画報」に連載された。武内つなよしの原作と永らく思っていたら、1954年(昭和29)少年画報で第1回が掲載されたところで福井英一という方が急死したため、その後を武内つなよしが受け継いだということを、この原稿を書くにあたり初めて知った。

 鈴之助は神田・お玉が池の北辰一刀流の千葉周作道場の少年剣士で、父親の形見である赤胴をつけることから赤胴鈴之助と呼ばれる。
 少年ながら剣の達人で「真空斬り」という必殺技を持っている。心と技を磨き、成長しながら幕府転覆を企てる鬼面党と対決したり――冒険ありチャンバラあり、胸躍らせて愛読したものだ。

 ラジオドラマ(ラジオ東京、後のTBSラジオ)でも放送され、ヒロインの千葉さゆりには吉永小百合が出演していた。映画では大映で鈴之助を梅若正二が演じていた。

 そう言えば、小島三児、原田健二とコント集団トリオ・スカイラインを組み、バカ役を演じていた東八郎がギャグに使っていたっけ。
 ♪がんばれ 頼むぞ
 ぼくらのナマカ 赤胴鈴之助

2007年10月29日月曜日

和宮の「空蝉の唐織ごろも」

 ぶらり散歩に出る。
 東京・上野公園にある国立博物館で「大徳川展」を観た。徳川将軍宗家はじめ、尾張・紀伊・水戸の御三家、久能山・日光・尾張・紀州・水戸の東照宮などに伝えられる名品・宝物の数々300余点が一同に会する、まさに「大」がつく催しといえるだろう。
 絢爛豪華。将軍の往時の威光に感心した。

×  ×  ×

 14代将軍の徳川家茂が皇女和宮に贈った西陣織が展示されていた。これが、あの「空蝉(うつせみ)の唐織ごろも」と思いを馳せる。
 以下は、日本史好きの方ならご存知の話だが、なぞらしていただきたい。

 幕末。150年ほど前のことである。皇女和宮は1861年、14代将軍・徳川家茂に降嫁した。ともに16歳。政略結婚だった。
 ペリー来航(1853年)以降、徳川幕府は弱体化し体制は大きく揺らいでいた。なんとか天皇家の力を借りて政権地盤を固めようとする公武合体政策にそって姻戚関係を築こうとしたのである。
 いやいや江戸に下った和宮だが、13代将軍正室の天璋院との確執やら生活習慣の違いから泣きの涙で暮らすが、ただひとり味方になったのが家茂だった。いつしかふたりは仲むつまじい夫婦になっていく。
 1866年第2次長州征討(幕長戦争)が起こり、家茂は出征するが、大阪城で病に臥し、死去する。享年20歳という若さだった。
 この長州征討の折、まさか死ぬとは思っていない和宮は家茂に土産を所望する。それが西陣の織物である。家茂の死後、側近から織物を手渡された和宮は、病中にも土産を忘れていない家茂を思い号泣するのだった。

 そのとき詠んだのが、
「空蝉の唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」
という歌である。

×  ×  ×

 家茂は和宮を一途に愛し側室を設けなかったというが、本当だろうか。

2007年10月26日金曜日

♪ああ 哀愁の街に霧が降る 

昭和31年編

夕刊の小さき訃報に
♪ああ 哀愁の街に霧が降る
と口遊(くちずさ)む

×  ×  ×
 山田 真二さん(やまだ・しんじ=元俳優、元歌手、本名山田常高=やまだ・つねたか)が10月15日、間質性肺炎で死去、70歳。葬儀は親族で済ませた。映画「三四郎」などに出演し、「娘が口笛吹く時は」で1959年のNHK紅白歌合戦にも出場した。
×  ×  ×
 
 山田真二は東宝の二枚目映画俳優であったが、同時に歌手でもあった。印象に残るのは「哀愁の街に霧が降る」のヒット曲である。作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正の鉄壁コンビの1956年(昭和31)の作品。
 
 昭和31年の経済白書では「もはや戦後ではない」と記されている。敗戦の傷跡も癒え、ようやく日本株式会社が高度成長の軌道に乗り出したころだろうか。
 
 同年のヒット歌謡曲には、
三橋美智也の「リンゴ村から」「哀愁列車」
島倉千代子の「逢いたいなァあの人に」「東京の人さようなら」

曽根史郎の「若いお巡りさん」
大津美子の「ここに幸あり」
美空ひばりの「波止場だよお父つぁん」
鈴木三重子の「愛ちゃんはお嫁に」
コロムビア・ローズの「どうせひろった恋だもの」
三浦光一の「東京の人」
などがある。

 球音は個人的に「哀愁列車」(作詞・横井弘、作曲・鎌多俊與)の一番の歌詞
旅をせかせる ベルの音
未練心に つまずいて
と、いう2つのフレーズにしびれるのだ。

2007年10月25日木曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅵ

 「黒い霧事件」に端を発した暗雲は、リーグ全体に垂れ込めていた。1965年(昭和40)から読売ジャイアンツが9年連続で日本一に輝き、人気面でも後楽園球場の巨人戦は大入りを続けていたが、パリーグは不入りが常態化していた。

 ロッテには永田の大映が撤退しロッテが球団を引き受けたものの東京球場の賃貸契約問題があり、西鉄には球団譲渡先を探さなければならなかった。さらに東映フライヤーズにも火種があった。
 1971年8月、東映の社長であり球団オーナーの大川博が肝硬変で急死した。永田雅一と並ぶ野球好きの名物オーナーだった。1962年水原茂監督のもと張本勲、土橋正幸、尾崎行雄らの活躍で日本一制覇し、背番号100をつけ優勝パレードを行っている。
 後任社長は敏腕プロデューサーとして名高い岡田茂が務めることになった。岡田は本業の映画が経営不振の折、儲からない球団経営には消極的だった。球団存続が囁かれていた。

 1972年秋、西鉄の譲渡先探しに奔走した中村長芳は外資系の飲料メーカーであるペプシコーラと交渉、契約寸前まで漕ぎつけた。ところが東映の球団身売り騒動が持ち上がった。
 ペプシコーラはごたごた続きのパリーグ球団の経営参画は得策でないと判断し、交渉を打ち切った。さらに中村は音響メーカーのパイオニアにも声をかけたが、話はまとまらなかった。
 西鉄の見売り先が見つけられない中村は、私財を投じて金を工面し西鉄を買収し、個人会社福岡野球株式会社を設立した。複数球団の所有はできない協約に従い、ロッテのオーナー職を降りた。1973年からはゴルフ会員権売買の太平洋クラブ(後にクラウンライター)と提携先を開拓しながら、なんとか6年間球団を維持したものの、経営破綻をきたし1978年西武グループの総帥、堤義明に球団経営の引継ぎを要請した。福岡の地から離れ、ライオンズは西武ライオンズとして埼玉県所沢に本拠地を移転する。福岡に球団が戻ったのは、1989年まで待たなければならなかった。ダイエーが南海ホークスを買収し、福岡に本拠を移転した。2005年からはダイエーから経営権はソフトバンクに移っている。
 一方、東映はキャンプが迫った1973年1月、岡田茂と東急グループの五島昇が球団を不動産開発、貸ビル事業、パチンコ業の日拓ホームに売却することを決断した。その日拓ホームは1年で球団を手放し、1974年からは日本ハムが球団経営を行っている。蛇足ながら、この10月8日にタレント神田うのと結婚した西村拓郎(日拓ホーム代表取締役社長)は、球団買収した日拓オーナー西村昭孝(日拓ホーム代表取締役会長)の長男である。

 さて東京球場に話を戻そう。
 
 1972年のシーズンオフ。西鉄の譲渡先は中村が福岡野球株式会社を立ち上げ、なんとか落着した。複数球団のオーナーにはなれない野球協約の縛りがあり、ロッテはオーナー不在となった。後任には表舞台を固辞していた重光武雄がやむなく就いた。重光は旧知の400勝投手、金田正一を監督に迎えることになる。
 「角福代理戦争」の様相を呈していた東京球場問題は中村が去り、障害をひとつ越えたことになったが、新監督のカネやんこと金田が不要論と唱えた。理由は投手出身らしく左中間と右中間が直線的でふくらみがなく本塁打量産しやすく、投手泣かせ球場であることだった。余談だが、東京球場で11年間にセパ合わせて841試合が行われ、1,914本の本塁打が飛び交った。1試合平均2.28本と、なるほど本塁打量産球場だった。
 
 国際興業の社主である東京球場の経営権を握った小佐野賢治は、「このまま貸し球場として持っていても採算はとれない。球団と球場は一体的に経営するが理想」と、新オーナーの重光に買取りを強く求めた。実際に当時のロッテ本社があった東京・西大久保に足を運び直談判している。しかし、ロッテは従来通りの賃貸契約を望み、交渉は平行線を辿ったが、「東京球場を買うくらいなら、その金を補強に回してほしい」という金田の強硬意見もあり、交渉を打ち切っている。以来ロッテは1973年から1977年までの5年間仙台を中心として渡り歩く流浪の球団となった。1978年からは川崎を本拠とし、1992年からは千葉ロッテとして今日に至っている。
 ロッテの断に対し、小佐野は「儲からない球場は廃業し閉鎖する。来シーズン以降は使用させない」とした。

 東京球場のプロ野球常設球場の歴史はわずか11年の使用でここに閉ざされたのだった。

 球場閉鎖から35年の歳月が流れた。ラッパと言われた男が大好きな野球を自前の球場で選手にやらせたい、採算など度外視して作った夢の球場(フィールド・オブ・ドリームス)であった。1985年(昭和60)永眠。死後の1988年、日本の野球の発展に大きな発展と貢献した野球人を永久に讃える野球殿堂入り(特別表彰)を果たしている。
 
 その顕彰文には以下のように記してある。
昭和23年プロ野球大映チームのオーナーとしてリーグに加盟すると、映画制作同様たちまち球団経営にも行動力を発揮し、24年には二リーグ分立の推進役を果たした。パ・リーグの人気高揚を願い、またフランチャイズ制の理想的な確立を求めて東京球場を建設するなど、球界の発展のため誠心誠意の情熱を注いだ(原文のまま)

 東京都荒川区南千住6―45。東京球場跡地には荒川総合スポーツセンター、南千住野球場(グラウンド2面)、南千住警察が存在する。佇めば、そこには永田が奏でるラッパの音が聞えるはずである。(完)

2007年10月23日火曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅴ

 オリオンズ球団を引き受けた株式会社ロッテの社長、在日韓国人1世の重光武雄(本名・辛格浩)は球団オーナーとして表舞台に出ることを嫌い、岸信介に永田の後任オーナーを一任した。岸が指名したのが、岸の秘書官を務め片腕として働いた中村長芳だった。
 中村は10月18日に郷里の山口市で逝去した。
 2年間ロッテのオーナーを務めるわけだが、中村は岸の女婿(長女・洋子と結婚、その次男が前総理大臣の安倍晋三)である安倍晋太郎とは山口県立山口中学(県立山口高校)の同期生という因縁だった。

 1972年(昭和47)、永田は断腸の思いで東京球場まで手放すこと決意した。深交がある、政財界に顔が効くフィクサー児玉誉士夫に買い手探しを依頼、結果、児玉は国際興業社主の小佐野賢治(「ロッキード事件」がらみでと互いに被告となった)を選んだ。小佐野は戦後ホテル事業に手をつけ東京急行電鉄の創業者、五島慶太の知遇を得て、1947年国際興業を創設した。1950年には田中角栄が社長を務める長岡鉄道(後の越後交通)のバス部門拡充に協力したことから親交が始まり、「刎頚の友」といわれる関係になった。

 東京球場の大家は小佐野であり、店子は中村となった。小佐野の友は田中角栄で、中村の師は岸であり、友は安倍晋太郎だった。岸は首相を退いた後も政界に隠然たる勢力を示していた。岸の後釜は福田赳夫である。福田派の中核を成し、福田の後継と目されるのが安倍であった。
 当時政界では激しい権力抗争「角福戦争」が勃発しており、東京球場はその代理戦争の様相を呈していた。球場賃貸を巡り暗雲が立ち込めていた。

 永田は1971年球団の経営権をロッテに譲り、東京球場を国際興業に手放したのが1972年のことだが、東京球場譲渡の前に、パリーグでは極秘裏に西鉄ライオンズの身売り話が進められていた。
 1972年シーズン当初のオーナー会議で、西鉄本社の木本正敬社長は「西鉄は今季限りで球団経営から撤退したい。みなさまの協力を得て譲渡先を見つけてもらいたい」と切り出した。会議は騒然となったが、永田からロッテのオーナー職を受け継いだ中村が政財界の岸コネクションを利かせ西鉄の売却相手を探すことを全面的に託された。

 西鉄は1956年(昭和31)年から3年連続日本一に輝いている。監督に三原脩、主砲に中西太、豊田泰光、鉄腕・稲尾和久を擁した強豪だった。1963年にも南海に14ゲーム差離されながら稲尾らの奮闘で大逆転のリーグ制覇をしている。
 プロ野球を震撼させる「黒い霧事件」が起こったのは1969年だった。同年10月に西鉄の永易将之が暴力団関係者に敗退行為(八百長)を持ちかけられ実施したのが発端で、次々に敗退行為者が発覚していった。西鉄ではエースの池永正明、与田順欣、益田昭雄、中日の小川健太郎、東映・森安敏明らが永久出場停止処分(永久追放)となっている。
 池永の永久追放、主力打者の期限付きの出場停止、事件を因とした退団により、西鉄は戦力を大幅に失った。
 事件発覚の1969年は5位に終わり、1970年から3年連続で最下位と低迷した。そればかりか、この忌まわしい事件をきっかけに観客の足も遠のいた。平和台球場に閑古鳥が鳴いた。
 親会社から見れば球団は宣伝媒体で許容範囲の額なら赤字もやむを得ないとする本社社長もいることはいる。しかし、八百長球団という汚名は最悪といっていい。経理部門出身の木本は早く球団を手放したいと判断したようだ。(つづく)

2007年10月21日日曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅳ

 「パリーグを愛してやってください」。永田ラッパが高らかに響きわたった1962年6月2日。東京球場開設ゲームは大毎オリオンズ対南海ホークスだった。始球式は永田の盟友で総理大臣へと自ら画策した当時農相の河野一郎がアメリカ式に一塁側ダッグアウトから行っている。これも永田の演出である。河野の実弟が河野謙三、次男が河野洋平、河野太郎は孫にあたる。
 ゲームは南海の主砲・野村克也に記念すべき東京球場開設第1号を献上したものの、9-5で快勝した。永田はご満悦だった。

 デジタル大辞泉で「喇叭(らっぱ)を吹く」を引くと、「大きな事を言う。ほらを吹く。大言壮語する」と出てくる。永田には確かに大言壮語の癖はあったが、その話にはユーモアがあり言行一致を目指す真摯さがあった。映画記者や野球記者は「ラッパさん」と親しみを込めて影で呼んでいた。

 東京球場に本拠を構えた大毎オリオンズだったが、最初の1962年こそ73万人の観客を動員したが、その後はジリ貧となった。後楽園や神宮と比べ南千住というアクセスの悪さと成績不振が原因だった。
 東京球場設立の1962年から本拠地撤退の1972年までの11年間のオリオンズの観客動員数は、
 1962年 736,300人
 1963年 483,950人
 1964年 465,500人
 1965年 436,800人
 1966年 295,000人
 1967年 285,800人
 1968年 360,500人
 1969年 415,300人
 1970年 509,500人
 1971年 459,300人
 1972年 310,000人
となっている。
 
 映画産業の斜陽化と球団経営難が加速度的に重なっていった。

 1971年(昭和46)永田はついに大映が持つ球団経営権をロッテに譲渡する苦渋の決断を下した。映画は自分自身であり、野球は分身とまでいっていたが、背に腹は代えられず、まず球団を手放したのだった。東京球場の経営も思わしくなく累積赤字は15億円を超えていた。
 1969年永田の盟友である元総理大臣の岸信介が仲介の労をとりロッテを冠スポンサーに充てた。これは現在で言うネーミングライツだった。さらに経営悪化に苦しむ永田は、1971年球団経営の全権をロッテに譲った。同年の正月2日の出来事だった。
 数日後、東京球場の選手・関係者食堂に全選手、球団職員を集合させた永田は涙を流し、「小山、木樽。。。」と選手の名をあげながら、心からの叫びをあげた。
 「オレは去るが、優勝して日本一になってくれよ」。
 
 「永田ラッパ」の悲しい調べだった。(つづく)

2007年10月20日土曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅲ

 東京球場――永田雅一にとってそれはまさに「フィールド・オブ・ドリームス」(夢の球場)であった。

 東京球場は1961年(昭和36)7月着工した。当時、読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、大毎オリオンズの3球団が後楽園球場を本拠地としており、同一球場で違うカードを開催する変則ダブルヘッダー実施を余儀なくされるほど過密日程が常態化していた。後楽園球場では人気のある読売が観客動員を見込めるため夜のゲームに開催し、大毎などが昼から薄暮にかけてのゲームに回っていた。真打ジャイアンツの前座扱いであり、「自前の球場をもちたい」との永田の思いがあった。

 その時すでに本業の映画産業にも翳りが見えていた。

 東京都荒川区南千住には、戦前には千住製絨所があり、戦後には民間払い下げになり大和毛織の生地工場があった。1950年代に入り業績悪化と工業用水不足、労使間争議などで1960年に閉鎖されることになった。都内数箇所を球場用地として自ら視察した永田は、工場閉鎖という絶好のタイミングに私財を投げうって球場建設をこの地に決めている。総工費は28億円といわれた。

 球場候補地のなかには、現在プリンスホテルが建っている東京・芝の土地を使ってどうか、と西武グループの総帥・堤康次郎から進められたが、永田は断っている。西武の経営、資本参加・介入などを嫌い、「自前」に拘ったようだ。南千住の球場は観客動員数に伸び悩み手放すことになるわけだが、交通便のよい芝に東京球場が建っていたら、わずか11年で常設球場としての役目を終えることはなかったかもしれない。今となっては詮無い想像であろう。
 竣工は1962年5月31日、1年足らずで築き上げた。6月2日にはパリーグ全6球団が集結し、お披露目が行われた。3万5000人とスタンドを埋め尽くした満員の観客に向かい、永田は例の低いドスの効いた声で絶叫した。 高らかに「永田ラッパ」が東京球場に吹き鳴らされた。
 「みなさん、どうぞパリーグを愛してやってください」
 米大リーグの球場のような先端設備を有しながら庶民が気軽に「下駄履き」で通える球場がほしい、という永田の願いが叶った。
 
 米サンフランシスコのキャンドルスティック・パークを模し、6基の照明塔がグランドの選手を照らし出した。照明塔は2本のポール型の鉄塔で照明を支えたモダンなスタイルだった。外野ばかりか内野のダイヤモンド部分も日本の常設球場で初めて天然芝が植えられていた(後に手入れの煩雑さや経費面からクレー舗装になった)。ゆったりした座席。スタンド下に選手用設備があった。屋内ブルペンは幅6メートルで2人が投げられた。ダッグアウト裏にはトレーナー室、医療室、その奥には広いロッカールームがあった。これまでの隣の選手と身体が触れ合うように着替えていた姿が一変し、ゆったりと自分の空間を得られた選手には大好評であった。
 左翼スタンドから三遊間後方の地下にはボーリング場が併設され、シーズンオフには内外野の椅子席の上にはスケートリンクを設置できるようになっていた。
 両翼は90メートル、中堅120メートル。左中間と右中間は直線的でふくらみがなった。「ホームラン量産球場」といわれる所以で、当時最先端設備の球場の数少ない欠点であった。しかし、数々の先駆的な設計手法は今後の球場作りに大きな影響を与えたのだった。

 東京球場が開設された1962年、大毎オリオンズの観客動員数は736,300人と、前年の610,250人を2割強上回った。(つづく)

2007年10月18日木曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅱ

 1970年改称2年目のロッテ・オリオンズは、どんなチームだったろうか。
 改称の1969年はリーグ3位だったが、1970年は10年ぶりの優勝へ戦力は整っていた。強力打線をバックに大量点を奪い投手陣が守り切る試合運びで勝ち進んだ。シーズン試合数130試合を闘い80勝47敗3分、勝率.630で2位の南海ホークスを10.5ゲームの大差をつけてのパ・リーグ独走優勝だった。
 チーム打率は.263、チーム本塁打数166本でいずれもリーグ1位で、チーム防御率は3.23でリーグ2位の成績だった。
 個人打撃成績を見るとアルトマン3位(.319、30本塁打)、ロペス4位(.313、21本塁打)、有藤6位(.306、25本塁打)に10傑に3人が並び、江藤慎一、榎本喜八、山崎裕之、池辺巌の強打者を揃えていて、日本プロ野球史上初となるチーム5人が20本塁打を記録、打線のどこからでも得点できた。投手陣では最優秀選手賞を獲得した木樽正明が21勝10敗で防御率2.53、最多勝投手の成田文男が25勝8敗で防御率3.21、小山正明が16勝11敗で防御率2.30と、3本柱が奮闘した。
 監督は濃人渉、打撃コーチ矢頭高雄、投手コーチ近藤貞雄、守備コーチ土屋弘光、二軍監督に大沢啓二がいた。
 
 日本シリーズでは読売ジャイアンツに1勝4敗と敗れている。日本一9連覇へ驀進中の川上哲治率いる巨人は長嶋茂雄、王貞治が全盛期を誇っており、V6を果たしている。

 ちなみに「10年ぶりのリーグ優勝」だが、先の優勝は西本幸雄が指揮をとっていた大毎オリオンズで1960年(昭和35)のことだった。大毎は山内和弘、田宮謙次郎、葛城隆雄、榎本喜八のミサイル打線が売り物で、新監督に迎えた三原脩の采配・起用の妙で前年の最下位から優勝に漕ぎつけた大洋ホエールズとの日本シリーズとなった。大方の下馬評では大毎の優位は動かなかった。しかし蓋(ふた)を開けると予想外の展開で、大毎はまさかの4連敗を喫した。秋山登・土井淳のバッテリーや近藤昭仁の大洋勢は三原魔術に踊り大活躍した。日本シリーズ後、敗戦の悔しさからか永田が西本の采配に口を出し悶着が起き、その結果、永田は優勝監督の西本の首を切ったのである。

×  ×  ×

 本日2007年10月18日、この「ラッパの聞える東京球場」に登場を予定していた人物の訃報が飛び込んできた。ニュースをお知らせする。
 元ロッテ・オリオンズ、太平洋クラブ・ライオンズのオーナーで元岸信介首相秘書官の中村長芳(なかむら・ながよし)さんが18日、急性硬膜下血腫のため死去した。享年83歳だった。岸信介元首相の秘書官を務めた後、1971年にプロ野球ロッテのオーナーに就任。72年に太平洋クラブ(76年10月にクラウンライターに変更)のオーナーに就き、78年秋に西武へ売却するまで務めた。

×  ×  × 

  球音は中村長芳さんが1972年(昭和47)オフシーズン、ロッテから太平洋クラブへ移籍するまで、東京・赤坂の中村さんのマンションに朝駆け夜討ちの日々を2ヶ月続けたことがある。最終的に西鉄ライオンズの買収そして太平洋クラブとの業務提携、太平洋クラブ・ライオンズのオーナー就任というニュースは抜けなかったが、貴重な経験を積ませていただいた。中村さんと奥さんは新米記者の球音に親切に接してくれた。冥福をお祈りする。
 
 次回は永田の愛した東京球場の話題を戻す。(つづく)

2007年10月17日水曜日

ラッパが聞こえる東京球場

 それは異様な光景だった。日本プロ野球史上初めての出来事といっていい。
 優勝が決まった。マウンドに歓喜の輪が広がった。監督、選手がダッグアウトから堰を切ったよう飛び出した。と、同時に観客、ファンもグラウンドになだれ込んだ。胴上げが始まった。
 夜空に舞ったのはなんと永田雅一だった。胴上げの順番はまず監督、それから主力選手というのが通り相場だが、いの一番が球団オーナーだった。選手をさしおいてファンが入り乱れて小柄な男を宙に放り上げている。東京音頭の大合唱が轟(とどろ)いた。
 1970年(昭和45)10月7日。ロッテ・オリオンズがパシフィック・リーグ優勝を飾ったのは、東京下町の南千住(荒川区)にある東京球場(正式名には東京スタジアム)である。

 振り返れば、野球人・永田雅一の絶頂の時ではなかったか。舞台は彼が私財を投じて作った「夢の球場」だった。

 プロ野球常設球場としてわずか11年しか使用しなかった東京球場の数奇な運命を、草野球音は追う。

 永田が社長を務める本業の映画会社、大映は経営難に喘いでいた。球団、球場経営も「危険水域」に達していた。1969年、「昭和の妖怪」といわれ総理大臣の座を引いてもなお政財界に影響力のあった盟友である岸信介の仲介で菓子メーカーのロッテを冠スポンサーに資金援助を受けることになった。東京・オリオンズがロッテ・オリオンズに改称されている。チーム名の「東京」には愛着がある。東映、読売、国鉄もフランチャイズは東京だが、球団名に「東京」を名乗るのはオリオンズだけ、それが永田には自慢だった。が、背に腹は代えられない。球団名はどうあれ、とにかく優勝の思いがあった。(つづく)

2007年10月14日日曜日

大映はカツライスの味

 悲しみの大女優がテレビ画面に映し出された。誰にでも老いは迫る。例外は許されないはずだが、往年を彷彿させる美しさがいまだ名残を留めていた。
 世界的な建築家として知られる黒川紀章(くろかわ・きしょう)さんが心不全のため死去した。享年73歳。2007年10月12日のことだ。妻は女優の若尾文子さんである。
 
 本題は訃報から非情にも大映に飛ぶ。
 大映株式会社は1942年(昭和17)から2002年(平成14)まで存在した映画会社で、現在は角川映画が引き継いでいる。

 草野球音は1960年代を中心にした大映に郷愁のゆくえを追う。

 1947年に永田雅一が大映社長に就任すると、人気作家の川口松太郎(1899年―1985年)を専務に据えた。世の女性の紅涙を絞ったのは三益愛子(1910年―1982年)の「母物シリーズ」である。戦後10年間にわたり人気を博した。1951年、川口松太郎と三益愛子は正式に結婚している。
 1951年「羅生門」(黒澤明監督)でベネチア国際映画祭グランプリ、1953年「雨月物語」(溝口健二監督)で同銀獅子賞、1954年「地獄門」(衣笠貞之助監督)でカンヌ国際映画賞グランプリに輝き、大映作品の芸術性を高めている。
 若尾文子は1952年に映画デビューし「十代の性典」を経て、京マチ子、山本富士子と並ぶトップ女優となっている。男優はなんといっても大御所の「永遠の二枚目」長谷川一夫を頂点に、市川雷蔵(1931年―1969年)がスターとなっていた。60年代に入り勝新太郎(1931年―1997年)、そして田宮二郎が台頭する。
 さらに男優に船越英二、根上淳、菅原謙二、川口浩、川崎敬三、高松英郎、成田三樹夫、女優に野添ひとみ、叶順子、江波杏子、中村玉緒、藤村志保、安田道代(大楠道代)と綺羅星の如く輝いていた。
 
 さてカツライスの意味を分かりますか?
 カツライスとは勝+雷。大映の誇る勝新太郎と市川雷蔵のことで、最強の二本立て上映を指す。映画デビューはふたりとも1954年の「花の白虎隊」。二本立ても死語になっている。

 雷蔵の魅力はクールな二枚目、凛々しい品格の美しさである。37歳惜しまれながらの夭折だが、その存在は映画史に残る。着物の裾さばきが見事で、どんな激しい立ち回りを演じても裾が乱れなかったという。「眠狂四郎」「忍びの者」「若親分」「陸軍中野学校」の人気シリーズがあり、三島由紀夫の「金閣寺」を映画化した「炎上」、「剣」、「華岡青洲の妻」など名作を残す。
 勝新は雷蔵に先を越され売れなったが、1960年白塗りの二枚目を捨てた「不知火検校」が当たり開花した。代名詞となった「座頭市」はじめ「悪名」「兵隊やくざ」の人気シリーズがある。若山富三郎は兄、妻は中村玉緒。
 カツライスは昭和30年代日本映画の黄金期、お盆と正月の大映の定番メニューだった。

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 東京・銀座の老舗洋食屋「煉瓦亭」のカツライス(ポークカツレツ)の値段は、昭和30年に120円だった。40年は250円、雷蔵が亡くなった44年は280円、ふたりとも鬼籍に入っている現在(平成19年)は1,250円となっている。
 昭和も遠くなりにけり。

2007年10月13日土曜日

長谷川伸の股旅映画

 浅草の喫茶店で落語家の快楽亭ブラックを見かけた。10月9日のことだ。浅草をぶらぶらしていた草野球音は、霧雨が小雨模様になってきたので「緊急避難」に飛び込んだところ、師匠の尊顔を拝することになった。彼の相手が話しながらメモをとっていたから、取材だったのだろうか。
 快楽亭ブラックは日本一の日本映画通と自他とも認める御仁で、中村錦之助*主演の「関の弥太っぺ」(長谷川伸原作・1963年東映・山下耕作監督)を股旅映画の傑作と激賞していたことを何かで読んだ覚えがある。 中村錦之助は後の萬屋錦之介。
 
 縞の合羽に三度笠、軒下三寸借り受けましてと仁義を切り、一宿一飯の恩義で人さまを斬ることも辞さぬ、足の向くまま気のむくままの旅烏―球音が抱く「股旅」のイメージである。
 デジタル大辞泉を引くと、以下の字義が出てくる。
股旅=博徒・芸人などが諸国を股にかけて旅をすること。
股旅物=小説・演劇・映画などで、各地を流れ歩く博徒などを主人公にして義理人情の世界を描いたもの。昭和初頭から使われるようになった語。
 その股旅物大家が長谷川伸である。

 長谷川伸の略歴:1884年(明治17)―1963年(昭和38)。横浜市日ノ出町生まれ。横浜ドックの下働きから新聞記者を経て、小説家・劇作家となる。彼の股旅物は映画化されたものが多い。「関の弥太っぺ」のほかでも「瞼の母」「沓掛時次郎」「一本刀土俵入」「雪の渡り鳥」などで、その多くは大劇場ばかりでなく大衆演劇の舞台にかけられているので、日本列島辻浦々まで広く知れわたっている。弟子に村上元三、山手樹一郎、山岡荘八、平岩弓枝、池波正太郎がいる。
 
 日本人の琴線の触れる世界を描き、後世に残した長谷川伸の大衆文化における貢献度は著しく大きいと思う。球音備忘録にはかって観た3本の股旅映画を特に記憶に留めたい。あらすじは観てのお楽しみにしてほしいので、ここでは書かない。

 まず「関の弥太っぺ」である。1963年(昭和38)の東映作品。監督は山下耕作で第1回監督作品。関の弥太っぺ役の中村錦之助の油の乗り切った演技に後光が差している。お小夜に語った言葉、そして10年後に語る言葉がキーワードとなる。共演の木村功、大坂志郎、月形龍之介らの脇役も銀をいぶした渋さがあったと記憶している。お小夜役は十朱幸代。
 「瞼の母」―1962年東映。 監督脚本は加藤泰、番場の忠太郎役に中村錦之助、共演は母役の木暮実千代、松方弘樹、大川恵子。夜鷹の老女役の沢村貞子の演技が印象に残る。
 「雪の渡り鳥」―1957年大映作品。「合羽からげて 三度笠」の三波春夫の主題歌。鯉名の銀平は長谷川一夫(1908年―1984年)、共演は山本富士子。加藤敏監督。当時の映画キャッチコピーは「日本一の美男・美女の共演」だった。

中村錦之助(なかむら・きんのすけ):1932年(昭和7)―1997年(平成9)。1972年から小川家の屋号である「萬屋錦之介」を名乗る。歌舞伎から「ひよどり草紙」で美空ひばりと共演、映画デビュー。東映時代劇の看板スターとなる。笛吹童子、宮本武蔵、一心太助に出演。テレビ出演は子連れ狼、破れ傘刀舟など。

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2007年10月10日水曜日

原辰徳:巨人の夜明け後記

 原辰徳のドラフト会議があった1980年(昭和55)は、巨人にとってどんな年だったろうか。
 ペナントレース3位に甘んじ、3年間リーグ優勝から遠ざかった不振の責任を負って長嶋茂雄監督が解任された。世界の王貞治は2割3分6厘、30本塁打、84打点の成績で「王貞治のバッティングができなくなった」と現役引退した。看板のONの異変は、巨人の親会社読売新聞に大きな痛手であった。巨人は最大の新聞の販売促進材料である。
 その2年前のドラフトでは、「江川騒動」があった。ドラフト前日の「空白の一日」をついての巨人入団、ドラフト拒否、すったもんだの末は阪神との間で小林繁との交換トレードとなった。一連の「事件」でイメージを悪化させ、読者の反感を買い読売新聞は部数を減らしている。
 長嶋の後任監督に藤田元司を据え、王助監督と牧野茂ヘッドコーチのトロイカ体制で1981年のシーズンを臨むことになったが、部数低迷の歯止め・巨人人気翳りの阻止・明るい話題提供などの目論見もあり、当時アマ野球界で随一の人気者、辰徳をドラフト指名することはグループあげてとの悲願であった。それが叶った。
 ONの後継者という声も上がった。長嶋が巨人入団した1958年(昭和33)に辰徳は生まれている因縁と守備位置も同じ三塁手であり、マスコミやファンの間では「長嶋二世」との期待もあった。
 が、結果は残酷である。

選手通産成績(シーズン)
・長嶋茂雄 出場試合2186 打率.305 本塁打444 打点1522
・王 貞治  出場試合2831 打率.301 本塁打868 打点2170
・原 辰徳  出場試合1697 打率.279 本塁打382 打点1093
監督成績(シーズン)
・長嶋茂雄 1034勝889敗59分 勝率.538 日本一2回
・王 貞治 1251勝1042敗71分 勝率.546 日本一2回
・原 辰徳 302勝260敗8分 勝率.530 日本一1回

 辰徳の現役時代は巨人4番打者として「ONの重圧」との闘いだった。そして監督なってからもそれは続いているように、思える。選手成績では完敗に終わった辰徳だが、監督での勝負は逆転勝利の可能性を残している。大山詣の縁(よすが)で草野球音は陰ながらに声援を送っている。

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2007年10月8日月曜日

原辰徳:巨人の夜明けⅣ

 原辰徳の「長い1日」を重ねて追う。
 現在巨人の監督を務める辰徳の手本はだれだろうか。采配、起用法、作戦、選手管理・育成、マスコミ対応など監督の仕事の範疇は広く、複雑で、プロ野球監督は人生をかける仕事でもある。辰徳が人間的にも尊敬できなければ手本としない。それは間違いなく原貢と藤田元司の二人である。
 二人の師匠、貢と藤田の接点を1980年ドラフト指名から24年前の1956年(昭和31)に見出すことができる。
 昭和31年社会人野球京都大会。東洋高圧大牟田に所属していた貢は打撃好調で首位打者に輝いている。貢は、当時ノンプロ実力ナンバーワン投手である日本石油の藤田と対戦し、なんとセンター越えの長打を放ったのだ。藤田といえば、六大学野球の慶応大学で31勝をあげながら優勝できず悲運のエースといわれ、日本石油に入社してからもこの年の都市対抗野球では3完封など獅子奮迅の活躍で日本一に輝いている。翌年巨人入団。17勝を稼ぎ新人王を獲得している超ビッグネームである。一方、貢といえば東洋高圧大牟田の主力打者ではあったが、中央球界では無名の存在である。まさに同じ野球選手とはいえ「月とすっぽん」ほどに差があった。
 辰徳が巨人入団した1981年2月、宮崎キャンプを訪れた貢は藤田監督と会食をともにしたが、藤田も京都大会のことをよく覚えていて昔を懐かしんでいる。さらに1984年、藤田のひとり娘の結花と結婚したのは、ドラフト当日に貢、辰徳親子と監督室に同席した助監督の岩井美樹(国際武道大学野球部監督)だった。貢―辰徳―藤田の因縁は深い。

 藤田と対戦した翌年の1957年、23歳の貢は勝代と結婚した。辰徳は1958年(昭和33)7月22日に産声を上げた。5歳下に妹の詠美がいる。

 2007年11月26日午前11時30分。相模原市東林間の原家。居間で親しい友人夫妻とドラフト会議のテレビ中継を凝視していた母・勝代は、巨人指名に小躍りして喜んだ。早く辰徳に会いたいと思った。家の周囲はテレビ局、新聞社の取材が取り巻いている。外出すればマスコミとのカーチェイスが待っている。それは危険であり喧騒は避けたい。勝代は脱出計画を練った。
 まず懇意にしている東海大相模高に程近い寿司店「六ちゃん」に電話した。原家は東林間駅から徒歩5分の住宅街にある。通りに面しているが、裏は隣家と接している。通りには報道陣はいるが、裏は無警戒である。スカーフを被り、顔を隠した勝代は2メートルほどの垣根を乗り越え、隣家をすり抜け裏通りに出た。そこには「六ちゃん」差し回しの車が待っていた。平塚市土屋の合宿所を目指した。
 同じころ、辰徳は勝代に会い喜びを分かち合いたいと願った。記者会見が終わると、貢とふたりで昼食もとらず東林間の自宅に急いだ。ふたりは勝代の脱出を知らない。
 親子のすれ違いが起こった。
 結局、親子対面は午後4時近くになってしまった。
 「ただいまッ」
 息子を待っていた勝代が玄関に飛び出し、抱きついた。
 妹の詠美も「お兄ちゃん」とふたりに駆け寄った。
 家族団欒(だんらん)の間もなく、巨人系スポーツ新聞社の原番記者が辰徳を隠れるように家から連れ出し、その新聞社内で現役を引退し助監督になった王貞治との対談を企画した。その後はテレビ取材と、家族4人が水入らずの状態になったのは深夜である。

 11月27日午前6時。初冬の凛とした冷気が相模原市東林間の原家を包んでいた。郵便受けにどっさり新聞が配達された。「東海大・原は巨人が指名」の大見出しが躍っていた。原家では神奈川新聞と日刊スポーツ新聞の2紙を購読していたが、ドラフトの翌朝には手回しよく読売新聞と報知新聞が届けられていた。
 大山詣から始まったドラフトの長い1日――「24-TWENTYFOUR-」が終わろうとしていた。(完)

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2007年10月7日日曜日

原辰徳:巨人の夜明けⅢ

 原辰徳の「長い1日」をさらに追う。
 2007年11月26日プロ野球ドラフト会議は、辰徳、石毛宏典(プリンスホテル)と竹本由紀夫(新日鉄室蘭―ヤクルト)が御三家といわれ、ドラフト史上でもまれな豊作年だった。
 午前11時から始まった会議の第1回指名は、
・原辰徳(東海大)に広島、巨人、大洋、日本ハムの4球団
・石毛宏典(プリンスホテル)に西武、阪急の2球団
・竹本由紀夫(新日鉄室蘭)に近鉄、ヤクルトの2球団
・愛甲猛(横浜高)にロッテ
・中田良弘(日産自動車)に阪神
・中尾孝義(プリンスホテル)に中日
・山内和宏(リッカー)に南海が名乗りを上げた。
 抽選外れの1位で広島に川口和久(ディプロ)、近鉄に石本貴昭(滝川高)、日本ハムに高山郁夫(秋田商―拒否でプリンスホテル)、大洋に広瀬新太郎(峰山高)、阪急に川村一明(松商学園―拒否でプリンスホテル)となっている。
 その他でも会議で指名を受けたのは、大石大二郎(亜大―近鉄)、高木豊(中大―大洋)、駒田徳広(桜井商―巨人)、杉本正(大昭和製紙―西武)、弓岡敬二郎(新日鉄広畑―阪急)、井上裕二(都城―南海)、渡真利克則(興南―阪神)と馴染みの顔が並んでいる。

 話題が逸れたので、本題に戻す。
 第1回の指名で4球団が辰徳指名で重複したため、抽選となった。平塚市土屋の東海大合宿所の監督室でテレビを見守る辰徳の心臓は高鳴った。喉が渇き、手に汗をかいた。
 日本ハム・三原脩代表、大洋・土井淳監督、巨人・藤田元司監督、広島・松田耕平オーナーの4人が会場の前列に進み出た。4人の前に抽選箱が置いてある。
 まず日本ハムの三原代表が抽選箱に手を入れ、1通の封筒を引いた。続いて大洋の土井監督。いよいよ希望の巨人の藤田監督。3番目の登場である。最後に広島の松田オーナーがくじを引いた。事務局員の合図で一斉に開封する。
 辰徳はテレビを見ていられなくなった。思わず目をつぶった。心拍数が最高潮に上り詰めた。
 頭の中が真っ白になった。時間が長く感じられた。
 「やったー」という歓声・絶叫が監督室、マネジャー室、報道陣の控える食堂、そして合宿所の外から押し寄せて、轟(とどろ)いた。
 目を開けた辰徳はテレビを見た。そこには1枚の紙を右手で高々とあげた藤田監督の笑顔が飛び込んできた。眼鏡の奥から優しいまなざしを送る視線は、辰徳にそのまま投げかけられたように映った。心の奥底からこみ上げる感動に涙した辰徳が、隣の貢を見ると目が潤んでいる。こんな父をみるのは初めてのことだった。三池工が夏の甲子園で日本一の輝き見せたのは人目もはばからない感涙だが、ここで見たのは人に気づかれないように流した涙だった。 父としての安堵の涙といっていいだろう。
 「おめでとう。よかったな」と貢は短い言葉で祝福した。
 2人は立ち上がった。指名後は速やかに記者会見をすることをマスコミと約束してある。2階の監督室で2人はそっと涙をぬぐった。2階から1階の会見場の食堂に向かう階段を降りると、「巨人軍原辰徳」にカメラの放列から眩(まばゆ)いばかりのフラッシュが一斉に瞬(またた)いた。(つづく)

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2007年10月6日土曜日

原辰徳:巨人の夜明けⅡ

 原辰徳の「長い1日」を追う。
 初冬の空は快晴だった。丹沢の峰々を従えて裾野まで雪を被った富士山がくっきり望めた。平塚市土屋の東海大学野球部合宿所。2007年11月26日午前9時45分。辰徳の運転するBMWが到着した。大学生にBMWとは贅沢な話だが、車は父・貢の所有で特別な日に辰徳にも使用が許されていた。ドラフトは親子にとって特別な日であった。
 合宿所は朝から報道陣でごった返していた。新聞社、テレビ局、雑誌社の社旗をつけた黒塗りの車は50台余。記者、カメラマンは総勢100人を悠に超えていた。20人ほどの熱心なファンも集まっていた。人里離れた丘陵を切り開きグラウンド、室内練習場、合宿所を隣接させ、野球漬けの環境を作った――この付近にこれほど人が殺到したことはない。
 1階の食堂が取材陣控えであり、指名終了後のインタビュー席とされた。辰徳は2階の監督室でテレビ見て瞬間を待つことになった。マスコミから隔離し、監督室に陣取ったのは辰徳、東海大野球部監督である父の原貢、助監督の岩井美樹、同僚でドラフト候補の市川和正(大洋が指名)と津末英明(日本ハム指名)の5人だった。
 貢はさらし者になることを避けた。ドラフト会議では指名球団の結果で選手の悲喜こもごもがテレビに映し出される。意中の球団に当たればいいが、予想外の指名に涙を見せる選手すらいる。マスコミ主導の映像、写真を嫌ったための監督室隔離となった。
 午前11時。会議はいよいよ始まった。第1回の指名で広島、巨人、大洋、日本ハムの4球団が辰徳の名を挙げた。貢の予想通りである。
広島・松田耕平オーナー
巨人・藤田元司監督
大洋・土井淳監督
日本ハム・三原脩代表
 
 時間を17時間前に巻き戻そう。
 相模原市東林間、小田急線東林間駅から徒歩5分の場所に原貢の自宅がある。ドラフト会議前夜11月25日午後6時。その居間から、貢が立て続けに2件の電話をかけた。相手は広島・苑田スカウトと日本ハム・三沢スカウトである。指名しても入団しないので、指名を辞退してもらいたい、という内容である。すでに貢の調査によれば指名は4球団に絞られていた。
 辰徳の希望は憧れの巨人と地元の横浜を本拠にする大洋であった。貢の希望は巨人、大洋、そして大穴の西武であった。
 貢は西武オーナー堤義明とはすでに面会をしていた。辰徳の東海大相模高校時代からの同僚、村中秀人を西武の関連の社会人野球チームのプリンスホテルに入社させる交渉を行っている。その席で堤から辰徳の西武入団を切り出されている。しかし西武はプリンスホテルの主力で辰徳と並ぶドラフト目玉、石毛宏典を指名する準備もしていた。ただしこの時期、石毛は「アマ野球の指導者になりたい」とプロ拒否発言を行っている。
 西武の秘中の秘というべき作戦は辰徳指名、石毛のドラフト外入団という「飛車角両盗り」であった。ドラフト前夜まで水面下で駆け引きは行われたが、結局は石毛指名で落ち着いている。
 というわけで、圏外の広島と日本ハムの指名降ろしの電話となったのである。(つづく)

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2007年10月5日金曜日

原辰徳:巨人の夜明け

 霊山に朝靄(あさもや)がまだ漂っていた。西に雪化粧した富士山が薄ぼんやり望めた。山の冷気が緊張をさらに高めた。社務所に日本酒を奉納した学生服の若者は、心願成就を込めて100円玉を賽銭箱に投げ入れた。
 1980年(昭和55)11月26日午前8時30分。神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社。若者は22歳、東海大学4年生の原辰徳。運命のプロ野球ドラフト会議を待つ朝の光景である。
 希望球団は巨人と横浜大洋を挙げていたが、辰徳の心は子供の頃から憧れていた巨人への思いが強かった。願いは巨人からの指名だった。まさにジャイアンツ愛である。
×  ×  ×
 2007年10月2日、優勝マジックを「1」にしていた巨人が東京ドームでヤクルトに5―4で逆転サヨナラ勝ちし、5年ぶり31度目のセリーグ優勝を決めた。就任2年目の原辰徳監督は、前任期中だった2002年に続いての胴上げ監督となった。巨人が4年間、リーグ制覇から離れていたのは球団史上最も長かった。
 ――あれから27年の歳月が流れた。原監督の胴上げをTVニュースで見ながら、草野球音はまざまざと「大山詣から始まった長い1日」を思い出した。
×  ×  ×
 大山は、別名雨降山(あふりやま)といわれ、雨をもたらし農耕を司る霊山として、古くから知られていた。雨降から「阿夫利」に転じたともいう。真言宗大山寺は、752(天平勝宝4)年に良弁僧正によって開創されたといわれている。江戸時代になって庶民の生活が豊かになると、信仰と物見遊山を兼ねた旅として大山詣が盛んになった。
 大山神社は原家の「初詣御用達神社」でもある。それは辰徳が小学校3年生の頃から始まった。
1965年(昭和40)30歳の父・貢が三池工業高校の野球部監督として夏の甲子園大会で全国制覇を果たしている。昭和30年代後半、高度成長期にあった日本の産業界は主要エネルギーを石炭から石油に大きく舵取りを変えた。隆盛だった炭鉱の町・大牟田に翳りが見始めた。人員整理に端を発した三井三池争議が起こった。そんな寂れる暗い街に希望の灯火を点したのが、三池工の日本一だった。「ヤマの球児」が貢の采配に躍り、大活躍を見せ初出場初優勝の快挙をやってのけた。
 7歳の辰徳は母・勝代とともに炭坑節が響く甲子園のアルプススタンドで応援した。歓喜が弾けた優勝の瞬間、その後の大牟田での凱旋パレードの熱狂を鮮明に記憶している。
 貢の手腕に惚れ込んだ東海大学の創始者である松前重義に請われ、東海大付属相模高校の野球部に就任したのは、辰徳が8歳の1966年だった。福岡県大牟田市から神奈川県厚木市に引越し、その後相模原市で育っている。以来、願いごとのたびに訪れる大山であった。
 この朝は人生の岐路に立つ若者が、心願を祈ったのだった。辰徳の思いを叶えてあげたい――神前に球音は心で吠えた。(つづく)

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2007年10月2日火曜日

端正な文体‥藤沢周平

 月が替わったものの、あれからわずか10日しか経っていない。草野球音の身に同じ災いが出来(しゅったい)した。
 澄んだ夕焼け空に秋茜(あきあかね)が飛んでいた。着流しの裾を端折(はしょ)り、深編み笠の浪人風の男が、江戸に通じる裏街道を俯(うつむ)きながら急いでいた。曰くありげな男は球音である。関八州見廻り役がそこに出くわし、誰何(すいか)した。
 「くさのたまね、と申す」
 「ご姓名はどのような字を書くのか」
 「なに、草野球音。くさやきゅうネ。愚弄しおって。偽りの名だな。取り調べてくれよう」
 「けして怪しいものではない」という否や球音は疾走した。裏街道から獣道へと走った。見廻り役も追ったが、見失った。
 その後、球音の消息は杳(よう)として知れなかった。

×  ×  ×
 と、またもやどうでもいい前フリをしたが、陰暦10月を神無月と呼んだ。「無(な)」は「の」の意味の格助詞で、「神を祭る月」、「神の月」が元来の語源だそうだ。
 それが後世になり「無」(なし)に解釈して俗説が生まれた――出雲大社(島根県)に全国から八百万(やおよろず)の神々が集まり、神さまがいなくなる月ということから「神無月」といい、逆に神さまが大集合する出雲の国では「神有月」と呼ぶという。
 月替わり、話題は池波正太郎から藤沢周平*に移る。池波作品は「鬼平」シリーズ(2007年9月29日)にとどめ、折に触れ書かせていただきたい。この蜘蛛巣丸太の主、草野球音は身勝手である。風の向くまま、気の向くまま、筆の向くまま当ても果てしもない旅を続ける。
 つい最近、「暁のひかり」(文集文庫)を読んだ。藤沢作品に外れはない。その魅力はなんだろうか。球音が一番に挙げるのは、文章である。抑え込んだ、淡々として、端正な文体だと思う。さらに登場人物への人間愛が感じられ、それは藤沢さんの暖かさではないか。周到な構成で読みあきない。

 球音の読んだ藤沢作品は、
「用心棒日月抄」シリーズ(新潮文庫=全4作)
  用心棒日月抄・孤剣・刺客・凶刃
「獄医立花登手控え」シリーズ(講談社文庫=全4作)
  春秋の檻・風雪の檻・愛憎の檻・人間の檻
「隠し剣」シリーズ(文春文庫=全2作)
  隠し剣孤影抄・隠し剣秋風抄
「蝉しぐれ」(文春文庫)
「風の果て」(文春文庫・上下巻)
「よろずや平四郎活人剣(文春文庫・上下巻)
「三屋清左衛門残日録」(文春文庫)
「麦屋町昼下がり」(文春文庫)
「秘太刀馬の骨」(文春文庫)
「暁のひかり」(文春文庫)
「たそがれ清兵衛」(新潮文庫)である。

*藤沢周平(ふじさわ・しゅうへい):1927年(昭和2)―1997年(平成9)。山形師範学校卒業後、教師となるが、肺結核に罹患し入院生活を余儀なくされる。その後、新聞社勤務。72年に「暗殺の年輪」で直木賞受賞。人気時代小説家。

2007年9月29日土曜日

味のある池波正太郎

 横山秀夫から池波正太郎へ飛ぶ。
 最近とんとご無沙汰だが、池波正太郎*が好きだ。「鬼平犯科帳」(文春文庫)「剣客商売」(新潮文庫)「仕掛人・藤枝梅安」(講談社文庫)の3大シリーズは読んでいる。なかでも「鬼平」がいい。以下は1993年1月(平成5)大衆かわら版に掲載した小欄を、厚顔にもそのまま再現する。「味のある鬼平シリーズ」という見出しがついている。

×  ×  ×
 「さらば鬼平」が売れている。池波正太郎の「鬼平犯科帳24」(文藝春秋)は文庫部門のベストセラー1位(三省堂神田本店)。時代小説作家の池波さんが亡くなったのは、1990年(平2)。24巻は鬼平シリーズ最終の巻となる。雑誌「太陽」(平凡社)でも2月号は、池波正太郎さんの特集を組んでいる。死して4年、ちょっとしたブームだ。
 鬼平とは長谷川平蔵の愛称で、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の長官だ。優れた剣さばきと鋭い勘ばたらき(推理)で、盗っ人たちと対決、難事件を解決する。先代の松本幸四郎さん(のちの松本白鸚)や、その息子の中村吉右衛門さんがテレビで、粋に人情たっぷりに演じている。
 鬼平が火盗改の長官の座に就いたのが42歳の時。田沼意次の賄賂政治が終わり、松平定信の寛政の改革が始まった。徳川11代将軍、家斉の時代。実在の人物だ。以後8年間務める。剣は一刀流。愛刀は父から譲り受けた粟田口国綱(あわたぐちくにつな)。四百石の旗本としては行儀の悪い寝たばこが癖。銀煙管(ぎんぎせる)も父の遺品。若い自分は“本所の鉄”(幼名鉄三郎=鉄三郎)といわれる不良だった。
 市井に通じた酒食も魅力だ。白粥に梅干が朝の定番。兎汁(うさぎじる)や軍鶏(しゃも)鍋の肉食もいける。喜楽せんべい(もち米を薄く軽くカメの形に焼き、上質な白砂糖をぬったもの)も好物。シリーズに登場する料亭・料理屋は50軒、そば屋36軒、茶店34軒、菓子舗26軒もあるそうだ。まさに“鬼平料理帳”である。
 鬼平オタクである。シリーズはすべて読んだ。文庫1~24巻まで収められている作品は、長短編合わせて132に及ぶ。1968年(昭43)に登場して以来、いまだに読者の支持を得る。最近、“前世”は鬼平ゆかりの人間ではないかと思うほどだ。だれだい、お縄になった盗賊じゃないか、と悪口を言うのは。

×  ×  ×
 小欄から14年も経つ。池波作品を読み直してみたいと思っている。新たな発見があるかもしれない。
 球音が読んだ鬼平関連本は、
「鬼平犯科帳の世界」
「鬼平料理長」
「鬼平犯科帳」お愉しみ読本(いずれも文春文庫)など。

*池波正太郎(いけなみ・しょうたろう):1923年(大正12)~1990年(平成2)。下町浅草生まれ。幼い頃からの映画好き。兜町の株式仲買商の店員、戦後は東京都職員を経験した。1960年に「錯乱」で直木賞を受賞。食通、映画評論家として有名。

2007年9月27日木曜日

面白い横山秀夫

 デジタル大辞泉(小学館)を引く。
 悠々自適:世間のことに煩わされず、自分の思いのままに暮らすこと。
 三昧:仏語(フランス語ではない=笑)、心を一つの対象に集中して動揺しない状態。雑念を去り没入することで、対象が正しくとらえられるとする。(接尾語として)そのことに熱中するという意味。読書三昧で暮らす、など。

 故あって逼塞(ひっそく)した。隠居にして覆面雑文屋である草野球音は日がな一日、読書に時間を費やすことが多い。傍目には羨ましい「悠悠自適の読書三昧」と思われがちだが、いやいや、自身はまだ多少の山っ気もあり充足感のない日々でもあるのだ。が、本を読むことで救われる一面もあることは事実である。

 古いに日本映画の次は、球音の読書傾向などを記す。好みは池波正太郎、藤沢周平などの時代小説であるが、この項は横山秀夫である。
 つい最近「臨場」(光文社文庫)を読んだ。面白い。臨場とは、警察組織では事件現場に臨み初動捜査にあたることをいう。捜査一課の調査官で「終身検視官」の異名をとる倉石義夫が死者からメッセージを読み取り事件を解く。異能というべき特殊な目をもつ倉石は組織に媚びない一匹狼だが、人間味のある男で魅力的だ。「赤い名刺」など8短編を一気に読んでしまった。
 横山秀夫(よこやま・ひでお)は、1957年(昭和32)生まれ、警察小説の書き手と知られる小説家である。経歴などファンには釈迦に説法は承知の上で、ざっくり説明する。上毛新聞社で12年間の記者生活を経験した。1991年(平成3)に「ルパンの消息」でサントリーミステリー大賞佳作となり、その後「陰の季節」「動機」など評判作を世に出し売れる作家となった。2003年(平成1)「半落ち」が直木賞候補となったが、現実性に欠けるとの評が持ち上がり落選している。

 球音が読んだ横山作品は、
「陰の季節」(文春文庫)
「動機」(文春文庫)
「出口のない海」(講談社文庫)
「深追い」(新潮文庫)
「第三の時効」(集英社文庫)
「影踏み」(祥伝社文庫)
「顔」(徳間文庫)など。
 直木賞の件はともかく読んでも面白い作家であることは間違いない。

2007年9月26日水曜日

大蔵貢から近江俊郎

 連想は大蔵貢から近江俊郎へとさらに続く。
 ハマの隠居、草野球音は川崎生まれ。生家は商店街にあり、徒歩3~5分の範囲に3つの映画館があった。東映と日活、大映と東宝、松竹と新東宝というセットで上映する二番館であった。パチンコ屋も3,4軒あり、子供の育つ環境としてはけしてよくはないが、そんな街を愛していた。小学校4年生ぐらいからひとりで映画を観に行くませた餓鬼だった。蜘蛛巣丸太の主の生い立ちがこの連想ゲームの背景にあるのだ。
 6つの会社の映画を観ていたわけだが、子供心にも新東宝の作品はなんとなく安直で、あざといものが多い印象で、とりわけ前田通子、三原葉子、万里昌代らのバンプ女優*の作品は劣情をそそるものがあった(笑い)。

 さて「妾(めかけ)を女優にした」発言の名物社長である大蔵貢の実弟が近江俊郎である。1918年(大正8)―1992年(平成4)。歌手であり、作曲家であり映画監督であった。 往年の大スターでありながらも気さくな性格が茶の間に受け、晩年は歌番組の審査委員などで活躍した。戦前からの歌手で、古賀政男門下生で「湯の町エレジー」をはじめ「別れの磯千鳥」のヒット曲を残している。岡晴夫、田端義夫と戦後三羽烏といわれた。

 映画監督として24本の作品を作っている。なかでも球音少年が好んだのは高島忠夫主演の「坊ちゃん」シリーズといわれる喜劇物だ。「坊ちゃんの逆襲」「坊ちゃんの特ダネ記者」「坊ちゃんとワンマン親爺」、由利徹*主演の「カックン超特急」などを撮っている。

 近所に3つあった映画館だが、まず最初に閉館となったのは「松竹と新東宝」を上映していた小屋だった。木久扇から端を発した連想ゲームは今回で終わり、日本映画の話はまたの機会に回したい。

バンプ女優:男を惑わす女。専らそのような役をする女優。
由利徹(ゆり・とおる):喜劇俳優。1921年(大正10)―1999年(平成11)。南利明、八波むと志と脱線トリオを結成、人気を博す。「カックン」「おしゃまんべ」など当たりギャグがある。

2007年9月25日火曜日

アラカンから新東宝

 新東宝って映画会社を知っていますか。
 草野球音の連想ゲームは続く。前回の「木久扇から片岡千恵蔵」の項で戦前からの剣戟六大スターのなかにアラカンこと嵐寛寿郎(あらし・かんじゅうろう)が登場したが、「新東宝」の連想に至った。

 新東宝は1947年(昭和22)から1961年(昭和36)までの14年間に500本以上の映画を製作、日本映画史にうたかた(泡沫)と消えた映画会社である。設立初期(1952年)には「西鶴一代女」(溝口健二監督)のような傑作も出したが、1955年に大蔵貢氏*(歌手・近江俊郎の実兄)が社長に就任後は、エログロに路線変更した。そのなかにあって、金のかけない映画作りで評判だった新東宝が当時1億円という多額の製作費で作った異色作品が「明治天皇と日露大戦争」だった。明治天皇を演じたのがほかならぬ嵐寛寿郎である。「日本映画界初の天皇俳優」(1957年・渡辺邦男監督)となった。アラカンは新東宝の大御所スターだった。興行的にも大当たりした。

 球音の子供時代に印象に残った新東宝作品は、「明治天皇と日露大戦争」のほか宇津井健の「スーパージャイアンツ」シリーズ*、小畠絹子の「女競輪王」などである。男優では高島忠夫、天地茂、丹波哲郎、菅原文太、吉田輝雄、寺島達夫、女優では前田通子、久保菜穂子、池内淳子、三原葉子、万里昌代、高倉みゆき、大空真弓、三条摩子(大映移籍後に三条江梨子と改名)が挙げられる。
 大蔵貢の逸話が面白い。「女優をめかけにした」と雑誌に報じられた件の記者会見で、「女優をめかけにしたのではない。めかけを女優にしたのだ」とぶったのである。
 
 さて、そこで問題です。上記の女優陣のなかにその該当者がいますが、誰でしょうか?

大蔵貢(おおくら・みつぐ):1899年(明治32)―1978年(昭和53)。活動写真弁士から日活を経て、1955年新東宝を買収し社長就任。退任後、大蔵映画を設立。
スーパージャイアンツ:1957年~59年の特撮映画。主人公の宇宙人の名称で、宇津井健が主演した。全部で9作品製作され、1~6作が石井輝男監督。宇津井さんの股間もっこりのタイツ姿が妙に懐かしい(笑い)。

2007年9月24日月曜日

木久扇から片岡千恵蔵

 連想には個人差が出る。それは過言すれば、人生を反映しているかもしれない。
 2007年9月22日の大衆かわら版で、
林家木久蔵改め初代木久扇(きくおう=69)と林家きくお改め2代目木久蔵(31)の親子ダブル襲名披露興行が21日、東京・上野の鈴本演芸場で始まった」
という芸能記事を読んだ。

 草野球音は木久扇さんの襲名ニュースから片岡千恵蔵を連想した。初代の木久蔵のネタに「片岡千恵蔵伝」がある。声帯模写を駆使した語り口が面白い。

 千恵蔵は戦前・戦後の長期にわたりチャンバラ映画で人気を博した。1903年(明治36)生まれ、没したのは1983年(昭和58)、享年80歳だった。大河内伝次郎、坂東妻三郎、市川右太衛門*、長谷川一男(林長ニ郎)、嵐寛寿郎*と並ぶ剣戟六大スターであるが、戦後生まれの球音の記憶には、東映時代の大御所の印象が強い。東映創立に参加した市川右太衛門ともの重役兼トップスターであった。血槍富士(1955年)、大菩薩峠(1957-59年)、多羅尾伴内・七つの顔の男だぜ(1960年)などに主演している。

 時代劇スターであるが、現代劇にも数多く出演している。なかでも興味深いのは「七つの顔の男」シリーズだ。大映で4作品、東映で7作品も製作している。ストリーは荒唐無稽だが、千恵蔵の七変化が見もので、片目の運転手・気障な紳士・インドの魔術師などどのように化けても大きな役者顔で、ひと見で千恵蔵と分かる扮装であった。そして最後に決め台詞が待っていた。
 「あるときは○○、またあるときは××、しかしてその実体は正義と真実の使徒、藤村大造」といいながら、歌舞伎並みの見えを切るのだった。少年たちはこぞって千恵蔵になったつもりで決め台詞を暗記した。
 鈴生りの大入り、見せ場で拍手が沸き起こる映画館。久しく見ない光景である。
  
市川右太衛門(いちかわ・うたえもん):1907年(明治40)―1999年(平成11)。俳優北大路欣也の父。代表作に「旗本退屈男シリーズ」。
嵐寛寿郎(あらし・かんじゅうろう):通称アラカン。1903年(明治36)―1980年(昭和55)。代表作は生涯に40本余主演した「鞍馬天狗」。

2007年9月23日日曜日

今年60のおじいさん

 月も星もない暗夜であった。 
 黒い着流しに黒の覆面頭巾の浪人風の男が大川端を歩いていた。一見して胡乱(うろん)な浪人は草野球音である。そこに出くわした定廻り同心が訝(いぶか)り誰何(すいか)した。
 「くさのたまね、と申す」 
 「ご姓名はどうような字を書くのか」 
 「草野球音だと。くさやきゅうネ。虚仮(こけ)にしおって、偽名だな」。 
 「けして怪しいものではない」というや否や、球音は疾風のごとく走った。同心も後を追ったが、夜陰に紛れ黒装束の浪人を見失った。 

×  ×  × 
 と、どうでもいい前フリをしたが、蜘蛛巣丸太の主は草野球音と名乗る。1947年生まれの今年満60歳、団塊世代である。団塊世代とは、作家の堺屋太一の著書「団塊の世代」で因み有名になったが、第2次世界大戦後の1947年(昭22)から1949年(昭24)の3年間に生まれた人々を指し、その人口は約700万人に達し、日本の人口分布最大のボリュームを持っている。その団塊の先鋒が2007年定年を迎えている。蛇足ながら、団塊世代の退職金は、2007年から毎年15兆円以上となり、3年間ではその総額は45兆8000億円になると、第一生命経済研究所は試算している。団塊は「金塊世代」でもあるのだ。それにしては球音の懐具合は非っ常にキビシ~ッ!(古いね、財津一郎*だよ) 
 
 さて戦前の還暦60歳は「おじいさん」であった。 
 昭和16年の童謡「船頭さん」(作詞・武内俊子、作曲・河村光陽)では、  
  ♪村の渡しの船頭さんは、今年60のおじいさん  
  歳はとってもお舟を漕ぐときは  
  元気いっぱい櫓がしなると、唄っている。 
 厚生労働省の平成18年簡易生命表によると、日本人の平均寿命は男性79.00歳・女性85.81歳で、世界有数の長寿国を誇っている。戦前のデータは不明だが、戦後間もない昭和22年のデータでは男性50.06歳・女性53.96歳となっており、この59年の間に男性29歳・女性32歳も寿命を延ばしている。ちなみに昭和30年は男性63.60歳・女性67.75歳となっている。 
 童謡「船頭さん」が世に出たのは「人生50年」の時代だった。というわけで、21世紀の還暦はまだ老け込むには早すぎる。ハマの隠居は意を強くした。

財津一郎(ざいつ・いちろう):藤田まこと主演の超人気テレビ番組「てなもんや三度笠」に浪人・蛇口一角役で出演、手を頭の後から回し「非っ常にキビシ~ッ!」というギャグで売れっ子になった。その後演技派俳優として映画、テレビ、舞台で活躍。

2007年9月22日土曜日

日残りて昏るるに未だ遠し

事始の記
 残照に芒(すすき)の穂がそよいでいた。虚空の一点を見つめながら、齢60を迎えた草野球音は呟(つぶや)いた。
 「駄者ほどよく呆ける」
 
 還暦を機に、長らく勤めた大衆かわら版社の職を辞した。故あって逼塞(ひっそく)することを決めた。金はないが、暇はある。読書と散歩が日課となったが、生来の貧乏性、加えてなにかしなければ呆けるぞとの声も聞く。
 
 そう言えば。。。
 数年前から物忘れがひどくなった。特に人の名前が出てこない。顔は分かっているのに。小骨が咽喉に刺さったような不快感がある。心の奥底に認知症への恐怖心が巣食う。

 忘れたときのために書き留めておきたいことがある、と思い立ったのが蜘蛛巣丸太開設のきっかけである。ご大層に忘れて困るものなどさしてはないが、己の脳みそを己が制御できるうちに、昔のことなどを残してみたい。また書くにあたり、記憶を辿り調べるのもアンチエージングの一助になるかもしれない。温故知新(「痴新」かもしれぬが。。。)への旅となる蜘蛛巣丸太をめざす。
 
 内容は雑観、エッセイ、江戸ノベル風作り話など、形態様式もなんでもあり・雑多で、原稿は長短さまざま。更新は随時、といたって勝手気ままなものになるだろう。

 愛読書の藤沢周平さんの「三屋清左衛門残日録」に影響を受け、「日残りて昏(たそが)るるに未だ遠し」の心境で、「草野球音備忘録」を認(したた)めていこうと思う。